神谷芳雄はまだ大学を出たばかりの会社員であった。しかも父親が重役を勤めている商事会社の調査課員で、これというきまった仕事もない
しかし、もし彼がもっと別のカフェを選ぶか、そこのウエートレスと恋をするほども足しげく通よわなかったなら、あのような身の毛もよだつ恐ろしい運命にもてあそばれなくてすんだに違いない。彼がこの物語の主人公、怪物人間
ある冬の、
「きょうは変だね、まだ十一時だのに、僕のほかには一人もお客さんがいないじゃないか」
ふだんから、なんとなく陰気な、客の少ない、その代りにはゆっくりと落ちつきのあるカフェであったが、今晩は殊に、まるで空き家にでも
「魔日っていうんでしょう、きっと。そとは寒いでしょうね。でも、邪魔がなくって、この方がいいわね」
弘子は
すると、ちょうどその時、入口のボーイが客を迎える声がして、コツコツと
神谷はその男が歩いているあいだに、
神谷はそれからまたしばらく、弘子と楽しい密語をささやきかわしたが、そのあいだも、シュロの葉蔭の客が、なんとなく気になって仕方がなかった。彼はこんな変てこな感じのする人間を、まだ見たことがなかった。
弘子も同じ心とみえ、話しながら、絶えずその方をジロジロと見ていたが、とうとう我慢ができなくなったように、ささやき声で訴えた。
「いやだわ、あの人、さいぜんからあたしの顔ばかり見ているのよ。ほら、あの葉蔭から、大きな眼で、あたしの方をじっと見つめているのよ。気味がわるいわ」
なにげなくその方を見ると、なるほど、シュロの葉の
「あれ初めての人?」
「ええ、そうよ。あんな人見たことないわ」
「失敬なやつ」
神谷は聞こえよがしに舌打ちして、相手の眼を
「なにくそ、まけるもんか」
と彼は酔っていたので、睨みっくらでもする気になって、じっと眼をすえて、しばらく睨み合っていると、不思議なことには、相手の眼中の蛍火がだんだん強く輝きだし、しまいには眼の前一杯に、えたいのしれぬ
「あんなやつ、気にするのよそうよ。君も向こうを見ないでいる方がいい、あいつどうかしているんだよ。あたり前の人間じゃないよ」
「ええ、じゃあ、もう見ないわ」
しかし、やがて、無関心を装っているわけにはいかないことが起こった。
「ねえ、弘ちゃん、あたし困っちゃったわ」
怪しい客の相手をしていたウエートレスが、まっ赤に酔った顔をして、二人のテーブルに近づくと、声を落として言った。
「あの人がねえ、どうしてもあんたに来てほしいっていうのよ」
「いやよ、そんな失礼な。あたしは、
「ええ、そりゃわかってるわ。だから番が違うからってお断りしたんだけれど、聞かないのよ、酔っぱらっちゃって、乱暴しかねないのよ。ちょっとでいいから、顔を出してくんない?」
それを聞いていると、神谷はムカムカと
「だめだって言いたまえ。人の話している相手を横取りするやつがあるか。ぐずぐず言ったら僕が行ってやるよ」
すると、ウエートレスは一度帰って行ったが、すぐ引っ返してきて、
「じゃあ、そのお客さんに会いたいっていうのよ。こちらへ押しかけそうにするのを、やっととめてきたの、弘ちゃん
と、泣きそうに言う。
「よし、じゃあ僕が行ってやる」
神谷は立ち上がって、「あらいけませんわ」と二人の女がとりすがるのを、つきのけるようにして、ツカツカと、シュロの
「僕に用事があるそうですが」
と、酔っているものだから、少しばかりウルサがたに詰めよった。
男は、グラスも、ウィスキーの
「ええ、用事があるんです。用事というよりはお願いなんです。僕、あの子が好きになっちゃったんです。会わせていただけませんか」
案外おとなしく言われたので返事に困っていると、
「会わせてください。でないと、僕、自制力を失ってしまうかもしれません。僕を怒らしちゃいけないのです。ごらんなさい。僕の口を、僕の口を」
見ると、彼は歯ぎしりを
「だって君、それは無理じゃないか。あの子は僕の
神谷は虚勢を張った。
「いけませんか。いけませんか」
男はせき込んで尋ねる。
「ええ、困りますね」
「ああ、僕を救ってください。僕は自制力を失いそうです。もし自制力を失ったら······」
彼は歯を気味わるく鳴らしながら、何を思ったのか、
彼は彼自身の心と戦っているのだ。歯を食いしばったり、指を傷つけたりして、何かしら
神谷はそれを見ていると、我慢にも虚勢が張っていられなくなった。酔いもさめきって、心の底まで冷えわたるような、なんともえたいの知れぬ恐怖に、震えあがった。
「弘ちゃん、ちょっとここへ」
思わず知らず呼んでしまった。
「なによ」
すぐうしろで、弘子の声が答えて、彼女は、やけな調子で、ボックスへのめり込むと、男の隣へ腰かけた。
「ああ、君、君は弘ちゃんていうの?」
男の相好が、実に突然に、ガラリと変ってしまった。彼は弘子の肩を抱いて、ニヤニヤしながら、お
「僕ね、恩田っていうんだ。君に、贈り物がしたいのだがね、うけてくれるかい」
彼は前に見はっている神谷の方を、気まずそうに盗み見ながら、大きな口をペタペタいわせてささやいた。そうだ、この恩田という怪人物の口は、実に大きかった。もし思い切ってひらいたら、耳まで裂けて、あの骨ばった顔じゅうが、口になってしまうのではないかと疑われた。
恩田は自分の指から奇妙な形の
「美しい弘ちゃんにはじめて会った記念です。大切にしてください」
彼は指環をはめたついでに、弘子の手をギュッと握りしめながら、実に
神谷はムッとしたが、恩田のさいぜんの
狂人は、ころがっていたウィスキーの
「弘ちゃんのために、プロージット!」
と、叫んで、それをグッと飲みほして、長い舌をペロペロと
それは決して、酔った神谷の幻覚ではなかった。弘ちゃんともう一人のウエートレスも、ちゃんとそれに気づいていて、あとでまっ青になって話し合ったことであった。
恩田はフォークで、ポタポタと赤い血のしたたる、厚ぼったい牛肉の一片をつき刺すと、口をグワッとひらいて、赤い舌をヘラヘラと動かして、それをさもうまそうにたべたのだが、その時、
ああ、あれが人間の舌であろうか。まっ赤な肉の表面に、針を植えたような一面のささくれ。それが、舌を動かすたびに、風に吹かれた草むらの感じで、サーッと波打って
巨大な両眼に燃える
おれは果たして正気なのだろうか。この怪物は
神谷は見ているのも恐ろしくなって、眼をそらそうとしたが、そらそうとすればするほど、かえって、眼に見えぬ糸で引き戻されるように、いつの間にか、相手のけだもののような口辺を凝視しているのであった。
恋人を保護したいばかりに、恐ろしい思いをこらえこらえて、怪物と同じボックスに対座していたあいだが、どんなに長く感じられたことか。だが、恩田はやっぱり、時々ギリギリと歯を
人通りのまったく途絶えた、夜ふけの裏町には、氷のような黒い風が、悲しげな音を立てて吹きすさんでいた。神谷は突然
カフェでは、丸めて
神谷は
神谷は、不思議な引力のようなもので、怪人に引きつけられていた。どこまでも、この男の跡をつけてみたいという気持を、おさえることができなくなった。怖ければ怖いほど、その正体が見届けたかった。間もなく恩田は一台の空き車を呼び止めて、その中に消えた。神谷もイライラしながら、あとから来た自動車に飛び乗った。
「あの前の車を、どこまでもつけてくれたまえ、なるべく先方に悟られないように。料金は君のほしいだけあげるから」
深夜の大道は、なんの邪魔物もなく、尾行にはおあつらえ向きであった。二台の車は風を切って矢のように走った。
神谷は先方に気づかれぬよう、半丁も手前で自動車を降りて、運転手にここはどこだと尋ねると、なんでも
「じき帰ってくるからね、君はヘッドライトを消して、ここに待っててくれたまえ」
と命じておいて、急いで恩田のあとを追った。
街道の両側には、大入道のように
ちょうど彼の黒い影が、一つの常夜燈の下を通りかかった時であった。突然、行く手から一匹の犬が走り寄って、けたたましく
恩田は足を上げて「シッ、シッ」とそれを追ったけれど、そうすればするほど、犬はますます吠え立てるのだ。犬とても、彼の異形の風体には、
この小動物の
それを見たら、人間ならたちまち
すると、次の瞬間、ああ、実に恐ろしい事が起こったのだ。神谷はその時のすさまじい光景を、いつまでも忘れることができなかった。
怪人は、異様に鋭い叫び声を立てたかと思うと、パッとインバネスの羽根をひろげて、まるで一匹の猛獣のように、哀れな犬に飛びかかって行った。
薄暗い常夜燈の下に、人と犬とは黒い一つのかたまりとなって、
だが、この段違いの争いは長くはつづかなかった。黒いかたまりが、パッタリ動かなくなって、ソロソロと立ち上がったのは恩田の影であった。立ち上がると、そのまま振り向きもしないで、立ち去った彼のあとに、グッタリと横たわっているのは、
神谷はその犬の死骸に近づいてみて、さらに
神谷は相手のあまりの
しばらく尾行して行くと、恩田は街道をそれて、
街道の常夜燈を遠ざかるにつれて、雑木林の中は、だんだん
だが、やがて雑木林を出はずれると、どうしたことか、つい今しがたまで、おぼろげながらも見分けられた恩田の影を、パッタリと見失ってしまった。まぎれやすい林の中では、ちゃんと尾行していたのに、闇とはいえ眼界のひらけた星空の下に出てから、突然彼の姿が消えてしまったというのは、実に異様な感じであった。
その辺は田や畑はなく、一面に荒れ果てた草むらになっていて、道らしい道もなく、
ふと気がつくと、二、三間向こうの草むらが、サワサワと鳴っていた。風かしら、風に枯草がなびいているのかしら。だが風にしては一か所だけに音がするのは変だ。彼は少し無気味になって、立ち止まって耳をすましたが、空にはやっぱり風が吹き渡っているのに、さいぜんの物音はパッタリやんでしまった。
歩きだすと、また同じ方角から、サワサワと音が聞こえてくる。立ち止まると、パッタリやんでしまう。われとわが足音に
都会の
神谷はあまりの無気味さに立ちすくんだまま、動けなくなってしまった。そして、音のした方角をじっと見つめていると、草むらのあいだに、
二つの光るものは、だんだん光を増しながら、じっとこちらを
実に長い長いあいだ、異様な暗中の睨み合いがつづいた。神谷はもう気力が尽きそうであった。恐ろしさに失神せんばかりであった。
その時、ああ、その時、地上に伏した怪物が、人間の声で物を言ったのだ。まるで地獄の底から響いてくるような、陰気な声で物を言ったのだ。
「おい、すぐに帰りたまえ。おれは君なんかに干渉されたくないのだ」
そして、燐光を放つ両眼が向きを変えて見えなくなると、黒い影が低く地上を
神谷はわずかに残る気力を振いおこして、もときた道へと、息のつづく限り走った。十数年も忘れていた少年の心に帰って、何かに追っかけられでもするように、死にもの狂いになって逃げた。走っても走っても、逃げきれない悪夢の中のもどかしさを感じながら。
神谷芳雄は、その翌日から一週間、風を引いて熱を出して寝込んでしまった。怪物を尾行して夜ふけの寒い風に当たったためでもあったが、一つには、あのあやしい
会社を休んでしまったほどだから、むろんカフェ・アフロディテをおとずれることもできず、そのあいだに弘子の身の上にどのようなことが起こっているのか、少しも知らなかったが、やっと起きられるようになって、久し振りの弘子のえがおを楽しみに、カフェへ行ってみると、意外なことが起こっていた。
弘子は三日ほど前、銀座の資生堂まで買い物に行ってくると家を出たまま、それっきり
あの弘子が、神谷以外の男を愛して、
彼女は
しかし獣類の世界では······おお、そうだ、獣類の世界では、そんな事は日常
神谷はいつかの晩のウエートレスをとらえて、あいつはその後やってこなかったかと尋ねてみたが、一度もこないという返事であった。いよいよ疑わしい。弘子に対するあれほどの執心を、
神谷はもうそれに違いないと思った。だが、恩田を警察に訴える勇気はなかった。もしそうでなかったら、取り返しがつかない。もっと調べてみなければいけない。彼自身で、もう少しはっきりした
そこで、彼はその翌日、午後から会社を休んで、心覚えの武蔵野の森の中へ、怪人物の住所を確かめに出かけることにした。
幾度も迷った末、やっと、それらしい森を見つけて、車を降りると、細い枝道を、気味わるい草むらを踏み分けて、目ざす森へと歩いて行った。
空は一面にどんより曇って、風もなく、寒さはそれほどでもなかったけれど、ソヨとも動かぬ草の葉、森の
そこには、高い
門には
神谷は、煉瓦塀のまわりを一巡してみるつもりで、ジメジメした落葉を、気味わるく踏みながら歩き出したが、ちょうど建物の裏手まで来た時、突然、妙な物音を耳にして、ギョッと立ちどまった。
それは物音というよりは、物の声であった。だが、人間のではない。人間があんなに恐ろしい
ドキドキする胸を、じっと
と同時に、何かしら、煉瓦塀の内側から、つぶてのように彼の足元に飛んできたものがあった。彼はハッと顔色を変えて、いきなり逃げ出しそうにしたが、よく見ると、別に危険なものではない。投げ出されたのは、丸めたハンカチらしいものだ。
立ち戻って、足で
血だ! こんな絵の具なんてあるものではない。確かに人間の血だ。血で書いた文字だ。
大急ぎでひろげてみると、そこには濃淡
「助けて、殺されます」
としるしてあった。とっさの場合、指を
ああ、思い出した。弘子に違いない何よりの
と思うと、神谷は気味わるさも
彼は幾度も落葉に踏みすべってころびそうになりながら、非常な勢いで門のところへ
「あけてください。誰かいませんか」
と叫びつづけた。だが、いくら
神谷はもう、あとさきを考えている余裕がなかった。いきなり
すると、今度は、存外早く手ごたえがあって、
「誰だっ、そうぞうしい」
とどなりながら、中からドアをひらいたものがある。
ドアをひらいて顔をさし出したのは、頭もひげもまっ白な、折れたように腰の曲がった、背広姿の老人であった。
相手が案外弱々しい老人だったので、神谷は拍子抜けがして、やや穏かな口調で、
「こちらは恩田さんのお宅ですか」
と
「ハイ、わしが恩田ですが、あんたはどなたですな」
老人は人殺しなどの行なわれる屋敷とも思われぬ、ゆったりした調子で答えて、神谷と閉め切った門の扉とを、ジロジロと見比べた。
「いや、僕は若い方の恩田さんに会いたいのです。いつか京橋のカフェでお眼にかかった神谷というものです」
「若い方というと、ハハア、
老人は
「じゃ、お尋ねしますが。お宅に若い娘が来ていやしませんか。弘子というカフェのものですが」
思いきって、尋ねてみた。
「若い娘? わしゃ知りませんな······だが、立ち話もなんじゃ、こちらへおはいりなさらんか。ゆっくりお話しを聞きましょう。門を乗り越したりして、けしからんお方じゃが、まあそれはそれとして」
突然、老人がニヤニヤと愛想よくなった。変だ。何かわけがあるのに違いない。だが、のぼせ上がった神谷は、それまで気がつかず、誘われるままに、老人のあとについて、家の中へはいって行った。
通されたのは、窓が高く小さくて、まるで
「わしは老いぼれた学究でしてな。世の中の交際もしておらんので、お客をもてなす部屋もありませんのじゃ」
いかにも老人の言う通り、それは実に異様な部屋であった。一方には大きな
また別の一隅には、ガラス張りの棚があって、何かの動物の、人間のよりは平べったい
まるで中世紀の
部屋のまん中には、村役場にでもありそうな、ニスのはげた机があって、そのかたわらに二脚の
「さア、お掛けなさい。
神谷は、もっと奥の方へ踏み込んでみたかったけれど、そうもならぬので、セカセカとまた同じことを繰り返して尋ねた。
「ほんとうにご存知ないのですか。いくらなんでも、同じ家の中に、よその娘が閉じこめられているのを、あなたが知らないはずはないでしょうが」
「え、え、なんとおっしゃる。娘が閉じこめられている? そりゃ何かの間違いでしょう。わしにせよ倅にせよ、そんな悪者ではありません。いったい何を
老人は底光りのする大きな眼で、
「証拠が見たいとおっしゃるのですか。証拠はこれです。今、お宅の中から
神谷は言いながら、さいぜんの血染めのハンカチを取り出して、老人の眼の前にひろげて見せた。
老人はそれを読みとると、さすがにギョッとした様子であったが、なにげなく笑い出して、
「アハハハハハ、これを家から投げましたと? あんたは夢でも見たのじゃないか。この家には倅とわし二人きりで、その倅が外出しているのじゃから、今はわしがたった一人です。わしがこんなものを投げるはずもなし······」
「では、これをごらんなさい。あなたの息子さんが弘子さんという女給にやった
老人は指環を見ると、一そうギョッとしたようにみえた。
「知らんよ。わしゃ、そんなもの······だがね、お前さんが、そんなに疑うなら、一つ家探しをしてみたらどうじゃ。わしが案内して上げてもよい」
と意外なことを言い出した。神谷は用心しなければならなかったのだ。老人の言葉の奥には、どのような恐ろしい
「それじゃあ、ご案内ください。僕もこうしてお訪ねしたからには、すっかり安心して帰りたいのです」
神谷は立ち上がって、せわしく老人を
「では、こちらへおいでなさい」
老人はさもしぶしぶのように、ヤッコラサと
薄暗い廊下を少し行くと、外側に
「
老人は言いながら、閂をはずして、先に立ってその部屋の中へはいって行った。
神谷はつづいてはいったが、部屋の中は薄暗くて、少しも様子がわからない。
「窓を閉めてあるのですか」
「さようじゃ。今窓をあけますから、少し待ってください」
老人は
「どうしたんですか」
驚いて声をかけると、老人がどこか遠くの方で笑い出した。
「ハハハハハ、どうもせんよ。お前さんに、しばらくそこで御休息を願おうと思ってね。まあ、ごゆっくりなさるがいい。ハハハハハ」
そして、彼の声はだんだん遠くへ聞こえなくなって行った。
ハッと気がついて、部屋の入口へ突進したが、もう遅かった。厚い
神谷は
彼は幾度も、全身で扉にぶっつかってみたが、なんの効果もないことがわかったので、今度は手さぐりに、窓はないかと調べてみたが、まわりはすっかり板張りになっていて、窓らしいものは一つもなかった。三畳敷きほどのまったく採光設備のない物置きのような部屋だ。いや、ただの物置きにしては、あまりに頑丈すぎる。もしかしたら、これは動物を入れるための
神谷は、まったく脱出の見込みがないとわかると、
早まったことをした。あせる前に、
だが、おれはこれから、いったいどうすればいいのだろう。
もしこの
ああ、それにしても、弘子はどこにいるのだろう。おれが彼女を救い出そうとしたばっかりに、こんな目にあっているとも知らず、やっぱり同じ監禁の憂き目を見ていることであろうが、彼女の
だが、変だな、彼女がおれの姿を見るなり、足音を聞くなりして、あのハンカチを投げたのだとすると、そんな面倒な手数をかけないでも、ただ大声に救いを求めさえすれば目的を達したはずではないか。
では彼女は、別に誰にという当てもなく、あの文つぶてを投げたのだろうか。そして、通りがかりに拾ってくれる人を待つつもりだったのかしら。どうもそう考えるのが一ばんほんとうらしいようだ。それにしても、うまいぐあいに、ちょうどおれの通りかかる時、あれを投げたものだな。いやいや、うまいぐあいではない。今になって思えば、かえってそれが悪かったのだ。恩田の家を知っているのは、おればかりだ、そのおれが「ミイラ取りがミイラになった」のでは、もう弘子を救い出す見込みはまったく絶えてしまったといってもいい。ああ、どうすればいいのだ。
神谷がそうして、
やっぱり猛獣がいるのだ。ああ、そうだ。こんな檻のような密室があるのは、ここの家が猛獣を飼っているからに違いない。東京都内にだって、動物園でなくても、個人で猛獣を養っている富豪がいくらもある。ここにも、どんな恐ろしいけだものがいないとも限らぬのだ。
そこまで考えた時、あのギョッとする想像が彼を思わず立ち上がらせた。ああ、あの老いぼれめは、ひょっとしたら、その猛獣をここへ追い込むつもりではないのかしら。まさかそんなばかばかしいことが、いや、ばかばかしいといえば、この屋敷そのものがすでにばかばかしいのだ。あんな
そうして歩いているうちに、ふと板壁に
彼は中腰になって、隙間に眼を当てた。
ああ、夢ではないのか。そこには、果たして猛獣が······一匹の大きな
それはやっぱり
気のせいか、
彼は中腰に疲れると、眼をはなしてうずくまるのだが、しばらくすると、不安に耐えられなくなって、また隙間を覗く。そうして、うずくまったり覗いたりしながら、なんのまとまった思案もつかぬ間に、時間はドンドンたっていった。
やや一時間もたったころ、彼が疲れてうずくまっていた時、突如として、板壁の向こう側から、女の悲鳴が聞こえてきた。長くつづく、死にもの狂いの悲痛な叫びであった。
神谷はそれを聞くと、たちまちその恐ろしい意味を悟った。そして俄かに高鳴る心臓の鼓動を感じながら、ピョコンと立ち上がって、隙間に眼を当てた。
そこには、予期していたものが、いや予期以上に恐ろしいものがあった。
豹の檻の前の土間に、一人の若い女が、髪を振り乱し、服は裂けて、
神谷は
彼は声を立てる力もなく、ただ板壁にしがみついて、全身に脂汗を流していた。
だが、彼の想像は当たらなかった。弘子を襲うものは、豹ではなくて、むしろ豹よりも残酷な人間であることが、やがてわかった。彼女が両手を上げて防いでいたのは、その人間に対してであったのだ。
みるみる視界に現われてきた一人の男。恩田だ。
見よ、彼はやっぱり両手をついて這っているではないか。この怪人にとっては、立って歩くよりも、けだもののように
怪物の両眼は、昼ながら、二つの青い燐光のように、
怪物は、ちょうど猫が
恩田は
まっ赤な厚い
それは窓の少ない薄暗い部屋であったから、彼の両眼の
その眼、その口、その四肢をもって、黒い人間豹は、今や彼の美しい
二人のからだは、ただ見る黒白の
神谷は、そのもつれ合った二人の姿が、
怪人はまだ充分の力を出してはいなかった。ただ猫が鼠をもてあそぶように、相手をもてあそんでいるにすぎなかったが、しかし、か弱い弘子の方では息も絶え絶えの力闘であった。
彼女は少しも声を立てなかった。泣き叫んでもむだなことを意識してか、それとも、恐怖と疲労のために、
この
弘子の白い肉体は、幾度となく、恩田のためにつき飛ばされ、
彼女は、その扉の鉄棒に取りすがって、身を起こそうともがいていたが、ふと彼女の白い手が扉の掛金にかかった。そして、極度の激情の際にもかかわらず、彼女はその掛金が何を意味するかを理解したのだ。
弘子はヒョイと振り返って、またもや飛びかかろうと身構えている恩田を
神谷は、とっさにその笑いの意味を悟って、思わず眼をつむった。ああ、とうとう最後の時が来たのだ。何もかもおしまいになる時がきたのだ。
ガチャンと異様な音が聞こえてきた。
神谷はその物音に、ゾッと
豹はと見れば、もう檻の中には影もない。そして、一方の土間に、からみ合った黄色と黒との一とかたまり、豹は一と飛びに飼主恩田に飛びかかって行ったのだ。
「ワーッ」という、悲痛な叫び声が、怪人恩田の口からほとばしった。さすがの彼も、この不意うちには、極度の
黄色い豹、黒い恩田、白い弘子、今、神谷の眼の前には、この三つの生きものが、世にも恐ろしい
だが、恩田はとうてい本物の猛獣の敵ではなかった。徐々に徐々に、彼は部屋の隅へとおしつめられて行った。猛獣の鋭い
もう一分間そのままにしておいたなら、怪人恩田はこの世のものではなかったに違いない。神谷と弘子との
だが、幸か不幸か、いやいや、実もって不幸なことには、恩田の命は死の一歩手前で喰いとめられた。最後の一瞬間に救い主が現われた。
息を止めて見入っていた神谷の鼓膜に、突如異様な衝動が伝わった。眼の前の光景が、グラグラと揺れたように感じられた······銃声だ。誰かが恩田の危急を救うために
立ち昇る白煙の下を、猛獣は
わずかに命を取り止めた怪人恩田は、さすがにグッタリとなって、急に起き上がる力もない。
すると、神谷の
「
彼は鋭い眼を光らせて、檻の前に倒れ伏している弘子の半裸体を
「そうだよ。あいつだ。あいつめ、豹に僕を
恩田が苦しい息遣いで、さも憎々しくどなった。
「ウム、そうか。してみると、この娘はお前の
言いながら、老人は豹の
「よし、もうお前を止めやしない。思う存分にするがよい。わしの
と言い捨てて、そのまま眼界から消えて行った。
神谷はほとんどもう気力が尽きていた。だが、彼は節穴から眼をはなすことができなかった。「嫁おどし」の老婆の顔に
怪人恩田は、間もなく元気を回復して、舌なめずりをしながら起き上がった。うす黒い顔がひん曲がって、ゾッとするような笑いが浮かんでいる。彼はおそらく、天下晴れて、この
弘子はと見ると、ああ、幸か不幸か、彼女はまだ失神もしないで、真底から恐怖に耐えぬまなざしで、恩田の方を見つめている。
怪物は、両眼の
