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||ひきつづき第十六番てがらにうつります。
事件の
「品川で遺言をする
だから、ご一新前までは、やれやれそば屋、別れ茶屋などといった看板の家があったものだなんかと、見てきたような悪じゃれをいうものがございますが、いずれにしても、このお時代の品川は、むしろ当今よりもずっと繁盛していたくらいのもので、しかるに時も時五月の晦日というような切りつめた日に、まこと前代
「ちぇッ。なんともかともたまらねえ景色じゃござんせんか。死んだおふくろに、いっぺんこのながめを見せてやりたかったね。目と鼻のおひざもとに住んでいながら、おやじめがごうつくばりで、ただの一度も遠出をさせなかったんで、おっちぬまでいっぺん海を見て死にてえと口ぐせにいってましたっけが、今度のお盆にゃ
「バカッ」
「えッ?」
「おめでたいお出迎えに来ているというのに、死ぬの、位牌のと、不吉なことを口にするな」
「そうですか。じゃ、おめでたいことを申しますが、ねえ、だんな、あそこの茶店の前の目ざるに入れてある房州がにゃ、とてもうまそうじゃござんせんか。ご用が済んだら十ばかりあがなってけえって、晩のお
「よくよくしゃべりてえやつだな。松平のお殿さまに聞こえるじゃねえか。うるせえから、あごをはずして、ふところの中へでもしまっちまえッ」
しかられているまに、八ツ山下をこちらへ回って、
「エイホウ。エイホウ」
景気のよい小者どもの掛け声に交じって、
「寄れッ。寄れッ」
「豆州か。お出迎えご苦労でござった」
「おことば恐れ入ってござります。道中つつがのうございまして、祝着至極にござります」
まことにどうもこの、豆州か、というような
しかし、あいにくとそのとき、おふたりのごあいさつが終わって、尾州侯がふたたびお駕籠に召されながら、伊豆守様のお召し駕籠ともども、しずかにお行列が練りだしましたものでしたから、いぶかりながらもお見送り申しあげていると、後詰めの
「くせ者じゃ、くせ者じゃッ」
「
すわ珍事とばかりに、呼び叫んだ声といっしょで、めでたかりし参覲途上のお行列は、たちまち騒然と乱れたち、まず何より先にと供まわりの一隊が
もちろん、われらの捕物名人が、事起こるといっしょで、伝六、辰の両配下を引き従えながら、時を移さず怪しの駕籠のくせ者大名目ざして駆けつけたのはいうまでもないことでしたが、しかるに、これがいかにも奇怪なのです。矢を射る、当たる、駆けだすと、ほとんど時をまたずにいずれもが駆けつけていったのに、なんたる早わざでありましたろう! 怪しの大名駕籠は、とっくにもうもぬけのからでした。お供の者も三、四人はいたはずでしたから、せめてそのうちのひとりぐらい押えられそうに思われましたが、それすら完全に煙のごとく逐電したあとで、ただ残っているものは怪しの駕籠が一丁のみでしたから、いかな捕物名人も、あまりのすばしっこさに、すっかり舌を巻いてしまいました。しかも、それなる残った駕籠がまたすこぶる用意周到で、飾り塗り、
けれども、むろんそれは一瞬です。よし墨田の大川に水の干上がるときがありましょうとも、江戸八丁堀にぺんぺん草のおい茂る日がありましょうとも、むっつり右門と名をとったわれらの名人の策の尽きるときがあろうはずはないので、しからばとばかりに
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しかるに、それなる矢を射込まれた駕籠がまた、なんとしたものでありましたろう。距離はかれこれ一町近くもあるうえに、得物は同じ弓であっても大弓ではなく半弓でしたから、それほどあつらえ向きに命中するはずはあるまいと思われたのが、すこぶる意外でした。よほど手ききの名手とみえて、みごとに耳下にぶつりと的中、あまつさえ
「よッ。それなるおかた、お小姓姿におつくりではござるが、まさしくご婦人でござりまするな!」
