「親分、変なことがあるんだが||」
「お前に言わせると、世の中のことは皆んな変だよ。角の荒物屋のお清坊が、八五郎に渡りをつけずに嫁に行くのも変なら、松永町の
「止して下さいよ、そんな事を、みっともない」
銭形平次と子分の八五郎は、相変らずこんなトボケた調子で話を運ぶのでした。平次の恋女房のお静は、我慢がなり兼ねた様子で、笑いを噛み殺しながら、お勝手へ
「何を言うんだ、そいつは皆んなお前が持って来たネタじゃないか。こんどは何処の新造が八を
「そんな気楽な話じゃありませんよ。三河町の吉田屋彦七||親分も御存じでしょう」
「うん、知っているとも、たいそうな
「三河町の半分は持っているだろうという大地主ですよ。その吉田屋の総領の彦次郎という好い息子が
障子の外の
「それがどうした、化けてでも出たか」
「そんな事なら驚きゃしませんがね。町内の評判息子で、
「あ、乗出しやがったな八、まず
「誰でも一応はそう思うでしょう。ところが大違いなんで」
「どこが違うんだ」
「女が泣きながら言うんだそうで||身上に眼が
「女にもその一分なんてものがあるのかえ」
「まア、聴いて下さいよ親分。その女が言うには、若旦那の
「泣くなよ、八」
「若旦那と言い交した証拠はこれこれと、持って来た品々は、若旦那から貰ったという髪の物から身の廻りの品々、それに若旦那から送られた恋文が、なんと四十八本」
「恐ろしく書いたね」
「身体も心も弱かった若旦那が、両親に隠れて言い交した女だ。滅多に逢う瀬もなかったことだろうし、いつ親たちの許しを受けて、家へ引取れることか、その当てもなかった」
「
「去年の川開きの晩、友達に誘われて、始めて逢ったという、水茶屋の女ですよ」
「それはまた変っているね」
大家の若旦那の相手なら、
「世馴れない若旦那の初恋だ。相手を
「話はそれっきりか」
平次は先を
「吉田屋の両親も、最初から泣かされてしまいました。倅が生きていたら、敷居を
「それで、吉田屋では引取ることになったのか」
「昔吉田屋の隠居が使ったという、裏の
「それっきりか」
「それっきりには違いありませんが、両国の水茶屋で、弁天屋のお伝お半と並べて
八五郎に言わせると、水商売の女が四十八本の色文を使い紙にもせず紙衣も
「弁天屋のお伝とお半というのは噂に聴いた女だが、吉田屋に乗込んだのはどっちだ」
「お半の方ですよ。お伝はおとなしい娘でしたが、三月前に死んで、少し鉄火で綺麗なお半の方が紅白粉を洗い落して、吉田屋へ乗込んで来たんです」
「世の中は様々だ。水商売の女だから浮気と限ったものじゃあるめえ」
そう言う平次の女房のお静も、もとは水茶屋の茶くみ女だったことに思い当ったのでしょう。
「でもね、親分。あの仇っぽいお半坊が、

「馬鹿野郎ッ」
平次はこの至極封建的な一
それから一と月ばかり[#「一と月ばかり」は底本では「一と月ばり」]、藤や
「親分、やはり変なことになりましたよ」
「また変な事の押売りか、何がどうしたんだ」
フラリとやって来た八五郎は、少しつままれたような顔をしております。
「三河町の吉田屋ですがね」
「お半が
「お半に変りはありません。
「よし、待って居な」
平次もこれは否応ありません。さっそく着換えをして、三河町まで八五郎と一緒に飛びました。
「お、平次、よく来てくれた」
年輩の同心近藤常平は、ホッとした様子で平次を迎えました。
「相済みません、遅くなりました。御検屍はもうお済みで」
「済んだばかりだよ。一応見て行ってくれ。町内の掛り付けの医者も、毒死や
近藤常平は心得たことを言うのでした。
店の番頭に案内されて、奥の部屋へ通ると、内儀の死体はまだそのまま、検屍がすんでホッとした人々は、これから手分けをして葬い万端の支度をしようというところです。
「あ、銭形の親分、とんだお騒がせをして」
主人の彦七はまだ四十二三、頑丈そうな身体と、弱そうな神経を持った典型的な旦那衆で、検屍が無事に済んで、改めて
死体の枕元にジッと首を垂れて、恐ろしい悲しみを歯を喰いしばって我慢しているのは、神経質らしい小柄な美少年で、年は十七八でしょうが、ちょっと見は十四五にしか見えません。それは去年死んだ若旦那彦次郎の弟で、今は吉田屋の一粒種、文三郎というのとわかりました。
