イギリスのロンドンのテームズ河の北側に著名なウェストミンスター寺院というのがあります。これが最初に建てられたのは七世紀頃のことだと
云われていますが、現在の
伽藍はその後十三世紀頃に改造されたので、更に礼拝堂や高塔などがなお後に建て増されたのでした。ところでこの寺院はイギリスの帝王の戴冠式がいつもそこで行われることや、代々の帝王皇后の墓処にもなっているので、イギリスでは第一に重んぜられているのですが、そればかりでなく国家に功労のあった人々の墓碑をもそこに置くことになっているので、ここに葬られると
云うことはイギリス国民の最高の栄誉とせられているのです。今日までにこの栄誉にあずかった人々の中には、政治家や、軍人などの外に、たくさんの詩人、文学者などと、相並んで、科学者の名をもかなりに見出だすことができるので、この事はそこで学問がいかに尊重されているかを示すのでもあり、この点は大いに羨まれなくてはならない
処でもあると思われるのです。
さて、この科学者のなかには、有名なニュートンを始めとしてロード・ケルヴィン、マクスウェル、ファラデイおよびその他の名だかい人々がそこに見出だされるのですが、最近には科学者として世界に
普ねく知られていたロード・ラザフォードや、サー・ジョセフ・ジョン・タムソンが同じくここに葬られる栄誉をにないました。これは、もちろん当然のことと思われますが、それで見てもここにお話ししようとするロード・ラザフォードがどれほど偉大な仕事をしたかがわかるのでしょう。ラザフォードの亡くなったのは今から五年前、
即ち一九三七年の十月十九日でありましたが、その月の二十五日にこのウェストミンスター寺院で葬儀が厳粛に行われました。その日はイギリスに特有な秋日和の美しい日であって、国王陛下の代表者や政府並びに学界の首脳者がこれに参列し、寺院の内陣の南側にその遺骸が葬られたのでした。そして葬儀は厳粛ではあったが、また簡素でもあり、「陸海将官の葬儀に見るようなものものしい盛観や美麗さもなく、彼の生涯や業績について何事も語られなかったが、しかし粛然たる
静謐な空気が全
堂宇に
充ちわたり、これこそ彼が願望したすべてであったと
云う印象を消し難く残した」と
云われています。まことに
高邁な学者の一生にふさわしいものであったように思われますし、ここに自然研究に終始した彼の真意をよく活かしているとも感ぜられるのです。
ラザフォードは、その名をアーネストと
云い、ニュージーランドのネルソンと
云う町の近郊のブライトウォータで一八七一年の八月三十日に生まれました。後にロードの爵位を授けられたのは一九三二年のことでありますが、その称号をロード・オブ・ネルソンと
云うのはこの生地に
因んだものであるのでした。幼時から学業にすぐれていましたが、一八九四年には特に選ばれてイギリス本国へ留学を命ぜられることになったので、それでケンブリッジの大学へ赴いて、ジョセフ・ジョン・タムソン教授のもとで物理学の研究を始めたのでした。このときタムソン教授の指導を受けたということも、もちろん彼に多く幸いしたのに違いありませんが、もともと彼の才能のすぐれていたと
云うことが後に彼の成功を持ち来したのは言うまでもないでしょう。タムソン教授自身がラザフォードの逝去に際して次の言葉を記しているのを見ても、それがよくわかります。
「一八九五年の十月に、他の大学の卒業生を研究生としてケンブリッジに入学させ、二年後にR・Aの学位を与えるという規則がちょうど実行され出したときに、私は始めて彼に
遇った。ラザフォードはつまりその最初の研究生となったのである。‥‥ラザフォードはニュージーランドにあった時に無線電波の磁気検知器を発明していたから、キャヴェンディッシ
[#「キャヴェンディッシ」は底本では「キヤヴェンディッシ」]実験所での彼の最初の仕事はその感度を改良することであった。彼はこの初期においてさえ非常に突進的な力をもち、組織者としての能力をもつことを示した。‥‥数週間足らずの間に私は彼が全く人並みはずれた才能をもつ学生であるのを認めるようになった。」
この言葉につづいてなおその後の仕事のことがいろいろ記されていますが、ともかくも最初からタムソン教授が彼に対してこのように感じたということで、すべてが推察されるとも考えられます。
ケンブリッジの大学で数年間の研究を続けている中に、すでにいろいろな科学上の仕事を行ったのでしたが、その才能がますます認められて、一八九八年にはまだ二十七歳の若さでカナダのモントリオールにあるマクギル大学の研究教授に任命されました。そしてそこに一九〇七年まで