と||、ますますいでて、ますます奇怪でした。ズバリといった看破の一言に、居合わした
「めったなことを申さるるな! 用もない者がいらざるお節介じゃ。おどきめされッ。そちらへとっととおどきめされッ」
寄ってはならぬといったものでしたから、聞くやいっしょで、湯煙たてながらしゃきり出たのは、だれでもない向こうっ気の伝六です。
「なんだと

江戸っ子気性の伝六としてはまた無理のないことでしたが、巻き舌でぽんぽんといいながら食ってかかろうとしましたので、名人があわてて制すると、微笑しいしいいたって物静かにいいました。
「ご立腹ごもっともにござりまするが、てまえは伊豆守様のご内命こうむりまして、お出迎えご
「ならぬならぬッ。だれであろうと迷惑でござるわ! さっさとおどきめされッ」
しかるに、藩士はあくまで奇怪||ふたたび権高にこづき返しましたので、短気一徹、こうなるとすこぶる勇みはだの伝法伝六が、ことごとくいきりたちながら、あぶくを飛ばして名人をけしかけました。
「だんなともあろう者が、何をぺこぺこするんですかッ。こんなもののわからねえ木念仁のでこぼこ侍をつかまえて、したてに出るがもなあねえじゃござんせんかッ。ぽんぽんといつもの胸のすくやつをきっておやりなせよ! 名めえを聞かしゃ、目のくり玉がそっぽへでんぐり返るにちげえねえから、早いとこずばりと名を名のっておやりなせえよッ」
まことに伝法伝六のいうとおり、右門おはこの名
「そうでござりまするか。寄ってはならぬとおっしゃるならば、いかにも手を引きましょうよ」
あっさりいってのけると、いいつつ、じろりとあの鋭いまなこを注いで、半弓に用いた毒矢を遠くから
「さ! 伝六ッ。駕籠だッ、駕籠だッ。例の駕籠だよ!」
しかるに、あいきょう者の雲行きが少しばかり険悪なので。いつもこれが名人の口から飛び出せばもうしめたもんだから、すぐにもしりからげになって駆けだすだろうと思われたのが、案に相違してことごとくほっぺたをふくらませると、つんけんとそっけなくいいました。
「せっかくですが、いやですよ」
「ほう。江戸の兄いがまた荒れもようだな」
「あたりめえじゃござんせんか! いくら尾州様がご三家のご連枝だからって、江戸へ来りゃ江戸の風がお吹きあそばすんだッ。しかるになんぞや、迷惑だから手をひけたあなんですかい! それをまただんなが、なんですかい! たかがいなかっぺいのけんつくぐれえに尾っぽを巻いて、江戸八百八町の名折れじゃござんせんか! あっしゃくやしいんだッ。ええ、くやしいんです! くやしくてならねえんですよ!」
「············」
「ちぇッ。黙ってにやにや笑ってらっしゃるが、何がおかしいんですかい! え? だんな! 何がおかしいんですかい!」
「坊やが吹かしがいもしねえ江戸っ子風を吹かすからおかしいんだよ」
「ちぇッ。じゃ、だんなは、江戸っ子じゃねえんですか!」
「うるせえな。おめえが江戸っ子なら、おりゃ日本子だッ。はばかりながら、あれしきのけんつくに、むっつり右門ともあろうおれが、たわいなく尾っぽを巻いてたまるけえ。眼がもうついたんだから、駕籠をよんでくりゃいいんだよ」
「へえい。じゃ、なんですかい、あのお小姓姿に化けていた女の素姓も、眼がついたんですかい」
「きまってらあ。ありゃ尾州さまがご
「そ、そりゃ連れてこいとおっしゃれば、
「いちいちだめを押しやがって、うるせえな。むっつり右門は鳥目じゃねえや。あの毒矢を見て、ちゃんともうりっぱな眼がついてるんだッ。おまえなんぞおしゃべりよりほかにゃ能はねえから知るめえが、ありゃ西条流の
「みんごと一本参りました。||ざまアみろ! でこぼこりゃんこのかぶとむしめがッ。おいらのだんながピカピカと目を光らしゃ、いつだってこれなんだッ||そっちのちっちゃな親方! のどかな顔ばかりしていねえで、たっぷり投げなわにしごきを入れておきなよ。どうやら、城持ち大名と一騎打ちになりそうだからな、遺言があるなら、今のうちに国もとへ早飛脚立てておかねえと、