ああ、それから三十分ほどのあいだ、神谷は何を見、何を聞いたのであろうか。地獄の中の地獄であった。あらゆる恐ろしいもの、あらゆる醜いもの、あらゆる色彩、あらゆる動き、あらゆる音響が、彼の脳髄を
そして最後に、血に狂った怪人恩田が、激情の余波のやり場もなく、
彼はクナクナと密室の床に倒れ伏したまま、長い長いあいだ、死人のように動かなかった。からだじゅうに脂汗を流し、もみくたになった
いつの間にか
ふと気がつくと、誰かしら彼を声高く呼んでいるものがあった。その上に、暗闇とのみ思っていた密室に、どこからか、一条の赤い光が射している。彼は反射的にハッと身構えをしながら、声のする方を振り向いた。
「おいおい、君は何を泣いているんじゃ。何がそんなに悲しいのじゃ」
声と共に、その声の主の眼と鼻とが、四角にくぎられて宙に浮いているのが見えた。
恩田の父親だ。入口の板戸に、小さな四角の
「おや、君のその顔はどうしたのだ」
老人はロウソクの光に神谷の
「ハハア、するとなんだな。君は、あれを知っているんだな。だが、どうして? ああ、そうだ。壁の板に
だが神谷は答えなかった。答えずとも彼の表情がすべてを語っている。
「フン、見たんだな。見たとすると、気の毒だが、君は永久にここから出すわけにはいかぬ。いいか。なぜ出せぬか、そのくらいのことは説明せんでもわかるじゃろう。観念したまえ。ハハハハハ」
そして、パタンと無慈悲に閉まる覗き穴の
老人は、
逃げ出そうにも、この厚い板壁、
ああ、とんでもないことをした。たとえ恋人を救うためであろうとも、わが力も計らず、人にも告げず、単身この魔境へ踏み込んだのは取り返しのつかぬ失策であった。
だが、それはもう取り返しのつかぬ繰り言だ。ただこの上は、
しかし、いかなる手段で? ああ、いかなる手段で、この密室を脱出したらいいのだろう。
そんなことが果たして可能であろうか。
考えながら、神谷はふと
「おお、おれはマッチを持っていた。ここにマッチがある」
彼はそれをポケットから取り出して、
「そうだ、そのほかに方法はない。
彼は大急ぎで服を脱ぎはじめた。そしてまっぱだかになると、シャツ、
彼はそれに火をつけようというのだ。では彼は悪魔の
いや、そうではない。彼は一つの冒険を思い立ったのだ。千番に一番という危ない芸当をもくろんでいたのだ。
何本もマッチをむだにして、やっと紙類が燃え上がった。ワイシャツの
「ワハハハハハ」という無気味な笑い声が家じゅうに響きわたった。
しばらくそれをつづけていると、
彼の笑い声に不審を抱いて、様子をうかがいにきたのは、やっぱり恩田の父親であった。見ると、部屋の奥に炎々と燃え上がる
今だ! 神谷は老人の
そうしておいて、神谷は心覚えの廊下伝い、老人の
空は一面に曇って星も見えず、寒い風が草むらをザワザワと波立たせている。振り返れば、まっ黒に眼を圧して襲いかかる魔の森林、その中にチロチロと瞬くは怪屋のともし火か、それとももしや、彼の逃亡を知って追いかけてくる怪物の眼の
ふとそんな連想をすると、神谷は足もすくむほどの恐怖を感じた。そして、草むらのざわめくのも、風ではなくて、
彼は走った。無我夢中で走りつづけた。
道であろうと、なかろうと、方角さえもわからず、ただ走りに走って、しかし、ついに街道に出た。まばらに立ち並ぶ街燈、並木のあいだにチラチラ見える一軒家、その
このことが土地の警察署に伝わり、数名の警官が、やや気力を回復した神谷を案内に立てて森の中の怪屋に向かうまでには、かなりの時間が経過した。そして、彼らが手に手に懐中電燈をかざして、街道から抜け道を伝い、雑木林を抜け出たとき、先頭に立つ神谷が、何を見つけたのか、ハッと立ちすくんでしまった。
「どうしたんだ、君、何かいるのか」
警官の一人がどなった。彼らも怪人の話を聞いて、この
「あれ、あれをごらんなさい。あの火はいったいなんでしょう」
神谷の言葉に
「おや、火事じゃないか」
「ウン、そうだ。おい君、君が逃げ出す時に、シャツやなんかに火をつけてきたと言ったね。それが燃えひろがったんじゃないか」
警官が口々に言う。
「いや、そんなはずはありませんよ。高が一とかたまりの布切れですもの。老人が踏み消してしまったに違いありません。それにもしあれがもとだとすると、もっと早く燃えひろがっていなければなりません」
神谷は不思議に耐えなかった。
ともかくも行ってみようと、歩き出して、だんだん森に近づくにつれ、刻一刻
パチパチと物のはぜる音、窓という窓から吹き出す赤黒い火焔の舌、ムクムクと舞い上がる黒けむり、早くも棟の一部のくずれ落ちる大音響、パッと立ち昇る火の粉、森全体が白昼のように明るく、立ち並ぶ木の幹が、みな半面を朱に染めて、クッキリと浮き上がってみえた。
「ウム、やつらは罪跡をくらますために、自分で火をつけたのだ。もう
おもだった警官の命令に、一人の警官が懐中電燈をふり照らしながら、
残った人々は、火焔を遠巻きにして、怪屋の周囲をグルグル歩きまわり、怪しい人影もやと眼をくばったが、悪人たちがその頃まで現場にうろうろしているはずはなく、あかあかと照らし出された森の中には、なんの怪しいけはいもなかった。
かくして、恩田父子は、殺人罪目撃者に逃げ出された窮余の一策、わが
彼らが処罰を恐れて姿をくらましたことは言うまでもない。だが、いかに処罰を恐れたからといって、あの血に飢えた獣人が、これ限りその
神谷は果たして安全でいることができるであろうか。たとえ彼自身の生命は安全であっても、何かしらそれ以上に彼を苦しめ悩ますようなことが起こりはしないであろうか。
また神谷のがわからいえば、恩田父子は、憎んでも憎み足りない
神谷芳雄が、かつてなにびとも経験しなかったような、奇怪
その当座は、あまりにも
だが、時の力は恐ろしい。月日の流れは、いかなる悲しみも、恐れも、
その後、人間
神谷の
それというのが、神谷には新しく、第二の恋人ができたからだ······いや、彼の薄情を責めてはいけない。彼がその人を恋したのは、実はかつての弘子を忘れねばこそであった。
そのころ都では、相対立する二大レビュー劇場が、あらゆる興行物を圧倒して、若人の人気を独占していた。その一方のレビュー団の女王と讃えられる歌姫に、江川蘭子という美しい娘がある。
日本人向きの色っぽい声、ずば抜けて美しい顔、全都の青年男女を夢中に
それまではレビューというものにほとんど興味を持たなかった神谷が、ある日なにげなく演芸画報のページを繰っていたとき、江川蘭子の大写しが、ハッと彼の注意を
彼は
歌姫江川蘭子には、かつての弘子の、あらゆる美しさ、あらゆる魅力が、十倍に拡大されて備わっていた。神谷の生得のあこがれについて、弘子はその影、蘭子こそ、やっと見つけたその本体ではないかと思われた。
神谷は多くの青年たちの競争者として、蘭子を誘い出して一緒にお茶を飲むことを楽しんだ。二人きりのドライブも、二度三度と度重なっていった。もう青年たちは、神谷の敵ではなかった。
神谷は醜い青年ではなかった。会社員とはいえ、前途を約束された重役の
神谷はもう、彼女のフィアンセのごとく
彼にとって、今の蘭子は、いわば昔の弘子の再生であった。それゆえに、弘子のことは、忘れねばこそ思い出しもしなかったのであるが、それと一緒に、あの人間獣恩田の恐ろしい記憶までが、ひとしお薄らいでしまったのは、不思議なほどであった。彼は今では、そういう怪物がこの世にいたということが、何か
時は花咲く春であった。人は恋を得て、心も空に浮き立っていた。だが、咲きほこる花の
「ゆうべはどうして、僕をすっぽかして帰ってしまったんだい。あんなに約束しておいたのに。楽屋番のおじさんにすっかり恥をかいてしまったぜ」
その翌日、神谷が違約をなじったとき、蘭子はこんなふうに答えたのだ。
「あなた、からかっていらっしゃるの。それとも、そんなに忘れっぽくなってしまったの。あたしちゃんと送っていただきましたわ。それはそうと、あなたはゆうべ、車の中で、どうしてあんなにだまっていらしったの。少しばかり変なぐあいだったわ」
「えっ、僕が君を送ったって? それ、ほんとうかい。おとといの思い違いじゃないのかい」
神谷はびっくりして聞き返した。
「あら、それじゃ、あれ、あなたじゃなかったの? でも······」
なんだか、ちっとも物を言わないで変なぐあいではあったけれど、いつも神谷にするように話しかけると相手はそれに受け答えをしたのだし、別れる時には、いつもの通り、恋人同士の長い握手をさえかわしたではないか。あれが神谷でなかったとすると······
「そんなこと言って、あたしを
いくら念を押しても、神谷の答えは変らない。
「まあ······それじゃ、あれ、いったい誰だったのでしょうか」
蘭子はふと底知れぬ恐怖にとらわれて、みるみる青ざめて行った。
はじめて見る彼女の恐怖の表情が、当然とはいえ、なき弘子のそれと生き写しであったことが、神谷をギョッとさせた。そして、自然の順序として、かつて弘子をそのような表情にまで
「君は、その男の顔を見なかったの? 顔も見ないで僕ときめてしまったの?」
「ええ、でも、あなただって、お別れする時まで、ずっとお面を取らないでいらっしゃることもあるんですもの······もし少しでも疑えば、その人のお面をとってみるんだったけれど、あたし、あなたとばかり思い込んでいたもんだから······」
ああ、なんてくだらないものがはやり出したのであろう、「レビュー仮面」なんて。あんなものが流行するばっかりに、こんな間違いも起こるのだ。
「レビュー仮面」。まったくそれは奇態な流行であった。
人間というやつは、昔々から、生れついた
その人間の弱点につけ込んで、考案されたのが「レビュー仮面」である。はじめは不良青年か何かが、気まぐれに、おもちゃのお面をかぶって、レビュー劇場の客席にはいったのがきっかけであった。一人まね、二人まね、チラホラと仮面見物が人の眼を
若い見物たち、
今や「レビュー仮面」は時の
大劇場の観客席は、階上も階下も、まったく同じ表情をした、仮面の群衆によってうずめられた。見物席の何千人というお
その上、「レビュー仮面」の表情というものが、又、実に巧みにできていた。それは、お
お面の流行が、劇場内の空気をほがらかにしたことは非常なものであった。舞台の踊子たちは、いつもえがおを絶やさなかった。それに呼応するように、何千人の見物が、まったく同じ笑顔でニコニコと笑っているのだ。舞台も見物席も、別天地のように明るくなった。お面の
いや、そればかりではない。劇場内の「レビュー仮面」は、やがて徐々に街頭に進出しはじめた。
銀座の夜をそぞろ歩きする過半の人々が、同じ笑いの表情に変って行った。電車の中も、地下鉄の中も、同一表情の男女によってうずめられた。大げさにいえば、東京じゅうが、同じセルロイドの顔でニコニコと笑い出したのである。
そういう流行が
前章の、江川蘭子が、まったく見知らぬ男と車を共にし、握手までかわしたという
「くだらないお面なんかがはやるもんだから、そういういたずらを思いつくやつが出てくるんだ。君、よっぽど注意しなくちゃだめだぜ。もしそいつが悪人だったら、握手ぐらいですみやしないんだから。これからは、充分僕だってことを確かめてから車に乗るんだぜ」
神谷は、もしや獣人恩田の
蘭子も、すっかり
「ラン子、今夜は家へ帰る前に、ちょっと寄り道をしようね」
蘭子が神谷と信じていた、その仮面の男が、暗い車内で、風を引いたような声で言った。
「ええ、でも、どこへ寄るの?」
「ウン、じき近くだよ。ちょっと君を驚かせることがあるんだ。むろん、
「そう、なんでしょうか。思わせぶりね」
「ウン、ウン、思わせぶりさ。フフフフフ、君、きっと驚くぜ」
蘭子は、やっと男の声がいつもと違っているのに気づいた。
「あら、あなた、風引いたの。声が変よ」
「ウン、春の風だよ。陽気があんまりいいんで、風を引いちゃった」
「あなた、だあれ?······神谷さんなんでしょうね」
「ハハハハハ、何を変なこといってるんだ。きまってるじゃないか。それとも誰か、ほかにも迎えにくる人があったのかい」
「そのお面、取ってくださらない。気味がわるいわ、ニヤニヤ笑っていて」
「ウン、これを取るのかい。取ってもいいよ。だが、ちょっと待ちたまえ。君に見せるものがあるんだ。ほら、これ、君に上げるよ」
男は言いながら、ポケットから小さなサックを取り出して、パチンと
「まあ、美しい。これ、あたしにくれる?」
レビュー・ガールは
「ウン、
「ええ、受けたげてよ。ありがと」こみ上げてくる
「いいや、これはつまりプレリュードなんだ。ほんとうに君をアッといわせるものは、まだ別にあるんだよ。大切にあとまで取っておくんだよ」
そんな会話のあいだに、車はいつしか、劇場から程近い
あらかじめ言ってあったものとみえて、仮面のままの男を怪しみもせず、女中が案内したのは、奥まった六畳と四畳半の小座敷である。
気取った塗り物の円卓を中にはさんで、座につくと、やがて運ばれるお茶、お菓子、そして、お酒。だが、男はまだ仮面を取ろうともしないのだ。
「ここ待合でしょう。おかしいわね。あたしこんな服なんかで、変でしょう」
断髪洋装のレビュー・ガールと待合の小座敷とは、いかにも変てこな取り合わせであった。
「ウン、そんなことどうだっていいよ。さあ、さっきの指環お出し、僕がはめて上げるから」
「ええ」
蘭子はいわれるままに、その指環のサックを差出したが、ふと心づいて、
「あら、まだお面かぶっていらっしゃるの。お座敷の中でおかしいわ。取ったげましょうか」
「まあ、いいから、手をお出し、指環の方を先にしよう」
男の薄黒い毛むくじゃらの手が、ニュッと伸びて、蘭子の左手を
「いけない。放してください。あなた誰です······神谷さんじゃない······早く、早く、そのお面を取って、顔を見せてください」
「ハハハハハ、そんなにせき立てなくたって、いま見せてあげるよ。ほら、君とエンゲージした男っていうのは、つまり僕なのさ」
片手では、もう指環をはめてしまった蘭子の手をグッと握ったまま、一方の手で、「レビュー仮面」をむしり取った。その下から現われたのは、蘭子には初対面であったけれど、まぎれもない人間
「ハハハハハ、ずいぶん苦労をしたもんだよ。神谷君とそっくりの服を注文したり、髪をオール・バックにしたり、声を作ったりさ。だが、君がエンゲージ・リングを受けてくれたので、僕はやっと安心したよ。まさか君は、その指環を返そうとはいうまいね」
蘭子は恩田の恐ろしさをまだ知らなかった。ただ、なんとなくいやらしい男と感じたばかりだ。
「あたし、人違いをしましたの。これをお返しします。そして、もう帰りますわ」
彼女は指環を抜いて卓上に置き、いきなり立ち上がって帰りそうにした。
「だめだめ、その
「じゃあ、あたし、ベルを押して、ここの女中さんを呼びますわ」
「呼んだって来やしないよ。君が少しぐらい大きな声を立てたって、誰もこないことになっているんだ」
蘭子は青ざめた顔をゆがめて、もう泣き出しそうになっていた。
「まあ、いいから、そこへ
恩田が彼女のそばへ寄りそって、肩に手をまわして、グッとおしつけると、蘭子はクナクナと
恩田の大きな両眼は、渋面を作った少女の顔を、
蘭子はその時はじめて、この男が普通の人間でないことを悟った。けだものだ。人間の形を借りた猛獣だ。
あまりの恐ろしさに、もう気力も尽きたかと感じたが、しかし、こんな野獣の
「いけません。あたし、どうしても帰ります」
「だが、僕は帰さないのさ」
野獣が人間の言葉で
「ね、ラン子、僕は執念深いのだよ。一度思いこんだら、君がどんなに逃げまわっても、どんなに警戒しても、結局目的を達しないではおかぬのだよ。よく考えてごらん。君は命が
言いながら、彼の熱い
ゾーッと、からだじゅうの
メリメリと恐ろしい音がして、襖に穴があいた。
蘭子は無理やりにそこを押しくぐって、廊下にころがり出した。
「誰か、助けてください」
悲鳴を聞きつけて、女中たちが
結局、獣人恩田の企ては失敗におわった。彼はレビュー・ガールというものを、甘く見すぎていたのだ。
それが案に相違して、蘭子の勢いがあまりに
さっそく、浜町の待合が取調べられたことはいうまでもない。しかし、その待合は恩田とはなんのかかり合いもないことがわかった。恩田の名も、彼の住所さえも知らなかった。
それから五日ほどは、別段のこともなく過ぎ去った。恩田はどこともしられぬ彼の
それにしても、なんという
いやいや、そうではないかもしれない。恩田父子が神谷を
思いめぐらせば、めぐらすほど、人間獣の奥底知れぬ執念に、神谷は心も凍る恐怖を感じないではいられなかった。
今にも、今にも、あいつは必ず再挙を企てるに違いない。蘭子から眼を放してはいけない。
命をかけても恋人を守らなくてはならぬ。願わぬことながら。彼は敵の襲来を疑うことができなかった。
すると、果たして、浜町の事件があってから六日目の夜、人間
その時、レビュー劇場の舞台では「
十数人のコーラス・ガールの中に、ひときわ美々しく着飾って、声も顔も
見物席は先にもいう仮面時代、満員を通り越した大群集の、顔という顔が、判で押したように、まったく同じ笑い顔であった。その仮面の下から、太い声、甲高い声、種々さまざまの声援が、舞台の歌を消すほどのすさまじさで、ただ一人、江川蘭子に集中していた。
蘭子得意の場面である。
彼女はしずしずと、コーラス・ガールの列を離れ、舞台の中央に進みいで、手に持つ
それが彼女の人気の源となったところの、甘くて
見物は、あまりの不思議さに、しばらくは静まり返っていた。まったくその意味を了解することができなかった。もし天勝の舞台なれば、さして不思議がることはなかった。「消え失せる花売娘」という大魔術であったかもしれないからだ。
だが、レビューの台本に、歌いもおわらぬ歌姫が、かき消すごとく見えなくなってしまうなんて筋書のあろうはずはなかった。
「これはただごとではないぞ」
見物たちの頭に、何かしら恐ろしい予感がひらめいた。
だが、見物たちよりも、
ふと気がつくと、彼女のまわりから舞台も見物席も消えうせて、そこはじめじめと薄暗い穴蔵のような場所であった。
ああ、わかった。どうかした拍子に、せり出しの板が落ちて、
では、そんなつまらないいたずらをしたのは、いったい誰であろう。
蘭子はとっさにそれと悟って、
せり出しの板がおりきってしまったとき、そのうちの一人が、幽霊のように彼女の身辺に近づいてきた。ああ、あいつだ。
舞台の下に、このような悲劇が行なわれているとも知らず、見物は身動きもせずおしだまっていた。この次には、どんな恐ろしいことが起こるのかと、手に汗を握って静まり返っていた。
すると、果たして、どこからともなく、絹を裂くような悲鳴が、場内一杯に響きわたり、その末は細く細く糸のように消えて行った。蘭子が何かしら恐ろしい目にあっているのだ。
見物席は、階上も階下も総立ちになった。
その夜、大都劇場の観客は、かつて彼らを
その大芝居の主役は人間豹と江川蘭子、
血のグランド・レビュー、序曲は、江川蘭子
彼らは
そうして、見物席と舞台とが異様な静寂にとざされていたあいだに、舞台下の
奈落には幾つもの出入口があったが、恩田が目ざすのは、劇場裏手の空き地に抜けている通路であった。彼は道具方を買収して、そこのドアの
彼は蘭子の両足を、コンクリートの床に引きずりながら、走りに走ってドアに達した。そして、ドアに手をかけ、一、二寸ひらきかけたかと思うと、彼はハッとしたように又それを閉めてしまった。
ああ、なんということだ。いったい何が起こったのだ。いつも
恩田はもときた道をまた走り出した。そして、電動室の前までくると、そこのおぼろな電燈の下に、彼が買収した道具方の男が立っていた。
「どうしたんです。どこへ行くんです」
その男が恩田の狂乱のようすを見て、驚いて尋ねる。
「だめだ。あっちからは出られない」
怪人があえいだ。
「アッ、いけねえ。お聞きなさい、あの足音を。人が来たんだ。一人や二人じゃねえ。早く逃げなくっちゃ」
「だが、どこへ? どこへ逃げればいいんだ」
「だめです。逃げ道なんかありゃしない。あの裏口のほかは、どっちへ行ったって人の山だ」
「じゃあ、君、頼む、上の配電盤室へ行って、電燈を消してくれたまえ。この建物を暗闇にしてくれたまえ。その間に、おれは見物席へまぎれ込むから。お礼は約束の三倍だ」
最後の手段であった。
「よし、引き受けた。早くこちらへお逃げなさい。舞台裏への近道だ」
男は言い捨てて、先に立って
舞台ではコーラス・ガールの花売娘たちが、一か所にかたまって、恐怖におののいていた。見物席は総立ちになったまま、不安にざわめいていた。
「幕だ、幕だ」
どこかで叫ぶ声が、かすかに聞こえてきた。だが、どうしたことか
すると、突然舞台が
「ああ、幕の代わりに照明を消したんだな」と思う間もあらせず、再びパッと明るくなった。そして、今度は客席の電燈という電燈が、一時に消えてしまった。
舞台裏から、意味のわからぬ数人の怒号が、入りまじって響いてきた。
たちまち客席が昼のように明るくなった。舞台効果のために消してあった電燈までが、ことごとく点火されたのだ。
そして、次の瞬間には、建物全体の電燈が、稲妻のように、無気味な
静まり返っていた見物席に、恐ろしい
電燈がパッとついたときには、何千という人間が、まったく同じニコニコ顔で笑っていた。そのえがおの下から、怒り、
やがて、物の怪のような光の明滅が、パッタリ止まったかと思うと、長い暗闇がきた。巨大な劇場全体が、舞台も、客席も、廊下も、死の暗黒に包まれてしまった。
見物席の怒号は一そう
不安に耐えきれなくなった気の弱い人々、婦人客などは、闇の中を、津波のように木戸口に向かって殺到した。踏みつけられて悲鳴を上げるもの、押し倒されて泣き叫ぶもの、
だが、しばらくすると、その騒擾のただ中に、再び場内は昼のように明るくなった。そして、もう無意味な明滅は繰り返されなかった。
ふと見ると、まばゆい電光に照らし出された舞台に、異様な人物が立ちはだかっている。
乱れた頭髪、ドス黒い顔に異様に輝く両眼、まっ赤な
「あいつだっ、あいつが犯人だっ、蘭子をかどわかしたやつは、あの男だっ」
突如として、見物席の中に、つんざくような叫び声が起こった。一人の青年が、例の仮面をつけたまま客席の通路を舞台目がけて、風のように走っていた。走りながら、なおも叫びつづけた。
「諸君、こいつが、有名な人間
それは、見物のあいだにまじって、愛人江川蘭子を見守っていた神谷青年であった。先には弘子を、今またこの新しい愛人を、けだもののために奪われようとして、半狂乱となった神谷芳雄であった。
恩田は何事かに手間取っていたために、
しかも眼の前には、彼を指さし、彼の正体をあばき立て、彼の旧悪をどなり散らしながら、
人間
横に逃げられないときまれば、縦に逃げるほかはない。彼はついに豹の本性を現わして、舞台の額縁の柱の裏がわを、すさまじい勢いで、
人間
舞台の上方、
人間豹はそれらの棚や竹竿を伝わって、舞台中央の天井まで逃げおおせることができた。彼はそこの照明棚にうずくまると、古いお芝居の化け猫そっくりの
「誰か、あいつを捕えてください。あいつはきっともう蘭子を殺してしまったのです。殺人鬼です」
神谷が舞台に飛びあがって、悲痛な声で叫ぶ。
場内にいあわせた二人の警官が
「おい、誰かあそこへ登る者はないか」
道具方の兄いの中から、腕っぷしの強そうな、
「あっしが行きましょう。向こうの
彼は人々をかき分けて、梯子のところへ飛んでいった。さすがに慣れたものであった。彼は人間豹にも劣らぬすばやさで、垂直の梯子を
客席からは、一文字幕が邪魔をして、この絶好の活劇を見ることはできなかったけれど、その幕が
天井で雪紙の
雪ばかりではない。レビューの最終場面に用意してあった金と銀との幅広いテープがキラキラと輝きながら、一本、二本、三本、ほどけて天井から垂れ下がってくるかと見る間に、たちまち、
背景も、舞台上を右往左往する人々も、
舞台には、降りしきる雪紙が、いつかうず高くつもっていた。ふと気がつくと、その雪の上に、雨滴のようにポトリポトリと、したたっているものがあった。まっ赤な雨であった。したたるたびに、雪紙はみるみる血の色ににじんで行く。
「アッ、やられたっ。血だ、血だ」
人々は
天井では、
若者はもう死にもの狂いであった。このままじっとしていたら、
彼は、息も絶え絶えに
さすがの怪物も、この捨て身の不意打ちに抗する力はなかった。なんとも形容のできない悲痛な咆哮が天井にこだましたかと思うと、組み合った二人のからだは、降りしきる雪紙の中を、
だが、野獣は生来身軽である。
一方、殊勲の若者は、不幸にも、けだものの身軽さには敵しがたく、相手の下敷きとなって、グッタリと横たわったまま、身動きさえしなかった。その
「それっ、逃がすなっ」
舞台の人々は、立ちあがった恩田を目がけて、一とかたまりになって突き進んだ。
