何でも十二月の末の、とある夕暮の事だった。
晴れるとも曇るとも思案の付かない空が下界を蔽い、本郷一帯の
此の辺の道路は雨が降ると
杉に原田に私|||今日も亦三人落ち合って正門を出た。例の如く、「金が欲しい、飲みたいなあ」と云う言葉が三人の鼻先に恐ろしい程明瞭にブラ下って居たが、誰もそんな事は
「あゝッ·········」
今迄調子づいてはしゃいで居た原田が、フイと思い出して物欲しそうに嘆息したので、杉と私とはドッと吹き出して了った。
「·········飲みたいなあ。お互に血の出るような冗談を云うたって仕様がない。え、杉さん。」
原田は杉と私に限って妙にさん附けにした。
「駄目だよ今日は。
杉が途方もない声で笑った。何ぼ大道のまん中でも杉の笑い声と来たら可なり騒々しい。一座の中へ杉が跳び込んでゲラゲラと一遍引っ掻き廻したが最後、皆の頭は急に脱線して愚にも付かぬ事が
「そろ/\事が不穏になって来たね。僕は君等と顔を合わせさえしなければ、そんなに飲みたい気も起らないんだがナ。」
此れは全く私の正直な所なのだ。
「僕だってそうサ。教場で筆記を書いてる間はケロリとして居るんだが·········全体原田が悪いよ、飲もう、飲もうッて口から手が出そうな顔さえしなけりゃ、格別飲みたい筈がないんだからな。」
「けれども君イ、察して呉れやア、
此の文句が如何にも哀れっぽかったので、又しても寒風に大口を開いて笑った。
一体三人共実家が貧乏で、大学生にしてはあまり幅の利く方じゃないのだが、それで月始めに二十圓でも二十五圓でも持つと、一時に豪遊(?)を極めて一と月の大半は文なしで暮らすのだ。文科の私がいつから此の法科の二人と懇意になったのか
「君、ソイツを提供したらどうだナ、
と云った事を
一と先ず千駄木の原田の下宿に落ち付く事になって、駒込の方へ歩き出した。もう好い加減戸外を歩いて居る事は忘れて、往来の端から端へ転がりながら砂埃を蹴って笑って行く。其の度毎に杉は子供のように意気地なく鼻をすゝり、袂からボロボロの紙屑を撰り出しては鼻をかんだ。私は下駄の鼻緒が今にも切れそうなので、可なり其の方も心配になった。
「
一町も先からやって来る友達の顔に狙いをつけて、突然杉がこんな事を云い出した。
「ありゃ可かんぜエ君、ありゃ一生女に惚れられん顔じゃ。あゝ云う顔を持った男はもう浮ぶ瀬がない。」
顔の事になると、原田は他人より一倍眼が肥えてると云った風に批評するのが癖で、結局惚れるとか惚れられないとか、話を
「·········時に山崎さん。君、若竹へ出て居る名古屋藝者を見たかな。」
山崎は私の名だ。
「うむ、見た。」
「あン中に一人居るだろうがな。
何か真面目の用件らしく、キッと杉を見つめる。
「あれがかい? 眼のキリ/\吊るし上った、パサ/\した女だろ?」
「ふむ、そうだろうよ。そう云うだろうと思った。あれは君、
「其れだけは止して呉れ。穢いから。」
杉は仰山に顔を顰めて見せる。
「糞を甞めるは好かった。僕は賛成だ。」
何でも一風変った事だと私はイコジになって賛成するのだ。
「いや、どうも君達には驚く。何も糞を甞めて見せなくっても好さそうなものだ。」
こう一番
「驚くと云えば近頃僕の頭の悪いには実に驚く。此の間電車へ乗って不思議な事を考えた。毎朝五銭の往復切符で割引の電車へ乗り、
原田と私は一寸煙に巻かれて、何処が可笑しいのか見当が付かなかったが、何でも笑って置けば間違いがなさそうだったから、
「あはゝゝゝゝ。そいつは滑稽だ。」
と合槌を打って居た。
根津権現の裏門の手前を左へ折れて、溝に沿うて生垣の多い狭い路へ出た。
「そう云えば杉さん、君は授業料を出したかな。」
こう云った原田は少し心配そうだった。多分杉も未納だろうから、そんなら己も安心だ、と云う風が見える。
「其の話は止そう。気になって仕様がない。」
と、杉は急に顔を曇らせて、不安らしい眼付をした。
こんな心配は試験同様毎学期繰り返されるのだ。此の中で珍しく授業料が済んで居るのは私だけ、二人は疾うに費い込んで了ってる。こう云う場合いつでも金策の計畫を立てるのは杉に定って居て一寸聞くと天晴れ妙案で尤もらしく、アワヤ
「所で僕に一策があるんだよ。」
そろ/\杉が始め出した。
杉の計畫と云うのはこうだ。
