||お金が汗をかいたわ」
河内屋の娘の浦子はそういって松崎の前に掌を開いて見せた。ローマを取巻く丘のように程のよい高さで盛り上る肉付きのまん中に一円銀貨の片面が少し曇って濡れていた。
浦子はこどものときにひどい脳膜炎を
浦子は一人娘であった。それやこれやで親たちは不憫を添えて可愛ゆがった。白痴娘を持つ親の意地から
三人ほど官立大学出の青年が進んで婿の候補者に立った。しかし彼等が見合いかたがた河内屋に滞在しているうちに彼等はことごとく
松崎は婿の候補者というわけではなかった。評判を聞きつけて面白半分娘見物に来たのだった。松崎は
もはや婿養子の望みも絶った親たちはせめて将来自分一人で用を足せるようにと浦子に日常のやさしい生活事務をボツボツ教え込むことに努力を向けかえていた。
松崎の来るすこし前ごろから浦子は毎日母親から金を渡されて一人で町へ買物に行く稽古をさせられていた。
庭には藤が咲き重っていた。築山を
松崎は小早く川から上って縁側で道具の仕末をしていた。釣って来た若鮎の
||お金が汗をかいたわ」
といって帰って来た。
||松崎さん。こんなお金でおしおせん買えて?」
この疑いのために浦子はそのまま
松崎は眼を丸くして浦子の顔を見た。むっくり高い鼻。はかったようにえくぼを左右へ彫り込んだ
松崎は思わず娘の手首を握った。そして娘の顔をまた見上げた。そのとき松崎の顔にはあきらかに一つの感動の色が内から皮膚をかきむしっていた。
||こんなお金でおしおせん買えて?」
松崎の顔は決心した。そしてほっと溜息をついて可愛らしい浦子の掌へキスを与えた。そしていった。
||買えますよ。買えますとも。どりゃ、そいじゃ僕も一しょに行ってあげましょう。そしてこれからはあなたの買物に行くときにはいつでも一しょに行ってあげますよ」
その秋に松崎は浦子を妻に貰って東北の任地へ立って行った。
これはあの大柄で人の好さそうな貨幣一円銀貨があった時分の話である。