名状しがたき混乱、倒れた一人の上に、
「さあ、
叫び声に、人の山がくずれた。
見ると、そこに、五色の雪紙にまみれて、一人の仮面の男が、もう一人の仮面の男を組み敷いていた。
組み敷いたのは神谷芳雄だ。組み敷かれているのは人間
「仮面を! 早く仮面を取ってください」
両手のふさがった神谷が、かたわらの人に呼びかける。
「よし、おれが取ってやろう」
一人の若者が、下敷きになってもがいている男の顔に飛びついて、笑いの仮面をはぎ取った。
「アッ······」
たちまち起こる
「人違いだ。これは恩田じゃない」
神谷青年は、飛び起きて、キョロキョロとあたりを見まわした。
道具方やコーラス・ガールを除いては、どれもこれも、仮面の人々だ。それらの仮面が、本人たちの意志に反して、さも神谷の失敗を
「皆さん、仮面を取ってください。犯人はあなたがたの中に混っているのだ。早く、仮面を取ってください」
神谷の叫び声に、人々は急いで顔に手をやった。仮面さえはずしてしまえば、もうしめたものだ。人間豹は、この舞台の群集の中に混っているのは間違いのないことなのだから。
だが、ああ、その時、今一瞬にして怪人を発見
「みなさん、仮面を取ってください。
劇場の係り員が、大声でどなった。何千という見物たちの型にはめたような一様の笑い顔が、たちまち消えて行った。そして、取り去られたお面の下から、老幼男女、美醜さまざまの
人々はお互いに隣席の人物を、疑い深く
劇場全体を、死の静寂が占領した。人々は、今にもワーッと叫んで、逃げ出したい気持で一杯になりながら、しかし逃げ出す気力さえもなく、棒立ちになったまま身動きもしないでいた。そして、幾千という眼が、ただ眼だけが、極度の恐怖に
だが、客席にも、舞台にも、舞台裏にも、あの特徴のある恩田の顔は、まったく見出すことができなかった。
やがて近くの警視庁から
レビューは開演なかばにして中止するほかはなかった。満員の見物たちは、木戸木戸に立ち並んだ警官に、不愉快な首実検をされて不平たらたら帰り去った。
見物が一人もいなくなると、再び入念な捜索が繰り返されたが、やっぱりなんの得るところもなかった。どの出入口から逃げ去ったという見当さえ、まったくつかなかった。
一時間以上のむだな努力の後、警官たちは
こういう事のあったあとだからというので、
彼らは楽屋口に近い、畳敷きの部屋に一とかたまりになって、
「おいらあ、どうも、あいつがまだ、この小屋ん中のどっかの隅っこに、隠れているような気がしてしようがねえんだがね」
「よせやい。おどかしっこなしだぜ。あれほど探していなかったんだもの、
すると三番目の男が首をかしげながら、
「ウン、だが、どうとも言えないね。なにしろ芝居の舞台裏や
また別の一人が、
「もし隠れているとすりゃ、奈落だぜ。ほら、あん時、みんなしてやつを
議論は容易に尽きなかったが、話せば話すほど、七人の者はだんだん、人間
ほかのどんな建物より、空っぽになった劇場ほど、異様に
「それはそうと、君、あいつがまだ小屋の中にいるとすると、蘭子はどうしたんだろう」
「むろん、一緒にいるだろうじゃねえか」
「生きてかい?」
誰も答えるものはなかった。人々はギョッとしたようにだまり込んで、不安な眼を見かわすばかりであった。
そうだ、けだものは、あの美しい女優を殺さなかったとは言えないのだ。どこかその辺の
「アーアー、いやだいやだ。おい、みんな、そんな話は
誰かがやけに大きな声を出した。
「シッ······ちょっとだまって」
すると隅っこにいた一人が、突然恐怖に
「あれはなんだろう······ほら······君たちには聞こえないのかい······あの声」
思わず澄ます一同の耳に、どこか遠くの方から、かすかに、かすかに、女の悲鳴らしいものが聞こえてきた。
「おい、あの声、蘭子じゃねえか」
「ウン、そうらしい。どこだろう」
気早やの若者たちはもう立ち上がっていた。
「
「いや、舞台裏かもしれない」
「おい、みんな、行ってみよう」
人々はドカドカと廊下へ出て、
道具建てを取りかたづけた舞台の上は、原っぱのように広々としていた。高い天井から裸電燈が幾つか下がっている。開演中の照明とは違って、公園の常夜燈みたいに、薄暗くたよりない感じだ。
廻り舞台の大きな二重円形が、まる出しに見えている。その両側の道具置場には、幾筋かの細い通路を残して、書き割、さまざまの張り物、
両人は廻り舞台のまん中に立って、どこを探したものかと、しばらく
「アワワワワ」というようなかん高い声が、何かに
「おい、やっぱりここだぜ」
「ウン、あっちの方から聞こえてきたようだね」
二人は足音を盗んで、それとおぼしき道具置場の細い通路へはいって行った。
「こいつあ、どうもキテレツだわい。確かに、この辺から聞こえてきたんだがなあ」
「だまって。相手に聞かれちゃいけねえ。しばらくここで待ってみようじゃねえか」
二人はささやきかわしながら、その細くて薄暗い通路にしゃがんだ。
彼らのうずくまったすぐ前には、藪畳が三枚ほど立てかけてあって、その奥に、
「おや、今なんだかガサガサって音がしたじゃねえか」
「
「鼠なもんか。どうやら、この辺が
突然、彼らはハッと息を
「オイ、見ろ、あの中が怪しいぜ」
「ウン、そうだ、用意はいいか」
「やっつけろ!」
二人の眼が、そういう意味を伝え合った。そして、呼吸が
軽い張子のお釈迦さまは、
まっ黒な人影が、スックと立ち上がって、こちらを
恩田の足元に、肌も
道具方と
長いあいだ無言の睨み合いがつづいた。
「お前たち、二人っきりか」
異様に陰気な声が響いてきた。人間豹が物を言ったのだ。
「何をっ!」
鳶の者が、虚勢を張って、これも低い声で応じた。
「お前たち、おれの力を知らないのか」
怪人は、両手で空を
「
「オーイ、早く来てくれえ、
組みつきながら、二人は声々に、
人とけだものの格闘であった。無気味な
二人と一人ではあったけれど、人間はけだものの敵ではなかった。いつの間にか、恩田の鋭い
「どこだ、どこだ」
「あ、あすこだ。あすこに掴み合っている」
ドカドカと、大勢の足音が近づいてきた。奈落に降りていた若者たちが、さいぜんの叫び声を聞いて
いかな猛獣とて、七人もの若者を向こうに
「逃げたぞ、出入口を用心しろ」
「誰か警察へ電話をかけろ」
一人が電話室へ走って行く、残る人々は
「おい、みんなどこかへいなくなったじゃねえか」
さいぜんの
「ウン、この広い小屋の中を、これっぽっちの人数じゃ無理だよ。もう止そうぜ。あとはお巡りさんにお任せしちまおう」
「そうだな、じゃあ、おれたちは蘭子を向こうの部屋へ連れてってやろうじゃねえか。
「ああ、それがよかろう」
彼らは書き割のあいだを取って返して、グッタリとなった蘭子のからだを、両方から抱きかかえ、道具置場を出ようとした。
「おや、変なものが落ちているな。いったい誰がこんなところへ、持って来やがったんだろう」
道具方の若者が、足元の
「こいつあ、一幕目に着て出るやつだね、縫いぐるみっていうんだろう。いつもここいらにおっぽり出してあるんじゃねえか」
「いや、そうじゃねえ。これは衣裳部屋にしまってあるんだからね。こんなところへ来ているのはおかしいよ」
「今夜の騒ぎで、誰かがウッカリ持ち出したんじゃないかい」
「ウン、そんなことかもしれない」
二人はなにげなくそこを通り越して、楽屋口への暗い廊下を、エッチラオッチラ歩いて行った。
すると、実に奇妙なことが起こったのだ。藪畳がガサガサと鳴ったかと思うと、今までその下敷きになっていた、虎の縫いぐるみが、ムクムク動き出したではないか。
無心の
やがて、縫いぐるみの
本物の毛皮を使った、
二人のものが元の日本間にはいって、その辺を取りかたづけ、蘭子の寝床を作っているあいだに、虎は部屋の前をソッと通りすぎて、俳優の
しばらくすると、楽屋口の大戸のそとに、大勢の
「どなたですい? もしや警察のお方では······」
大きな声で尋ねると、そとからは警視庁のものだという返事があった。若者は掛け金をはずして、ガラガラと大戸をひらいた。
「あいつが見つかったそうだね。どこにいるんだ。早く案内したまえ」
十人あまりの警官が、ドッとなだれ込んできて、若者に
「まあ、どうかこちらへ」
若者が先に立って、蘭子の寝ている部屋へ案内する。おまわりさんたちは、ドヤドヤとそのあとについて行った。
「おい、こんな所に
一人の警官が、
「おや、おや、またこんなところに落っこちていやあがる。変だなあ······なあにね、こりゃ舞台で使う縫いぐるみですよ。
若者も冗談を返した。
だが、その言葉が終るか終らないに、作りものの
「ワア······」
さすがのおまわりさんたちも、驚きの叫び声を立てないではいられなかった。彼らは廊下の隅に
「ハハハハハ、ざまあ見ろ」
どこからか
そして、
「あいつだ。あいつが縫いぐるみを盗み出して、途方もない変装を思いつきやがったんだ。早く、追い駈けてください。あいつが
道具方がわめいた。
警官たちは、ソレッとばかり、戸口に殺到した。
戸外には氷のような月光が
警官たちはときの声を上げてそのあとを追った。だが、虎の逃げ足は恐ろしく早かった。みるみる追うものと追われるものの距離が隔たって行く。そして、月光の町を幾曲がり、いつしか
「おい、あれは、やっぱりほんとうの虎かもしれないぜ。人間が四つん
警官たちは、不思議な夢をでも見たように、
その夜、神谷芳雄は、大都劇場を見物たちが残らず立ち去ったあと、警官の捜索が終るまで居残って、手に汗を握るようにして、その結果を待っていたが、人間
失望に眼もくらんで、どこをどう歩いたとも知らず、それでも無事にわが家にたどりつくと、出迎えた女中に物もいわず、家人に
ああ、なんということだ。悪魔はまたしても彼の恋人を奪い去ったのだ。いずれは蘭子も、かつての弘子と同じ目にあうのであろう。いや、ひょっとしたら、彼女はもう生きてはいないかもしれぬ。
手も足も離れ離れに血みどろになった、ゾッとするような幻影が、まざまざと
「おれはどうしたらいいんだ。
血のにじむほど
「あいつにかかっては、警察でさえ、手も足も出ないではないか。それを、このおれに、どうすることができるというんだ。相手は人間ではない、一匹の野獣だ。その野獣がおれの
彼は
やがて、疲労のあまり、ついウトウトとしかけると、そこには恐ろしい悪夢が待ち受けていた。彼の眼の前に、白い蘭子の肉体と、骨ばった人間
コトコト、コトコト、いつまでもつづく妙な物音が、ふと彼の眼をさました。風かしら、いや、風ではない。誰かが庭から窓の雨戸を
「誰だっ」
どなりつけても、答えはなくて、音はやっぱりつづいている。
神谷は
だが、雨戸をくって、ヒョイとそとを
そこには、降りそそぐ月光を背に受けて、思いもよらぬ恐ろしい物の姿が、じっとこちらをうかがっていたのだ。
そのものの
神谷はあまりに意外な動物の出現に、恐れるよりは、あっけにとられてしまった。いつか、動物園の
だが、妙なことに、この虎は、人間とそっくりに雨戸をノックする術を心得ていた。それに、こいつはなぜ後脚で立ち上がっているのだろう。
「アハハハハハ、驚いたかね」
突如として、
神谷はそれを聞くと、心底からたまげてしまった。夢にしてもなんという変てこな夢であろう。
「神谷君、君はこの声を忘れたかね。忘れるはずはないんだがね。思い出してみたまえ、ほら、一年ほど前、カフェ・アフロディテで、君がはじめて聞いた声だ」
虎が陰気な声でしゃべりつづけた。
わかった、わかった、こいつは人間
「だまっているね。おれの名を口に出すのが、君は
そこまで聞くと、神谷は、すべてを了解することができた。こいつは芝居に使う虎の縫いぐるみをかぶっているのだ。そういう変装をして捜索の眼をのがれ、劇場を抜け出してきたのに違いない。
「き、貴様、蘭子を、どこへ隠したのだ」
神谷は精一杯の気力をふるい起こしてきめつけた。
「隠しやしない。蘭子は、もうちゃんと自宅へ帰っているよ。どっさり護衛がついてね。君はその
「それはほんとうか」
「ほんとうとも。ほんとうだからこそ、ちょっと君に警告するために、やってきたんだよ。なに、じき帰るから心配しないでもいい。ここで君を
虎は月光に
「だが、そんなことよりも、君自身もう少し用心しなくてもいいのかね。たとえば、いま僕が大声で助けを求めたら、君の方が危なくはないのかね」
神谷はだんだん大胆になっていた。
「ウフフフフ、大声を立てるんだって? 君はそんなことできやしないよ。家族の命が惜しいだろうからね。もしここへ誰かが飛び出してきたら、おれは容赦なく掴み殺してしまうぜ」
「いったい貴様は僕になんの用事があるんだ」
「おお、そうそう、すっかり忘れていたよ。蘭子のことさ。おれは一度失敗したくらいで、あの女を
言い終ると、彼は突然四つん
神谷は全身脂汗に
その夜は、まんじりともしないで、夜の明けるのを待って、彼は江川蘭子の自宅へ出かけていった。
蘭子は無事であった。床についてはいたけれど、それはゆうべの激動に熱を出したまでのことであった。
神谷はなにかと彼女を慰めながら、縁側の向こうの狭い庭を
彼はそこにゾッとするようなものを見つけたのだ。庭の土の上に、彼の家の庭に残っていたのと寸分違わない、大きなけだものの足跡が、三か所ほど、ハッキリと印せられていたのであった。
中庭に面した六畳の座敷に、蘭子と、蘭子のお母さんと、神谷とが、怪しい足跡におびえて、顔を見合わせていた。
「神谷さん帰らないでね。あたしお母さんと二人きりじゃ、とても
ゆうべの激動のために、病人みたいに青ざめている蘭子が、
「いいとも、僕は当分会社なんか休んで、君の護衛を勤めるよ。それはいいけれど、変だなあ。あいつは、わざわざここまできて、何もしないで帰ったのかしら。お母さん、ゆうべ何か変ったことでもありませんでしたか」
神谷が尋ねると、蘭子の母は、オドオドしながら、まるで内しょ話みたいな低い声で答えるのだ。
「ちっとも気がつきませんでしたよ。でも、あれからずっと刑事さんが二人も、この部屋に詰めきっていらしったのですよ。そして、昼間は危ないこともあるまいとおっしゃって、つい今しがたお帰りなすったばかりなのです。いくらあいつでも、刑事さんがいるとわかっては、手出しができなかったのでございましょう」
「ああ、そうでしたか。それはいいぐあいでした。もし刑事がいなかろうもんなら、今度こそ取り返しのつかないことになっていたかもしれません。じゃあ、あいつ、雨戸のそとから立ち聞きしただけで、スゴスゴ引っ返したのですね」
神谷は言いながら、じっと庭を
「お母さん、ちょっと、あれをごらんなさい」
彼はまるで、すぐ近くに人間
「あの足跡をよくごらんなさい。縫いぐるみのこしらえもんだけれど、足跡の前うしろはちゃんとわかるようにできています。あの足跡、みんなこちらを向いているじゃありませんか。向こうむきのは一つもないじゃありませんか」
「おや、そうですわね。どうしたんでしょうか」
お母さんは、まだその恐ろしい意味に気がつかない。
「つまり、あいつは、
「まあ!」
蘭子とお母さんとは、ゾッとしたように顔を見合わせた。
「あたし
「
神谷は言いながら、縁側に出て、オズオズと縁の下を
「いるの? 縁の下に」
蘭子たちはもう中腰になって、まっ青な顔で逃げ
いたのだ。縁の下の奥の薄暗い地面に、一匹の
神谷は一瞬間ためらっていたが、
「恩田、出てこい、
だが、神谷の意気込みにもかかわらず、
眠っているのかしら、いや、そんなはずはない。変だぞ。ああ、そうだ、もしかしたら······
神谷はそこに落ちていた棒切れを拾って、思いきって、縁の下の虎を突いてみた。動かない。妙にクナクナした
「なあんだ。皮ばかりじゃないか。あいつ、こんなところへ虎の縫いぐるみを脱いで行ったんですよ。大丈夫、逃げなくっても大丈夫です」
彼は座敷の二人を安心させておいて、その虎の皮を縁の下から引きずり出した。
「これですよ。ごらんなさい」
「でも、神谷さん。あいつはそれを脱いでから、いったいどうしたんでしょう。やっぱり、どっかに隠れているんじゃない? そして、夜になるのを待っているんじゃない?」
蘭子は居たたまれないように、ソワソワしていた。
縁の下のもっと奥の方の、そとから見えない隅っこに、あいつは息を殺してうずくまっているのかもしれない。それとも、天井裏の
「神谷さん、お気の毒ですけど、すぐ近くに公衆電話がございますから、このことを警察へお知らせくださいませんか」
お母さんに言われるまでもなく、神谷もそれを考えていたところであった。彼はさっそく公衆電話へ飛んで行って、警視庁と大都劇場事務所とへ、事の次第を知らせた。
やがて、間もなく、捜査課の人たちがやってきて、蘭子の家の縁の下から天井裏に至るまで、厳重な捜索を行なったが、例の虎の皮と足跡とのほかには、なんの手掛りを発見することもできなかった。人間
警官が
午後になって、事件以来蘭子の劇場への送り迎えを命ぜられている熊井という柔道家の若い事務員がやってきた。それと引き違いに、賑やかな人たちは帰って行って、あとには、蘭子親子と、神谷と、熊井の四人だけが残った。
彼女は話の最中に、ふと聞き耳を立てて、まっ青になるようなことがたびたびであった。そればかりでない。しまいには、わざわざ立って行って、部屋の隅に背伸びをして、じっと耳をすましたりした。
「まあ、お前どうなすったの? 気味がわるいじゃないか」
母が
「聞こえるのよ。荒い息遣いが聞こえているのよ。きっとあいつは、あの天井板の上に潜んでいるんだわ。あたし、どうしましょう。ここの家にいるのは
「何をいってるんだ。それは君の気のせいだよ。天井裏から息遣いなんかが聞こえてたまるものか。なんにもいやしないよ。いるはずがないんだよ」
神谷は蘭子の
「一ばんいいのは、君が完全に
神谷が困惑していると、柔道家の熊井青年が、口を出した。
「僕はいまフッと思い出したのですが、いいことがありますよ。これならもう大丈夫ですよ······しかし、神谷さん、聞いてやしないでしょうか」
彼はささやき声になって、ソッと天井を
「大丈夫だと思うが、なんなら、
神谷も万一を気遣っていた。
「ああ、それがいい。じゃあ、お母さんに
熊井もたちまち賛成して、
蘭子の家を出て、細い通りを半丁ほど行くと、
「蘭子さん、あんた
熊井青年は実に
「そりゃできないこともないけれど、そうして、どうしようというの?」
蘭子は毎日の送り迎えで、この
「まったくお
「まあ、あたしご奉公するの?」
「ええ、そうですよ。うまい考えでしょう。あんたがいま知り合いのところへ逃げたんじゃあ、結局、恩田に見つかってしまうにきまっていますよ。そこを裏をかいてですね、敵の思いも及ばない大飛躍をやるんです。田舎娘に化けて、まったく関係のない他人の家へ奉公しちゃうんです。ねえ、神谷さん、どうでしょうね、この考えは」
神谷はハタと
「そいつは面白いね。なんぼなんでも、蘭子ちゃんが、女中奉公をしようとは気がつくまいからね······しかし、女中さんとなると、使い歩きをさせられるだろうが、そいつがちっと心配だね」
「いや、ところが、
「まあ、妙なご主人ね。年寄りのかたなの?」
蘭子も、この奇妙な話につり込まれて、だんだん乗り気になっていた。
「ところが若いのです。蘭子さんと同い年ぐらいでしょう。いや、ご心配には及びません。その主人というのは娘さんですよ。しかも片輪者なんです。顔に何か不具な
「お金持ちなんだね」
「そうですよ。ご存じかもしれませんが、高梨という高利貸の一人娘ですが、二、三年前に両親に死なれてしまって、今では一人ぼっちの
なんというお
「可哀そうだわね、なんだかそのお嬢さんとお話ししてみたいような気がするわ。ね、神谷さん、あたし思いきって、その高梨さんへ奉公しちゃいましょうか」
蘭子は孤独な娘さんへの好奇心も手伝って、ますます乗り気である。
「僕もそいつは名案だと思うね。ちっとばかり
神谷もこの奇妙な計画に一種の魅力を感じていた。
「そうなすっちゃどうです。あいつが捕まり次第、事情をうちあけて暇を取ってしまえばいいんだから。それと、お母さんが少し
熊井もしきりに勧めるので、結局思いきって、それを実行することに話がきまった。
「僕が送って行くといいんだけれど、それでは相手に悟られるおそれがある。神谷さんも、連れ立って行かない方がいいでしょう。心配だったら、それとなく監視する方法はいくらもあるんだから。僕が手紙を書きますよ。
熊井が具体的の方法を授けた。
そこで三人は一度家に帰って、蘭子のお母さんに、コッソリと相談の次第を耳打ちした。お母さんは最初は気が進まぬ様子であったが、こうでもしなければ怪獣の襲撃を逃れるすべはないと説かれて、
たちまち相談が一決すると、熊井は長い紹介状をしたためて蘭子に渡し、蘭子は着のみ着のままで、神谷にともなわれて家を出た。
途中たびたび自動車を変えて、蘭子の親友のSというレビュー・ガールのアパートに立ち寄り、そのお友だちを古着屋へ走らせたりして、すっかり変装を終った。人気女優江川蘭子は
「すてき、すてき、それじゃ誰が見たって、わかりゃしない。さすがにメーク・アップはお手のもんだね」
「まあ、
神谷とSとが、冗談まじりに蘭子の変装を批評し合った。
「さあ、僕はここでお別れだよ。君は一人でこのアパートの裏口を出て、田舎者らしく、タクシーを値切るんだね。そして、幾つも車を替えて、できるだけ
神谷は蘭子を部屋の隅に呼んで、ソッとささやくのだ。
「あたし、なんだか心細いわ。大丈夫かしら」
「大丈夫だとも、僕は別の車で、先方の家の前まで、君について行くよ。そして、君が無事に奉公するのを見届けて帰るよ。それから、何か急な用事ができたら、僕のうちへ電話をかけるがいい。僕はすぐに飛んで行ってあげるよ」
間もなくアパートを出たこの可愛らしい田舎娘は、神谷に言われた通り、自動車に乗ったり降りたりを、幾度もくり返して、築地の高梨邸に到着した。別の車に乗った神谷青年が、不思議な尾行をつづけたことはいうまでもない。
江川蘭子の
熊井青年が言った通り、その家はまるで
いったいどこからはいればいいのかしらと、見まわすと、門のかたわらのコンクリート塀に、小さな出入口がついているのに気づいたが、そこにも銅板を張りつけた引き戸が、さも厳重に閉まっていて、手をかけてみてもいっかなあきはしない。
やっとのことで、小さな呼鈴のボタンを探し当て、思い切ってそれを押すと、しばらくして、庭に人の足音が聞こえ、
あけてくれるのかと思うと、そうではない。扉の上部に、小さな
「あの、わたし、吉崎はなというものですが、熊井さんから、この手紙を持って行けといわれましたので」
蘭子がせいぜい、田舎風なアクセントで実直らしくいうと、今度は覗き穴から、ニューッと老人らしい手が出て、その手紙を
「よくわかりましたよ。お前、奉公しなさるのか。吉崎さんだね。よろしい、よろしい、さあこちらへおはいりなさい」
そして、引戸がガラガラとあいて、その向こう側に
老人のあとから、
「手紙で大体のことはわかったが、うちはお百姓なんだね。そして、お前さんは女学校を三年までやって中途退学した、というのだね。よろしい、よろしい。申し分なしじゃ。だがね、ここのご主人は、お前さんも聞いているだろうが、若いお嬢さんでね、少し気むずかしいご病人なのじゃ。今、お
老人は長い廊下の
「さあ、ここじゃ。お嬢さんは寝台の上に横になっておいでなさるのだが、そのお顔を見ようとしてはいけないよ。もっとも黒い
老人は注意を与えておいて、静かにドアをひらいた。
「お嬢さま、熊井に頼んでおきました、
老人がうやうやしく御意をうかがうと、部屋の中から、異様に甲高い、まるで笛のような声が、
「おはいりなさい」
と答えた。
まあ、なんて気の毒な声をしているのだろう。きっと
そこは十五畳ほどの洋間であったが、中央に丸いテーブルと、婦人用の飾り
「あたし、寝ていて失礼だけれど、勘弁してくださいね。
笛のようなお嬢さんの声が、薄絹の向こうからやさしく聞こえてきた。
蘭子は勧められるままに、老人と相対して、つつましく椅子にかけた。
「爺や、その人にあのことをよく話して」
お嬢さんは老人にこの娘を試験させて、自分はそばからそれを観察するつもりであろう。
「
「ええ、わたし構いませんです。わたしそとへなぞ出たくありませんから」
「おお、そうですかい。そと
「あたし、わがままだから、そりゃ無理ばっかり言ってよ」
笛みたいな声が、からかうようにつけ加えた。
「ええ、なんでもおっしゃる通りにいたします」
蘭子はあくまでもつつましやかだ。
「爺や、あたしこのひと気に入りましたわ。なんて柔順な子でしょう。それに、
お嬢さんは、すっかり蘭子がお気に召した様子である。
「それでは取りきめましても」
「ええ、いいわ。早く取りきめてちょうだい。お給金もどっさり上げてね」
「はなさん、お聞きの通りじゃ。
蘭子がお給金などで不服があろうはずはなかった。百円と言えば大した高給だ。この金額から想像しても、わがままお嬢さんのお