此の頃丸善から出したヒストリアンスヒストリーの豫約廣告に依ると、最初手付として金五圓出しさえすれば、直ぐに定価百五六十圓の書物を全部送り届けてくれる。残金は月賦にして二十箇月間に返済すれば好い。所で我々三人が奔走して五圓の金を拵え、誰か一人の名義にして書物を受け取ったら其れを質屋へ持って行く。先ず安く見積っても七八十圓には取ってくれるに違いない。或は百圓位で売ると云ったら買手はいくらでもあろう。さあどうだ! 二人の授業料三十圓を差引いて少くとも四五十圓は飲めると云うものだ。そこで月賦の方は以来二十箇月間、三人平等に分担して支弁すれば、月々大した重荷ではない。
「どうだ巧いだろう。なアに、月賦さえチャンチャンと拂えば、丸善の方だって少しも損はしないのだからな。」
すると第一に
「へーえ、それア好え。」と眼を圓くして、「
何となくアヤフヤにも思われたが、一と通り理窟らしいので私もつい釣り込まれ、原田の下宿
原田に客膳を奢らせて晩飯を食いながら、えらい鼻息で話し始めた。原田は百圓手に入ったら三人で吉原へ行こうと云う。私はそれより柳橋へでも繰り込んで、
「つまらんさ! そんな事をしたって! 其れよりは多勢引っ張って行ってウント牛肉でも食わして
何しろ大枚百圓と云う金の柱を中央に、三人が三方からと見こう見して、さすって見たり、撫でゝ見たり、其の周囲をグル/\廻って居るような話なのだ。
「おい、所で五圓はどうして拵える。」
己は冷静だろう、と云わんばかりに杉が切り出した。多分原田も私も疾うから其れに気が付いて居たのだろうが、百圓があまり眼前にチラ/\するので、不愉快な金策の相談なんかは後廻しにして、一と先ずホクホク嬉しがって置きたかったものと見える。
「そりゃア君、二三日の中に百圓入るのだもの、出来ない奴があるもんか。」と云いながら原田はジロ/\私の方を見て、
「君、明日家から貰って来られんかな。」
原田も杉も下宿住いで、家から通って居るのは私だけだから、こう云う災難には時々遇うものとしなければならぬ。
「一寸困るな。此の頃は僕も大分費ってるから。」
「いや、いゝ。僕が此の時計を売る。」
杉がニッケルの時計を出した。
「売るのはつまらんよ。僕の知ってる質屋へ持って行こう。もう一つ時計があると五圓になるが、
と、又原田がジロ/\私の帯の間を睨めつける。
「時計なら、僕も出そう。金が入ったら出して呉れ給え。」
とう/\私も時計を出して了った。
妙な事には此れで話が全然きまって了って、ジッと待ってさえ居れば、百圓が遠くの方から我々目がけてトットと駈けて来る筈なのだが、時計を出してから杉と私は少し不安になり出した。原田ばかりは嫌に
「けれども未だ明日は飲めないんだな。どうしても百圓入る迄には二三日かゝるだろう。」
何だか
「チョッと待ち遠だね。けれどナニ我慢するサ。原田、明日五圓拵えるはいゝが、費って了っちゃいかんぜ。」
「馬鹿を云うない。大丈夫だよう。百圓入るんじゃないか。そんな眼先の利かない事をするものかい。」
其の晩三人の口に百圓が何度繰り返されたか知れない。
十一時過ぎに開明館を出て、暗い寒い夜路を四丁目の電車停留所迄出る間に、私は遂に下駄の鼻緒をやっつけて了った。で、夜を幸い見えも外聞もなく手拭で足を台へ縛り付けて歩いた。
私は此の頃激しい Hypochondria に陥り、たった独りになると
どう云う拍子でこんな事を考え始めたものか、判然しないが、私の足が暗闇で一生懸命跛足を曳いて居る間に、私の頭は頻りにこう云う真理を発見する事に努力し出して、それからそれへと纏まりのない思想の断片が脳中を
矢張真理は
水天宮前で電車を下りるや否や、渾身の意識を、「
「何だってこんなに
と、
翌朝眼を開くと、私は口をアングリ開いて仰向けに臥て居た。一と晩の間締め切った四畳半の空気はランプの油煙や
階下で柱時計が十時を鳴らして居る。今朝も学校は遅刻だ。昨夜寝たのは一時頃だったから無理もないが、それでなくても此の頃では十時前に起きた例がない。実はもう少し早起をしたいけれども、親父や
先ず朝七時頃になると、屹度親父が大声あげて、
「禄造、禄造。」
と、矢口の渡の
「やいッ、起きねえかッ。毎朝々々人がいくら呼んでもウンウンて返辞ばかりで起きやがらねえ。起きろってば起きねえかッ。起きねえと承知しねえから。」
