松久三十郎は人も知る春陽会の
脚絆に
飛騨の
東京を出たのは五月だったが、木曾福島で長逗留をし、秋風の声におどろいて、ようやく木曾川を西へ渡った。高山の月を眺めてから富山へぬけ、能登の
てらてらに
「
と
ひと抱えもあるような太い梁がわたった煤けた天井に、
いや、私は東京から来た旅のものだと三十郎が言ったがそれでも疑念が晴れないふうで、
「これはこれ、旅のお方でござんしたか。······あまりにも弥之さんに似た
と、飽かずというぐあいに眺めわたした。
足を洗って、框からいきなり広い段梯子をあがると、谷に向いた

いい加減歩いているうちに蝮をつくっていた足の拇指がかったるくなって来たので、歩くのをやめにして川股の洲になったところへ降り、ごろごろ石の瀬に仕掛けた川鱒取の竹籠の中をのぞいていると、川原からいきなり立ちあがった向う岸の斜面の方から、なんとかやアの、どうとかさアと
いくら月がいいからといっても、お盆前の十三日に
川岸からよっぽど高いところまで峻しい
ごろた石の川洲に中腰になって
山彦ではない、谷川がひとひねりひねって川隈になった
こんな晩に悪ふざけをするのは高山狐か飛騨狸にきまっている。どちらも愛想のいいやつばかりだが、なんといっても狸のほうはほめられたさがいっぱいでやるのだから、夢中になってやりすぎて、つい尻尾をだしてしまう。
高山の町で自動車ポンプのサイレンの音を聞きおぼえてきて、月のいい晩に得意になって夜っぴてうウうウとやった。
まるっきり
そこへゆくと、狐のほうは、なんといっても役者が一枚上手で、角かくしをつけた花嫁姿になって加賀染の
五人ぐらいで踊っていると、いつの間にか七人になり八人になり、どれが狐だか人間だか見わけがつかないままにいっしょくたになって踊っているうちに、しらじら明けになると、いつの間にかまたもとの五人になってしまう。
だまって踊らせておけば機嫌よくしているが、仲間はずれのような真似をすると、草刈帰りの山道などで
川股の中洲から岸へ戻って段々畑をながめあげると、五段目あたりの辣薤畑のなかですらりとしたようすのいい
「やあ、狐がおどっている」
どうでもそばへ行って見たいような気持になって、下駄をぬいで岩づたいに流れを渡り、熊笹の刈株をガサガサと踏みわけながら段々畑の畔道をのぼって行ったら、なにほどのぼったと思わないうちにいきなり畑の横手へ出たのにはびっくりした。
畑の
よく透るくせに、どこかふっくらとふくみのある声で、盆、盆、ぼんのおどりもきょうあすかぎり、
月夜の踊の手ぶりというのはどうしてこうも

狐のほうでは、そうして突っ立っている三十郎を人間臭いとも思っていないらしく、なんとも落着き払ったようすで、かったるいようなひとつ歌ばかり巻きかえしてうたっている。
三十郎はすこし面白くなってきて、臍のうえを掌で叩きながら、こらさのよいやさ、と調子をとりかけて、あ、これは化かされかけていると思った。
そう思いつつ、いつの間にか下駄を脱いで、玉蜀黍に囲われた辣薤畑のなかへはいっていって狐の影を踏みながら、盆、盆、ぼんのおどりも、と、踊り出すと、だしぬけに狐が三十郎の方へ振りかえって、
「踊るのはいいけど、辣薤を踏んづけちゃだめなのよ」
と、いった。
畜生、乙なことをいうと思いながら向うの足取りを見ると、なるほど、六寸ほど伸びた辣薤の葉を畝越しに跨ぎながらじょうずに踊っている。
この辺はどの村もみな、谷川と石崖にはさまれた細い道の両側に、雛壇のように板屋を積みあげ、猫の額ほどの平地にも馬鈴薯を植え枝豆を植え、糸すじほどのその畔に玉蜀黍と辣薤をたがいちがいにたくしこみ、そのまたわずかばかりの隙間へみっしりと韮を割込ませる。
そうまでやたらに植込んだ畑では、たとえ、ひとりで踊るにしても、しょせん足を踏みいれるせきはない。どうでも踊はおどりたし、さりとて枝豆は踏みたくなし、それで、このあたりの女たちは畑の畔を跨ぎまたぎ、枝豆も辣薤も踏まずにじょうずに踊れるようになったということだった。狐というのは、妙なやつだ、こんなことまで真似をするのかと、すこし可笑しくなって笑いかけると、
「やめなさいってば! そんな
三十郎は、笑いながら、
「馬子足で悪かったな、これは生れつきだ」
と、やりかえすと、女狐は、
「あら、人並らしく言うわね······あまり横着をするのはよしなさい。お前は、どこの狐?」
踊るのをやめて、しなよくクルリと向きをかえた。
眼尻の吊りあがった狐目でもしているどころか、張のある、くりっとしたうつくしい眼で、
ひっ掻かれでもしたらたいへんだと思って、少々たじたじになって
うんとこさと綿のはいった
畑の
三十郎は勝手にしろと、畑の中にひっくりかえったまま眼をとじていると、狐がいい声で、
「いやだ······なんて恰好をするのよ。······しつれいよ」
「へへん、だ」
「まあ、生意気だ······いやな狐!」
「どっちが!