あとは手代の徳次二十五歳、番頭の喜代三の四十八歳など、いずれも神妙に
内儀お安の死顔には、明かに苦悩の色を留めておりますが、それは若くて死ぬ人にあり勝の病苦の跡で、仏作った顔は四十そこそこの、極めて無事な相好でした。
口中にも、眼瞼にも、喉にも、胸にも、なんの変化もなく、なお念入りに見た耳の穴にも、
「どうだ平次」
近藤常平は後ろから差覗いておりました。
「少しも」
平次は首を振りました。
「それで良し、葬いを出しても仔細はあるまい」
近藤常平に取っては、医者の検屍の上に、銭形平次の意見が必要だったのでしょう。それが済むと平次は、八五郎の眼に誘われて、裏の方に廻ってみました。
「お半に逢ってみましょう。主人はあのとおり弱気で、自分の思ったことも言えない人ですが、息子や奉公人たちがうるさくて、内儀の葬い騒ぎにも、あの女だけは母屋へ
八五郎はそう囁やくのです。
土蔵の蔭へ廻ると、もと隠居家に使ったという三間四方ほどの小さい離屋があって、半分開けたままの障子の隙間から、中の様子はよく見えます。
「············」
八五郎は黙って指しました。それはささやかな仏壇の前に、キチンと坐って、一心不乱に
声を掛けようとする八五郎を押えて平次は、しばらく待ちました。立ち停ると首筋へ初夏の陽がほのぼのと射して青葉の風が
一とくさりの経が済むと、後ろの物の気配に誘われたものか、女は斜に後ろ手を突いて、静かに振り返りました。実に美しいポーズです。
「まア、八五郎親分」
そう言って頬を染めた様子、振返る所作が切髪に波打たせて、額を撫でる
両国で一としきり鳴らした茶くみ女のお半は、銭形平次も満更知らない顔ではありませんが、紅白粉を抜きにして、白襟、黒っぽい袷、暗い紫の帯に、輪袈裟を掛けた清らかな姿は、全く予想もしなかった、神々しくも艶やかなものでした。世の浮気女に一と眼この姿を見せたら、自分というものの美しさを強調するために、十人の八九人まで、黒髪を切って袈裟を掛ける気になるかも知れません。
また次の一か月は過ぎました。
「わッ、大変ッ、親分」
とうとう八五郎の大変が飛込んで来たのです。
「こんどは何が始まったんだ。お前の大変が久しく来ないから、悪い
「落着いていちゃいけませんよ、親分。お膝元に大変なことがあったんだ、しかも相手はピカピカするような綺麗首だ。勿体ないのなんのって||」
「あわてるな八、いったい誰がどうしたんだ」
平次は八五郎の
「驚いちゃあいけませんよ、親分」
「驚かないよ、八五郎が大名になったって驚くものか」
「お半が自害したんですよ。あの吉田屋の離屋で、オンアボキアを唱っていた、切髪のお半が可哀想に
八五郎の報告の言葉から、平次はフト嫌なものを想像しました。それは離屋を急に改造した庵室の仏壇の前で、
「行こう、八」
平次は
三河町の吉田屋はこの間の内儀の死んだ時と違って、静まり返っておりましたが、店から入るとそれを待ち構えたように、主人の彦七が飛んで出ました。
「銭形の親分、重ね重ねの事で、本当に恐れ入ります」
「とんだ災難だね」
なんとなく落着きを失った主人に案内されて、平次と八五郎は土蔵の裏の離屋に行きました。
まだ検屍前で、二枚ばかり開けた雨戸から夏の光は一パイに入り、庵室の中の凄まじい情景を、残る隈なく照し出しております。
「あ」
銭形平次も、思わず足を
死んだお半の足で
「これはひどいな」
平次が唸ったのも、それは無理のないことでした。胸から腕へ、
「この死顔はどうです、親分」
血の気を失って、蒼白く
「馬鹿ッ、死ねば仏様だ。念仏の一つも
「へエ」
平次に叱られて八五郎は、あわてて手洗の手拭を持って来て顔へかけてやり、押入を開けて、黒っぽい袷を見付けてその身体を覆ってやりました。
「八、お前はこれをどう思う」
「へエ?」
「自害する女は、こんなに取乱すものかな。それに部屋の中には酒の用意もあるし」
「?」
平次は死骸の側の長火鉢と、その
「これだけ自分の胸に突っ込んだ匕首を抜くのは、容易じゃあるまい、||抜いたとすれば、精いっぱいの仕事だから、匕首を固く握って居なきゃならないはずだ」
