巴里は世界の十字路といわれている。巴里の中でもブラス・ドゥ・オペラ(オペラの辻)は巴里の十字路といわれている。
冬の日が暮れると神廟のようなオペラの建物は闇の中にいよいよ黒く静まり返える。オペラの開幕は八時だから今はまだその広い入口の敷石に
金魚が金魚を見物している。インコがインコを見物している。カフェの店先に衣裳を着飾って同じ衣裳を着飾った行人と眺め交わしている巴里の男女を見るとき、自分はいつもこう思う。それほど彼等は人間離れのした装飾物となってお互いに見惚れることにわれを忘れている。こういう場合、巴里の男女は情痴を
カフェの前が
ルイ朝式の服を着たマダムがポケット
二度目に自分等が巴里へ入ったとき(最初は私達は子どもだけパリへ置いてロンドンへ渡り約一年後に巴里に来た。)こどもが最初に私達を誘ったのはこのカフェ・ド・ユ・ラ・ペイユだった。
「なるほど美感の
と私はその時思った。
「やっぱり巴里にこどもを取られる||仕方がないかしら」
と私は私自身陶然として来る心のなかでうやむやにもがいた。
「まず、
こどもはこんなにも巴里に馴れて来たのかとあきれたような心嬉しさだった。
一年の間によくもこんなにフランス語がはなせるようになった。苦労の嫌いな子が嫌いな苦労ばかりして覚えたものとは思われない。好きなればこそ巴里に沁みつく子どもの心に語学もひとりでに沁みついたのだろう。初めはちっといやみを感じたフランス風の会話にともなう肩の上げ下し手の開き具合いも我が子なればこそあきれた心嬉しさの哀感に変って行く。私は何だかおずおずとして仕舞うのであった。
「どうしたの、おかあさん。相変らず、こどもだなあ」
とこどもは私の肩へ手をかけた。
わたしはこどもから、こどもだといつもいわれる。女なのだ。何もかも生理的にさえまだ出来上っていないかと思われる未熟な女なのだ。それだのに、どうして時には私の兄のようにさえ振舞うこの子への「母のなげき」だけが斯う完全に発達しているのだろう。何かこの子に対する常の歎きが心にたっぷり根を張っているのだ。愛のなげきは不思議なものだ。この子がいとしいと云ってはなげくのだ。この子が憎いという時にはなげき、この子が賢いと
この子がこんなにも好きな巴里だ。自分だって好きな巴里だ。「いつまでも巴里にいたくなった」と英国にいた時着いた手紙にこの子が書いてよこした。私のこの子へのなげきが
「自分が連れて来て仕舞った巴里に
と自嘲しても見た。
こどもは画家を志して東京の美術学校へもよい成績で入った。こどもの洋行はゆっくり卒業後という腹で一家はあった。ところが突然、父親が依頼された仕事の関係上、またわたしの勉強の都合上急に日本を立つことになった。そして子どもは予定どおり日本に残して学校を卒業の上代り合って洋行と一応相談を極めた。けれども出立間際になって私は子どもをどうしても手放せなかった。短い一生だ、二三年でも愛に
私のことを何から何まで呑み込んでいられ学校の休学を与えて呉れられた子どもの師匠は笑い乍らいわれた。
「だが、帰りにうまく連れて来られるかな。子供の方で残るなんていったら骨ですぞ」
この言葉の意味は子どもが英国へ巴里を讃美し巴里に愛着をふかめる表現の手紙を呉れる度だんだん私にはっきり分って来た。
「一人で
小さい声で私はいった。すると子どもはその手を振り切って父にも聞えるような声で、
「ちっとも||いいや普通だった」と答えた。この子どもはこの子の父親のように感情を現わすのを嫌味とするような肌合のところがあった。
「だけど、おかあさんなんかしつっこい人だもの、僕にいつでもくっついているような気してたもの」
この子どもはまた愛するものをむごくいいすてるくせがあった。
私は洋服も帽子もすっかり巴里風になった子どもを見上げ見下ろした。つい一年ばかり前日本に居た時の美術学校の制服姿が眼に浮ぶ。私の子に対する情痴の結果が子をこんなにも変らせたのか。好いことか悪いことかはそれは知らない。だがもうあの美校姿におそらくこの子は帰ろうとしないだろう。私はベルベットの洋服の袖で眼をぬぐった。
「まだ泣いている。さあ、これから僕達一緒に巴里に棲むんじゃないか。仕合せに元気に暮らそうよ」
子どもは
私達がパリに棲みつきシャンゼリゼ座で世界の唄手シャリアピンを聴いて帰る道での興奮。
「こうして居る間も巴里がいよいよ子どもに染み込む」私の子に対する情痴はいつもおびえていた。
事実巴里は一日一日と子どもに染み込んで行った。巴里をかりに悪くいえば子どもは真赤になって怒った。巴里はもはや完全に子どもの恋人だった。親の見る眼もいとおしいほど子どもの若い心に巴里の悲哀も歓楽も染みて行った。巴里から、とても子どもは離せまいとすっかり見極めをつけずにはいられなくなった。この子の巴里を迎い入れる
子どもが学校の寄宿へはいり私達がベルリンに移り住む前夜のオペラ見物のかえりに三人はまたカフェー・ド・ユ・ラ・ペイユに行った。夏の夜だった。
「ベルリンから来年の春日本へかえるんだけれど太郎さんはやっぱり残る?」
「おや、またその事?」
子どもは一寸うるさそうにいったが、やがて顔を真赤にしてどもり乍ら云った。
「僕、親に別れるのはつらいけど······でも巴里からは絶対に離れ度く無い!」
わっと私は声を立てて泣いて仕舞った。涙にむせび乍ら私は自分だけに聞えるくらい小さな声で叫んだ。「この小鬼奴! 小鬼奴! 小鬼奴!」
× ×
ドイツで冷静に勉強していた期間に私は決めた。どうせ親の情痴を離れ得ぬとしても今までの情痴を次の情痴に置き換えよう。子がたとえ鬼の娘を妻にして呉れとせがんでも断われないだろう私なのだ。巴里と云う子の恋人の
× ×
今年の始め巴里の停車場で最後に子と別れた私と子の父親は汽車の中で人目も恥じず折重なって泣いた。
フランスの田舎のけしき汽車にして
見よと人いふ泣き沈むわれに。
いとし子を茲には置きてわが帰る
母国ありとは思ほへなくに。
眼界に立つ俤 やますら男が
母に別れの涙拭きつつ。
「おとうさんも、おかあさんも、僕別れていると思ってませんよ。ね。一緒に居って仲のわるい親より別れていたってこんなに思い合って居るんですもの」見よと人いふ泣き沈むわれに。
いとし子を茲には置きてわが帰る
母国ありとは思ほへなくに。
眼界に立つ
母に別れの涙拭きつつ。
最後にお前もいつもの恥らいを忘れ感情を露骨に出して泣いてこういった。
おお、よくもこういって呉れた。子よ、太郎よ、今、巴里のカフェー・ド・ユ・ラ・ペイユの張り出し椅子の並ぶあたりに春の夕陽が斜にさしかかってはいないだろうか。