「では、それでよろしいのだね。とりきめましたよ······お前の部屋は、ここの次の間の小さい洋室じゃ。奉公人にはもったいない部屋だが、いつもお嬢さまの近くにいてもらいたいのでね。さあ、その荷物を次の間へ置いてくるがよかろう」
老人の言葉に従って、蘭子はその小部屋の机の上に
「お嬢さま、ではわたくしはあちらへ下がりますが、手はじめに何かこの子においいつけになることはございませんか」
老人が立ち上がって尋ねると、お嬢さんはムクムクとベッドの上に起き上がって、
見ると彼女の風体は実に異様なものであった。洋風のベッドに寝ながら、その寝間着は、純和風の
「あたし、お風呂にはいりたいと思うのだけれど、その子に先へ行って用意させてくれない?」
「はい、承知しました······はなさん、では私についておいで、湯殿を教えてあげるから。お湯はちゃんと
老人はそんなことを言いながら、また廊下をたどって、立派な湯殿へ案内した。
老人が立ち去ると、蘭子は
しばらくすると、次の間になっている脱衣場のドアが静かにひらいて、
「ちょうどよい加減でございます」
蘭子は手を
「そう。ではね、お前も着物を脱いでね、あたしと一緒にお
なるほど風変りなお嬢さんであった。小間使いと一緒にお風呂にはいるなんて、妙な趣味もあるものだ。それにしても、あの
「着物をぬぐのよ。何をぼんやりしているの。早くなさいな」
ああ、これが、月給百円の意味なんだな。どんな無理を言われても、さからってはいけないというのは、ここのことなんだな。蘭子は仕方なく帯を解きはじめた。
「お嬢さま、あなたも着物をお脱ぎなさいませんか」
相手が突っ立ったまま、いつまでも、じっとしているので、そう勧めてみると、令嬢は、やっぱり怒ったような声で、
「いいから、お前おぬぎ。そして先へお風呂にはいりなさい」
と命令した。
ああ、このお嬢さんは、不具のからだを恥かしがっているんだな。だが、それなれば、何も小間使いなどと一緒に入浴しなくてもよさそうなものじゃないか。
蘭子は言われるままに、とうとう丸はだかになってしまった。そして、大急ぎで湯殿へはいろうとすると、またしてもお嬢さんの声だ。
「まあ、美しいからだをしているのね。お前田舎から出てきたばかりなの? うそでしょう。ほんとうは大都劇場のレビューに出ていたんじゃない?」
蘭子は
「江川蘭子。ね、そうでしょう。あたし、ちゃあんと知っているのよ」
不思議なことに、お嬢さんの声の調子がひどく変っていた。笛のように甲高い声が、いつの間にか、しわがれた太い声になっていた。
「すみません······これには少し事情があるのです。決して悪意があってしたことではありません」
蘭子ははだかのまま、脱衣室のコルク張りの床に
「なにもあやまることはないよ。その事情って、なんだね? もしや、恩田という恐ろしい男の眼をのがれるためではなかったの?」
蘭子はあまりの不意打ちに、もう口もきけなかった。
「ハハハハハ、蘭子さん、驚いたかい、
それは確かに男の声であった。お嬢さんが太い男の声で物をいっているのだ。
蘭子は息がつまったようになって、もう身動きさえできなかった。
夢を見ているのかしら、気でも違ったのかしら。こんな変てこなことがあり得るのだろうか。それとも、もしや、もしや······蘭子はヒョイとそれに気がつくと、泣きそうになって、死にもの狂いの声をふりしぼった。
「誰です。あなたは誰です」
「誰でもない。君が会いたがっている男だよ」
蘭子はそれを
「ハハハハハ、蘭子さん、だめ、だめ、そこには、もうちゃんと
正体を現わした人獣は、赤い唇を、ペロペロと
蘭子は身の置き所もないように、手足をちぢめて、部屋の隅にすくんでしまった。そして、子供みたいにべそをかきながら、おびえきった眼で、恩田の様子をうかがっている。
人獣はじっと蘭子を見つめていた。長いあいだ身じろぎもせず見つめていた。だが、やがて、彼の上半身が、蘭子の方へ前かがみになり、その両手が、徐々に曲げられていった。そして、ついには、一匹の
蘭子はからだを
「ワハハハハ」
怪物は長い
「蘭子、今おれがどんな気持でいるか、君にわかるかね。おれは恐ろしく愉快なんだぜ。とうとうとっつかまえたねえ。もうどんなことがあったって、放すもんじゃない。だが、ずいぶん苦労をさせたぜ、君は」
「キャア······助けてえ······」
蘭子は顔じゅうを口にして、死にもの狂いの悲鳴をあげた。
「ワハハハハハ」
怪獣は相手が
長い
「ワア······」と、今にも殺されそうな悲鳴を発しながら、相手の手の下をスルリと抜けて、白いタイルの浴室へ、
「ワハハハハハ、いよいよ袋の
そして、野獣らしい黒い裸身が、四つん
蘭子はいつの間にか、
人間
同じ屋敷のそとでは、蘭子の恋人神谷芳雄が、ガラスのかけらを植えつけたコンクリート
彼は蘭子の女中奉公を、別の自動車で見送って、彼女が邸内にはいるのを見届けてからも、なんとなく気掛りなものだから、三十分あまりも、屋敷の前にたたずんだり、裏手に廻ったり、どこか
ちょうど彼が自動車に乗りこんだ時分、邸内では、あの浴場の悲劇がはじまっていたのだが、広い邸内の密閉された湯殿の中とて、蘭子がいかに叫ぼうとも、その声は塀のそとまで届こうはずはなかった。それとも知らぬ神谷が、人間豹の眼から恋人を完全に隠しおおせたつもりで、
だが、虫が知らせたのであろうか、走る自動車の中で、神谷の心は妙に落ちつかなかった。これでいいのかしら、何をいうにも相手は
それについて、神谷は数日以前から考えていたことがある。警察力が頼むに足らぬとすれば、もうほかに手段はない。
「ああ君、ちょっと行先きを変えるよ。
「承知しました。私立探偵ですね」
運転手が
「おや、君はよく知っているね」
「有名ですからね。あたしゃ、早くあの先生が登場すればいいと、待ちかねているんですよ」
「どこへ登場するっていうんだい?」
「ご存じでしょう。ほら、例の大都劇場の一件でさあ。蘭子を
「ああ、そうかい。今にそんなことになるだろうよ」
他人の運転手でさえそこへ気がついているのだ。なぜおれはもっと早く明智探偵を訪ねなかったろうと、神谷はひとしお頼もしい感じがした。
明智小五郎は「吸血鬼」の事件の後、開化アパートの独身住いを引き払って、麻布区竜土町に、もと彼の女助手であった文代さんという美しい人と、新婚の家庭を構えていた。その家庭が同時に探偵事務所でもあった。夫妻ともに探偵好き冒険好きなので、家庭と事務所とを別々にする必要はまったくなかったのだ。
低い
幸い、明智は在宅であった。神谷はこころよく応接間に通され、名探偵と初の対面をすることになったのだが、彼がちょうど応接間へ通ったころ、門前にもう一台の自動車がとまった。そして、その中に眼を光らせていたのは、なんと高梨家の
神谷は少しも気づかなかったけれど、相手の方では門前をうろつく、怪しげな青年を見逃さなかった。いや、老人はそれ以上のことさえ知っていたかもしれない。彼は神谷の跡をつけたのだ。そして、彼が明智探偵事務所へはいったのを見届けたのだ。
老人は車をとめて、少しのあいだ考えごとをしていたが、やがて懐中から手帳を取り出すと、その紙を破り取って鉛筆で何かしたため、それを運転手に渡しながら、
「この手紙をね、ここの家の玄関の戸の
と命じた。
この運転手、ただのやつではないとみえて、妙な命令を疑いもせず、無言のまま車を降りると、忍び足で門内に消えて行った。
邸内の応接室では、アームチェアにもたれた明智小五郎の前で、神谷青年が、人間
明智は例の、青年時代からの癖で、モジャモジャに伸ばした髪の毛の中へ、右手の五本の指を
「そういうわけで、蘭子は一時安全であるようなものの、決して油断はできません。それに、やつは僕に対して深い
神谷がそう言葉を結ぶと、明智は何かしら心配らしい顔をして、
「その熊井という柔道家ですね、高梨家へ蘭子さんを世話したという、その人の住所はご存知ですか」
と妙なことを尋ねた。
「知っております。浅草の
「電話は利きませんか」
「確か近所から呼出しが利くと思いました。大都劇場の事務所へ聞き合わせたらわかるかもしれません······ですが、何か熊井にご用がおありなんですか」
神谷青年は、名探偵に奇癖のあることは聞いていたが、これは少し
「いや、詳しいことは、あとで話します。非常に急ぐのです。あなた恐縮ですが、その電話で大都劇場へ尋ねてくれませんか」
明智は卓上電話を指さして、せき立てるのだ。
「熊井君の呼出し電話をですか」
「ええ、そうですよ······僕はもしかしたら、熊井君親子は、もうどっかへ引越しをしてしまったんじゃないかというような気がするのですよ。もしいてくれれば幸いだが······」
この探偵は一体全体なにを考えているのだろう、熊井とはきょうのお昼前に別れたばかりではないか。そのとき引越しの話など一度も出はしなかった。それに、熊井には一面識もないはずの明智探偵が、彼の引越しを予想するなんて、まるで
神谷は不審に耐えなかったけれど、明智のするどい眼が、しきりに催促しているものだから、聞き返すわけにもいかず、いわれるままに受話器を取って、大都劇場にそのことを問い合わせた。
「わかりましたか。では、そこへあなたから電話をかけて、熊井君なり熊井君の母親なりを呼出してみてください」
「ご用がおありなのですか」
「ええ、用事があるのです」
明智はすましこんでいる。
神谷は仕方なく、今聞いた柳屋という酒屋へ電話をつないで、熊井のうちへ走ってもらうように頼んだ。
「モシモシ、熊井さんでございますか。あの柔道をなさる熊井さんですね。あのかたは、きょうお昼すぎ、急にお引越しなさいましたよ」
「えっ、引越したって? それ、ほんとうですか」
「ええ、うそなんか言いませんよ。なんだかひどく急なお話でしてね。
「で、国へ帰ったというのだね。あの人の国はどちらだったかしら」
「さあ、それはよく存じませんでしたが」
というようなことで電話が切れた。
神谷青年は、まったく
「国へ帰ったと言うのですか」
「ええ、そうです。しかし、先生はどうしてそれがおわかりになったのでしょう」
「詳しいことはあとでお話しします。僕はあなたのお話を伺って、あることを心配していたのです。それがいま一部だけ的中しました。この上は現場をしらべてみるほかありません。さあ、ご一緒に参りましょう。お話は自動車の中でもできますから」
明智は何かひどくイライラしている様子で、物問いたげな神谷の表情に答えようともせず、小林少年を呼んで、自動車を呼ぶように命じた。
「実はさっき、お話し中に手洗いへ立ちましたね。あの時玄関の所を通りかかってこんなものを見つけたのですよ、むろんあなたがいらしってからあとで、誰かが投げ込んで行ったものに違いありません」
明智はそう言って、手帳の切れ端らしい一枚の紙を見せた。それには鉛筆の走り書きで、左のような恐ろしい文句がしたためてあった。
明智君、君は神谷芳雄が依頼する事件に、断じて手を染めてはならぬ。君はいま美しい妻君と新家庭を楽しんでいる身の上ではないか。冒険はよしたまえ。もしこの忠告を用いずして、事件の渦中 に飛び込むようなことがあれば、君は悔いても及ばぬ一大不幸に見舞われるであろう。
「恩田の
神谷が驚いて明智の顔を見た。
「むろんです。君は恩田の一味の者に尾行されたのですよ。その尾行したやつが、僕の家へおはいりなすったのを見て、とっさにこんな
「ですが、この一大不幸というのは、一体なにを意味するのでしょうか」
神谷はこの事件を依頼したことを後悔している口調であった。
「ハハハハハ、ご心配には及びません。僕にはその意味も
明智は事もなげに言い放った。
そうしているところへ、自動車がきたという知らせがあったので、二人は急いで部屋を出た。
「小林、君も一緒に行くんだ。ひょっとしたら、ちっとばかり
明智が玄関へ送って出た美少年の肩をたたいて言った。
「はあ、お供します」
小林少年は、ハッキリした口調で答えて、さも
「
三人が並んでクッションに腰かけると、明智が行先を命じた。車はたちまち走り出す。
「築地と言いますと······」
神谷はせき立てられるままに、まだ行く先も知らなかったのだ。
「むろん高梨の家ですよ。おわかりですか。君は今、どこから僕の家へいらしったのです。築地の高梨家の前からではありませんか。その君に尾行してきた男があったとすれば······途中ですれ違いに見つけて跡をつけるというのは少しおかしいですからね······その男は高梨家から君をつけてきたと思わなければなりません。君は気づかれないつもりでいても、先方ではちゃんと君の挙動を監視していたかもしれませんよ」
「高梨家の人が、僕をですか」
神谷は、明智の考えがあまりに飛躍的だものだから、妙な混迷におちいって、あとで考えると恥じ入るような愚問を発した。
「そうですよ。ああ、君はあの熊井という男をすっかり信じきっているのですね。無理もありません。あの男は蘭子さんの護衛を勤めていたほどですからね。しかし、悪魔の誘惑は、どんな所へでも伸びて行くのです。現に大都劇場の配電盤係りが恩田のために買収されていたという例もあるくらいです。熊井がやっぱり同じ手でやられなかったとはきめられませんよ。何よりおかしいのは、彼の突然の引越しです。それも、蘭子さんに奉公口を世話したその午後ですからね。第一、柔道家の青年が女中の世話をするなんていうことが、変てこじゃありませんか。あなたはそれを疑ってみなかったのですか」
飛ぶように走る自動車の中で、明智は
そこまで聞けば、いくら混迷におちいっているといっても、明智の心配の意味を悟らないわけにはいかぬ。神谷青年はギョッとして、思わず明智の横顔を
「すると、あの高梨家に、恩田の手が
「そうですよ。行ってみなければほんとうのことはわかりませんが、脅迫状といい、熊井君の引越しといい、僕にはなんとなくそんなふうに感じられるのです。熊井君は、その高梨のお嬢さんが、不具者で、いつも顔に
「ああ、あなたはもしや、その覆面のお嬢さんが······」
「ええ、恩田の変装でなければいいがと思うのです」
「
神谷はもうまっ青になって、自動車の
「おい、運転手君、料金はいくらでも増してやるから、もっと急いでくれないか。人の命にかかわることなんだ。早く、もっと早く」
彼は気違いのようにわめき立てた。
「しかし、いくら急いでみても、僕らはもう
明智は深い憂慮の色を浮かべて言う。
「どうしてですか。蘭子が高梨家へ行ってから、まだ二時間あまりしかたっていないのですよ······」
「いや、普通なれば心配することはないのですが、あなたを尾行したやつがありますからね。そいつは僕を恐れているのです。恐れているからこそ、あんな脅迫状を残して行ったのです。何を恐れるのか。僕の想像力をです。僕が高梨家というものを疑うかもしれない。それが怖いのです。すると、そいつは、僕らの
「用意っていいますと?」
「さあ、その用意を、僕は極度に恐れているのです。むろん先方へ行ってみなければ、わからないことです。
「蘭子が······」
「ええ、そうですよ。相手は人間じゃないのですからね。前の例でもわかるように、肉食獣にもひとしいやつですからね」
明智はそう
案内知った神谷青年の指図で、車が適当な場所に止まると、三人は急いで降り立ったが、明智は車内であらかじめ書き入れをしておいた名刺を小林少年に渡して、
「君は表に待っているんだ。腕時計はあるね。カッキリ十分間だよ、僕たちが高梨の家へはいってから十分間たっても出てこなかったら、近くの交番へ走るんだ。そしてその名刺を渡して、本署へ電話をかけてもらうんだ。そして、すぐさま僕たちを救い出す手配をしてくれるように頼むんだよ。わかったかい」
「はあ、わかりました」
「多分そんな事は起こりゃしないと思うけれどもね。ただ万一の用意なんだよ」
さて明智と神谷とが、高梨家の門前に近づいてみると、正門
だが、いくら押しても
「ごめんください。ご不在ですか」
何度どなっても、誰も出てこない。
「君は僕が呼ぶまで、ここに待っててください。僕はこういうものを用意しているから大丈夫だけれど、君に万一のことがあってはいけませんから」
明智はポケットから小型のピストルを取り出して見せた。神谷が承知の旨を答えると、探偵は
「やっぱり僕の想像が当たりました。誰もいません。湯殿から
明智が委細を説明した。
「どっかに隠れているのではないでしょうか。それに、ここの主人というのが果たして恩田だったのでしょうか」
神谷は
「それは間違いありませんよ。ごらんなさい。これはその寝室の小さいテーブルの上に残してあった
やっぱり手帳のきれっ端に、「明智君、
「するとあいつは、先生がここへ来られることを、ちゃんと知っていたのですね」
神谷が驚いて言った。
「そうです。敵に取って不足のない相手ですよ。だが、実に残念なことをしましたね。これほど智恵のまわるやつですから、いくら探したって、逃げた先を暗示するような手掛りが残っているはずはありません。われわれは一とまず引き上げるほかはないのです」
「ですが、蘭子はいったいどうしたのでしょうか。まさかだまって連れて行かれるはずはありませんが」
「それですよ。僕がさいぜんから心配しているのは。しかし、こういうことになっては、僕なんかの個人の力よりも、組織的な警察力にたよるほかはありません。僕たちは、すぐにあの車で警視庁を訪ねましょう。そして、捜査一課長に会いましょう。
そして、彼らは高梨家の門を出ると、待たせてあった自動車を
その結果、警察は
そうして一夜が明けたのだが、その翌朝、ついに明智の恐れていたものが事実となって現われたのである。
その朝、神谷芳雄の宅へ、奇妙な贈り物が届けられた。差出人は誰ともわからない。それを運んできた運送店へ、夜の
贈り物というのは、大型のシナカバンを縦に二つつないだほどの大きな木箱で、その
「大きい
運送屋がそんなことを言って帰ったものだから、つい油断をして、心当たりはないけれど、会社関係の人からの贈り物かもしれんと、書生に手伝わせてひらいて見たのだが······
ひらいて見ると、まず眼を驚かせたのは、箱の表面一杯にひろがっている、おびただしい花束であった。それを見たとき、神谷青年はある予感にうちのめされて、心臓は
その
ふと気がつくと、死骸の胸の上に、一封の手紙がのせてあった。神谷は無我夢中でその封を切ったが、そこには昨夕明智の宅へ投げこまれたものとそっくりの筆跡で、左のようないまわしい文句がしたためてあった。
神谷君、君はあまりに考えのない軽はずみをした。君が明智探偵を訪ねさえしなければ、こんなことは起こらなかったのだ。また、明智君が、昨夕の警告に従って、手を引きさえすれば、蘭子は無事でいられたのだ。君は取返しのつかぬ失策をしたのである。明智君にもよろしく伝えてくれたまえ。いずれ充分お礼はするからとね。
諸君の所謂 『人間豹 』より
棺桶配達事件は、被害者が帝都興行界の花形江川蘭子であった上に、殺人者が世人を
事件の中心となった神谷の家の騒ぎは申すまでもない。神谷家お出入りの人々が右往左往する。蘭子の
タクシーを拾って明智の事務所へ急ぐ道すがら、
明智は待ちかねていたように、彼を応接室に通した。テーブルの上には幾枚かの夕刊がひろげてある。そこには、蘭子の生前の写真が、さまざまのポーズでもって
「僕はあなたにお
明智は率直に詫びた。
「いや、先生の失策だとは思いません。あの場合ああするほかはなかったのです。先生だからこそあいつらの
神谷青年は決して明智を
「それはおっしゃるまでもない。僕はけさからそのことでいろいろ活動していたのですよ。君から電話があったし、警視庁の知合いの者からも詳しく事情を知らせてくれたし、そればかりではない、殺人鬼みずから又しても僕に挑戦してきているので、自衛の意味からも、僕はじっとしていられないのですよ」
「え、すると、あいつは又挑戦状をよこしたのですか」
「そうですよ。ごらんなさい、これです」
明智はポケットから一葉の封筒を取り出して、中の
明智君、君の驚いている顔が見えるようだ。おれの力がわかったかね。おれは約束したことは必ず実行してみせるのだ。用心したまえ。おれは君にきっとお礼をすると約束したっけね。どんなお礼だかわかるかね。名探偵さんの泣きっ面 が拝見したいものだね。
「お昼時分、コッソリ玄関へほうりこんで行ったのです。あいつはもう、僕のうちのまわりに網を張っているのですよ。こうして話していることも、どっかの隅からちゃんと聞いているかもしれません。ハハハハハ」
明智は事もなげに笑ってみせた。
「しかし、このお礼というのは、一体なにを意味するのでしょうか。もしなんだと、僕は大変ご迷惑をおかけしたことになるのですが」
神谷は無気味な挑戦状を読むと、もう気が気ではなかった。
「おおかた想像がつかないではありませんが、なあに、少しも心配することはないのですよ。僕の方には敵の智力に応じてそれぞれ用意があるのですからね。ばかばかしい子供だましの手品を使うやつには、僕の方でもそれに輪をかけたトリックでもって対抗するばかりですよ」
明智の様子は何かしら楽しそうにさえ見えるのだ。神谷は職業的探偵家の神経に一驚を喫しないではいられなかった。
「ですが、あいつは僕をこそ
「それはむろん君も恨んでいるでしょうが、あいつらの悪事の第一の邪魔者は僕なのです。まずとりあえず邪魔者の方から始末をつけようというわけでしょう。それに僕のところには、あいつには見逃せない誘惑物があるのですからね」
明智はそう言って、ちょうどそこへお茶を運んできた文代夫人と顔見合わせた。似ている、似ている。文代夫人は弘子や蘭子とソックリの顔立ちではないか。
ああ、では人間
「では、あいつは······」
神谷はぶしつけにも文代さんの顔をじっと見つめながら、あまりのことに、それとも言いかねて口ごもった。
「そうですよ。少し
言われてみると、いかにもその通りであった。なんといううまい思いつきであろう。けだものの
「もしそうだとすると······ああ、僕はなんだか恐ろしくなってきました。大丈夫ですか。僕は今までの経験で、あいつの力をよく知っているのです。あいつは人間ではないのです。悪魔です。悪魔の智恵と力を持っているのです」
奥さんはよくそんな平気な顔でいられますね、と言おうとして、ぶしつけに心づいて
「そんな相手でしたら、面白うございますわ。明智はこのごろ、大きな事件がないと言ってこぼし抜いていたのですもの」
文代さんはそんなことを言って、
これはまあ、見かけによらない、なんて大胆な奥さんだろう。神谷はあっけにとられてしまった。彼は文代さんが「吸血鬼」の事件で、明智の助手の女探偵として、どんなに勇ましい働きをしたかということを、少しも知らなかったのだ。
「何よりもあいつの隠れがを突きとめなければなりません。先生には何か成算がおありなんですか」
神谷が尋ねると、探偵は落ちつき払って答えた。
「突きとめるまでもありません。先方からやってきますよ。僕はそれを待っているのです」
「いつですか」
「たぶん今夜。もうその辺をうろついているかもしれませんよ。ほら、お聞きなさい。僕のうちの犬がひどく
いつの間にか日が暮れて、窓のそとはまっ暗になっていた。その辺一帯は屋敷町で、どこからか
「まあ、S、お前どうしたの!」
たくましい愛犬を抱きとめた文代さんの両手は、ベットリと恐ろしい血潮であった。
Sは女主人の腕の中で、
「いったいどうしたんでしょう。この傷は?」
文代さんが少し青ざめて、意味ありげに明智探偵の顔を見つめる。
いかにも異様な傷であった。背中一面、点々とむしり取ったようになって、
「あいつだ! Sはあいつにやられたんだ。文代、用心しなさい」
スックと立ち上がった明智の手には、すばやくポケットの小型
「お前は居間に隠れているんだ。ドアに
言い捨てて、明智は戸外へ飛び出していった。文代さんは命じられた通り、二階の居間へ
神谷もじっとしているわけにはいかなかった。オズオズと玄関に出てみると、明智と小林少年とは、植込みの
だが、敷石道を五、六歩行くと、もう恐ろしくて歩けなかった。両側のナツメの植込みが、まっ黒な
神谷は、それを見た
「神谷さん、どうしたのです」
叫び声を聞きつけて、明智と小林少年とが、玄関へ戻ってきた。
「やつがいたのですか」
神谷は、門外を指さして、「あちら、あちら」とかすれた声で告げ知らせた。
「何もいませんよ。思い違いじゃありませんか」
と、疑わしげに神谷の青ざめた顔を見るのであった。
「間違いじゃありません。確かにあいつでした。まだその辺の路地かなんかに隠れているかもしれませんよ。すぐ警察へ電話をかけてはどうでしょうか」
「いや、それには及びません。いくらおまわりさんが来たって、捕まるやつじゃない。それは今までのたびたびの経験で、君もよく知っているでしょう。ここへ警察なんかが飛び出してきては、かえってぶちこわしですよ。まあ見ててごらんなさい。僕に少し考えがあるんだから」