「?」
「まだあるよ、||暗闇の中で、長襦袢を着て自害する者はあるまいが、||
「なるほどね」
こう言われてみると、八五郎にもようやくお半の死に様の不合理な点がわかって来るのでした。
「こいつは容易ならぬ事だよ。八、主人を呼んでくれ」
「へエ」
八五郎は外へ出ました。さすがに遠慮してこの調べには主人も奉公人たちも立会っては居なかったのです。
「今朝、これを一番先に見付けたのは誰だえ」
平次の問いは穏かで定石どおりでした。
「下女のお作でございます。離屋の三度の食事は
主人の説明は用意されたように整然としておりますが、念のために呼出された下女のお作は、四十前後の
もう一つ念のために、手代の徳次を呼んで、雨戸を全部閉めさせましたが、ささやかな離屋にしては、贅沢な大町人の好みらしく、建築が恐しく念入りで、引いても叩いても、雨戸の
「こいつを
手代の徳次はそう言って、
「八、その離屋を閉めきって、中から脱け出す工夫はないか。考えてみろ」
「へエ、やってみましょう」
八五郎は手代の徳次に雨戸を閉めさせて、中で何やらゴトゴトやって居りましたが、しばらくすると縁側からバーと顔を出しました。
「駄目ですよ、親分、鼠だって出られやしません」
「天井へ這い上ってみたか」
「天井も床下も、恐しく念入りだ」
「雨戸の上の
「とんでもない、子供か猿公でもなきゃ出られるわけはありません。あんなに狭いんだから」
八五郎のでっかい指は欄間を指しております。
「念のためだ、お勝手から
平次の注意はもっともでした。やがて台所から踏台を持出した八五郎は一間半の欄間を念入りに覗いて居りました。が、
「驚いたぜ、親分。この家にはどんな
「どれ、俺に見せろ」
平次は縁側に飛上ると、八五郎に代って踏台の上に立ちました。覗くとなるほど、欄間の上は綺麗に拭き込まれて、人間の這い出した跡などは、一間半の間に痕跡も残っては居なかったのです。
「八、帰ろう」
「へエ、何処へ行くんで」
「明神下の俺の家へ帰って、一日ゆっくり考えよう。俺アどうも判らない事ばかりだ」
「へエ」
「ここは誰かに任せて、お前も一緒に来い||それからお半の
平次は何を考えたか
「あ、お前は文三郎といったね」
店先にしょんぼり立っている少年に平次は注意を払いました。
「············」
黙って挙げた顔は、恐怖とも
「少し訊きたいことがあるが」
平次が往来に出ると、少年文三郎は黙ってその後に従いました。
「お前はお半をどう思う」
前後に人のいないのを見ると、平次はこう問いかけるのです。
「あの人は悪い人でした、親分」
「でも、お前の母親は、確かに病気で死んでいるよ||お寺へあんな手紙を出したのはお前だろう」
文三郎はハッとした様子で顔を挙げました。その眼は
少し病身らしいが、その代り神経の鋭どそうな少年は、嘆願するように平次の顔を仰ぐのです。
「八、お前は両国へ行ってみろ。
「へエ」
「それからお半に言い寄った男が他にもあるだろうと思う。念入りに訊き出してくれ」
「親分は?」
「家で昼寝でもしているよ」
平次と八五郎は、それっきり別れました。明神下の自分の家に帰った平次は、本当に枕まで出させて、そのまま昼寝をしてしまったのです。こうして雑念に
昼を大分廻ってから、八五郎は帰って来ました。
「面白いことがわかりましたよ、親分」
「お半と彦次郎が、恋仲でもなんでもなかったという話だろう」
「あ、どうして、それを親分」
「お前が飛んで歩いてる間、俺はこんな夢を見ていたのだよ、||まア、そんな事にかまわずに覗き込んだだけの事を話せ」
「弁天屋の
「フーム」
「ところが、お半の仲好しで、三月前に死んだお伝というのが||この女は親分も知っているでしょう。お半よりも綺麗だと言われた、品の良い娘でしたが、||そのお伝が吉田屋の若旦那と出来て、親の眼を盗んで来る若旦那と、ときどき逢って居たということですよ」
「フーム」
「弁天屋の店へは手紙の来た様子はないが、お伝の叔母さんが柳橋に居るはずだから、そこへ行って訊いたら、なにかわかるかも知れないと言われて、||あっしはそれから柳橋の糸屋の