がてんがいけば天気快晴。いらざるむだ口を善光寺
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行き向かったところは、むろんのことに、今、名人がいった江戸にただ一人しかないという西条流鏑矢のその弓師、名は
「だんな、だんな。めっかりましたぜ」
その河童坂を上りきったところで、てがら顔に呼び招いた声がありましたものでしたから、ただちに駕籠をのりつけさせました。まだ
伝六、辰を引き従えてずかずかはいっていくと、
「許せよ。六郎左衛門は在宅か」
うれしいほどに重々しく
だのに、職人どもがどうしたことかまたぼんくらばかり。いわゆる巻き羽織衆と称して、およそ八丁堀にお組屋敷を賜わっているほどの町方同心ならば、いずれも羽織のすそを巻いて帯にはさんでいるのが当時の風習でしたから、それだけでもひと目見たらわかりそうなのに、とち狂ったのがもみ手をしながらまかり出ると、いらざることをべらべらと始めました。
「いらっしゃいまし、半弓はどの辺にいたしましょう。あちらの十六丁は
のぼせ返って聞きもしないことをまくしたてたものでしたから、鋭い
「控えろ。身どもの腰がわからぬか」
「なんでござりましょう」
「手数のかかるやつどもじゃな。これなる巻き羽織が目にはいらぬかときいているのじゃ」
「············?」
しかるにもかかわらず、なおぱちくりととち狂っていましたので、ついにずばりと名のりあげました。
「わしがあだ名のむっつり右門じゃ」
同時にぎょッとなって血の色を失ったのは当然。いずれもぎょうてんしながら青ざめているところへ、騒がずに[#「騒がずに」は底本では「騒かずに」]立ち現われたのは、尋ねるあるじです。年のころは五十かっこう、今がいちばん分別盛りな年配も年配でしたが、諸家諸侯にも出入りのかのう身分がそうさせたものか、さすがに
「ご高名のだんなさまとも存じませず、徒弟どもがとんだぶちょうほうつかまつりまして、恐縮にござります。てまえがお尋ねの西条流弓師六郎左衛門。ご不審のご用向きはなんでござりましょう」
いうこともまたおちついているので、だからすぐにもきき尋ねるだろうと思われたのに、しかし、名人は黙念としてまず鋭い
「神妙に申したてねばあいならんぞ」
「ご念までもござりませぬ」
「では、あい尋ねるが、そちの手掛けた西条流半弓一式を近ごろにどこぞの大名がたへ納めたはずじゃが、覚えないか」
「············」
「黙っているは隠す所存か」
「め、めっそうもござりませぬ。そのようなことがござりましたろうかと、とっくりいま考えているのでござりまするが、||せっかくながら、この両三年、お尋ねのようなことは一度もござりませぬ」
「なに? ないとな! いらざる忠義だていたすと、せっかく名を取った西条流弓師の家名も断絶せねばならぬぞ。どうじゃ、しかとまちがいないか」
「たしかにござりませぬ。てまえは昔から物覚えのよいが一つの自慢。まして、ご大名がたへのご用ならば家の名誉にもござりますゆえ、あらば隠すどころか、進んでも申しまするが、せっかくながら、この三年来、ただの一度もお尋ねのようなことはござりませぬ」
うそとは思えぬ面ざし向けて、きっぱりと言いきったものでしたから、予想のほかの的のはずれにはたと当惑したのは名人でした。また、これはいかな名人とても当惑するのが当然なので、第一の急所たるべき半弓
「ちぇッ。しようのねえだんなだな。八丁堀へけえるんだったら、そっちゃ方角ちげえですよ。そんなほうへやっていったら、信州へ抜けちまうじゃござんせんか」
いわれるほどに道々思いに沈んで、ようようのことにお組屋敷へしょんぼりと帰りつくや、ぐったりそこへうち倒れてしまいました。捕物はじまってここに十六番、かつて見ないほどにも意気
「ねえ、だんな。||だんなってたら、ちょっと、だんな。しようがねえな。あっしまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりしておくんなせえよ。||」