明智はそれ以上捜索しようともせず、
「明智さんはこちらですね。これにご判を願います」
トラックの運転手みたいな男がどなっている。見ると、ドアのそとに、二人の男が何か大きな物を担いでいる。箱のようなものだ。長さ一間ほどもある細長い箱のようなものだ。それがドアをつきのけて、ニューッとこちらへはいってくる。
神谷はギョッとして立ちすくんでしまった。
第二の
けさ彼のうちに起こったことが、ソックリそのまま再現したのだ。おれは夢でも見ているのかしら。いや、そうではない。夢なんかじゃない。すると、あの棺桶の中には、今度は誰の
「奥さんは? 奥さんはどこにいらっしゃるのでしょう」
神谷は変な
「二階ですよ。今に降りてきますよ」
明智は無神経な返事をして、運転手のさし出す書付に判を押して、いまわしい荷物を応接間へ担ぎ込むように命じている。
「いいんですか。その箱の中、ご存じなんですか」
神谷は、今にも恐ろしいことが起こりそうに思われて、気が気ではなかった。
「ええ、知っていますとも。今お眼にかけますよ」
明智は落ちつき払っている。どうも変だ。この男はほんとうに明智探偵なのかしら。もしかしたら例の魔術でもって、いつの間にか、あのけだものが、明智に化けているのではないかしら。でなければ、こんな恐ろしい棺桶なぞを、ニヤニヤ笑いながら、うちの中へ持ち込むはずはないのだが。
明智は運転手たちが帰ってしまうと、応接室の窓々のブラインドを念入りにおろし、その上にカーテンを引いて、そとから
キイ、キイ、といやな音を立てて、一本ずつ釘がゆるむにつれて、蓋の一方が持ち上がって行く。そして、その隙間から、蔭になった箱の内部が、徐々に暴露されてくるのだ。
その
それから一時間ほど後のこと、明智探偵事務所の門前に、一台の空き自動車がとまったかと思うと、門内の
この
いや「したら」ではない。もうちゃんと悟られてしまったのだ。けだものは、果たしてそこに待ち伏せしていたのだ。
やがて車が音もなくすべり出すと、それを待ち構えてでもいたように、黒い風みたいなものが、サッと飛び出してきて、いきなり自動車の後部へしがみついたではないか。いうまでもない、あいつだ。遠ざかって行く自動車のうしろに、
だが、いつまであんな
ところが、これはまあどうしたことであろう。車は意地わるくも、まるでわざとのように、
車のうしろが大写しになって、人間豹の
もう旧市内を離れて、淋しい
実に意外なことには、文代さんの自動車は、その鎮守の森の闇をめがけて、まっしぐらに突き進んで行くではないか。まるで、殺人鬼の注文にそっくりはまりでもしたように。
車がとまったのは、社殿の前の広っぱであった。
はてな、こいつはあんまり話がうますぎやしないかな。
だが、
クッションの隅には、美しい文代さんが、やっぱりうなだれたまま
恩田は両手を伸ばして、文代さんの肩を、ギュッと抱きしめたが、すると、何に驚いたのか、彼は「ギャッ」というような怒りの叫び声を立てたかと思うと、いきなり文代さんのからだを、軽々と車のそとに掴み出し、さも腹立たしげに地べたに投げつけて、その上を、めちゃくちゃに踏みつけるのであった。
それは文代さんではなかったのだ。いや生きた女ではなかったのだ。文代さんの
「
恩田がやけになって、その文代さんらしいものを踏みつけたのも無理ではない。
ああ、そうだったのか。さいぜん明智の事務所へ運ばれた
「フフフフフ、ご苦労さまだったね」
恩田のうしろに、黒い影が立って、突然声をかけた。
さすがの怪物も、この不意うちには、ギョッとしたらしく、身構えをして振り返った。
「貴様、運転手だな」
「そうだよ。君をここまでお連れ申した運転手だよ」
黒い影は腕組みをして、落ちつき払っている。
「お前、おれが
恩田が無気味に低い声で、押しつけるように唸った。
「フフフフフ、怖いのはお前の方だろうぜ。おい、同僚、一つおれの顔をよく見てくれ。おれを誰だと思っているのだね」
運転手が、
恩田がゾッと
そこには、もう一人の恩田がいたのだ。黒く骨ばった顔、もじゃもじゃした頭髪、まっ赤な唇、その唇のあいだから
二匹の人獣は、淡い車内燈の光の前で、
恩田の顔には、けだものが鏡の前に立たされたような
「お前、いったい誰だ?」
おびえた声で尋ねた。
「お前の兄弟分さ」
「ばか言え。ほんとうに誰だ?」
「当ててみたまえ」
恩田は気持を落ちつけるようにして、しばらくだまっていたが、突然恐ろしい
「貴様、変装しているんだな。わかったぞ、わかったぞ、貴様明智だろう。明智小五郎だろう」
「ハハハハハ、やっとわかったか。お察しの通りだよ。君をこんな目にあわせる人間は、僕のほかにはありやしないよ。ところで、どうだね、僕の変装ぶりは? 誰が見たって、君とソックリだろう。この変装でもって、君のおやじさんの眼をあざむくことはできまいかしら。君はどう考えるね」
「なに、おれのおやじだって?」
「そう、君のお父さんだよ。君を
「君一人でかい」
力にかけては十人力の人間豹、一人と一人の争いなら、ビクともするものではない。
「いや、必ずしも僕一人ではないがね」
「それじゃあ、貴様······その辺に仲間が待ち伏せしているんだな」
「いや、そいつはいけない。正当防衛の意味でなら、僕は君を
明智の
「諸君、もう出てもよろしい。早くきてこいつを
明智の声に応じて、
「恩田、神妙にしろ」
そのうちのおもだった一人が、昔ふうの掛け声で、恩田の背後から組みつくと、つづく二人の警官が、
「それでは、こいつは諸君に預けましたよ。僕はまだもう一人のやつを探し出さなければならない」
明智はピストルをポケットにおさめながら、静かに言った。
「承知しました。いずれ課長からお礼を申し上げるでしょう。それでは僕らは急ぎますから」
一人の私服が自動車の運転台に飛び乗ると[#「飛び乗ると」は底本では「遠び乗ると」]、停止していたエンジンが響きはじめた。残る人々は、人間豹をこづき
自動車は、明智のたたずむ前を、静かに元来た道へと引っ返して行った。
それから又一時間ほどの後、明智探偵事務所門前の、まっ暗な道路を、影のようにさまよう人物があった。
彼はさも人眼をはばかるように、軒燈を避けて、暗い
「はてな、おれの誤算だったかしら。もうやってきてもいい時分だがな。あのおやじさん、
明智はそんなことを考えながら、しきりと闇の中をすかしてみるのであった。
彼は恩田に化けて、恩田の父親が探しにくるのを待ち構えていたのだ。彼が出発の時から、
「おや、うちへ電話がかかってきたようだな」
明智はふと聞き耳を立てた。確かにわが
「誰からだろう。文代は二階の居間に
彼はうちの中へ飛び込んで行くわけにはいかなかった。そのうちにも、恩田の父親がやってくるかもしれない。もしうちへはいるところを見つけられでもしたら、ぶちこわしだ。
そのとき、彼が遠い邸内の電話のベルに注意したというのは、何か虫の知らせのようなものであったかもしれない。なぜといって、その電話こそ彼に取って致命的なものであったからだ。それを聞き得なかったばっかりに、思いもよらぬ失策を演じなければならなかったからだ。だが、それはのちのお話である。
じっと
このものといっしょに帰れ、急に相談したいことが起こった。
紙切れを軒燈に近づけてみると、鉛筆の大きな文字で、そんなことが書きつけてあった。見覚えのある
「間違いねえだろうね。お前、恩田っていう人だろう」
乞食みたいな男が、念を押すように言った。して見ると、こいつは恩田の顔を知らないのだな。知らなくても間違う気遣いないほど、恩田の顔には特徴がある。その特徴を教えられてきたのに違いない。明智はもうビクビクすることはなかった。
「ウン、間違いないよ。だが、おれのおやじは今どこにいるんだい、うちにいるのかい」
「うちだか、どこだか知らねえ。おれは
ハハア、すると、あいつらの
「芝浦っていや、ずいぶん遠いじゃないか。歩いて来たのかい」
「そうよ。モチよ。だがおれの足は電車よか早いんだからな」
「だが、おれはそうはいかんよ。どうだ円タクを奮発しようか」
「おれあ円タクなんぞ
それにしても、恩田老人はなんというひどい使いをよこしたものであろう。これで見ると、今あいつらのそばには、気の利いた手下もいないとみえるわい。
明智はソフト帽を
「お前に手紙を頼んだ人は、確かにおれのおやじだろうね。お前その人の風体を言ってみな」
明智は念のためにそれを確かめようとした。
「なんだか知らねえが、おれにちょいちょい小遣いをくれる親切な
「ウン、それなら間違いない。で、その人は芝浦でおれの行くのを待っているのかい」
「そうよ。
「鉄管長屋って?」
「お前、知らねえのかい。
ルンペンどもが、水道用の大鉄管をねぐらにしていることは周知の事実だ。すると恩田父子はその鉄管の中を、一時の隠れがにしているというわけであろうか。
そんな話を取りかわすうちに、車は芝浦の
「どこへ行くんですよ。もうこの先には町がないんですが」
運転手がけげん顔に尋ねるので、そこで車を降りることにした。
車を降りて、果てしもない暗闇のなかへさまよい出した。さすがにルンペンは慣れたもので、見えぬ道をグングンと先に立って歩いて行く。眼が慣れるに従って、曇った空がだんだんほの白く見えてくる。そのおぼろな反射光が、地上のものを、うっすらと墨絵のように浮き上がらせている。
「ここだよ、今爺さんを探すからね」
ルンペンの言葉に
「オーイ、爺さんいねえか。今帰ったよう」
ルンペンが大声にどなると、たちまち地上の各所から「やかましい」「静かにしろ」などという
だが、無神経なルンペンは、又しても大きな声を立てる。
「オーイ、爺さん、いねえかよう」
すると、どこか地の底の方から、かすかに、かすかに、
「オーイ」
という返事が聞こえてきた。
「どうもだいぶ奥の方らしいぜ。お前頭をぶっつけねえように用心しなよ。おれの後からついてお出でよ」
案内のルンペンはそういって、一つの鉄管の中へもぐり込んで行く。明智も仕方なく、四つん
長い鉄管を一つ出抜けると、すぐに又別の鉄管の口があいている。それをいくつもいくつも這い進むうちに、実に困ったことが起こってしまった。明智はいつの間にか案内者を見失ったのだ。何も見えないまっ暗ななかだから、見失ったのではなくて、けはいを感じなくなってしまったのだ。
「おい、どこにいるんだ」
小さな声で呼んでみても、自分の声が鉄管にこだまするばかりで、返事がない。難儀なことには、ルンペンの名前を聞いておくのを忘れた。呼ぼうにも呼びようがないのだ。さすがの名探偵も、鉄管長屋というものが、これほど奇妙な場所だとは知らなかった。
耳をすますと、どっか遠くの方から
そのうち、鉄管の口と口とのあいだに、少し広い
ともかくも、でたらめに見当をつけて、又ゴソゴソと
「オイ、こん中に人間
「人間豹てなんだい」
「おめえ知らねえのか。この頃、世間で騒いでいる大悪党だよ。江川蘭子を殺した恐ろしいけだものだよ」
そんなことがかすれかすれに聞こえてきた。
まだ明智はその恐ろしい意味をはっきりと悟らなかった。
「人間豹がいるなんてばかなことがあるもんか。あいつはちゃんと
そのうちに、鉄管人種の騒ぎはだんだん大きくなって行くように見えた。あっちでもこっちでもどなり声が響きはじめた。
「オーイ、みんな起きろよう。こん中へ人間豹が逃げ込んだってよう」
「人殺しがいるんだってよう」
それらの声々が、鉄管にこだまして[#「こだまして」は底本では「こまだして」]、
明智はやっと、彼の恐ろしい立場を了解した。
「人間豹はほかにいるんじゃない。このおれが人間豹だった。もしこの中に恩田の人相風体を知っているやつがいたら、たちまちおれが人間豹にされてしまうに違いない」
実になんとも形容のできない困惑であった。急に顔のメーク・アップを落とそうとしたって、油か、せめて水がなければどうなるものでもない。
「こいつは大変なことになってしまったわい」
もうこの上は、
すると、たちまち恐ろしい障害物にぶっつかってしまった。
「アッ、痛え、誰だ、誰だ」
明智と鉢合わせした男が、相手の
「オーイ、みんな、ここにいたぞお。人間
明智は物も言わず大急ぎで反対の方へ逃げ出した。だがそれが一そう事態を悪化させる結果となった。逃げるからにはテッキリ人間豹に違いないという確信を与えてしまった。
「逃げた、逃げた。吉公、お前の方へ逃げたぞ。とっつかまえろっ」
かようにして、鉄管迷路のめくら
明智はこんな変てこな立場は、生れてはじめてであった。追われるものの心持がつくづくわかったような気がした。
逃げて逃げて、ヒョイと気がつくと、ああ助かった。とうとう鉄管の迷路を抜け出すことができたのだ。もう眼の前にはなんの障害物もない。一面の黒い広っぱだ。
ホッとして、ノコノコそこを
「ワーッ」
という
明智はとっさにそのけはいを察して、すばやく首を引っ込めると、元来た方角へ逃げはじめた。だが、行く手にも無数の敵が待ち構えている。一つの鉄管を
「はてな、こいつはどうも変だぞ。このルンペンどもの
明智は暗い鉄管の中を急ぎながら、ヒョイとそこへ気がついた。
どうかして、恩田老人が明智の正体を看破したのかもしれない。そこで、老人自身は身を隠しながら、ルンペンどもを
「面白い。そういうことなら、何をノメノメこんなやつらに捕まるものか」
明智はかえって勇気百倍した。「魔術には魔術をもって」一つ鼻をあかしてやろうと考えた。
彼は逃げるのをやめて、鉄管のまん中にうずくまった。そして、背後から近寄る足音に聞き耳を立てた。
来る、来る。荒い呼吸が聞こえる。コンコンと鉄管の壁に当たる物音。敵は二、三人の様子だ。
「おい、確かにこっちへ逃げたぜ」
「構わねえ、まっすぐに行ってみろ」
シュウシュウというささやき声だ。
先頭の黒い影が、ムクムク動いてくる。そして、三尺ほどの距離になったとき、ハッと明智の影に気づいて身構えした様子だ。
「誰だっ、そこにいるのは?」
少々おびえたような掛け声である。
明智はだまっていた。だまったまま、右手の握り
「返事をしねえな。さては貴様だな。おい、やっつけろ」
黒い影が風のように飛びかかってきた。
待ち構えていた明智の
「おい、押えたぞ。確かに人間
そうルンペンめかして叫んだのは明智小五郎自身であった。彼が押えているのは、とっさの当て身に眼を
「よし、ここは引き受けた。早くみんなを呼びねえ」
言われるまでもない。明智は鉄管と鉄管との
「オーイ、捕まえたぞお、人間豹を捕まえたぞお······」
そして二つ三つ鉄管を
ルンペンどもは明智の
明智はともかくも闇の中を市街の方に急ぎながら、ルンペンたちの不思議な襲撃について、その奥に
ルンペンたちの中に、たとえ恩田を見知っていたものがあったとしても、あの暗闇の中で、それと気のつくはずはない。すると、人間豹の姿をした明智が鉄管の中へ
だが、恩田老人にせよ、低能児ルンペンにせよ、味方の秘密を暴露するわけがない。ルンペンどもを
それにしてもおかしいのは、恩田老人がわが子を呼び寄せておきながら、まったく姿を現わさなかったことだ。いや、そればかりか、わが子が襲撃を受けてあの窮地に立っているのに、まるで救助のけはいさえも見せなかったことだ。明智にしては、なんとなく恩田老人に一杯
もし恩田老人が、明智の変装を気づいたとしたら······呼び寄せの手紙に従ってやってきたのが、わが子ではなくて、わが子に変装した探偵だと悟ったとしたら······
そうだ。それに違いない。そう考えれば、すべての
いや、待てよ。どうもまだ
「アッ、そうだったのか」
明智は思わず声を出して
「すると、すると······ああ、おれはとんでもないことをした。だが、なんという悪魔の智恵だ」
さすがの名探偵も、ある恐ろしい幻影に
「もう間に合わぬかもしれない。だが、間に合わぬにもせよ、手を尽すだけは尽してみなければ」
彼はやにわに、闇の中を、石ころ道につまずきながら、飛ぶように
広いコンクリートの橋を越すと、もうそこに人家があった。やがて、
一方明智探偵事務所では、明智が人間
文代さんは小林少年に表と裏の戸締まりを厳重にするように命じておいて、自分は二階の寝室へとじこもり、内側から
異様に緊張した長い長い夜であった。主人の思い切った計略はうまく図に当たるであろうか。もしや失敗するようなことはないだろうか。恩田ばかりでなく、その父親までも一と晩のうちに
夜の十時頃、出先の明智から電話があって、小林少年が電話口に出ると、「恩田は首尾よく捕えたから安心せよ。これから父親の方を捜索に出かける。少し遅くなるかもしれない」ということであった。電話が非常に遠くて、よく聞き取れないほど低い声であったが、小林少年は別に疑うこともなく、それを二階の文代さんのところへ取り次いだ。
ところが、ちょうどその電話のベルが鳴った時には、読者も知るように、
それはともかく、また一時間ほどたったころ、玄関のベルがけたたましく鳴り響いた。この夜ふけにお客様があるわけはない。先生がお帰りに違いないと思うと、小林少年は飛ぶように玄関に
そこに立っていたのは、果たして明智探偵であった。だが、これはまあなんという変てこな風体であろう。出かけて行った時そのままの、醜悪な人獣のメーク・アップ、薄黒く塗って
小林少年はそれを見ると、ハッとして思わず逃げ腰になったが、よく考えてみれば、実はなんでもないことであった。明智が抱えているのは、生きた人間ではない。恩田を捕えるために
「お帰りなさい」
小林少年は
「この人形をね、さいぜんの木箱の中へ入れておいてくれたまえ。あとから人形屋が取りにくるんだからね」
明智は小林に人形を渡すと、
人形の木箱は、暗い廊下の突き当たりに置いてある。小林がエッチラオッチラ、マネキンを運んで、その木箱のところへ行くうしろ姿を、明智はなぜかじっと
探偵は一体なんのために、そんなまねをしたのか。実に奇妙なことであったが、しばらくすると、彼は一人で女中部屋を出て、二人の寝室へあがって行った。
「あら、お帰りなさい」
階段の上で、パッタリと文代さんに出会った。彼女は主人の帰宅らしい様子なので、とじこもっていた寝室をあけて、お迎えのために今下へ降りようとしていたところであった。
明智は「ああ」と答えたまま、先に立って寝室にはいって行った。
「小林も誰もいませんでして?」
文代さんはけげん顔に尋ねる。
「いや、小林には少し用事を言いつけたんだよ。いいからここへ来たまえ」
変装用の入歯のために、明智の声はまるで別人のように聞こえた。
「いやですわ、そんな恐ろしい姿で。早く顔をお洗いなさるといいわ」
「いや、それどころじゃない。ともかく部屋へはいりたまえ。君に話があるんだ」
そして、二人は寝室へはいった。寝室と言っても、そこは文代さんの居間と兼用になっているので、部屋をカーテンで仕切って、一方にベッド、一方にはデスク、テーブル、化粧鏡、数脚の
「いや、そのままでいい。暗い方がいいんだ」
文代さんが、壁のスイッチを押して天井の電燈をつけようとすると、明智はなぜかそれを止めて、大きな
「お疲れなすったでしょう。でも、人間
文代さんが、大胆不敵な計略を讃美するように言った。
「ウン、僕が運転台を飛び降りて、やつの前に現われた時は、実に痛快だった。そっくりそのままの人間豹が二匹、顔と顔とを見合わせたんだからね」
明智は、シェードの
「驚きましたでしょう」
「ウン、みじめな顔をしたぜ。それに、僕のピストルが
「じゃ、今頃は警視庁の地下室でうめいていますわ」
「君はそう思うかい」
明智が変な言い方をした。
「でも、そうとしか||」
「ウフフフフフ······ところが、そうじゃないんだよ。君に話したいというのは、そのことなのよ。実はね、恩田は逃げたのだよ」
「まあ······」
文代さんの美しい顔が、ギョッとしたように話し手を見つめた。
「恩田はね、高手小手に
「じゃ、恩田は、その自動車を操縦して逃げましたのね」
「そうだよ。実にいい心持で逃げ出したのだよ」
「でも、そのとき、あなたは、どこにいらっしゃいましたの?」
「僕? つまり明智小五郎だね。その僕は森の中で恩田を刑事たちに引き渡すと、今度は恩田の父親を探しに出掛けたというわけさ」
文代さんは、妙な顔をして、マジマジと話し手を見つめた。入歯のせいとはいえ、今夜の明智は、なんだか他人のように思えて仕方がなかった。それに、この変てこな話しぶりはどうしたのであろう。
「つまり明智小五郎だね」なんて、いつもはこんな
「それから、恩田の方はどうしたかというとね」明智はなかなか
「まあ、それじゃあなたは······」
「僕はそのとき、このうちの前をぶらついていたんだよ。そうしていれば、きっと恩田の父親が探しにくると思ってね。僕は恩田に変装して、やつの身代りを勤めていたんだからね。ところが、おかしいじゃないか。恩田の方ではこの計略をちゃんと知っていたんだ。恩田を捕えた時、僕がつい口をすべらせたもんだからね」
「············」
文代さんはもう
「で、僕はルンペンの案内で、芝浦埋立地へ出かけて行った。明智のやつ、今頃はおそらく、あの鉄管の中でルンペンどもの
話し手は、そこでまた
「誰です。あなたは誰です?」
文代さんは、まっさおになって、この奇怪な人物を
「フフフフ、誰でもない、君の亭主だよ。君の
彼はふてぶてしく言いながら、ノッソリ立ち上がって、文代さんに近づいてきた。ああどうして今までそれに気づかなかったのであろう。明智の変装なれば、こんなに眼が光るはずはない。怪物の両眼はまるで青い
文代さんは、
「小林さあん、誰か、早く来て······」
だが、不思議なことに、うちの中はシーンと静まり返って、誰も答えるものはなかった。
「小林? ああ、あの小僧かね。女中部屋にいるんだよ。僕が連れて行って上げよう」
怪物は、すばやく文代さんのあとを追って、恐ろしい力で彼女を抱きしめたまま、無理やり階段を降りて行った。
「さあ、見るがいい。小林も女中も、あの態だ。よくお
彼は女中部屋のドアをあけて、文代さんに中を
文代さんは叫ぼうとした。叫んで近隣の救いを求めようとした。だが、いつの間にか、彼女は、
「コレコレ、そんなにジタバタするんじゃない。いい子だからね。今に楽にしてあげるからね」
恩田は文代さんをしめつけたまま、まるで人形でもあつかうように自由自在にした。
「君はお人形さんになるんだよ。ほら、ここにちょうど人形箱が置いてある。この中へ、今度は君がお人形さんの身代りになってはいるのだよ。すると、僕が二階の窓から合図をする。その合図に従って運送屋がこの箱を受取りにくるんだよ。運送屋というのは、つまり、僕の手下なんだがね。それからトラックでもって、運ぶ先は、さあ、どこだろうね、当ててみるがいい」
恩田はもう
文代さんは気絶するほど弱い女ではなかった。それだけに、この侮辱が一倍はげしく心を打った。なんともいえぬ
けだものの体臭、けだものの呼吸、けだものの筋力。彼女は真実の
彼女はその赤い唇が、トンネルみたいにパックリとひらくのを見た。すると、暗いトンネルの中から巨大な舌がペロリと現われた。ああ、その舌! 彼女はまざまざと見た。そのドス黒い舌の表面に、まるで針の山のようなするどい突起物が、一面に生え茂って、それが舌の運動につれて、風にざわめく
薄暗い廊下の隅に
人間豹は、木箱の
「ウフフ······そうしていると、君はまるで人形そっくりだね。美しい人形め。ちっとばかり窮屈だが、しばらく我慢するんだぜ。今にね、おれのうちへ行ったら、お姫さまみたいに大事にしてあげるからね。ウフフフフ」
そして、パタンと
恩田はその手下のものに合図をするため、玄関の方へ歩き出して、二、三歩も行かぬうちにハッと立ち止まった。空き家のような家じゅうに響きわたるけたたましい電話のベルだ。
彼は思わず身構えをして、しばらく耳をすましていたが、電話とわかると、チェッと舌打ちして、そのまま歩き出そうとした。だが、やがて人間
彼はその異様な表情のまま
(モシモシ、モシモシ、僕だよ、僕だよ。君は誰だい。小林君かい)
声といい、言葉使いといい、電話のぬしは明智小五郎に違いなかった。それを知ると、恩田の両眼は何か快い音楽でも聞くように、さらにさらに細められて行った。
(モシモシ。小林君じゃないのかい。急ぎの用事なんだ。何をグズグズしているんだい。それともそちらは明智事務所じゃないのですか)
明智探偵のイライラしている様子が眼に見えるようだ。
「モシモシ、そうですよ。こちらは明智事務所ですよ。しかし、今小林君はちょっとさしつかえがあるんです」
恩田は作り声で答えた。愉快でたまらないという表情だ。
(小林じゃないとすると、君はいったいどなたです||)
「僕ですか。ご存知のものですよ······よくご存知のものですよ」
(どなたですか。誰かうちのものはいないでしょうか)
さすがの明智も電話の相手が人間豹とは気づかぬ様子である。
「ところが、どなたもいないのですよ」
(え、え、なんですって? この夜ふけに誰もいないって?)