一体親父は口が粗暴でいけない。どうせ米屋町の相場師だから上品な訳はないが、これでは車夫か馬丁の口調だ。
此の
但し、此の際私が柔順に起きれば文句なしだが、子供と違って二十三四にもなると相応に威厳とか格式とか云うものを保ちたがるので、こうして見ればオイソレと手軽に起きる事が出来ない。まさか此の辺の道理の解らぬ親父でもなかろうから、私は時々親父の真意の存する所を疑って、此れは屹度、もっと寝て居るがよいと云う謎に違いないと解釈する。多分此処辺の推察が穏当な所だろう。
要するに其の真意は
階段から下りて行った親父は
親父が居なくなったから、ソロ/\起きましょうや、と考えて居ると今度は
此れも親父同様生え抜きの
母親の起し方はいさゝか親父のと
始めは唯階段の上り口で、
「禄造、禄造。」
と、名ばかり呼んで居る。返辞がないといつまでも「ロクゾー」「ロクゾー」を繰り返して果てしがないから、「フン」と鼻で答えると、矢張「ロクゾー」を続ける。こうして五六遍相呼応するが、母親も黙らなければ私も起きない。すると今度は一段
「さっさと起きないかッたら、何してるんだい。ふんとにもう何時だと思うんだ。九時過ぎじゃないか。片附かないで仕様がありゃしない。おみよつけも何もさめちまわア。ふんとにまああろうかしら、働き盛りの奴が晝過ぎ迄ッつも寝てるなんテ、能くそれで大学生でございッて云われたもんだ。」
此の長々しい
其れから三十分も経って大分
「さっさと顔を洗っ
と、前と
顔を洗ってから、暫く煙草を喫み、アワヤ飯を喰おうとする途端に、
「さあ、さあ、御飯を喰べないかよう。いつまでも/\、台所が片附かないで仕様がありゃしない。おみよつけも何もさめちまってら。今御飯を喰べて午の御膳が喰べられるか知ら。」
と、これも似たような文句で第三の叱言が来る。お蔭で又二三分飯が遅れて了う。この調子で私が学校へ出掛けて了う迄、する事なす事一々叱言の為めに妨害される。
習慣は恐ろしいもので、此の頃では朝床の中で眼を覚ますと、私はすぐ親父の起しに来るのを期待して、どうかすると待ち遠な気がする事さえある。親父の方が済むと今度は母親のを待つ。この二つが済まぬ間は物足りなくて起きる気にならぬ。“Possession is better than Expectation”たしかセルヴァンテスがこんな事を云って居たが、私は此処でも是れより更に奇警な真理を発見する事が出来る。即ち、「期待は其の対象の吉凶禍福に拘らず常に一種の快楽也。」だ。
また親父や母親の方でも此れが癖になったと見え、毎朝々々同じ文句、同じ態度で、屹度一遍ずつは型の如く私を叱る。時には面倒臭さそうに嫌々ながら勤めて居る。茲に至ると叱言とか意地張とか云うものを超越して、親子が心を
それに言葉だけ聞くと親父も母親も
「ハテ此処のたてつけが甘えようだが。」
などゝ家中をガタピシいじり散らかし、
「あゝ今日は好い運動をした。何か旨えものでも食うかな。」
と、「簡易西洋料理法」とある書物を参照して、自ら台所へ出馬に及び、シチュウ、ビフテイキの類を拵えては我々に御馳走しながら、チビリチビリ晩酌を傾ける。
いつであったか、新聞の三面に「
「えゝ奥様はお出でゞございましょうか。手前は苦学生でございますが、何かお
とやり出すと、奥で晩飯を食って居た親父は、俄然箸を投り出してツカ/\と玄関へ立ち上り、
「要りませんよ、そんなものは。」
と、如何にも
「奥様はお出でゞございましょうか、なんて云やがって怪しい野郎だ。·········新聞に出歯亀倶楽部と云うのが出て居るから、皆も気をつけねえといけねえぞ。」
こう云って独りで憤慨して居た。親父のする事は凡べて斯くの如く
さて、今朝は平常よりも更に遅れて、学校へ行ったのが丁度午頃、文科は一般に出缺の取締りが厳重でないからいゝようなものゝ、私ほどズボラな学生は珍しい。
原田が今日の午前中に例の質物で五圓拵えて来る約束だから、早速控所へ行って見ると、原田と杉とがストーブへあたりながら弁当を食って居る。
「どうだい。五圓になったかい。」私は早速聞いた。
「処が三圓にしかならんのじゃ。最初杉さんの時計を出したら八十銭にしか取らんと云う。君のがあったのでやっと三圓になったんじゃ。·········」と、原田は五圓にならなかった代りに、私の時計を褒めて居る。