聞き流しながら、知恵も才覚もつき果てたようにややしばしぐったりとなったままでいましたが、しかし、そのうちに名人の手がそろりそろりと、あごのあのまばらのひげのところへ持っていかれました。ここへ静かに手先が伸びていくと、曇った空がたいていのとき晴れだすのが普通でしたから、それと知って、今のさっきまでの泣き上戸伝六が、たちまち喜び上戸に早変わりしたのはいうまでもないことです。
「おッ。みろみろ、辰ッ。もぞりもぞりとおはこが出かかったから、静かにしろよ。あのつんつんとひっぱるやつがお出なさりゃ、じきに知恵袋の口があくんだからな」
と||いうかいわないうちに、果然、むくりと起き上がるや、微笑とともにあいきょう者へ、朗らかなところが飛んでいきました。
「な、伝六ッ」
「ありがてえ! 出ましたか!」
「出ねえでどうするかい。おれともあろうものが、とんだおかたのいらっしゃることを度忘れしていたもんじゃねえか。こういうときのお力にと、松平伊豆守様というすてきもないうしろだてがおいでのはずだよ」
「ちげえねえ。ちげえねえ。じゃ、老中筆頭というご威権をかりて、まっさきに尾州様へお手入れしようっていうんですね」
「と申しあげちゃ恐れ多いが、身分の卑しさには、それより道がねえんだ。三百十八大名をかたっぱし洗って、西条流半弓のお手きき殿さまをかぎつけることにしてからが、同心や
「大きにちげえねえや。それにまた、松平のお殿さまだって、お自分がお出迎えのさいちゅうにあんな騒動が降ってわいたんだからね。今まで、だんなにおさしずのねえのが不思議なくらいですよ」
「だから、まずおまんまでもいただいて、ゆるゆると出かけようじゃねえか。さっき品川でかに酢をどうとかいったっけが、ありゃどうしたい」
「ちぇッ。これだからあっしゃ、だんなながらときどきあいそがつきるんですよ。十ばかりさげてけえりましょうかといったら、とてつもなくしかりつけたじゃござんせんか。もういっぺんあごをなでてごらんなせえな」
「ほい。そうだったかい、今度は一本やられたな。じゃ、ちっとじぶんどきがはずれているが、いつもおかわいがりくださる伊豆守様だ。あちらでおふるまいにあずかろうよ」
いいつつ、
「ご老中さまから火急にお差し紙でござります」
「なに! 伊豆守様からお差し紙が参ったとな||伝六ッ。なにかご内密のお力添えかもしれぬ、はよう行けッ」
今、お力を借りに行こうといったその松平のお殿さまから、それも火急のご書状といいましたので、いかで伝六にちゅうちょがあるべき、||ねずみ舞いをしながら出ようとすると、四尺八寸のお
「||ただいま尾州家より家老をもって内々のお申し入れこれあり、品川宿の一条に対する詮索 詮議 は爾今 無用にされたしとのことに候 条、そのほう吟味中ならば手控えいたすべく、右伝達いたし候。
松平伊豆守
近藤右門へ」
意外にも吟味差し止めのいかめしやかなお書状でしたから、晴れたと見えたのもつかのま、この世の悲しみを一度に集めたごとく青々と面を青めると、力なく言い捨てました。「伝六。床を敷け」
「············」
「何を泣くんだ。泣いたって、しようがねえじゃねえか。早く敷きなよ」
「でも、あんまりくやしいじゃござんせんか」
「身分が低けりゃしかたがねえんだ。なんぞ尾州様におさしつかえがおありなさるんだろうから、早く敷きなよ」
「じゃ、辰とふたりでお口に合うものをこしれえますから、おまんまだけでも召し上がってから、お休みくだせえましな」
「胸がつかえて、それどころじゃねえんだ。世の中があじけなくて、生きているのもこめんどうになったから、早く敷いて寝かしてくれよ」
悲しげに横たわると、そのまますっぽり夜具の中に面をうめてしまいました。
4
その翌朝。||