「············」
「思ったとおり、お伝はそこで吉田屋の若旦那の手紙を受取ったんです。その手紙は一々お伝に渡したから、あとはどうなったか知らないが、二十本や三十本じゃないということでしたが」
八五郎の報告は思いの外奇っ怪で、そして
「お半の評判はどうだ」
平次は改めて訊きました。
「あれは利口者ですね。水茶屋などに奉公している癖に、決して男を
「面白いな、八。貧乏人を相手にしない女は、こちとらには縁がないが」
平次はそう言いながら、お静を呼んで外出の支度を急がせるのでした。
「どこへ行くんです、親分」
「もういちど吉田屋へ行ってみようよ。俺はもう何もかもわかったような気がする」
「へエ?」
平次と八五郎は、暮れかかる陽を追って、もういちど三河町へ行きました。
吉田屋では、一応の調べが済んで、お半の葬いの支度にゴタゴタしておりました。
「御主人、お半が持って来たという、若旦那の手紙を見せて貰いたいが||」
「へエ、どうぞこちらへ」
主人の彦七はひどく迷惑そうですが、断るべき口実もないので、平次と八五郎を誘って、店の隣の別室に入りました。
「これでございますが」
用箪笥から取出して、平次の前に押しやったのは、紐で
「この手紙を御主人は皆んな眼を通したのかな」
「いえ、とんでもない、||痛々しくて読む気になりません。||こんな事と知らずにいた親の私が責められるようで||」
彦七は
「そんな事もあるだろうな、||いや、それが間違いの元だったよ。御主人、このとおり四十八本の手紙は、出した方の||彦次郎という名前は書いてあるが、受取る方の名前は一つも書いてない、||これを見るがいい。受取人の名前は、一々
「すると、||?」
主人の彦七はハッとした様子で顔を挙げました。
「ちょうどいい、この間から昨夜までのことを、この平次が話してみよう、こうだ||」
「············」
平次は話し出しました。薄暗い四畳半、八五郎の外には誰も聴いている者もなく、主人の彦七は神妙に首を垂れて、平次の論告を待っているのです。
「お半は悪い女だ、あの女には色も恋も、義理も人情もない、||
「············」
「お伝の死んだのは病死だったかも知れないが、ともかくお伝を丸めてすっかり
「へエ、驚きましたな」
主人の彦七もさすがに舌を巻きました。
「お半が若旦那の本当の恋人なら、若旦那が死んで半歳も愚図愚図しているはずはない。||吉田屋へ乗込んだのは、殊勝らしく持ちかけて、あわよくば主人のお前さんを手の中に丸め込むつもりだったに違いないが、お前さんが思いのほか
「············」
「その間にお内儀が
「お半はその喪中にも
「············」
平次の説明の微妙さに、主人の彦七は黙りこくってしまいましたが、聴いている八五郎は、
「お半はとうとう、独り
「············」
主人の彦七はガックリとうな垂れました。
「文三郎は死んで行くお半の姿を見て、夢から覚めたように驚いたことだろう。一足飛びに母屋へ飛び込んで、父親のお前さんに知らせた。しばらくは泣いて口説いて、二人は相談したことだろう。そして父子はもう一度この離屋へ取って返し、お半の胸から匕首を抜いて、その右手に持たせる恰好にし
「············」
「父親は先へ出た。文三郎は中から雨戸を念入りに締めきった上、年にしては身体が小さいから、欄間の障子を外してそこから脱け出し、後で気が付いて、一間半の欄間を皆んな拭いて置いた」
「············」
「どうだ御主人、これで間違いはあるまい。違ったところがあるなら言ってくれ。幸い縁側には文三郎も聴いているようだ」
平次の説明は行き届き過ぎました。
「親分さん、私を縛って下さい。父さんはなんにも知りません。皆んな私が」
障子を開けて転げ込んだのは、言うまでもなく次男の文三郎の、激情に押し負かされた哀れな姿だったのです。
「文三郎。お前は、お前は」
それを抱き起すように、父親の彦七。
「いいってことよ。お半は馬鹿な芝居を打ち
平次は互に抱き寄る父子を尻眼に、そっとその座を滑り出るのでした。
江戸の町はもう夜です。何処からともなく夏祭の