たとえば私と一緒にビルマへ行った人が、ビルマの仏像のひどさに
こういう所に見られる文化的低調は、明治時代的な水準というものと違う、もっとも根本的なものとせねばならないようだ。伊原宇三郎氏がビルマに見えた時、氏もまた私にビルマに於ける造形美術の貧しさに一種の幻滅を感じたと言っていた。
戦争直後の危険の多いビルマに昭南からわざわざやって来た伊原氏は仏教国である以上は仏教芸術の立派なものが存在するに違いないという憧憬を持って来たのだが、ジャワのボルボドールなどを見た眼には幻滅の他は無かったと語っていた。パゴダはどうでしょうかと私は聞いて見た。ビルマはパゴダの国と言われる位、有名なあのパゴダ、金箔を塗りつめたその円錐形の仏塔は烈日の下に燦然と輝いて、見事である。その、鐘を伏せたような線が、素人の私にはいわばちょっと妙味があると思われた。だが伊原氏は、極端に言えばあれは丁度子供などがものを高く築き上げようとする時に考えるそうした素朴な形で、そういう点素人的なものであってそこに造型的な美的な工夫は無い、そうしたたちのものだと言われた。言われて、成程と私も思った。
このパゴダというのは英語であって、日本の五重塔なども日本紹介の英文書には矢張りパゴダと訳してある。ビルマに於けるパゴダのその円錐形の形式は
日本の五重塔もパゴダである。印度のパゴダが支那に伝わりそして日本に伝わると日本では日本独特の五重塔というパゴダを創造した。ところでビルマのパゴダが素人芸の域を出てないものであるのに対して日本のパゴダが日本独特の同時に世界無比の建築美を発揮しているということは、ただに造型文化の問題だけでなく一般文化の問題として意味深いものを私たちに与えるのである。ビルマの文化一般の様相、本質ということに成ると、明治時代に比すべくもない根本的な相違と思われると、先きに私は書いたが、ビルマのパゴダを眺めながら日本の五重塔を想い浮べると、まことにそのことを具体的に私に示しているものだという感なきを得なかった。だが、かかる比較判断は、ビルマに対して妥当でないことは
パゴダの前に仏像のことを書いたが、たとえば私の家にある仏像、名もない仏師によって作られた、従って彫刻美を云々できないその仏像ですら、しかもなお何か立派で自ずと敬虔な気持をおこさせられるというのは、||これはどういうことなのだろう。一口に言えば、||伝統だ。同じパゴダでありながらあの荘重巧緻な五重塔を創造した、その日本の高い文化の、その伝統の然らしむるところに他ならない。その文化伝統が名もなき仏師のうちにすら脈々と生きているのだ。その、名もなき仏師のうちに生きている文化伝統が、彫刻美というようなことが意識されてない仏像にも、私たちをして自ずと頭を垂れさせるところの彫刻美を与えているのである。ビルマの仏像が児戯に類するような幻滅的なものであるのは、かかる伝統が無いからのことに違いない。
ただここで注意しなければならないことは、仏像は本来信仰の対象であるということだ。仏像は拝むためにあるもので彫刻美の如きを云々するためにあるものではない。私たちは、仏教徒でありながら、ややともすると仏像を彫刻美の鑑賞の対象として眺めがちである。