勤番出仕の時刻が来ても、なお名人は床にはいったままでした。ほんとうに世の中があじけなくなりでもしたか、いつまでもいつまでも床の中にはいったままでした。また、名人の身になってみれば、およそこの世にこれ以上のせつないことはなかったのでありましょう。日ごろご愛顧くださる伊豆守様までが詮議を禁じたうえに、そのまた禁じ方なるものが、さながら尾州家において名人の出馬するのを恐るるもののごときけはいがうかがわれましたものでしたから、身分の相違、役の低さに、しみじみとこの世がはかなく思えたのはむべなりというべきでした。しかも、その身に無双の才腕、無双な
だのに、世間の中にはうるさいやつがあればあるものです。
「お願いでござります! お願いでござります!」
不意に表玄関先で、けたたましく言いどなった声がありましたものでしたから、おこり上戸の伝六が八つ当たりに爆発させました。
「やかましいや! きょうはお取り込みがあるんだから、手の内ゃ出ねえよ!」
「いいえ、物もらいではござりませぬ! 右門のだんなさまのお屋敷と知って、お力借りに駆けつけました者でござりますゆえ、おはようお取り次ぎくださりませ!」
「うるせえな! お
よほどうろたえているとみえ、ずかずか庭先へはいってくると、あわただしく言いたてました。
「てまえはつい目と鼻の小伝馬町に、もめん問屋を営みおりまする
伝六がちょっと色めきながら、どういたしましょうというように振り返ったのをぴたりと押えて、名人が吐き出すごとくにいいました。
「世の中があじけなくなってくると、訴えてくることまでがこれなんだッ。たかの知れたご家人ふぜいのゆすりかたりぐれえで、もったいなくもこのおれが、そうやすやすとお出ましになれるけえ。二、三十枚方役者が違わあ。おめえたちふたりにゃちょうどがら相当だから、てがらにしたけりゃ、行ってきなよ」
「じゃ、辰ッ。どうせ腹だちまぎれなんだから、あっさり締めあげちまおうかッ」
「おもしれえ。そうでなくとも、おいら、ゆんべから投げなわの使い場がなくて、うずうずしてるんだから、ちょっくら行ってこようよ」
勢い込んで、手代のあとに従いながら、駆けだしていったようでしたが、ものの
「どうしたい。がら相当でもなかったのかい」
「へえい······」
「ただへえいだけじゃわからぬよ、向こうが強すぎたのかい。それとも、おまえたちが弱すぎたのか」
「ところが、どうもそいつが、からっきしどっちだかわからねえんでね。今も道々辰とふたりで、首をひねりひねり来たんですよ」
「あきれ返ったやつらだな。じゃ、ご家人でなかったのかい」
「いいえ、それがいかにも変なんだから、まあ話をお聞きなせえよ。行ってみると、ひと足ちげえに、ご家人の野郎め千両ゆすり取りやがって、今ゆうゆうとあの駕籠で出かけたばかりだからといったんでね。それっとばかりに、辰とふたりしながら追っかけて、手もなく駕籠を押えたまではいいんだが、それからあとが、いかにもおかしいじゃござんせんか。駿河屋の店先から乗ったときにゃ、正真正銘のご家人だったというのに、中を改めてみるてえと、いつの間に人間をすり替えりゃがったか、似てもつかねえ
「ほほう。なるほど、ちっと変だな。それからどうしたい」
「でもね、いっしょに追っかけていった番頭がいうにゃ、しかと乗って出た駕籠にちげえねえというんでね、按摩の野郎を締め上げようとするてえと、こいつが偉い

「なかなかぬかすな。頭は坊主か。それとも、何かかむっていたかい」
「

「かわえそうに、みんごとお兄いさまたち、やられたな」
「じゃ、やっぱり化けていやがったんでしょうかね」
「あたりめえだ。ずきんの下でご家人まげが笑っていたことだろうよ。たぶん、針の道具箱もあったろうがな」
「ええ、ごぜえましたよ、ごぜえましたよ。なんだか知らねえが、特別でけえやつが、ひざのところに寄せつけてありましたぜ」
「しようのねえやつらだな。その道具箱の中に、千両はいっているんだ。もうちっとりこうにならなくちゃ、みっともねえじゃねえか。どういうわけでゆすり取られたか聞いてきたか」