止まって多くの事を行いましたが、この年にイギリスのマンチェスター大学の物理学教室主任になり、再び本国に戻って来ました。この頃はラザフォードの名声がすでに高く学界にあまねく知れわたったので、たくさんのすぐれた若い弟子たちがその許に集まり、研究はますます盛んになりました。そして最後に一九一九年になって先師タムソン教授の後を承け継いでケンブリッジ大学に転じ、学界でも名誉ある地位としてのキャヴェンディッシ
[#「キャヴェンディッシ」は底本では「キャヴエンディッシ」]実験所長となったのでした。
彼の科学上の偉大な仕事に対しては、
諸所の学会から表彰を受けましたが、特に一九〇八年にはその放射能に関する研究に対してノーベル化学賞が授けられ、学界最高の栄誉をにないました。そして一九三二年には、上にも述べたようにイギリス国王からロードの爵位をまで授与せられ、そしてその逝去に際しウェストミンスター
[#「ウェストミンスター」は底本では「ウエストミンスター」]寺院に葬られたということは、イギリス国民として何ものにも換え難い栄誉であると
云ってよいのでしょう。
ラザフォードの研究の偉大であったことは、かくて今日誰も知らないものはない程なのですが、もう一つ特にここに記さなくてはならないことは、彼が実にその多くのすぐれた弟子たちに対して親切なよい指導者であったと
云うことです。これが当時においてマンチェスター大学やケンブリッジ大学の物理学教室をして学問の中心としてますます光輝あらしめた
所以でもあるのです。同じくラザフォードの逝去の際に彼の著名な弟子に属しているアンドレードやチャディックという人たちが記している文のなかに次のような追憶のあるのを見ても、この事がよくわかるでしょう。
「‥‥弟子たちを一組にして放射能の研究をやらせ、めいめいの能力に応じて仕事を割り当て、激励が必要だと見ると非常な熱意でこれを励ました。」
「ラザフォードは気の若い人で、我々と一緒に冗談を言ったりして、どうして困難に打ち勝てばよいかを教え示してくれた。みんなで『パパ』という
綽名をつけたが、それは放射能に関することなら何事でも親のように指図してくれたからである。でも恐らく若い父親で、しかもまるで月並型ではなかった。」
「この時代に彼と共に仕事していたものは誰でも‥‥彼の権威と指導とのもとにこんな懐かしい学友として居られたことを、もう余処では見ることができないに違いない。」
これはアンドレードがマンチェスター時代のことを書いたものでありますが、もう一人のチャディックもケンブリッジ時代のことを同じように記しているのです。
「どの弟子にも眼を向けて彼等が最上の仕事の出来るように仕向け、また熱心にこれを励ました。」「彼と共に仕事をするのは絶えざる楽しみであり、また驚きでもあった。」「彼は弟子たちの最も若いものをも同じ仕事場での兄弟分として取扱った。
||そして必要な際には彼等に対して『父親のように』話した。これらの恩徳は彼の大きな寛容な性質並びに彼の健全な常識と共にあらゆる弟子たちに親愛の情を抱かせた。‥‥全世界の研究者はラザフォードを絶大の権威者と認め、彼に高い尊敬を払っていた。しかし彼の弟子である我々はまた非常に深い愛情を彼に負うていた。世界は一人の偉大な科学者の死を哀悼する。だが、我々は我々の親友、我々の助言者、我々の
杖、そして我々の指導者を失ったのであった。」
この文を読むと、誰でもこれほどに有難い『父親』を失った悲しみを痛切に感じないではいられないでしょう。そこにラザフォードの人格の尊さがあったのです。
ラザフォードの行った科学上の研究はたくさんにあって、それらをここではこまかくお話しするわけにもゆきませんが、その主な事がらだけをとり出して少しお話しして見ましょう。それは大体に次の三つの問題に帰着させられるのです。
第一は、放射性元素の変脱に関する問題であります。ウランやラジウムのように放射線を出す元素のあることが見つけ出されたのは、この前にキュリー夫人のことをお話ししたときに記しましたが、それは一八九六年から一八九八年にかけてのことでありました。ところでこのような元素が放射線を出した後にどうなるかと
云うことについては、その当時はまだ何もわからなかったので、それに対していろいろな想像も行われましたけれども、どれも確かではなく少しく迷路に陥った有様でありました。ところでラザフォードはこの問題を何とか解決したいと考え、そこでその頃物化学の研究を行っていたソッディーと
共力して、ウランとトリウムとに対して実験的に詳しく調べてみて、ついにこれらの元素の原子は放射線を出すと共に異なる原子に変ってゆくということを見つけ出しました。そしてこの事を原子変脱の仮説として