「·········それに時計と云う奴は入ったら大抵もう流れるに定って居るから、質屋の方でもあまり喜ばん。·········いや何も君の時計を流すと云うじゃないがな。·········一体質屋は流れよりも利子を取るのが目的なんじゃ。」
何だか大分昨夜とは口うらが変って来た。
「残額二圓誰かから借りよう。昨今我々は
と杉は原田の手にある三圓へ秋波を送る。
「そうだ。三圓位グズ/\して居ると瞬く間だよ。」
「何だか
こう云って、杉が今にも手を出しそうな顔をした。すると原田が此れにつけ入って、
「アッそう、そう。一寸此の中から
と、怪しからん事を云い出す。
「馬鹿を云え。一枚でも紙幣が崩れりゃ忽ち失って了うに定って居る。あと二圓足しさえすりゃ百圓になるんじゃないか。お前はそれだから可かんよ。」
と、杉は顔で憤慨したが、其の実足許は危かった。
「いやそうでない。インキとノートの金位家へ行けば出来るから今一寸立て換えてくれ。早速教場へ出られんじゃ困る。大丈夫だよ。一寸買って来る。」
委細構わず原田が戸外へ駈出すと、何と思ったか杉が後から、
「おい、原田ア。」と呼び止めて、
「序に菓子を五銭買って来い。」
もう斯うなると百圓は金額が大きいだけそれだけ、遥か遠くへ隔たった感がある。
原田の買って来た
「だが能く考えて見ると、此の計畫は明かに人に聞かれて好ましい事じゃない。何と云っても丸善とそれから僕等から本を買い取った人を欺く事になるんだからな。たかが授業料三十圓の為めにそんな不徳を働かんでもすむじゃないか。」
如何にも他人の不都合を
「それよりは此の三圓で愉快に遊ぼう。そして今夜は妙法寺へ来て泊るさ。面白いぜ、それも。」
妙法寺と云うのは杉の間借りをして居る牛込原町のお寺だ。
「止すなら止しても
原田はこんな負惜しみを云ったが、
「|||じゃ今夜は何処へ行こう。久し振で
などと云う心配もした。
「いや喰おう。これだけあれば可なり肉が喰えるよ。」
こゝで三人暫くこうしよう、あゝしようと、久しく胸中に結んで解けざりし欲望満足の計畫を提供したが、結局
「そう酒を沢山飲んじゃ足りなくなるぜ。」
と云いながら、原田は盛に鍋をつッ突いた。大きい肉の片を頭の上まで高々と摘まみ上げて、タラ/\垂れる醤油を舌で受けながら、ぱくりと口腔へ落し込む藝当は馴れたものだ。そして時々、
「うまいなあ。」
と心底から感歎の声を放つ。
追々と酔が廻って来た。三人共浅ましく元気づいて喰うやら喋るやらした。
「要するに百圓這入らなかったのは事実だけれど、時計が二つなくなったのも事実らしいね。」
私がこう云うと、二人はドッと吹き出した。
「ワッハヽヽヽ。何しろ天下の滑稽だ。これは立派な小説になる。どうだい山崎、一つ書いて見たら。」
何でも事を仕出かしては「此れは小説になる。」と云うのが杉の十八番だ。原田は談文学に
「ジェローム・ケー・ジェロームにでも書かしたら面白いものが出来るね。先ず標題は Three Men ·········」
と云いかけて、私が考えると、杉が即座に後をつける。
「With Two Watches さ。でなければ、Historian's History でもいゝ。ね、書いて何かへ出し給え、原稿料と云うものがあるからな。」
原稿料ときいて原田が手を挙げて
「賛成! そりゃ好えぜエ、山崎さん。一つ書かんかな。時計事件もえゝが、何か斯う、何だな、女の事を書いたが好え。」
其れから暫く金儲けのような、文学談のような、而して人生観のような話が栄える。
「僕は死ぬのは嫌じゃないが、死んでから狭い棺桶の中へ体をちゞめて小さくなって居るのかと思うと、嫌で仕様がない。」
と、杉は凄い顔をして肩をつぼめて見せた。
「私ゃ梅毒で鼻が落ちたら、その時こそ、此の通り切腹するぜエ。」
こう云いながら、原田が杉箸で腹を切る真似をした。
やがて私が妹から伝授の
「や、こゝが可かん。どうもこれじゃ
などと云った。
此の演藝共進会が済むと、再びお喋りが始まり、話題はいつしか古今東西の人物評に滑って行った。
「
「僕は
杉がこう云って居た。私はそろ/\頭の鉢がキリ/\して来て、誰かゞ双方の
「尊氏はえらいさ。どうして! 秀吉や家康の比じゃないからな。」