「へえい。このまますごすごけえったんじゃ、だんなに会わす顔がねえと思いましたんでね。それだきゃ根堀り葉掘り聞いてきたんですが、なんでもあの駿河屋に勘当した宗助とかいうせがれがあってね、もう十年このかた行き先がわからねえのに、ご家人の野郎めがどこで知り合いになったか、その宗助に千両貸しがあるから、耳をそろえていま返せっていったんだそうですよ。だけども、借りた本人は生きているかも死んだかも知らねえんでね、すったもんだをやっていたら、せがれの直筆だという借用証書をつきつけやがって、あげくの果てに、とうとうだんびらをひねくりまわしゃがったんで、命あっての物種と、みすみす千両かたり取られたとこういうんですがね。でも、おやじがそのとき、ちょっと妙なことをぬかしやがったんですよ。勘当むすこの宗助はどういうわけで縁を切ったんだときいてやりましたらね、あんまり芸ごとと、それから弓にばかり凝りゃがるんで、十年まえにぷっつりと親子の縁を切ったと、こういうんですがね」
「なにッ。もういっぺんいってみろ!」
「なんべんでも申しますが、せがれの野郎め、あんまり芸ごとと弓にばかり凝りゃがるんで、先が案じられるから勘当したと、こういうんですよ」
「もうほかにゃねえか!」
「あるんですよ、あるんですよ。こいつあおやじの話じゃねえ、あっしがこの二つの目でちゃんと見てきたことなんだが、鈴原

「なにッ。そりゃほんとうかッ」
「正真正銘のこの目の玉で見たんだから、うそじゃねえんですよ」
きくや同時! がばっとはねおきるや、カンカラとうち笑っていましたが、ずばりと小気味よげに言い放ちました。
「ちくしょうめッ。すっかりおれさまにあぶら汗絞らせやがって、とんだ城持ち大名もあったもんじゃねえか。な! 伝六ッ」
「えッ!」
「あんまりつまらぬうぬぼれをいうもんじゃねえってことさ。二、三十枚がた役者が違わあなんかと大きな口をきいていたが、もうちっとでむっつり右門も腹切るところだったよ」
「じゃ、なにかくせ者大名の当たりがついたんですかい!」
「大つきさ。ご家人と、
「そ、そ、それじゃあんまり話がうますぎるじゃござんせんか」
「うまくたってまずくたって、ほんとうなんだから、しようがねえじゃねえか。おめえもとっくり考えてみねえな。いやしくも、正真正銘の大名が乗る
「いかさまね。じゃ、野郎め、どっかの役者だろうかね」
「あたりめえさ。ご家人から按摩に化けることのうまさからいったって、しばい者だよ。しかも、おどろくことにゃ、ご家人も、鈴原

「えッ。そりゃまた下手人が妙な野郎のところに結びついたもんですが、どうしてそんな眼がおつきですかい」
「どうもこうもねえ、おめえが今その口で、勘当むすこが芸ごとと弓に凝りすぎたといったじゃねえか。おおかた落ちぶれやがって、器用なまねができるのをさいわい、
「でも、それにしたって、生まれたうちへなにもご家人に化けていかなくたっていいじゃござんせんか」
「あいかわらずものわかりの悪いやつだな。七生までも勘当されたといったじゃねえか。あまつさえ、千両もの大金をねだりに行くんだ。勘当されたものがしらふで行かれるかい」
「なるほどね。そういわれりゃそれにちげえねえが、野郎めまたなんだって、千両もの大金がいるんだろうね」
「路銀をこしれえて、どこか遠いところへ高飛びするつもりなんだよ」
「えッ。そりゃたいへんだッ。さあ、忙しいぞッ。いう間もこうしちゃいられねえや! さ! 出かけましょうよ! な! 辰ッ。おめえも早くしたくしろよ」
「どじだな。行き先もわからねえうちに駆けだして、どこへ行くつもりなんだッ」
「そうか! いけねえ、いけねえ! あんまりだんながおどかすから、あわてるんですよ。じゃ、野郎の居どころも当たりがついていらっしゃるんですね」
「むっつり右門といわれるおれじゃねえか。じたばたせずと、手足になって働きゃいいんだッ。ふたりして、ちょっくらご番所を洗ってきなよ」
「行くはいいが、何を洗ってくるんですかい」