「わかった······あたしが笑ったんで、それで、むくれているんだわ······そんな恰好をしていないで起きなさいってば! 尻尾がまるだしだ」
三十郎の鼻の孔を、なにかふんわりとしたいい匂いがくすぐる。眼をあいて見ると、寝っころがっている三十郎のすぐ顔のそばへ狐がしゃがんでいる。
小褄をきりっと膝の間にかいこんだいいようすで、すこし首をかしげて三十郎の顔をながめている。
「ねえ、どうしても起きないの······起きないと
噛られては困ると思って、起きあがってむんずりと辣薤の葉の上に坐ったら、お尻が露に濡れたとみえてひんやりと冷たかった。
狐はますますいい気なもので、三十郎と並んでしゃがみながら、
「ねえ、あなたの
「あててみろ」
「あなた絵描きね」
「なるほど、お見通しだ······神通力!」
「と、いうほどでもないの。あなたの懐からスケッチ・ブックがのぞいている。こんな夜更けさ更けまでスケッチしてあるくわけでもないんでしょう。それ、伊達なのね」
「こいつ、
「あたし、狐よ······ごぞんじのくせに」
この時、そばの茅の繁みで、くゎんと狐が鳴いた。
女狐はニッコリ笑って、
「ほらね、あれは、あたしの
頭に掛けていた手拭をとると急に真面目な言い方になって、
「これをお敷きなさいまし。
思いの深い眼で、じっくりと三十郎の顔を眺めてから、
「松久先生でしたのね、失礼いたしました。······あたし、てっきり狐だとばかし思って······」
「えッ、狐だと思ったって」
「この辺の狐は、よくそんな恰好に化けて来るといいますから。······褞袍を着て、頬冠りをして······」
三十郎は、馬鹿々々しくなって笑い出した。それでも、まだどこか化かされるのではないかという気がしていた。
「いや、これはどうも······僕はまた、あなたが狐だと思って」
「どうせ、ね」
「いい月ですな」
「いい月ですね」
「たぶん、あまり月のいいせいでしょう······ひどくウカウカしてしまって······さっき、川から見上げたときは、ほんとうに狐が踊っているのだと思いましたよ。だが、大丈夫でしょうな」
「何がですの」
「化かされているんじゃありますまいね」
「さあ、どうですか」
「それなら、それでもいいが。······それで、あなたは何者です」
「ですから、狐の眷族」
「そんなら、僕も人間なんかやめにして、茅の繁みでくゎんと鳴きましょうか」
「うれしいわ。······でも、あなた、こんな山深いところで辛抱がお出来になるかしら」
「出来ますとも」
「口で言うだけ······化かされるのは、あたしのほうらしいわ」
「でも、僕が松久だということをどうして······」
「お仕事はいつも拝見させていただいて居りました。······明日にでもご挨拶にあがろうと思っていたところでしたの。······あたし、兄と一緒に、ずっと
三十郎はすぐ思い出した。三年ほど前の帝展で見た薄桃色の花をいっぱいにつけた栃の木の絵。その美しさを
「そうでしたか。······あれは拝見しました」
「お恥しいもので」
「いや、なかなかよくて、僕は好きでした。あなたは、この辺をよくごぞんじのようですね」
「あたしの故郷ですから。······兄が
「もう、東京へはお出にならないのですか」
「あたしがここに居てやりますと、
そう言って、また、つくづくと三十郎の顔を見て、
「でも、ふしぎね······あなた、ほんとうに、狐ではないこと?」
「どうしてです」
「どうして、って、あまり、ふしぎですから」
「なぜ、そんなに僕の顔ばかり見るんです」
「失礼ですけど、あなた、死んだ兄とそっくりなんです。奇妙でしようがない」
「そんなに似ていますか」
「ものを言うたびに、唇の端を強く引くところ。······そんなところまでそっくりなんですの。こんなことってあるものでしょうか」
「そうですか」
「くだらないとお思いになるかも知れませんけど、あまりよく似ていらっしゃるので、狐があたしを化かしに来たのだと思いましたよ。隙を見せるといい気になるから、ほどよくあしらっていたんですわ」
「そう言えば、宿でもそんなことを言われました。······弥之じゃないか、弥之じゃないか。······あなたの兄さんは、じゃ、弥之というのですか」
「······関原弥之助。
急に袖を引合せるようにして、
「あなた、どんなご用事でしたの、この辺······」
「当なしです······気が向いたら和倉へでも行こうかと思っているくらいのとこで」
「そんなら、お願いがあるのですけど」
「どんなことですか」
「兄になって、
「でも、あなたの兄さんは戦死なすったのでしょう」
「ええ、ですから、兄のお
「僕が······幽霊になるのですか」