「そうですよ。小林君は台所でね、女中さんと一緒にグッスリ寝込んでいて、いくら起こしても起きませんしね、奥さんは人形箱の中にはいってしまって、出てこないのですよ」
「モシモシ、どうかなすったのですか。あなたは明智先生でしょうね」
恩田はドス黒い舌を出して、ペロペロと唇を
(ハハハハハ······君は恩田君だね。誰かと思ったよ。恩田君なればちょうど幸いだ。君の方は仕事はうまくいっているのかね)
突如として明智の声が快活になった。
「偉い! さすがは明智先生だよ。びくともしないねえ。ところで、さっき君に捕えられた僕が、どうしてここにいるかわかるかね」
(護送の刑事諸君がドジを踏んだのさ。日本の警察は猛獣の
「ウフフフ······とっさのあいだに、すっかりおれたちの
(ひどい目にあったのは、どっかのルンペンだったよ。僕はそれを見物しただけさ。ハハハハハ)
「すると、君の方もウマく逃亡したんだねえ。お互いに無事でよかったねえ、ウフ、ウフ、ウフ、ウフ」
そして、この
「電話をかけてくるところを見ると、君は遠方だね。芝浦付近だろう」
人間
(そうだよ。芝浦の公衆電話だよ)
「ウフフフフ······おれは実に愉快だぜ、探偵さん······君は今イライラして、額から脂汗を流しているねえ。見えるようだぜ······そこで円タクを拾って、いくら急がせてみたって、ここまで二十分はかかるね。それとも警察へ電話をかけるかね。だが、おまわりさんたちが
(············)
「さっきもいった通り、君の雇い人たち、チンピラ探偵の小林と女中とは、台所の板の間で、仲よく寝ているし、君の奥さんは、ほら、例の人形の箱ね、あの箱の中でスヤスヤおやすみなんだよ。表にはおれのトラックが待ち構えている。そこへ箱詰めの文代さんを積んで、おさらばしようってわけなのさ。君にはちっとばかりお気の毒だが、美しい奥さんとも今夜限り永のお別れだねえ」
(君は僕の探偵としての力を軽蔑しているようだね)
明智の声はひどく落ちつき払って、少しも困惑の調子を帯びていなかった。
「ウン、軽蔑しているよ。探偵のくせに大事の奥さんを盗まれるなんて、軽蔑してもいいと思うよ」
(ところが、そんなことはできっこないのだ。君は夢を見ているんだ。君は僕のほんとうの力を知らないのだよ)
電話の声に何かしら確信に満ちた威厳のようなものが感じられた。何かしら恩田をギョッとさせるような調子があった。
「ウフフフフフ、君はまだ、負け惜しみを言っているんだね。そんな
(ねえ、君。君は僕がなぜいつまでも、こんな
「
(ハハハハ······どうだい、少し怖くなったろう。警察かもしれない。もっと別のことかもしれない。いずれにしても、君は僕の最後の
「だまれ、だまれ。貴様なんかのおどかしに乗るおれじゃないぞ」
(まあ聞きたまえ。怒ったってしようがないよ。僕はね、こうして君と愉快に話している間に、君たち親子の
恩田はそれを聞くと、変な顔をして思わず身のまわりをキョロキョロと見まわした。ほんとうに、そんな蜘蛛の糸が、どこか天井の隅からスーッと降りてきて、彼のからだにクルクルまきついているような、異様に無気味な感じに襲われはじめた。
「もうこの上貴様の
(まあ待ちたまえ。ハハハハハ、そう
ガチャンと受話器をかけてしまっても、探偵の無気味な笑い声が耳について離れなかった。彼は眼に見えぬ
「ヘヘン、怪談なんぞを、怖がると思っているのかい」
するどい眼がまたはげしい
人間のようでもあった。またそうでないようにも思われた。
恩田は慌てないではいられなかった。怪談を怖がったわけではない。身辺の危険を感じたのだ。その影法師が凶事の前兆のような気がしたのだ。もうこのうちのまわりは警官たちによって取り囲まれているのかもしれない。そいつらの影が廊下まで感じられたのかもしれない。
彼は
間もなく門の方から、二つの黒い人影が、ノソノソとはいってきた。運送屋の人夫といった風体である。
「表は大丈夫だろうね。誰もきやしなかっただろうね」
恩田がささやき声で尋ねる。
「
「おい、念のために、あのことを言っておこうじゃねえか」
一人の男が、何か意味ありげにささやく。
「こいつ、またはじめやがった。お前の気のせいだっていうのに、
「おいおい、何をボソボソ言ってるんだ。何かあったのか」
恩田がきめつけると、臆病者といわれた男が、あたりの闇をキョロキョロ見まわしながら、変なことを報告した。
「なんだか小さな影みたいなものが、トラックのまわりをウロウロしていやがった。まったく小っぽけなやつでね。小人島の影法師みてえな、なんだかこうゾーッとするような、いやな物でしたよ」
「親方、気にしちゃいけねえ。この野郎、今夜はどうかしているんだ。それよりも、早く荷物を運び出そうじゃありませんか」
この人夫
「ウン、早くしてくれ。荷物はこの廊下にあるんだ。少し重い代物だよ」
恩田は先に立って人形箱に近づいた。
「これだ、あまり手荒くしないように、貴重品だからね」
「おやおや、まるで
「人形箱だよ、大切な人形がはいっているんだ。さあ、早く運んでくれ」
二人の男が、木箱を持ち上げている
それを見届けておいて、彼は人形箱を運んで行く二人の男を監視しながら、門外へと出て行った。そこの
結局、何事もなかったのだ。警官たちは間に合わなかったのだ。ただ、ちょっと気になるのは、廊下をさまよい、トラックのまわりをうろついたという、例の怪しい
するとさっきの明智の電話は、単なるおどかしにすぎなかったのであろうか。名探偵は一個の怪談師になり下がってしまったのであろうか。いやいや、そうではない。そうでない
だが、車上の恩田はむろんそれを知らなかった。またたとえ車を降りてその部分に眼をやったとしても、闇夜の中の、あるともなき
悪魔のトラックは、なるべく
恩田の黒い姿が車上に中腰になって、しきりと手を動かしはじめた。いったい何をしているのだろう。少し眼を近づけてみよう。車とのあいだが三間ほどになるように······すると、ああ、わかった。彼は待ちきれなくなったのだ。箱の中の恋人に会いたくなったのだ。彼は人形箱の
おや、何をしようというのだ。人間豹は箱の中から気を失っている文代さんを抱き起こしたばかりではない。文代さんを
するとたちまち、実に恐ろしいことが起こった。猛獣がその野性を暴露したのか。それとも彼は気が違ってしまったのであろうか、文代さんの首が
かつての夜、猛犬の
奇怪な幻か悪夢のような光景であった。ハッと見る間に、白い流星が
野獣は口から
警視庁捜査一課長恒川警部は、ちょうど寝入りばなを
恒川氏はむろん
「あ、ちょっと待ってくれたまえ。君の家のシャーロックも一緒に乗せて行こう。是非あいつが必要なんだ」
明智が、出発しようとする車をとめて叫んだ。
「よし。お前、シャーロックを連れておいで」
恒川氏は一とことも反問しないで、明智の言うがままにした。この名探偵が必要だといえば、必要にきまっているのだ。間もなく恒川夫人手ずから一頭のシェパードを引き出して、車にのせた。名犬シャーロックは少しも騒がず、何かの予感に緊張の
「君は何か見込みをつけているのかい。シャーロックなど連れ出して」
車が走り出すと、恒川氏がやっとそれを尋ねた。
「ウン、この犬が役に立つか立たないか、それが僕の運命のわかれ道だ。もしシャーロックが不用だったら······ああ、僕はそれが恐ろしいのだよ」
明智は名状できない
「今も話す通り、電話ではあいつに大きな口をきいておいたけれど、僕は確実な信念があったわけではない。たった一つの空頼みなんだよ。ああ、あれがうまくやっていてさえくれたらなあ」
「あれって誰のことだい。
恒川氏は相手の意味を
「ああ、三分間······いや二分間でもいい。せめて二分間あいつの息がつづいてくれたらなあ。ねえ、恒川君、人間の息が二分間以上つづくと思うかね」
「変なことを言い出したね。君の癖だぜ。二分間ぐらいつづく人間はいるさ。
「そこが僕のつけ目なんだよ。その都会人の中に二分間も息のつづくやつがいたらどうだろう。
「君はそういう男を知っているのかい」
「ウン、知っているんだ。知っているんだ」
それきり名探偵はだまりこんでしまった。恒川氏も相手の癖を知っているので、深く尋ねようともしなかった。
間もなく、二人は明智探偵事務所の門前に車を捨てて、空き家のように人気のない屋内へはいって行った。
「シャーロックのやつ、ひどく
恒川氏はそんなことを言いながら、愛犬を玄関の柱につないで
明智は恒川氏を階下に待たせておいて、二階の部屋部屋を見まわって、空しく降りてきたが、そのあいだに警部は例の第六感というやつを働かせて、すばやくも廊下の奥の台所へ忍びよっていた。ドアを細目にひらいて見ると、いる、いる、小林少年、女中さん、それにマネキン人形までが、変な
「おい、君、ここだ、ここだ」
恒川氏の声に、明智も台所へはいってきた。
「おや、君、君、あすこにいるのは、奥さんじゃないか。奥さんは
彼は調理台の下へ首を突っ込んでいるマネキン人形を指さして、それを文代さんと思いこんでいる。
だが、明智はそれどころではなかった。倒れた小林少年の上にかがみこんで、一所懸命にその顔を見つめている。何事かを念じるように、瞬きもせず見つめている。
すると、明智の念力が通じたのか、少年の眼が細くひらかれた。長い
「アッ、先生!」
とうとうそれがわかった。小林少年は叫びざまピョコンと立ち上がった。おやおや、今まで気絶していた人間に、突然こんな
それを見ると、名探偵の不安にとざされていた
「おお、小林君、よくやった。よくやった」
明智は立ち上がった少年に飛びついていって、感謝にたえぬもののように、その肩を抱き、その手を握りしめた。
「まるで親子再会の場だね。いったいこれはどうしたわけなんだ」
恒川氏があっけにとられて尋ねる。
「いや、僕の予想が的中したんだよ。僕は決して
明智は勝利に酔っているのだ。
「そいつは
恒川氏がじれったそうに、例のマネキン人形を指さす。
「ところが、僕はあれを人形だと思い込んでいたのだよ。君も話を聞いているだろうが、僕は今夜、文代の身代り人形を使った。着物からなにからすっかり同じ人形なんだ。そいつがころがっているとしか考えられなかったのだよ。なぜって、本物の文代は恩田が人形の箱へ入れて連れて行ったのだからね。しかし、小林君のこの様子では、あれはやっぱり人形じゃない。ね、そうだろう」
少年を顧みると、彼はニコニコしながら、ガクンガクンと大きくうなずいて見せた。
はてな、もしそうだとすると、どうも
だが、そこにころがっていたのは、やっぱり人形ではなかった。何がどうあろうとも、本物の文代さんであった。まだ気を失っていたけれど、調理台の下から顔を引き出して調べるまでもなく、からだにさわってみれば、人形か人形ではないかは、たちまちわかることであった。恒川氏と明智とは、そのグッタリとした文代さんを抱いて、とりあえず書斎の
すぐに電話でお医者さんが呼ばれた。だが、文代さんはただ麻酔剤で眠っているばかりだ。さして心配することはない。それよりも、この際もっと大切なことがある。人間
「明智君、僕にはまだ事情がよくわからんが、これは小林君の手柄なのかい。それにしても······」
「そうだよ。この少年探偵さんの大手柄だよ。つまり、小林が僕の日頃の言いつけを、忠実に守ってくれたわけなのだ」
「すると、小林君、君が恩田の
「ええ、そうです。でも、先生が恩田のやつをあんなに長く電話口へ
少年が
「だが待ちたまえ。むろん君もあいつに麻酔剤を
「ええ、ですけど、僕、息が強いんです。一所懸命になれば、二分以上息をつめていても平気なんです。いつも先生に、それを利用することを忘れるなって教えられていたもんですから、ガーゼで鼻と口をふさがれても、じっと息をつめて、気を失ったまねをしてやったんです」
さすがの恩田もこの
「へえ、君がねえ。驚いたもんだな······ハハア、これだね、明智君、さいぜん君が
「そうだよ。僕の勝敗はただその一点にかかっていたのだよ······だが、小林君、君はもう一つのことを忘れやしなかっただろうね。ほら、昼間は白、夜は黒のアレを」
「ええ、うまく仕掛けました。むろん黒の方です。運転台にいた手下のやつが、なんだか怪しんでいたようですが、あの仕掛けには気づかなかったらしいです」
「恒川君、僕の発明品が役に立ったぜ」
「なんだか面白そうな話だね、いったいどんな発明なんだい。その昼間は白、夜は黒っていうのは」
警部が好奇の眼をかがやかした。
「自動車尾行器とでもいうかね。自分で直接尾行できない場合、相手の
「そして、そのしたたったあとを、探偵犬につけさせようってわけだね。シャーロックの役目のほどがわかったよ。だが、白だの黒だのっていうのは?」
「昼間は色のないクレオソート、夜は光の反射をさけるために黒いクレオソート、つまりコールタールを使用するんだ。その二色の薬をつめたブリキ缶が、僕の家にはいつもちゃんと用意してあったのだよ。尾行というやつは
「ウン、さすがに君のお弟子ほどのことはあるよ。敵が電話をかけている
「ウン、それには警察の自動車が一台
「もう僕の方の刑事たちがやってくる時分だよ、先生たちきっと自動車に乗ってくるだろう」
間もなくその二名の腕利き刑事が、警察自動車を飛ばして来着した。
明智は文代さんのことは医者に任せておいて、恒川警部と共にその自動車に乗りこんだ。名犬シャーロックには長い綱をつけて、運転台に席を取った恒川氏が、その綱の先を握っている。
小林少年はクレオソートをたっぷり含ませた布を持ってきて、シャーロックの鼻先につきつけた。これから追跡するものの
犬は鼻をヒクヒクさせて、薬品のはげしい匂いに親しんだ。小林少年が突然その布片を持って家の中へ
「よし、出発だ」
恒川氏の指図に従って、車は動き出した。シャーロックは時々立ち止まっては、
明智がさっきの電話で、黒い糸のようなものが恩田のからだにからみついて離れないといったのは、つまりこのことであった。彼の言葉が単なるおどし文句や怪談ではなかったことが、今こそ明らかになったのである。
名犬シャーロックの先導する追跡自動車は、明智のいわゆる「黒い糸」に引かれでもするように、少しも誤まることなく、恩田の通過した
「おや、あれはなんだ。車をとめてくれたまえ」
その声に驚いて、恒川氏がシャーロックの綱を引きしめた。運転手がブレーキを踏んだ。
「君、懐中電燈を持ってませんか」
同乗の刑事に尋ねると、幸い一人がそれを用意していた。明智はその懐中電燈を借りて車をおりた。
「やっぱりそうだ。恒川君、やつはこの辺で人形箱の
明智は路上を照らしながらだんだん先へ歩いて行った。その移動する懐中電燈の下に、マネキン人形の首が、手が、足が、次々と現われては消えて行った。さいぜん恩田が車上から投げ捨てたのは、この人形だった。文代さんではなかった。いくら獣類でも本物の人間を道のまんなかであんな目にあわせるほど向こう見ずではなかったのだ。
「ハハハハ、
明智は
「だが、あいつがここで真相を発見すると、そのままオメオメ帰っただろうか。また君の家へ取って返したんじゃあるまいか」
運転台の恒川氏が不安らしく
「それは大丈夫だ。電話でウンとおどかしてあるからね。今にも警官がくるかと思って、やっこさん
「先生、
そして再び犬と車とは走り出した。
黒い糸はその辺から右折して、電車通りを避けながら、上野公園
「おや、恩田の車はここで引っ返しているんだな。ちょっと止めてくれたまえ。なんだか、この辺が怪しいぞ」
車が止まると、明智はまた懐中電燈を手にして地上に降り立ち、その辺を調べはじめた。
「おい、見たまえ、ここに黒い水溜りができている。クレオソートが同じ場所にしばらくのあいだ滴りつづけていたんだ。つまりやつの車が停車した
そこで、明智の言葉に従って、一同車を降りたのだが、考えてみると、実に漠然とした探しものではないか。二天門の中には何がある。観音堂がある。五重の塔がある。公園と池と樹木地帯がある。それから水族館と花やしきと華やかな映画街だ。
「浅草公園とは思いがけなかったね。まさかやっこさん公園に
恒川氏が当惑したように言った。
「いや、そうとも限らんよ。東京じゅうでこの公園ほど、犯罪者にとって
明智は感嘆するようにいうのだ。
「だが、もしそうだとすると、こいつは実に
「だが、ともかくも調べてみよう。人の目立つ夜ふけのことだから、ひょっとして誰かがやつの姿を見ているかもしれない」
むろん興行物はハネてしまい、夜店商人たちもほとんど帰ったあとで、
その二天門の敷石に、一人のむさくるしいいざりの
「ああ、こいつに聞いてみたら、見覚えているかもしれない」
明智は
幸い恩田の変装を解かないでいるし、メーク・アップもまだ洗い落としていなかったので、尋ねるのに、手数はかからぬ。
「おい、君、君、今から三十分ほど前にね、ここを、こういう男が通らなかったかね。つまりこの僕とソックリの男だ」
明智が前に立ちはだかって聞くと、いざり乞食はヒョイと顔を上げて、不意の質問者を
「ああ、
乞食は
「ほんとうかい。間違いないだろうね」
「ウン、ほんとうだ。旦那とそっくりだった」
一同は明智を先頭に、観音堂の方へ歩いて行った。明智はその辺にウロウロしているルンペンどもを
しばらくのあいだ、本堂のまわりから公園の池にかけて、綿密な捜索が行なわれたが、むろん、なんの
「今夜は引き上げるほかないよ。警察としてはできるだけの動員をして、浅草公園そのものを囲んでしまうんだね。そんなことをしても、この入り組んだジャングルの
「ウン、さっそく手配をしよう。夜の明けるまでに何か君に報告できるかもしれんぜ。われわれの仲間には、このジャングルの秘密に
明智と恒川氏はそんなことを言いながら、二人の刑事といっしょに元の二天門へと引っ返した。そこの敷石にはさいぜんのいざり乞食が、まだ
「旦那、旦那」
おやっと立ち止まって振り返ると、いざり乞食が呼び止めている。
「旦那、おとしもんだ。これ、これ」
「僕が落としたっていうのかい」
明智はけげんらしく二、三歩立ち戻って、その封筒を拾い上げた。
「ああ、その旦那だ。いま落としたんだ」
乞食がくずれた顔でお
封筒を門の天井の電燈にかざして見ると、表に「明智小五郎殿」とある。確かに明智のものに違いない。だが、彼はそんな封書などをポケットに入れてきた記憶はまったくないのだ。
「おい、恒川君、僕たちはいま公園の中で、あいつにすれ違ったのかもしれないぜ」
「えっ、あいつって、人間
「ウン、どうもそんな気がするんだ。ともかく、こんな明かりじゃだめだから、自動車まで帰ろう。そして一つこの封筒をよく調べてみよう」
明智はすぐ向こうの電車通りに待っている警察自動車へ急いだ。
明るいヘッド・ライトの前に、四人が顔をつき合わせて封書を調べた。封筒は薄いハトロン紙の安物だ。裏に差出人の名前もなく、封もひらいたままになっている。明智は急いで中身を取り出してみた。半紙型のザラ紙、それに鉛筆の走り書きで、左のような文句がしたためてある。
明智君、さすがに君は名探偵だね。おれの獲物 は人形だった。その上、君はおれがここへきたことを知っていた。実にするどいねえ。ブルブルブル、おお怖 い。だがね探偵さん、この手紙を読んで君がどんな顔をするか、見てやりたいものだね。おかしくって。一体いつの間に誰がこんなものを君のポケットへ投げ込んだか、わかりますかね。探偵さん、まだちっとばかり修業が足りないようだね。それじゃまた会おうぜ。
人間豹
「フム、驚いたねえ。するとあの公園の
恒川氏が驚嘆した。
明智は何かじっと考えこんでいた。
そんなはずはない。おれは眼の前にいる敵を見のがすほどぼんくらだろうか。しかも、そいつにポケットへ手を突っ込まれるなんて、かつて、経験したことのない侮辱だ。だが、どうも信じられない。おれの神経はからだじゅうに行き渡っているはずだ。ポケットに物を入れられて気がつかぬなんて、おれとしてあり得ないことだ。
「ちょっと待ってくれ。なんだかわかりそうだぞ」
明智の眼が
「何かカラクリがある。手品の種がある······そうだ。きっとそうだ。おい、恒川君、僕は大変な失策をやった。だが、まだ間に合うかもしれない。あいつだ。あのいざり
言い捨てて
一と飛びに二天門まで駈けつけたが、
人々は門の付近を歩きまわって、乞食の姿を尋ねたが、どこにもそれらしい影は見当たらなかった。
明智は大道易者のテントにまで首を突っ込んで尋ねていた。
「君は毎晩ここに出ているのだろうね。二天門の下のいざり
四方をテントで張りつめて、前の方にやっと客の顔が見えるだけの窓があいている。その窓から大きなロイド目がねをかけた白ひげのお
「へええ、いざりの乞食ですって? 存じませんな。この辺には、そういう乞食を見かけたことがありませんよ」
「ところが、いま僕はそいつを見たんだよ。その筋のお尋ねものなんだ。ちょっとの
「存じませんな。わしはつい今しがたまで客がありましてな。人相の方に夢中になっておりましたのでね」
「そうか。いや、ありがとう」
それを最後に、明智たちは一応捜索を断念して引き上げるほかはなかった。恒川氏は警視庁に帰って浅草公園包囲の手配を講ずるために急いでいた。人々は自動車の方へ急ぎ足に引っ返して行った。
「ウフフ、もうよさそうだよ、とうとう
易断のテント張りの中で、白ひげの易者が妙な
乞食はいざりでもなんでもない。いきなりニューッと立ち上がって、老易者と肩を並べた。そして顔じゅうに
「わしの方では明智を知っているけれど、あいつはわしの顔を見たことがないのだからね。まんまと一杯
老易者は無気味なしわがれ声で言いながら、大きなロイド目がねをはずした。言うまでもなく、人間豹の父親である。息子はいざり乞食に、おやじは大道易者に、そして、互いに連絡を取りながら、群衆の
「だが、この変装も長いあいだつづけてきたが、今晩限りでよさなくちゃいけまいね。あのするどい男は、今の自動車が道の半分も行かぬうちに、きっとわしたちの秘密を気づいてしまうことだろうよ」
「ウフン、だがあとの祭さ」
人間豹は
「お父さんもきょうはずいぶん働いてくれたね」
「ウン、麻布から、芝浦、芝浦から浅草とね、なあに、なんでもありゃしない。世間を相手に戦うのが、わしには面白くてたまらんのだからね」
そして、この世にも恐ろしい親と子は、顔を見合わせて、無気味に無気味に、ニタニタと笑いかわすのであった。
人間の姿をした猛獣は、彼に最もふさわしい隠れが、都会のジャングルに逃げ込んだのである。山あり池あり林あり、それに大小さまざまの建物が、あらゆる形態、あらゆる角度をもって雑然
その翌早朝、警視庁と所轄警察署との混成私服隊が編成された。そして、さまざまに姿を変えた刑事たちは、公園の四方から、住宅、商店、飲食店の
二日目には、恒川警部の発案になる、奇妙なポスターが浅草
警察としては実に思い切ったこのポスター戦術は、辻々に人の黒山を築いた。恐怖におびえた眼が醜悪な似顔絵に集中された。人間豹に関する恐ろしい
「ワア、すげえ。こいつの眼は、暗いところでもまっ青に光るんだってよ」
「
「ほんとだ。牙がありゃがる。犬でもなんでもモリモリ食っちまうってじゃねえか」
「違うよ、犬じゃねえ。人間の女を食うんだよ」
「いやなものを見ますね。こんなものがはいってきたんじゃ、公園もさびれますねえ」
「僕は、こいつを見たことがありますよ。ほら大都劇場の例の騒ぎのときですよ。この絵とそっくりです。いや、こんなおとなしい顔じゃなかった。こいつがね、レビューの舞台のまん中に立って、見物席を
「へええ、あなたは、あれをごらんなすった? 私も話は聞いてますが、江川蘭子が舞台の上で血みどろにされたっていうじゃありませんか」
「そんな古いことよりも、おいら、たったゆうべこいつにお眼にかかったんだぞ」
「どこで? どこで?」
「お堂の裏の大
「こんな顔だったか」
「そうよ。まっ青な眼がお星さまみてえに光りゃあがるのさ。おいら、あとも見ねえで
「おまわりさんに言えばいいじゃないか」
「言ったよ。言ったんだけど、おまわりが大銀杏を探しに行ったときには、もうなんにもいやあしなかったよ」
ルンペンも、新聞売りの小僧も、中学生も、青年団員も、商店の御隠居も、通りがかりの会社員も一つになって、恐ろしいポスターの主人公について論じ合った。
床屋でも、銭湯でも、映画館の見物席でも、人さえ寄れば、「人間
どこかのおかみさんが、共同便所のドアをひらくと、その中にまっ青な眼の人間豹がしゃがんでいたという怪談もあった。
真夜中に、仁王門の
毎夜観音さまへお詣りする若い芸者が、友だちと二人づれで、仁王門を通りすぎたとき、その一人がなにげなく門の天井を見上げたのだが、すると、例の奉納の大
一人が天井を見上げて立ち止まったので、もう一人もいっしょになって、その方を見ると、確かに人の首、しかも両眼が
二人とも、
警察が仁王門の大提燈の中まで捜索したのは、そういういきさつからであった。そのあいだに逃げてしまったのか、最初から若い女の幻覚にすぎなかったのか、調べたときには、むろん提燈の中は空っぽであった。
怪談は怪談を生んで、歓楽境はたちまち恐怖の
ポスターの
「変だね、誰がこんないたずらしたんだろう。あっちのポスターにも同じのが貼りつけてあるよ」
「人間
そういう意味の言葉が、人だかりの中であちこちに取りかわされていた。
人間豹の似顔の上から別の紙を貼りつけて、それに肉筆でなかなか好男子の顔が書いてある。どのポスターも皆同じ顔の絵と変っているのだ。何者かが夜のあいだに、丹念に歩きまわって、ポスターというポスターに、そういう同じ似顔絵を貼りつけておいたのに違いない。
「ああ、わかった。この似顔はアレだぜ、人間豹の
群衆の中に、やがて、それと気づいたものがあった。
「
「わかってるじゃないか。明智小五郎さ。人間豹は明智のためにひどい目にあったっていうじゃないか」
「ウン、そういえば、明智さんだ。明智さんにそっくりだ」
いかにも、それは明智小五郎の似顔に違いなかった。ひげのない
「おい、こいつは
「まさか警察じゃないやね」
「明智さんに
「恨みのあるやつっていえば、つまり、人間豹じゃないか」
誰かがそれをいうと、黒山の群衆がシーンと静まり返ってしまった。あまりに恐ろしい、しかも的確な推定であったからだ。
寝静まった真夜中、あのまっ青に光る眼の怪物が、
やっぱりあいつは、浅草公園のどこかの隅に身を
その夜ふけのことである。
千束町に店を出している、俗に
おかみさんは
「ホオ、驚いたね。やつら一人もきちゃあいねえ」
団十郎の銅像のあたりから、
ふだんなれば、映画館がハネてしばらくすると、浅草
「いくじのねえ野郎どもじゃねえか。ノウ熊」
顔なじみの連中の姿が見えぬので、愛犬に話しかけでもするほかはなかった。熊と呼ばれた土佐犬は、いかにもその名にふさわしい
「だがこいつあ静かでいいや」
どうも少し静かすぎるのだ。映画街はと見れば、昼間の
大山理髪店主は、やっぱり西郷さんの恰好で、無人の境をノッシノッシと歩いて行った。通り過ぎるベンチというベンチが空っぽだ。ルンペンどもも命は
池を一とまわりして、
向こう側の樹立は、闇に溶け込んでほとんど見分けがたいほどであったが、その樹立のあいだをチロチロと動く人影がある。よく見ると、その人は犬を連れている。しかもどうやら二匹らしいのだ。