「知れたこっちゃねえか。このおひざもとで小屋掛けのしばいをするにゃ、ご番所のお許しがなくちゃできねえんだ。いま江戸じゅうに何軒小屋が開いてるか、そいつを洗ってくるんだよ」
「なるほど、やることが理詰めでいらっしゃらあ。じゃ、辰ッ、おめえは
「よしきた。何を洗い出しても、今みてえにあわ食うなよ。じゃ、兄貴、また会うぜ」
まめやかなのに念を押されながら、ふたりは疾風||
ほど経て、相前後しながら駆けもどってくると、善光寺のお公卿さまがまず一つ報告いたしました。
「ね、だんなだんな! 南町ご番所でお許しを出したというなア、神明さまの境内のあやつりしばいが一座きりきゃないっていいますぜ」
「そうかい。伝六兄いのほうはどんなもようだ」
「そいつがね、だんな、ちっとにおうんですよ。もうそろそろ夏枯れどきにへえりかけたためか、願いを出したな両国
「そうか! 尾州下りと聞いちゃ、
「ちぇッ、ありがてえ。もうこんどこそは、尾張様だろうと百万石だろうとこわかねえぞ。ちっと急がにゃならねえようだから、きょうは特別おおまけで、三丁じゃいけませんかね」
「どうやらまた晴れもようになったから、世直し祝いにかんべんしてやらあ」
「むっつり大明神さまさまだッ。じゃ、辰ッ、そのまにだんなのお召し物をてつだっておあげ申せよ。そっちの三つめのたんすが夏の物だからな」
言いすてると、伝六は早かごの用意。お公卿さまにてつだわさせた名人は、南部つむぎに
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かくて、前後三丁、景気よく乗りつけたところは、両国河岸の中村梅車なる一座です。時刻はちょうど昼下がりの八ツ手前||。今と違って、あかりの設備に不自由なお時代なんだから、しばいとなるとむろん昼のもので、表方の者にきくと、ちょうど四幕めの幕合いということでしたから、にらんだ
と||。どうしたことか、棧敷土間いっぱいの見物が、いずれも総立ちになりながら、しきりとなにかわいわいとわめき騒いでいるのです。その騒ぎ方がまた尋常一様ではなかったので、いぶかしく思いながら、かたわらの見物にきき尋ねました。
「なにごとじゃ。何をわめきたてているのじゃ」
「だって、あんまり座方の者がかってをしやがるから、だれだっても見物が鳴りだすなあたりまえじゃござんせんか。じつあ、この一座に尾州下りの市村宗助っていう早変わりのうめえ役者がいるんですがね。これから幕のあく色模様名古屋
早変わり役者で、あまつさえ名も宗助といったものでしたから、なんじょう名人の目の光らないでいらるべき! ただちに楽屋裏へやって行くと、居合わした道具方に鋭くきき尋ねました。
「市村宗助はいるか、いないか!」
「今、楽屋ぶろから上がってきたようでしたから、まだいるでしょうよ」
「へやはどこじゃ」
「突き当たりの左っかどです」
走りつけていってみると、だが、目を射たへやの光景とその姿!||案の定、高飛びをするつもりからか、伝六がいったあのときの駕籠の中の
「鈴原

「ゲエッ||」
といわぬばかりにぎょうてんしたのを、つづいてまたピタリと胸のすく
「みっともねえ顔して、びっくりするなよ。さっきとこんどとは、お出ましのだんなが違うんだッ。むっつり右門のあだ名のおれが目にへえらねえのか!」
きいて二度ぎょうてんしたのはむろんのことなので、しかるに市村宗助、なかなかのこしゃくです。三十六計にしかずと知ったか、楽屋いちょう、緋縮緬、おしろい塗りかけた顔のままで、やにわとうしろにあった西条流半弓を
「よよッ、おかしな狂言が始まったぞッ」
「おやまの役者が、弓を持っているじゃねえか!」
「おしろいが半分きゃ塗れていねえぜ」
叫びつつ総立ちとなって、花道にまでも見物があふれ出たものでしたから、ために逃げ場を失った宗助は、ついにやぶれかぶれになったものか、突如、きりきりと引きしぼったのは、西条流鏑矢の半弓!||
「野郎ッ。ふざけたまねすんねえ! 昼間だっても、おれの目は見えるんだぞッ」