「いえ、幽霊ってわけではありませんの。普通にしていてくだすって結構なんですわ」
「こんな、
「どんな恰好だって!······この辺では、最初のお盆にだけ、
「僕が······新仏」
「どんなに喜ぶか知れないのですから!······もし、おいやでなかったら」
「嫌だとは言いませんが······しかし、どうも困ったな」
「むずかしいことはありませんのよ。普通な顔をして、門口のお
「迎火を跨いで、それからどうします?」
「いえね、迎火を跨いで入って来るものがあると、どんな恰好をしていても、それが新仏さまの成変りだといってお
「でも、
「ちっとも構いませんのよ。······あなたが泊っていらっしゃるあの家なんかじゃ、二ツになる赤ん坊が死んだのに、六十ばかりのお爺さんになってやって来ましたわ」
「でも、どうも······僕には······」
「父も母も早く死にまして、兄とあたしと二人の孫きりになってしまったのに、その兄も死にましたでしょう。······戦死する間際まで水濠の岸の枯れた野菊を写生したりして、しっかりした死に方だったそうで、それは自慢にさえしているくらいなのですけど、どうしたのか、兄はまだいちども帰って来てはくれませんの。······お盆になりますと、今年もまた姿を見されぬと言って、
高山の奥の、こんな
そんな縹眇たる話を聞いていると、自分の心が太古の巫術の世界へ引込まれていくようで、とりとめがないほどぼんやりと頭が霞んで来た。
「お老人がそんなに喜ばれるというのでしたら、ひとつ身代りを勤めて冥土の話でもしますか」
「ほんとうにやってくださいますか」
「でも、長くは続きそうもありませんから、その辺のところは」
「ええ、心得ていますわ。あたし、傍にいてうまくやりますから」
三十郎がお迎火の煙を押跨ぐようにして土間へ入って行くと、竈の前に踞んでいた皺くちゃのお婆さんが火吹竹を持ったままヨチヨチとよちり出て来た。穴のあかんばかりに三十郎の顔を眺めてからだだっ広い框座敷の奥のほうへ向って、
「お
と、叫びたてた。
大きな囲炉裏の自在鉤の向うから、ひと摘みほどのちょん髷をのっけた白髪のおじいさんが
「おお、弥之じゃ、弥之じゃ。······されば、
涙も
草鞋を取るやら脚絆を取るやら、二人がかりで大騒ぎをして三十郎に
そういう騒ぎを聞きつけたふうにして、
顔中眼になったような顔で、
「
と叫んだ。
三十郎は、この場面を想像して、ひょっとすると噴き出すかも知れないぞと夜っぴて閉口していた。しかしいま、そう呼びかけられると、なにかグイとしたものが胸の奥から衝きあげて、内心、にわかに襟を正したいような厳粛な気持になってきた。
おばあさんは、また涙になって、
「
三十郎は、ほのかな気持になって心の底から、
「そうか、それはよくしてくれた。お前が
と、礼をいうと、そのひとも襟に顎をつけて、
「どうか、心配しないでください」
と、うるんだような声でこたえた。松久はあらたまって、
「まあ、それはともかく、久々のご挨拶を申しましょう。······
と、実誼なふうに詫をのべた。お爺さんは、枯木のような手を振って、
「なにを言うぞ。······
お婆さんは、お爺さんの袖を引いて、
「お
「おお、そうじゃったのう······さあ、さあ、お君も手伝うて。······お君や
「
「いや、そんなことはない。······鶫、結構。ついでに、その柿の葉鮨も貰おう」
「まあ、嬉しいこと······そんならそうしましょう。長い旅でお疲れでしょうから、すこし、横におなりになったら、どう」
「じゃ、そうしようか」
「おう、おう、そうおしな、そうおしな」
そのうちに支度ができて、婿取りの振舞ほどに古風な膳椀を押並べ、老人が二人、高砂の尉と姥のようにチンと坐って、三十郎の顔を見れど見倦ぬというぐあいに、ほれ、あの飯の喰べぐあい、箸のせせりぐあい、ありし日にそのままじゃと、しぐさのひとつひとつに眼を見合せ、どうしようぞという風に切なげに頷き合うのである。
君子は二人の老人のうしろにお盆を持って控えて、これも吸取るような眼つきで三十郎の顔を見詰めているので、そのうちに三十郎は、自分は松久三十郎なぞではなくて、冥土の便宜で、あの世から三人の肉親を慕ってはるばるこの世へ戻って来た関原弥之助自身なのかも知れないというような不思議な気持になって来た。
心づくしの柿の葉鮨を、眼を伏せながら口へ運んでいると、去年の秋、見て来た滕県城の
二十四日の朝、一里余にわたるあのトーチカの間を、孔を穿って敵の弾丸を避けながら遮二無二強行前進し、水濠の前で散開して決死の突撃に移る十分ほど前、水濠の岸に生えている枯れた野菊を写生したという関原準尉の行動が、自分がそこでそうしたように、しっかりした記憶の中から思い出されて来るのだった。