「おや、感心なやつじゃねえか。熊公見ろよ。おまえの友だちがやってきたぜ」
親方はその方へ近づいて行こうとした。この
「おい、どうしたっていうんだ」
振り向いて見ると、彼の愛犬はまるで
親方は力の強い犬のために、だんだんうしろへ引きずられながら、樹立のあいだへ身を隠すようにして、前方の人影を見つめた。
二匹の犬を連れた異様の人物は、
老人は
だが、なんて大きな犬だろう。それにあの歩きかたのしなやかさはどうだ。犬ではなくて
見つめていると、そのものの正体は一と息ごとに明らかになって行った。あざやかな
だが大山親方は、このあまりに非常識な光景を
ところが、ふと気がつくと、その豹のうしろからついて行くもう一匹のけだものは、さらに一そう驚くべき怪物であった。実に不思議千万なことには、そいつは洋服を着ていた。まっ黒な洋服を着ていたのだ。そして、前脚よりも後脚が二倍も長くて、それが普通の動物とは反対に曲がっている。しかもその脚の先には
親方がほとんど虚脱の状態におちいって、身動きする力さえなく、汗を流してそこにたたずんでいるあいだに、恐ろしい一行は空き地を横ぎり終って、左手の茂みの中へ姿を隠して行ったが、そのとき最後の洋服を着た怪物がヒョイとこちらの方を振り向いた顔、ああ、その顔の恐ろしさを、親方は
そいつはまぎれもない人間豹であった。例のポスターの似顔絵とそっくりのやつであった。まん丸い両眼は、本物の豹よりも一そう
そのあいだ、熊公は恐ろしい
だが、床屋の親方は愛犬のことなど構っていられなかった。彼自身の命の問題であった。無我夢中で反対の方角に駈け出した。走りに走って、本堂の前の交番へころがり込んだ。
「豹が、豹が······」
彼は交番のドアにすがりついて、
「豹」という言葉が警官を異様に
たちまちこの事が本署に電話された。間もあらせず一隊の警官が、ピストルをたずさえて現場に急行した。だが、いかに手早く運ばれたといっても、そのあいだに相当の時間が経過している。ものものしい警官隊が駈けつけたころには、広い公園内を隅から隅まで探しまわっても、もうそれらしいものの影さえ見えなかった。
しかし床屋さんの申し立てが、決して夢や幻でなかった
それにしても、いくら都会のジャングルだといって、東京の浅草公園を、熱帯動物の豹がノコノコ歩いていたなんて、あまりに
ところが、その翌日になると、その幻の豹が、なんと正真正銘の猛獣に違いなかったことが判明した。その朝浅草名物「花やしき」の支配人が青くなって警察署に出頭した。そして、同園秘蔵の
檻をひらいた
「人間
しかし、さすがは浅草公園の魅力である。昼間だけは人足が途絶えなかった。広い東京には、この
さて、あの深夜の怪異があった翌々日の午後のこと、そういう「陰気な雑沓」の公園の中を、明智小五郎とその新妻の文代さんとが肩を並べて歩いていた。むろん
野次馬にまじって当てもなくさまよい歩いているかと見える二人の男女、男は薄よごれた職工風の
女は髪を
その薄ぎたない職工、実は名探偵明智小五郎、「よいとまけ」はすなわち文代さんであった。
文代さんを明智探偵事務所に置いては、いつ「人間豹」の襲撃を受けるかしれたものではない、どこか安全な場所へ避難させてはという意見が多かったけれど、あの魔物にかかっては、江川蘭子の場合でもわかる通り、避難が避難にならないのだ。それよりも、いっそ主人明智の行く所へついて歩いて、その保護を受けるのが何よりも安心だし、そうすれば探偵のお手伝いもできるのだからと、文代さんのけなげな思い立ちに、明智も賛成して、かくの次第となったわけである。
「吸血鬼」の物語を読まれた読者諸君はご存知であるが、文代さんは前身が女探偵、顔は美しく姿はやさしくとも、決して明智の足手まといとなるような弱い人ではなかった。むしろ名探偵にはなくて
この二人の変装者は、
ハンチングの下から、頬被りの下から、二人の眼は寸時も休まず働いていた。両側の家並は一軒一軒、道行く人々は一人余さず、するどい探偵的凝視を受けた。二人はジャングルの中に猛獣の
六区の映画街の中ほどに、コンクリートの大映画館に
職工と「よいとまけ」の明智夫妻は、なにげなくその抜け道へはいって行った。別に意味があったわけではない。ただそこを通って裏通りへ近道をしようとしたのである。だが、一歩谷底へ踏み入ると、彼らはそこにハッとするようなものを発見した。
一匹の巨大な
だが、そうそう本物の猛獣が現われてたまるものではない。それはむろん本物ではなかった。
旗の文字を読むと、「Z曲馬団」とある。どっかにサーカスがかかっていて、その広告ビラを
明智はそう考えて、一応は気を許したものの、しかし、なにかしら心の隅に、胸騒ぎのようなものをおぼえないではいられなかった。
先方は抜け道の向こうの出口に近い場所を、ノロノロと歩いていたのだが、明智たちがこちらの角を曲がって、姿を見せたとき、そいつは振り返って、じっと彼らを見つめていたように感じられる。それからというもの、なぜか一そう歩度をゆるめながら、ほとんど
それを確かめないでは気がすまなかった。もしこの
明智は足を早めて虎男のチンドン屋に近づいていった。すると不思議なことには、相手の虎男は、何か明智をさそいでもするようなそぶりで、虎の頭で振り返り振り返り、裏通りへと曲がって行く。
明智は
「おい、ちょっと君、その虎の
明智はチンドン屋に近寄ると、いきなり呼びかけた。
虎に化けた男は、少しのあいだ、その意味がわからなかったらしく、だまっていたが、やっとして、
「エヘヘヘヘヘ、わたしの顔がごらんになりたいっておっしゃるので?」
と
その下から現われた顔は、あの恐ろしい「人間豹」であったか。いやいや、そうではなかった。明智は思い違いの恥かしさに冷汗を流した。そいつの顔は恐ろしいどころか、実に
黒々とした
「や、失敬失敬、人違いだったよ。もういいからそいつをかぶって、商売をはじめてくれたまえ」
明智がお
明智はなにげなくそれを受け取ったが、ふと気がつくと、石版刷りの広告文の裏に、何か鉛筆でなぐり書きがしてあった。おや、変だぞ。新しいはずの広告ビラにこんなものが······と裏返して、そのいたずら書きに眼をそそいだかと思うと、明智の表情はみるみる緊張して行った。
明智君、文代さんは大丈夫かね。
おれは一度思い立った事は、あくまでやりとげる性分だよ。
おれは一度思い立った事は、あくまでやりとげる性分だよ。
見覚えのある筆癖、果たして
「おい、君、これはまさか君が書いたんじゃあるまいね」
明智のするどい眼に
「エヘヘヘヘヘ、わたしじゃござんせん。つい今しがた、見知らぬかたにこう頼まれたんですよ。あの路地に待っていると、これこれこういう
「そいつの
明智は
「立派な
「顔は? 顔は見覚えているだろうね」
「エヘヘヘヘヘ、そいつはどうもハッキリしませんね。その
チンドン屋は、いかめしい将軍ひげにも似合わぬボンヤリ者らしく見えた。いくらか
「チェッ、君は人間
「えっ、人間豹ですって」
虎男はたまげた声を出した。いかにボンヤリ者でも、あの恐ろしい獣人の名を知らぬはずはないのだ。
「そうだよ。君が頼まれた男が、つまりその人間豹だったのさ」
明智は
「そいつはどちらへ曲がって行ったのだい」
「こっちですよ」
チンドン屋はオドオドしながら、ずっと見通しの町筋を指さした。
「急いでいたんだね」
「ええ、走るようにして曲がって行きましたっけ。すると、あいつが噂の人間豹だったのですかねえ。ブルブルブル、ああ、おっかない」
「その辺に自動車が待たせてあったのかもしれない」
「ええ、そうかもしれませんね。そんなこってすね。ですが、自動車でなくったって、もう大分時がたっていますからね。この辺にグズグズしているわけはありませんよ。エヘヘヘヘヘ、じゃごめんなさい」
明智小五郎は次にとるべき手段を、急速に考えなければならなかった。だが、それを考えながら、ふと彼は背後の空虚を感じた。ゾクゾクと背筋を襲ってくる空虚の感があった。
彼はそれが何を暗示するかを悟ると、思わずギョッとして振り返った。すると、ああ、果たして彼の背後にいるべき人の姿が見えなかった。「よいとまけ」姿の文代さんは、まるで蒸発でもしてしまったように、谷底の抜け道から姿をかき消していた。
「何かあったのだな」
明智はたちまちそれと直覚した。でなくて、文代さんがことわりもなく、彼の眼界から消え去るわけはなかったのだ。
赤い広告ビラの裏に、「文代さんは大丈夫かね」と書いてあったが、明智がそれを読んでいたその瞬間に、文代さんはもう「大丈夫」ではなかったのだ。
それにしても、一体全体どんな手段によって、白昼
「人間豹」いかに大胆不敵の魔術師とはいえ、これが果たして可能のことであっただろうか。
明智がチンドン屋の跡を追って谷底の抜け道から裏通りへと曲がって行ったとき、「よいとまけ」姿の文代さんは、
道の片隅に、低い鉄の
文代さんが今その欄干のそばを通りすぎたとき、ほら穴の階段から、サッと黒いものが飛び出してきたかと思うと、いきなり彼女の背後から組みついて行った。
文代さんが両手を上げるのが見えた。だが、声を立てる暇はなかった。黒いハッピを着た男と「よいとまけ」の女とが、一とかたまりになって、異様な生人形のように動かなかった。男の手はうしろから女の口へ、そこに白い
やがて、男はグッタリとなった文代さんを、軽々とあつかって背中におぶったかと思うと、傍若無人にもその異様な姿で、映画街の表通りの
男はきたないハッピ姿の人夫のような風体であった。破れたお
だが、男はそんなことをまるで気にもとめない様子で、ドンドン歩いて行った。眼の前に六区の交番があって、色の白い美男のおまわりさんが立ち番をしている。男はずば抜けた機智をもって、そのおまわりさんの真正面に立ち止まって、声をかけた。
「女房のやつがテンカンを起こしゃあがって、しようがねえんです。どっかお医者さんをお世話願えませんでしょうか」
おまわりさんはそれを聞くと、迷惑そうな顔をした。
「医者って、かかりつけの医者はないのか。お前どこのもんだ」
「へえ、
「三河島? フン、そうか。この辺に知合いもないんだな。テンカンなら心配したことはないだろう。しばらくほうっておけばなおるんだろう」
「でも、なんとか手当てがしてやりたいんで。わっしの身になっちゃ、ほうっておくわけにもいきませんからね」
男はちょっと憤慨して見せた。
「そうか、それじゃ、実費診療所へでも
おまわりさんはそれ以上取り合ってくれなかった。そして、それが男の思う
文代さんが麻酔の夢からさめたとき、彼女はどこともしれぬ赤茶けた畳の、薄ぎたない部屋にころがっていた。
「気がついたかね。明智の奥さん、とうとうおれは君を手に入れたぜ」
ハッピ姿のひげもじゃの男が、顔の上にのしかかるようにして、毒々しく呼びかけている。
「ハハハハハ、まだ頭がハッキリしないとみえるね。さア、もう眼をさますがいい」
男の一種異様の
「まあ、ここはどこですの? そして、あなたはいったい······」
文代さんがギョッとして起き上がろうとあせりながら、
「おれかね?」
すると男は、相手の苦悩を
「おれは君のよく御存知の者だよ。ほら、この声に聞き覚えはないかね。ついこのあいだ、君の家の書斎で話し合ったばかりじゃないか」
文代さんは、青ざめて、眼を大きく見ひらいて、だまったままの男の顔を見つめている。
「ハハハハハ、顔が違うというのかね。それじゃ今見せてあげよう。さあ、この顔だ。まさかこの顔を忘れやしまいね」
男は眼を隠していたお
「ああ、恩田······」
文代さんは男のそばを飛びのきながら、悲鳴を上げた。
「わかったかね。その恩田だよ。もう一つの名は人間
醜悪なけだもののくせに、まるで芝居のせりふみたいなことを言いながら、人間豹は身を縮めた
野獣のように骨ばった黒い顔、ギラギラと青く光る巨大な眼、まっ赤な唇、ドキドキと研ぎすましたようなするどい歯、それが徐々に徐々に、文代さんのおびえた眼界一杯に、途方もない大写しになって接近した。
事実逃げようとて逃げる余裕はなかった。といって、この強力無双の怪物に打ち勝つなど思いも及ばぬことであった。多くの女性は多分泣きわめきながら獣人の餌食となるほかはなかったのであろう。だが、文代さんはそうはさせなかった。
長い無残な悪戦苦闘であった。文代さんの美しい顔は
むろん文代さんは死ぬほどの目にあわされた。だが、最後の一線を譲ることはなかった。それを死守する余力だけは残っていた。さすがの悪魔もあまりにも
「ヘヘヘヘヘ」
悪魔のまっ赤に充血した口から、
「貴様、それじゃ早く殺されたいんだな。おれの方ではそれも望むところだよ。ちゃんと計画してあるんだ。思い切り奇妙な死刑の方法が考えてあるんだ。フフフフフ、文代さん、恐ろしくはないかね······それとも思い直しておれの大事なお客様になるか。え、その気になれないのかね」
「············」
「ヘヘヘヘヘ、
人間豹は倒れ伏した文代さんに顔を向けたまま、ニタニタ薄気味わるく笑いながら、横歩きに押入れの前に近づくと、その
押入れの中に大きな木箱が見えた。器械を送る荷造り箱のような厚い板の頑丈な箱だ。恩田はその
文代さんは明智の力を信じきっていた。相手が魔物なれば、彼女の夫は超人である。決して殺されることはない。必ず助けてくれる。名探偵明智小五郎は意想外の手段によって、不可能を可能にするのだ。最後の最後まで力を落とすことはないと、固く信じきっていた。
だが、人間豹の怪しげな言葉を聞き、さも自信ありげなせせら笑いを耳にすると、さすがに
人間豹が魔術師のようなゼスチュアで箱の中から引きずり出したものは、ひどく
はじめのうちは、薄暗い押入れの中で、その正体を見届けることができなかったけれど、やがて、それがズルズルと明るみに持ち出されるに従って、そのものに顔のあることがわかってきた。
熊だ。人間豹が熊を
「ヘヘヘヘヘ、
人間豹は毛皮をムクムクもてあそびながら、文代さんに近づいてきた。彼は「まだ喰いつきやしないよ」と言った。では、いつかはこの熊が生き返って彼女を喰い殺すというのだろうか。まさかそんなばかばかしいことが起こるはずはない。そういう意味ではなかったのだけれど、あとになって考えると、このなにげない言葉の中に、実に身の毛もよだつ恐ろしい暗示が含まれていたのである。
「これは熊の
人間豹の語調はだんだんやさしく変って行った。そして、それと反比例して言葉の内容は恐ろしくなりまさった。
「さあ、いい子だから、おとなしく
恩田の無気味な指先が、文代さんのからだから裂け破れた
毛皮の腹部を切りひらいて、シャツのように隠しボタンがつけてあるので、それを着てボタンをかけてしまうと、どこにも継ぎ目のない完全な生きた熊が出来上がる。人間の足と熊の後足とはむろん形が一致しないのだけれど、その部分に巧妙な細工がほどこしてあって、そとから見たところでは、少し後足が太い感じがするくらいで、そっくり本物の熊である。
「さあ、お熊さん、あんよだよ。あんよをするんだよ」
恩田は
熊の中の文代さんは、むろん
実におかしいとも恐ろしいとも名状のできない光景であった。空き家のように道具のないガランとした部屋の中、赤茶けた畳の上で、猛獣使いがはじまったのだ。大きな熊が芸当を仕込まれているのだ。
使われているのはほんとうの人間、皮一枚の下は美しい文代さんの丸はだかだ。そして、猛獣使いの方はというと、ハッピを着て二本の足で立ってこそいるものの、彼自身一匹の猛獣なのだ。豹の眼と豹の
だが、「人間豹」は一体全体なにをしようというのであろう。ただ熊の皮を着せてもてあそぶのが最後の目的ではないらしい。文代さんの行く手には、もっともっと恐ろしいことが待ち構えているのに違いない。恩田は「死刑」という言葉を使った。それは果たしてどのような残虐を意味するのであろうか。
「では、きょうはこのくらいにしておきましょうね。さあ、さあ、お熊さんは
恩田は熊を押入れに追い込んで、例のがんじょうな木箱の中へ抱き入れ、上から
「お熊さん、お腹がへったでしょうね。いま持ってきて上げますよ。お前の好物の
そして、ピシャンと押入れの
文代さんはもう身動きすることも、見ることも、聞くこともできなかった。ただ地獄の
だが、まさか文代さんをこのままにしておいて
お話は元に戻る。
愛妻文代さんの姿を見失った明智小五郎の
彼は現場付近を走りまわって、何かの手掛りを
それから少し落ちついた気持になって、彼は例の六区の交番にも立ち寄ったが、運のわるいことには、「人間豹」と応対した美男のおまわりさんは、ちょうど少し前に別の人と交替していて、テンカン女の事を聞き知るすべもなかった。もし明智があの奇妙な出来事を耳にしたならば、たちまち何事かを悟り、正確な捜査方針を立てることもできたのであろうが、ほんの一分か二分の
文代さん捜索のことは、すでに恒川警部が手配してくれているのだけれど、明智ともあろうものが、愛妻の事件をお上まかせにしておくはずはなかった。彼は映画街を[#「映画街を」は底本では「映面街を」]中心に、
それからしばらくして、彼はとある裏通りの
「それが変なのよ、あんた。まるで顔も姿も見せないんですもの。あたしの所から三度の御飯を運んで行くでしょう。それをね、だまって台所の障子をあけて、板の間へ置いて帰るのよ。そうしてくれっていう固い約束なのさ。しばらくしてお膳を取りに行くでしょう。すると
「まあ、いやだわねえ。そして、お前さん、その人を見たことがあるのかい」
「それがないんだよ。最初引越してきた人は、まあ立派な紳士だったんだけれどもね。どうもその人じゃないらしいの」
「へええ、なんだか気味がわるいみたいな話だわね。でも、あんた、どうして人が違うってことわかって?」
「手を見たのよ。顔は見ないけど手だけを見たのよ」
「手がどうしたっていうの?」
「けさね、あいたお膳を取りに行って、障子をあけるとね、少しあたしの行き方が早かったのさ、ちょうど御飯がすんだところと見えて、茶の間とのあいだの障子が細目にあいて、そこから
「まあ、よっぽど人眼を忍んでいるのねえ。でも、その手だけを見て人違いとわかったの?」
「ええ、あたしゃ、あんな気味のわるい手は見たことがないわ。薄黒くって毛むくじゃらで、いやに筋張っていて、指が長くって、指の先にはまっ黒になった
「いやねえ。じゃあその人、家にとじこもってて、そとへ出ないんだわね」
「ところが、時々はそとへ出るらしいのよ。それもこっそり出掛けるとみえて、ついぞ見かけたことはないんだけれど、でも、出掛けている
「あんた、それをほうっておくつもり?」
聞き手のおかみさんが、声をひそめて、まじめな顔になって尋ねた。
「どうしようかと思っているのさ。うかつなことをしては、あとが怖いしね」
「でも、それがもしや、あれだったら」ぐっと顔を近づけてささやき声になって「人間
ここまで聞けばもう充分であった。明智はいきなり話し手のおかみさんに近づいていって、彼の本名を名乗った。すると、おかみさんは、近頃評判の名探偵の名をよく知っていたので、スラスラと話が運んだ。
そのおかみさんは付近の仕出し屋の主婦であった。お膳を運ぶ先というのは、つい四、五日前からふさがった小さな借家で、あんまりひどいあばら家なのと、裏は
借り手は独身ものの立派な紳士であったが、おかみさんのところから三度の食事を運ぶこと、うちに人がいようといまいと、必ず一定の場所へお膳を置いて帰ること、決して台所から中へはいってはならぬことなどを固く約束して、一か月分の前金を支払った。しかし、現在住んでいるのは、今もいうとおり、決してその紳士ではないというのであった。
「僕が一度その家をしらべてあげよう。もし怪しいやつだったらすぐ警察に引き渡すし、そうでなかったら君のうちに迷惑のかからぬように、僕がうまくしてあげるから。どうだね。そこへ案内してくれないだろうか」
明智が説き聞かせると、おかみさんはすぐさま承知して先に立った。そして家主にも
家の中はガランとして道具も
明智は変装などする場合には、
だが、そうして長い時間を費やして、やっと階段の上に首を突き出してみると、案外なことには、二階も同じようにガランとして、いっこう人のいるけはいがしない。二た間きりの二階なのだが、開け放した
ひょっとしたら怪人物は外出したのかもしれない。だが二人連れのはずはない。少なくとも一人だけは、女の方だけは、ここに居残っているはずだ。いや、とじこめられているはずだ。
明智はだんだん気を許しながら、畳の上を
明智はその縁側まで行って、障子の
何か大きな物体がどこかでうごめいている感じだ。決して
押入れの中に何かがいる。むろん人間に違いない。だが、
すると、この押入れの中にとじこめられている人物こそ、あの女に違いない。人間豹が
明智はもうためらっていられなかった。彼はさいぜんもいう通り、愛妻を気づかうあまり、日頃の冷静を失っていたのだ。いきなり押入れの前に立ち寄ると、サッとその襖をひらいた。
すると、
さすがの明智も、まったく予期しなかった人物との、
「アッ、君は」
神谷君じゃないかと言おうとしたのだ。だが、皆まで言う暇はなかった。
その時、縁側の障子の
明智は不覚にも不意を突かれて、身をかわす暇もなく、脳天に
「ウフフフフフ、ざまあ見ろ、名探偵さん、意気地がねえじゃねえか」
大男は足先で、明智のからだを突っつきながら毒口を
「お二人さんお知合いと見えるね。ちょうどいいや、仲よくここで寝んねをしているんだね」
彼は用意の細引を取り出すと、死人のような探偵のからだを、グルグル巻きに
「こうしてね、あすの晩方まで我慢するんだ。あすの晩には万事O・Kってわけだからね」
男は二人のとりこを見おろしながら、さも得意らしくつぶやくのであった。
何が万事O・Kなのだ。あしたの晩にはこの二人が処分されるというのであろうか。それとも、もっと別な、一そう恐ろしい事柄を意味するのであろうか。
この大男は一体なにものであろう。むろん「人間豹」の手下には違いないのだが、大敵明智小五郎をこんな男に任せておくところをみると、人間豹自身には、何かのっぴきならぬ仕事があるのかもしれない。いや、しれないではない。読者諸君はよくご存知だ。彼は熊娘の番人を勤めている。どこかしら別の場所で熊の
ああ、文代さんの運命はいかになりゆくことであろう。
それにもかかわらず、
明智小五郎よ。今こそ君の力をためす絶好の機会なのだ。そうして、うちのめされて、縛られて、君の魂がこの世のほかの
明智は、まっ黒な重い水の中をもがき
実に長い長い時間、死にもの狂いの悪戦苦闘であった。
次に彼はからだじゅうに異様な圧迫感をおぼえた。闇の中に横たわったまま、手も足も動かなかった。いや、身動きばかりではない。口をきくことさえもできなかった。妙な錯覚が起こった。おれは死んでしまったんじゃないか。そして、重い墓石の下に埋められているんじゃないか。
だが、そのうちに、だんだん意識がハッキリしてくるにつれて、事の次第が判明した。あまりにもみじめな現在の立場が明らかとなった。
明智小五郎ともあろうものが、からだじゅうをグルグル巻きに
眼をこらしてじっと見つめていると、やがて、闇の中にも少しずつ濃淡ができてきて、ボンヤリと物の形が見分けられるようになった。たぶん昼間彼が
突如として、そのものが、押えつけられたような声で、かすかにうめくのが聞こえた······人間だ。誰かが自由を失って倒れているのに違いない。
だが、たちまち事の次第がわかった、ああ、そうだった。ここには神谷青年が縛られて監禁されていたのだ。昼間、思いもかけぬ神谷の姿に、ふと気を取られていた
「神谷君」
うっかり声をかけたが、それはみじめな
では、せめて神谷のそばまでころがって行って、縄を解く工夫をしようと身をもがいたが、縄の端が柱にくくりつけてあると見えて、もがけばもがくほど、縄目が
長い長い一夜であった。
そのあいだに二度ほど、
その都度天井からぶら下がっている電燈が点ぜられた。
そいつは、派手な色のアンダー・シャツを着た、六尺もあろうかと思われる大男であった。顔じゅうに
「気がついたかい」
男は明智の顔を見おろして、ニヤニヤ笑いながら言った。
「フフン、探偵さん命拾いをしたね。じゃあ、まあ、おやすみ」
彼は無慈悲にそんな事をいって、パチンと電燈を消した。
やがて夜が明けて、雨戸の
先にもしるした通り、その空き家は浅草公園に接してはいるものの、不思議と
やがて、正午近くとおぼしきころ、例の猛獣みたいな大男が、一方の手にはピストル、一方の手には二本の牛乳の
「探偵さん、それから、そっちの兄ちゃん、君たちにちょっと相談があるんだよ」
男は部屋のまん中にしゃがんで、二人の顔をジロジロ見おろしながら、しわがれ声ではじめた。
「おれは何も君たちを干し殺すつもりはないんだよ。さぞ腹がへっただろうね。君たちが案外おとなしくしていたのに免じて、ご
明智も神谷も、残念ながらお腹がペコペコだった。男の慈悲を受けるほかはない。それに、明智としては、猿ぐつわをはずした機会に、この男に尋ねてみたいことがあったのだ。
「フン、二人とも声を立てないというんだね。ヨシ、それじゃいま猿ぐつわをとってやるぜ」
男は二人を抱き起こして、それぞれ彼らの
「ハハハハハ、そんなに心配しなくってもいい。僕は大声なんか出しゃしないよ。僕はこんなみじめなざまを人に見せたくはないんだからね。助けになんかこられちゃあ、僕の方こそ困るんだよ。安心したまえ」
明智は相手の男が油断なくピストルを構えているのを見て、ニコニコしながら言った。
「ウン、そうか。なるほど、そういやそんなもんだな。明智ともあろうものが、このざまじゃあね」
男は憎々しく言って、ピストルを下げた。
「僕は君に二つ三つ尋ねたいことがあるんだが、その前に
明智と神谷とは、次々に、男の手から一本ずつの牛乳を取って、うまそうにゴクゴクと飲み終った。神谷青年は、グッタリとして、物をいう気力もない。口をきくのは明智ばかりであった。
「やあ、ありがとう。うまかったよ。ところで先ず第一に尋ねたいんだが、きのう僕をここへ案内した飯屋のおかみさんとかいう女は、たぶん君たちの仲間だったんだろうね。君たちというのは、つまり『人間豹』の一味のことなんだが」
それを聞くと大男は唇の隅で
「フフン、それを今気づいたのかね。遅かったねえ。するとお前さんはゆうべじゅう助けのくるのを心待ちにしていたんだね。フフン、そいつは虫がよすぎらあ」
事実、明智はそれを不思議に思っていた。彼がこの空き家にはいったまま、いつまでも出て行かないのを知ったら、あのおかみさんはこの事を警察へ訴え出るに違いないと思っていた。だが、いつまで待っても救いのこないところを見ると、あのおかみさんそのものが賊の一味であって、明智をこの空き家へ誘い込むために、巧みなお芝居をうったとしか考えられぬ。あのとき家主に断わってきたというのも、でたらめだったに違いない。
「ホウ、なかなかやるねえ。あの女は名優だよ」
明智は感に
「すると、このうちの借り主というのは君だったのかい。僕は恩田自身がここにいるんだと思ったが」
「そう見せかけたのよ。でなくっちゃあ、けだものは
「ホウ、君一人か。それで