いうや、するするとその手から得意の
「みろ! 痛いめに会わなくちゃならねえんだッ。他言をはばかる吟味だから、へやへ帰れッ」
手もなく引っ立てられて、
「恐れ入ってござります。いかにも、てまえが先ほどおやじの家へ化けてまいりまして、千両ゆすり取りましてござりますゆえ、お手やわらかにおさばき願います」
「バカ者ッ。そんなこまけえ
「············」
「このおれを前にして、強情張ってみようというのかい! せっかくだが、ちっと看板が違うよ。早変わりを売り物にするくれえのおまえじゃねえか。時がたちゃ、こっちの色も変わらあ。痛み吟味に掛けねえのを自慢のおれだが、手間取らせると、きょうばかりは事が事だから、少々いてえかもしれんぜ」
「し、しかたがござりませぬ。では、もう申します。いかにもお供先を乱したのはてまえでござりまするが、でも、あの毒矢を射込んだおへやさまってえのは、こう見えてもあっしの昔の
「だいそれたことを申すなッ。かりにもご三家のお殿さまからお
「でも、あっしの情婦だったんだからしようがねえんです。できたのは一年まえの去年のことでしたが、駿河屋のおやじからは勘当うけるし、せっぱ詰まってとうとう江戸を売り、少しばかりの芸ごとを看板にして、名古屋表のこの一座の群れにはいっているうちに、お喜久といった茶屋女とねんごろになっちまったんです。するてえと、できてまもなく、ぜひにも百両こしらえてくれろと申しましたんで、八方苦しい思いをやって小判をそろえて持っていったら、それきり金だけねこばばきめて、どこかへどろんを決めてしまったんですよ。くやしかったが、人気
聞き終わるや、ややしばし捕物名人が、じっと考えに沈んでいましたが、まことにこれこそは右門流中の右門流。そこにあった矢立てをとると、懐紙へさらさらと、次のごとき一書をかきしたためました。
「||尾州さまご家老殿へ上申つかまつりそうろう。八丁堀同心近藤右門の口は金鉄にござそうろうあいだ、おん秘密にすべきお喜久の方様のご条々は生々断じて口外いたすまじく、さればこれなる下人一匹、些少 ながらご進物としてさし上げそうろうまま、一服盛りにでもご手料理くだされたくそうろう
「近所の自身番へこいつをしょっぴいていって、
そして、ふたりの配下が命令どおりに手配したのを見すましながら、あごをなでなでゆうぜんと引きあげていきました。けれども、あとからついていったお公卿さまが、しきりに首をひねるのです。
まめやかにちょこちょこと従いながら、いとものどかにひねり出したものでしたから、いつものように早くも見つけて、何か名人がきき尋ねるだろうと思われたのが、これはまたおよそ変わったことがあればあるもので、珍しく伝六がいたって兄分顔に気取りながらいいました。
「みっともねえな。何がふにおちねえんだい」
「でもね||」
「なんだよ」
「あれほどのだいそれた[#「だいそれた」は底本では「だれそれた」]まねをしたっていうのに、なんだってまた尾州さまは、おらのだんなに手入れすんなとおっしゃったんだろうね」
「ちぇッ。しょうのねえどじだな。それだから、おまえなんぞ、いつまでたっても背が伸びねえんだよ。知れたこっちゃねえか。道々お小姓姿におやつしなさって、お連れ申し上げたくれえもご遠慮したんだもの、おへやさまの素姓が世間へ知られりゃ、何かとお家の名誉にもかかわるじゃねえか。だからこそ、だんなも一服盛って、早く宗助の野郎をやみからやみへかたづけてほしいと、わざわざお書面をお書きなすったもんだ。もっと食い養生をして、りこうになれよ」
すっかり口まねをして、とんだ説法をしたものでしたから、破顔一笑、腹をよらんばかりにいったのは名人でした。
「偉いところで、今度は伝六兄いが、おれに早変わりしちまったな。思いのほかに変わり方があざやかだから、おめえにも
よき主従のなごやかなやりとりをめで喜ぶかのように、大川渡った初夏の江戸風が、そよそよとさわやかに吹き通っていきました。