こどものときから妙に橋というものが好きだった。こちらの岸からあちらの岸へ人工の仕掛けで渡って行ける。そういった人間の原始的功利の考えがこどもの好奇心の頭を
こん からり
足を踏み違えて橋詰から橋詰までこの音のリズムを続け通させるときは、ほんとにお腹の底から橋を渡った気がして、そこでぴょんぴょん跳ねて悦んだ。母親は「この子の虫のせいだからせいぜいやらしてやりましょう。とめて虫が内に
こういう風に相当こどものこころを汲める母親だったが、私の橋のさなかで下駄踏み鳴らしながら、かならず落す涙には気がつかなかった。私は橋詰から歩いて行ってちょうど橋の真中にさしかかる。ふと両側を見る。そこには冷たい水が流れている。向うを見ると何の知合いもない対岸の町並である。うしろを観る。わが家は遠い。たった一人になった気がしてさびしいとも自由ともわけもわからぬ涙が落ちて来る。頭の上に高い太陽||こういう世界にたびたび身を染めたくて私は橋を渡るのを好んだのかも知れない。
ある早春の晴れた昼である。わたしはまた橋を渡り度くなって町に一番近いそこへ行った。その橋は短かったが修繕し立ての橋板はまだ生木の潤いを帯びていて音を含んでなつかしく響いた。橋詰に珍らしく大きな猫柳の木があって、満枝の芽はやや銀の
||このあまっちょだな。毎日下駄を鳴らして通ってうるせえのは。よし下駄を取上げてやる。
そういって彼は私の下駄を
橋についての執着は娘時代から結婚時代に入っていつとはなく薄れて行ったが、それが今度の洋行ときまるとなぜかふたたび濃くなって来た。外国でいくつか渡る橋を想像したとき執着の口火がふたたびつけられたのかも知れない。従ってあのときの恨みも橋の興味にくくりつけた小荷駄のようになって一しょにせり上って来た。私は恐ろしく思った。しかしそう思いながら、新らしい日和下駄を買ってそっとスーツケースの奥に入れた。鼻緒にはまさかもう赤と黄色もつけられなかった。黒に朱のあられ模様のをつけた。
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ヴェニスの見物も済んだので汽車の都合上、朝まだ暗いうちにホテルを出発した。ホテルの水苔の生えた石段から私はゴンドラに乗った。沖のムラノ島を
橋は太鼓に近いほど反っていた。道から取付きの石段を上って行くと両側に商い店が並んでいる。古い戸を閉じて看板だけで靴屋だの首飾りだのを売る店であることが判る。昼に河岸からみるとこの商い店たちは十七世紀の女の輿車のような派手な外側に見えた。いま親しくこう近寄ってみると平凡な普通の商い店であることが判る。私はそれが気に入った。角から二軒目の店の二階にはぼんやり灯影が窓からさしていて、やっぱり世間の生活のとばっちりが橋の上にも
東詰から西詰へ西詰から東詰へ私は勇気を出して日和下駄を鳴らして渡った。冬の石畳は、霜の気を帯びてヴェニスの空に高く響いた。少女時代に断ち切られたあの気持ちの成就か。あの時の恨みの復讐か。私は私の期待した以外の意味で満足させられた。あーあよくまあ私は今まで生きてこのような橋さえ渡れる||。
猫の影がさむそうに来て一の家の窓の前にうずくまった。