「アハハハハ、おどかすない。おらあ一人じゃねえよ。ここにもう一人、ちっちゃいけれど、恐ろしく強い味方がいらあね。いくら名探偵だって、身動き一つさせるこっちゃあない······おらあ命しらずの
男は小型のピストルを、手の平の上で、ピョイピョイと踊らせながら、ふてぶてしく答えた。
「ところで、君は僕たちを一体どうしようっていうのだい。恩田は君に何を命令したんだい。二人とも殺してしまえとでもいいつけられたのかい」
明智がからかうように尋ねた。
「ウン、いずれはそういうことになるらしいんだ。だが、今じゃない。まあ、夕方までは大丈夫らしいよ」
男は歯をむき出して、憎々しく宣告した。
「ホウ、夕方まで?」
「ウン、それまでは、人間豹の方で手の離せないことがあるんでね。
「喰うか喰われるかだって?」
明智が妙な顔をして、するどく尋ねた。「喰うか喰われるか」、その言葉に何かしら記憶があったのだ。
「アババババ、こいつは言うんじゃなかったっけ。なあにね、ともかく夕方まではお前たちの命に別状はないっていう話さ。それだけのことよ」
急いでごまかそうとしたが、この重大な言葉を
彼はじっと空間を見つめたまま、頭の
だが、やがて、青ざめていた明智の顔にサッと血がのぼった。何かしら悟るところがあったのに違いない。そして次の瞬間には、彼の眼に恐ろしい
「ところがね、君、僕は夕方までここにはいないつもりだよ」
突然、明智はニコニコした表情になって言い放った。
「おいおい、から
「この
「ウン、それもあらあ、どんな縄抜けの名人だって、その縄だけは、ちょいと抜けられめえよ」
「それから、そのピストルかね」
「ウン、そうよ、そうよ。この小っちゃい仲間は、まことに気持のいいやつでね。貴様たち二人くらいの命を取るのはなんの
「ブルブルブル、おお、
明智はおかしそうに笑い出して、ゴロリと横になった。
「なんだか薄気味のわるいやつだなあ······だが、そうおとなしくしていりゃあ、こっちも別に文句はねえ。じゃあまた
男は固く丸めた
「おい、君、そいつをはめる前に、一つ頼みがあるんだがねえ」
明智がやっぱりニコニコして言い出した。
「なんだ」
「君は煙草を持っていないかい。腹がくちくなると、今度は一服吸いたくってねえ。面倒ついでに、一つ煙草もくわえさせてくれないか」
「ウン、煙草か。感心だよ。さすがに度胸が
「やれやれ、そいつは残念だなあ······待てよ。おい、君、あるよあるよ。僕の内ポケットにシガレット・ケースがはいっているんだ。その中にまだ二、三本残っているはずだよ。君、すまんがこのポケットへ手を入れて、そいつを出してくれないか。むろん君にも一本進呈するよ。M・C・Cだぜ」
「ウン、M・C・Cとは、聞き捨てにならねえな。久しくお眼にかからねえよ。よしよし、いま出してやるよ」
男はよほどの煙草好きとみえて、相好をくずしながら、明智の職工服の内ポケットへ手を入れた。きたない職工服から銀のシガレット・ケースだ。それからもう
「おや、こんなものを持っていやあがる。危ない危ない。こいつはこっちへ預かっておいてと」
男は万能ナイフをわきに置いて、それからシガレット・ケースをパチンとひらいた。
「あれ、金口だぜ、今時
「二本でもいいじゃないか。僕が一本、君が一本」
「ウン、まあ我慢して仲よく一本ずつ分けるか。二本とも没収しちゃってもいいんだが」
さいぜんからの話しぶりでもわかる通り、この
彼は寝ころんでいる明智の口へ、一本の金口の巻煙草をくわえさせて、マッチをすってやった。
「いや、ご苦労ご苦労、実にうまいよ。さあ、君も遠慮なくやりたまえ」
明智は青い煙をフーッと天井へ吹きつけながら、くわえ煙草で、ほがらかに勧める。
男はなかなかの煙草好きとみえて、
「ところでねえ、君、君はZ曲馬団というのを知らないかね」
明智はなにげない世間話のようにはじめた。
見ていると、妙なことに、彼はM・C・Cの煙を、
Z曲馬団と聞くと、男はなぜかドギマギして、あまりうまくない答え方をした。
「知らないよ。そんな曲馬団なんて」
「そうかい。たぶん知ってるだろうと思ったがねえ」
明智は眼を細くして、
男はだまり込んで、むやみに煙草を吸っている。あまりにのんびりとしたテンポののろい会話、敵味方とも思われぬほがらかな情景、何かしら物憂い生暖かい空気が部屋を包んでいた。
「ハハハハハ、さて大将、いよいよお別れの時がきたようだね」
突然、明智が煙草の吸いさしを吐き出して、低く笑いながら言った。
だが、相手の男はこの暴言になんの答えをする力もなかった。
彼は煙草を持った手をダランと垂れて、ポカンと口をあいて、物憂い
「神谷君、ご
明智が今までとはうって変った緊張した声で、かたわらの青年に呼びかけた。
疲労のために、いくじなくグッタリしていた神谷青年は、この明智の声にハッと身を起こした。
「では、今の煙草に何か······」
「そうですよ。僕はいざという時の用意をおこたったことはありません。僕の内ポケットには、どんな時でも必らず二本のウェストミンスターかM・C・Cの、強い麻酔剤を仕込んだ巻煙草が、ちゃんとはいっているのですよ。僕はそれをちっとも吸い込みはしなかった。ところが、先生は煙草に餓えていて
「ああ、そうでしたか」
神谷は名探偵の用意に感嘆して、
「ですが、この
と、まだ不審顔。
明智は「あれ」と眼で教えておいて、いきなり
それから、ナイフの
たちまちにして主客
それがすむと、明智はさいぜんから、
彼は「人間豹」の手下の大男が「
喰うか喰われるか
印度 の猛虎と北海の大熊の大血闘
わがZ曲馬団は愈々 数日中に東京市民諸君に訣別 致すこととなりましたが、訣別にのぞみ御愛顧御礼として、来る×月×日午後一時より、特別番外猛獣団長大山ヘンリー氏の出演を乞 い、印度産猛虎と北海の大熊との、喰うか喰われるか、血を見ざればやまぬ、猛獣大格闘を御覧に供します。何を申すも猛獣同士の闘いの事なれば、何 れか傷つき斃 れますは必定 、この一回を御見逃しあっては二度と見られぬ凄絶 惨絶の大場面、当日は全市民各位の御来観御声援を切望致す次第で御座います。


わがZ曲馬団は
とあって、紙面の上欄に、一個奇怪な人物の写真が、大きく印刷され、その下に「世界的猛獣団長大山ヘンリー氏の
明智はきのう、裏の挑戦文ばかりに気を取られ、広告の方はよくも見なかったし、猛獣団長の写真などいっこう注意もしなかったが、いま見ると、これは不思議、そこに大山ヘンリー氏として掲げられている人物は、ほかでもない、きのうの将軍ひげのチンドン屋その人ではないか。世界的団長自ら広告
明智はじっと穴のあくほど、その奇妙な写真を見つめていたが、やがて、何を悟ったのか、いきなり神谷青年の眼の前に、広告ビラをさし出して、あわただしく尋ねた。
「神谷君、これ、この写真をよく見てください。君はこの写真から何か感じませんか。この人物に見覚えはありませんか」
神谷は明智の権幕にびっくりして、広告ビラを手に取ると、その写真をしばらく見つめていた。
「そういえば、なんだか見たような顔ですね。しかし······」
「思い出せませんか。それじゃね、そのピンとはねた黒い将軍ひげを取って、その代りに白い口ひげと、それから、房々した白い
「白い口ひげ、白い顎ひげ······おや、そうだ。あいつとそっくりだ」
神谷は
「恩田の父親ですか」
「そうです。そうです。あいつに違いありません。だが、どうして······」
「たぶんそんなことだろうと思ったのです。僕は恩田の父親というものにはまだ対面したことがないので、君に尋ねてみたのですが、やっぱりそうだ。神谷君、こいつは、きのうチンドン屋に化けて浅草の映画館の横で僕たちを待ち受けていたのですよ。そして、こいつが僕を裏通りへ誘って、こんな挑戦状みたいなものを渡して暇取っているあいだに、
「ああ、そんな事があったのですか。とうとう先生の奥さんまで······それじゃ早く救い出さなければ」
「僕もそれを考えているのです」
「どこへ連れて行ったのか、お心当たりは?」
「このZ曲馬団の中だと思うのです」
明智が青い顔をして答えた。
「エ、曲馬団の中ですって?」
「しかも、僕は今、ふと恐ろしいことを考えたのです。ハハハハハ、なあに、僕は少し神経衰弱になっているのかもしれません。だが、ひょっとしたら、ああ恐ろしい······」
明智ともあろうものが、この恐怖、この
「なんです。どうなすったのです」
神谷青年が心配して、探偵の顔をのぞきこむ。
「いや今は聞かないでください。お話するさえ恐ろしいのです。しかし、僕は急がなければならない。だが、間に合うかしら」
明智は腕時計を見た。幸い破損せず動きつづけていた。
「一時五分前だ。こうしてはいられない。神谷君、わけはあとで話します。僕と一緒に来てください」
言うなり、彼はもう
東京市民生活の触手が、田園農民生活の中へ突入し、市民と農民とそれから小工場労働者とが渦を巻いて入れまじっているような、大東京西南の一隅M町の、ほこりっぽい古道具市で有名な広場に、一か月ほどもうちつづけている大サーカスがあった。その名はZ曲馬団。
その曲馬団の大テントの正面に、きのうから、突如として無気味な絵看板が掲げられた。三間四方もある大看板一杯に、黄色に黒く
「
「
絵看板の前の人だかりは、恐ろしい見世物の刻限午後一時が近づくにつれて、刻一刻その数を増して行った。
「さあ、お早くお早く、虎と熊の格闘がいよいよはじまる。これを見落としたら二度と再び見られぬ。孫子の末までの語り草だ」
木戸口に
その木戸口には、ゾロゾロと
正面の一段高い舞台には、古びたビロードのドンチョウが、そのうしろにいるに違いない激情的な生きものを隠して、なにげなく下がっていた。赤茶けた色のドンチョウには、金モールでZという巨大な文字が浮き出している。
「ゴーン、ゴーン、ゴーン······」
突如として耳を
一としきり、稲穂の波打つような客席のざわめき。あちこちに起こる
スルスルとドンチョウが上がった。
舞台中央に立った一人の異様な人物、金モールの飾りいかめしい赤ビロードの
彼は猛獣用の
「······さて、いよいよあれなる二つの
彼が鞭で指さす舞台後方には、車のついた二つの檻が、奥深く、薄暗く見えて、その一方の檻には、さも
「······熊は
将軍ひげの猛獣使いは、そこでちょっと言葉を切って、彼の弁舌の効果を確かめるように、静かに場内を見まわした。
「観客諸君、皆さんは実に果報者でいらせられまするぞ。一頭一万円もしまする猛獣が、傷つき、倒れ、皮を破られ、肉を食い裂かれ、骨となるまでの、身の毛もよだつ光景を、今まざまざとごらんなさるのでござります。いやいや観客各位、そればかりではありませんぞ。猛獣は泣き叫ぶのです。狂乱して逃げまどうのです。ああ、まるで、それは人間のように、か弱い美しい女のように、助けを求めて泣きわめくのです。皆さんの前に、どんなむごたらしい光景が展開いたしますことやら。
ひげの猛獣使いは、何かしらわけのわからぬことを口走った。ただ観客を
「さて、長口上はこれにとどめ、いよいよ、喰うか喰われるか、猛獣血闘の実演をごらんに供するでござりましょう」
「ゴーン、ゴーン、ゴーン······」
またしても鳴り響くドラの音。
舞台に走り出た八人の男は、二つの
大山ヘンリー氏が、またしても一歩前に進んで、
明智小五郎と神谷青年とが、浅草公園横の大通りで、タクシーを呼び止めたのが、ちょうどその時分であった。
「M町の三つまただ。料金はいくらでも出す。五分間で飛ばしてくれたまえ」
明智が車上の人となるや、運転手にどなった。
「五分間ですって! いやあ、そいつあ無理ですよ。どんなに飛ばしたって、十分はかかりまさあ」
だが、運転手はまだ若いすばしっこそうな男だった。
「速力の規定なんか無視しても構わん。僕は警察関係のものだ。決して面倒はかけない」
「だって、市内ではいくら飛ばそうたって、先がつかえてまさあ」
運転手はもうスピードを出しながら、どなり返す。
「よし、それじゃ、懸賞つきだ。前の自動車を一台抜くたびに十円だ」
「十円? 心得たっ。だが、
たちまち車は矢のように飛んだ。
道行く人々が急流のように後方に流れ去る。ああ、一台又一台、電車も、自動車も、トラックも、すれ違ってはあとに残されて行く。十字路の信号燈を無視したことも一度や二度ではなかった。
「コラ、待てっ!」
大手をひろげてどなっているおまわりさんのまっ赤な顔が、しかし、みるみる小さく小さく遠ざかって行く。
舞台では一つになった
「熊あ、熊あ、しっかりしろっ!」
へんてこなかけ声が客席の一隅に起こった。
「
また別の声援が、
だが、猛獣はなかなかおだてに乗らず、
たまりかねた観客席から、ついに
「やれ、やれえ······」
「やっつけろい······」
「ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ······」
猛獣よりも先に、見物が
満を持して動かなかった猛虎も、この
「ワーッ······」
と上がる喊声、見物席は総立ちとなった。だが、なんというあっけなさ。大熊はまったく無抵抗であった。虎の一撃にゴロリと倒されるとそのまま、
「熊あ、しっかりしろっ」
すると、その時まで、まるで眠っているか死んでいるとしか思えなかった大熊が、仰臥のままモガモガと、
だが激情の見物たちは、まだその悲鳴に気づかなかった。
熊は檻のそとへ出られぬことがわかると、いきなり後足で立ち上がり、飛んだり跳ねたり、気違い踊りをはじめた。踊りながら、広くもあらぬ檻の中を、縦横無尽に
そのあいだ、いぶかしい女の悲鳴は切れてはつづいていた。
「おい、どっかで女が泣いてるじゃねえか」
「ウン、そうよなあ、おれもさっきから不思議に思っていたんだよ」
見物席の騒擾の中に、あちらでもこちらでも、ボソボソと、そんなささやきが取りかわされた。
しばらくは熊の狂態にあっけに取られて、攻撃を忘れていたかにみえる
「ウオーッ······」
ただ一と声、
黄色と黒とが、一瞬にして一団となり、クルクルと
「ワーッ、ワーッ」
と上がる
ああ、一体どんな女が、どこで泣き叫んでいるのであろう。ともすれば、それは
「キーッ」
と悲鳴のようなブレーキの音を立てて、明智たちの乗っている自動車が急停車した。
「チェッ、ご
運転手が憎々しげに舌うちしたのももっともであった。彼らの前には、黒と黄のだんだら染めの交通
「あっ、しまった。神谷君、運の尽きだ。見たまえ、もう一時を十五分も
明智がまっ青な顔をして、眼を血走らせて、うめくように言った。
だが、神谷青年にはその意味がよくわからなかった。
「さっきから聞こう聞こうと思っていたのですが、いったい僕たちはどこへ行くんですか。間に合わないというのは何に間に合わないのですか」
「僕の家内の命の瀬戸ぎわです。殺されかけているんです。探偵のくせに女房一人救えないなんて······
彼は燃えるような敵意をこめて言い放ったが、次の瞬間には、又しても不安と
「ああ、しかし、だめかもしれない······この長い長い貨物列車が、僕の悪運を象徴しているのかもしれない」
サーカスの舞台では、ピシーン、ピシーンと
「
酔っぱらっているような
「のしちまえ······」「しっかりしろ······」
などのかん高い声々が、コーラスのように
だが、不思議に
黄色と黒の一団の玉となって檻の中をころげまわっていた二匹の猛獣は、やがてサッと離れた。と言って、大熊の方は、まるで失神でもしたように、
虎は青く光る眼で、さも楽しげに大きな敗北者を
猛獣団長のしなやかな鞭が何かの意味をこめて、つづけさまに鳴り響いた。その、今までとはまったく違った、まるで奇妙な笛のように聞こえる空気切断の音響が、見物席を
アッという、眼にも止まらぬ素早さであった。
「ワッ、やられたっ!」
という感じで、見物席は又しても総立ちとなった。敗北者熊への声援が、一としきり大テントをゆるがした。
だが熊は、
「おい君、変だぜ。あの熊はあんなにひどく喉を
最前列の見物の中に、そんなつぶやきが聞こえた。いかにも、熊の喉からは一滴の血も流れてはいなかった。虎の牙は月の輪のあたりに食い込んで、首を振るたびごとに、そこの皮がメリメリと裂けてゆくのがハッキリ見えているのに、血の流れ出すけはいさえないのは、実に不思議というほかはなかった。あれは
だが不思議はそれにとどまらなかった。やがて、前列の見物たちのあいだに異様などよめきが起こった。大熊の
「なんでしょう? え? あれはいったいなんでしょう?」
最前列の商人ていの男が隣の青年にしがみつくようにしてワナワナ
見よ、熊の喉のあたり、するどい
虎は案外
総立ちになった見物たちは、もう
明智小五郎と神谷青年の同乗した自動車の前を、長い長い貨物列車がやっとのことで通過した。踏切りのだんだら染めの
「チェッ、かっきり三分も待たせやがったぜ」
運転手は舌打ちをして、スターターを踏んだ。ガリガリというやけな音と一緒に、ガソリンの煙が車内に逆流した。そして、車は邪魔っけな自転車どもを押しのけるようにして、でこぼこの鉄道線路を乗り越えて行った。
明智は青ざめた顔で前方を凝視したまま、もう物を言わなかった。全身がワナワナ
神谷青年は横眼遣いに、この無気味な飛び道具をジロジロと
車は又しても恐ろしい速度を出して、前方の自動車どもを一台一台と追い越して行った。眼の届く限り、
丸い気球の下に、何か赤い点々のようなものが、ヒラヒラしている。広告文字に違いない。だが、自動車は疾風の早さである。みるみる、その赤い点々が七ポイント活字ほどの小ささに、それから、八ポイント活字、九ポイントと徐々に大きくなって、やがて動揺する車からも、はっきり読み取れるほどに拡大した。
「猛獣大格闘······Z曲馬団」
ああ、それは目ざすZ曲馬団のアド・バルーンであった。あの風船の下にテント張りの見世物が興行しているのに違いない。
舞台の
鳴りを静めた大群集は、彼ら自身の眼を疑わないではいられなかった。これは今ほんとうに起きているのかしら。それとも、何か飛んでもない幻覚を見ているのではあるまいか。こんなベラ棒な
檻の中では、そういう椿事を
ただ見る、檻の中央には、上半身がまっ白で下半身がまっ黒な、お化けのような一物が、スックと立ち上がっていた。だが、それはなんと
乱れた髪の毛、泣き
しかし、見物たちは、この白昼のあやかしに魂を奪われて、急にはそれと気づくこともできなかった。陸の人魚というものがあるならば、それは文字どおり陸の人魚であった。美女と野獣との混血児、怪しくも美しき半人半獣の妖怪としか感じられなかった。
美しき妖怪は、
群集はそれを悟ったものもあり、悟らないものもあった。だが、一様に思い出したのは、さいぜんの大山ヘンリー氏の不思議な口上であった。
「猛獣は泣き叫ぶのです。狂乱して逃げまどうのです。ああ、まるで、それは人間のように、か弱い美しい女のように、助けを求めて泣きわめくのです。皆さんの前にどんな美しくむごたらしい光景が展開いたしますことやら。
何かそんなふうな意味のとれない奇怪
だが、この半人半獣に
見物はもう夢中であった。ものを言うこともできなかった。手を
かようにして、艶めかしき半人半獣の驚くべき恐怖舞踏がはじまった。彼女の足はよろめき、胸は
「助けてえ······助けてえ······」
恐れに飛び出した両眼と調子を合わせて、真底から救いを求める叫び声がほとばしった。
何度もそれを繰り返しているうちに、とうとう、虎のするどい
見物たちはまだおしだまっていた。大テントの下はまるで墓場のように静まり返っていた。だが、その沈黙の中に、何かしらお化けみたいな
「これがお芝居なのかしら。お芝居にあれほど真に迫った恐怖の表情ができるものだろうか。第一いくら商売といっても、美しい肌に、あんなひどい傷をつけられて、平気でいるなんて、常識では考えられないことだ」
「ひょっとしたら、あの女は猛獣使いでもなんでもない、
見物たちの頭の中に、そんな判断力が、ぼんやりとよみがえりかけていたとき、突如として、どこかしら高い所から、男の笑い声が降ってきた。カラカラという
千百の顔が、
天井には、曇り日の空のような白っぽいテントがあった。テントのすぐ下には、
群集はそれを見ると、一そう気違いじみた
舞台の
檻の横手にたたずむ猛獣団長の顔はドス黒く
ヒューッ、ヒューッという
ガブリ、ただ
見物たちのうちに、これをしもお芝居と考えるものは、一人もいなかった。千百の顔が、
読者諸君、われらのヒロイン明智文代さんの一命は、かくして
天井の丸太棒につかまった「人間豹」恩田と、猛獣使い大山ヘンリーになりすまして、鞭をうち振るその父親とは、数丈の上と下とで、ひそかに顔を見合わせて、わが事成れりと
その時である。
観客たちは、何かしら頭の
すると、これは一体何事が起こったのだ。殺されていたのは、人間ではなくて虎の方であった。彼は脳天から一と筋の血を
美しい半人半獣の方は、やっぱり失神したままであったけれど、肩の
丸太棒の上の笑い声がパッタリとやんだ。大山ヘンリー氏の
すると、彼の視線の中を、見物席をかき分けながら前に進んでくる人物があった。職工姿の明智小五郎だ。神谷青年だ。それから制服私服の一団の警察官だ。言うまでもなく、危機一髪の
彼のあとにつづく警官は、明智の電話によって恒川警部が手配してくれた、K警察署からの先発隊であった。明智がZ曲馬団の木戸口に着いた時には、彼らはもう自動車を降りて明智の到着を待ち構えていた。
「明智さんだ。明智さんだ」
変装はしていたけれども、さすが大衆の眼早さで、見物席のどこからともなく、名探偵讃美の声が起こった。彼らは新聞記事によって、明智小五郎と「人間
大山ヘンリーに変装した「人間豹」の父親は、明智の姿を認めると、サッと顔色を変えて逃げ出そうと身構えたが、すばやい警官隊は、むろんその余裕を与えず、ドカドカと舞台に
するとさすがは老怪物、逃げ腰になっているのをシャンと立て直して、将軍ひげを震わせながら、声のない笑いを笑った。そして、ゆっくりゆっくりズボンのポケットに手を入れると、
その頃、場内は津波のような混乱におちいっていた。木戸口に殺到する群集のわめき声、
「人間豹だ」
「人間豹があすこにいる」
「ああ、逃げ出した。人間豹は屋根の上へ逃げ出したぞ」
見上げると、天井に
透き通って見える白い
今や場内に居残った大群集は残らず「人間豹」の敵であった。彼らは声を
Z曲馬団と「人間豹」親子とは、別に深い関係があるわけではなかった。ただ二匹の猛獣をつれた親子のものが、西洋帰りと称して、Z曲馬団に取っては非常に有利な条件で、臨時加入を申し込んだものだから、殺人犯人とは夢にも知らず、その申し込みに応じて、宣伝などをしたまでであった。したがって、Z曲馬団の全員も、今は決して「人間豹」の味方ではなかった。
「そとへ
群集の叫び声に教えられるまでもなく、明智はすでにその手配をしていた。警官隊の一部と曲馬団の男たちが、テントのそとへ飛び出して、小屋の周囲に散兵線を敷いた。明智自身も彼らのあとにつづいてそとに出ようとした。そとの広場に立って、屋根の上の
ハッとして振り向く眼の前に、一つの悲劇が終っていた。将軍ひげいかめしい闘牛士は、金モールの胸から血を流して
ちょうどそのとき、又しても一隊の警察官が、木戸口からなだれ込んできた。
「おお、明智君、奥さんは大丈夫か」
先頭に立った恒川警部が、
「ウン、やっと間に合った」
明智は舞台の一方を
「だが、残念なことに、犯人の一人が自殺してしまった」
「ああ、そこに倒れている······するとあれが恩田のおやじだね」
「そうだよ。猛獣使いに化けていたんだ」
「で、
「屋根の上へ逃げ出した。あれを見たまえ」
明智が指さす大テントの天井には、右往左往する
「そとへ出てみよう」
明智と恒川警部と新来の[#「新来の」は底本では「新米の」]警官たちとは、大急ぎで木戸口を出ると、見世物小屋のうしろの広場へ
明智たちは、それらの群集のうしろの小高い場所に立って、テントの屋根の斜面上での、
まっ黒な背広を着た「人間
「いよいよあいつも運の尽きだね。飛び降りるか、でなきゃあ······」
恒川警部がそんなことをつぶやいた時、まるで言い当てでもしたように、空の黒豹は、屋根の端からすばらしい跳躍をしたのである。
四つん這いの黒いからだが、尺とり虫のように縮んだかと思うと、やにわにサッと延びて、空中に見事な弧を描いた。
それを見ると、地上の群集は「ワーッ」と叫んで、逃げ足立ったが、不思議なことに、いつまでたっても、
「アッ、風船だ。風船へ逃げた」
誰かのどなり声に、人々は又
広告風船は、風にゆらめきながら、銀色の巨体を、
「ロクロを
人々は叫びながら、ロクロに
あわれ
だが、綱につかまった「人間豹」は、
「オーイ、むだな骨折りをさせるな、早く降りてこい」
地上の警官たちが業をにやして、空中の犯人に呼びかけた。
「ワハハハハハ、諸君、君たちこそむだ骨折りはよしたまえ」
空中からの応答が、風に吹き飛ばされながら、かすかに聞こえてきた。
「ああ、明智君、恒川君もそこにいるんだね。ご苦労さま。だが、君たちは又むだ骨折りをするばかりだぜ」
「人間豹」は赤い「大」の字の前にぶら下がって、傍若無人の憎まれ口を
「馬鹿野郎、文句はあとでゆっくり聞いてやる。早く降りてこおい。往生ぎわがわるいぞう」
警官が負けずに応酬した。
「アハハハハハ、君たちおれをつかまえた気でいるのかい。ハハハハハ、こいつはお笑い草だ。なぜといってね、おれは決してつかまらないからな」
叫ぶかと思うと、空中の恩田の右手にキラリと光るものがあった。大型ナイフだ。そのナイフが彼の腰のあたりの綱の上を
「ワハハハハハ明智君、あばよ。恒川君、あばよ。ワハハハハハ」
飛び上がる風船と共に、悪魔の
その翌日、相模半島の漁船が、沖合遥かの海上に、銀色の大ダコのような怪物がただよっているのを発見した。調べてみると、それはZ曲馬団のアド・バルーンに違いないことがわかったが、「人間
だが、それから一年以上のあいだ、われわれは彼の消息をまったく耳にしないのである。たとえ生き永らえているにせよ、人間獣の害悪は
かくして、私立探偵明智小五郎の名声は
ただここに一つ、永遠に解きがたき
そこには、恩田の父親だけが握っている、恐ろしい秘密があったのかもしれない。だが、その父恩田はもはやこの世の人ではなかった。彼の自殺と共に、「人間豹」の奇怪事は、千古に解きがたき謎として残されたのである。
では、あの浅草の動物園から盗み出した豹は、いったいどうなったのか。読者諸君は、それをいぶかしく思われるに違いない。だが、あの豹は父恩田と運命を共にして、サーカスの舞台で
彼らは人間の白毛染め薬を用いて、豹の
彼らはその虎と、文代さんを包んだにせ物の熊とを連れて、
「人間豹」事件は、明智小五郎が取り扱った多くの犯罪事件の中でも、最も奇怪な色彩のものであった。当の被害者が、愛妻の文代さんであったという意味だけでも、彼には長く忘れがたい印象となって残った。
「僕はね、あの風船に乗った恩田のやつが、空の上から僕たちをあざ笑った気味のわるい笑い声が、いつまでも耳に残って離れないのだよ。夢に見るのだよ。おそらく一生涯あの声は忘れないだろうね」
明智はそののち恒川警部に会うごとに、きまったようにそれを言い出すのであった。