云いあらわしたのでした。その後これは仮説ではなく、確かな事実であることが認められるようになりましたが、この事実はそれまで原子を不変なものであると考えていた物化学の根本観念に反するものでありますから、当時の学界に異常な驚きを与えたことは当然でもあったのでした。
しかしそれが確かな事実である上はやむを得ないのです。ラザフォードはそれに
次いで、放射性元素から出る放射線に、アルファ線、ベーター線およびガンマ線の三種類があることを明らかにしましたが、これらの三つの中でアルファ線が最も大きなエネルギーをもっているので、それが特に彼の興味を
惹きつけました。彼はそこで巧みな実験を工夫してアルファ線を示す粒子がベーター線の粒子に比べてはよほど大きな質量をもっていることを確かめ、ついにこの粒子はヘリウムという元素の原子が陽電気を帯びているのに相当すると考えました。この事は放射性をあらわす鉱石のなかにいつもヘリウムが含まれているという事実と
関聯して、恐らく本当であると見なされましたが、その後間もなくラムゼーおよびソッディーの
[#「ソッディーの」は底本では「ソッデイーの」]実験で確実であることが証せられました。
それに続いて放射性変脱には三種類の系列のあることがわかって来ましたが、ラザフォードはいつもアルファ線について特別な興味をもっていたので、これがやがて彼の第二の大きな仕事の端緒となったのですから、おもしろいではありませんか。それはこのアルファ線をごく薄い金属
箔に当てて、アルファ線が四方に散乱する有様を研究したことなのでした。この実験はマンチェスターの大学で行われましたが、彼の弟子であったガイガーおよびマースデンが主にこの実験に従事しました。ところがその結果を見ると、アルファ線の中の
或る粒子は
殆ど後戻りをする程に著しく曲げられることのあるのがわかったのでした。そしてラザフォードはこの事から、物質の原子の本体とみなされる原子核が非常に微少であるということを悟ったのでした。この発見は、一九一一年のことでありましたが、それがやがてその後二年程経て、やはりラザフォードの許で研究を励んでいたデンマークのボーアが原子構造の模型を考え出したときの基礎になったのでした。それで普通にこの模型をラザフォード・ボーアの原子模型と呼んでいますが、これが更に後に今日の量子力学というものに発展する出発点となったので、その意味で物理学の上で非常に重要視されているのです。
ラザフォードがアルファ線に対し特別な興味を寄せていたことは、この第二の仕事と共に第三のすばらしい仕事にも成功した原因となったのでした。それは一九一九年のことでありますが、彼はこのアルファ線を窒素や
弗素やアルミニゥムなどの軽い原子に当てていろいろな実験を試みました。以前の実験では単にアルファ線がどんな方向に曲げられるかを見たのでしたが、この時にはそれを原子核のなかにとび込ませて、この核を打ちこわすことに成功したのでした。もちろんアルファ線をつくる粒子の中で原子核へとび込むものはごく僅かなので、百万
箇のうちで幾つと
云うほどに少ないのです。それでもこれが核へとび込むと、その強いエネルギーによって原子核はこわされて、そのなかから陽電気をもった粒子、つまり陽子というものがとび出して来ます。これは結局、人工的に原子核を破壊した最初の実験であったので、その後今日まで原子核破壊の実験がすばらしく発展したところの出発点として非常に重大な意味をもっていたのでした。
実際にこれから六、七年を経てから、一方では量子力学の理論がずんずんと進んで来ましたし、他方では原子核の有様が事実の上でだんだんに明らかになり、今ではその構造もかなりによく知られて来ましたし、また人工放精性元素などがたくさんに見出だされて来たのも、すべてそれからの引き続いての研究のおかげであるのです。今日では原子核を構成している粒子は陽子と中性子とであるとみなされていますが、この中で陽子は陽電気をもっているのに、中性子は全く電気力を示さないのです。この中性子の存在は一九三二年に、上にその名を記したチャディックにより発見されたのでしたが、ラザフォードはそれより
凡そ十年前に、かような粒子の存在を予言していたとのことで、それだけでも彼の思考のどれほどすぐれていたかを知ることができるでしょう。
ラザフォードの
[#「ラザフォードの」は底本では「ラザフオードの」]仕事をここではごく大略的に述べたのに過ぎませんが、それらがすべて不朽のものであるのは言うまでもないことで、それと共に彼の立派な精神が今でも全世界の弟子たちのなかに活々と生きて居り、それが科学研究への熱情的な愛となって現れていることは、実に特筆に
値いする事がらでもあります。