越後塩沢 鈴木牧之 編撰
江戸 京山人百樹 増修
越後の国
往古は
出羽越中に
距りし事
国史に見ゆ。今は七
郡を以て
一国とす。東に
岩船郡(古くは石に作る海による)蒲原郡
(新潟の湊此郡に属す)西に
魚沼郡
(海に遠し)北に
三嶋郡
(海による)刈羽郡
(海に近し)南に
頸城郡
(海に近き処もあり)古志郡
(海に遠し)以上七
郡也。城下は
岩船郡に
村上
(内藤侯五万九千石ヨ)蒲原郡に
柴田(溝口侯五万石)黒川(柳沢侯一万石陣営)三日市
(柳沢弾正侯一万石陣営)三嶋郡に
与板(井伊侯二万石)刈羽郡に
椎谷(堀侯一万石陣営)古志郡に
長岡(牧野侯七万四千石ヨ)頸城郡に
高田(榊原侯十五万石)糸魚川(松平日向侯一万石陣営)以上城下の
外頗豊饒[#「豊饒」の左に「ニギハヒ」の注記]を
為す
処、
魚沼郡に
小千谷、古志郡に
三条、三嶋郡に
寺泊○
出雲崎、
刈羽郡に
柏崎、
頸城郡に
今町なり。
蒲原郡の
新潟は北海第一の
湊なれば福地たる
論を
俟ず。
此余の
豊境は
姑略す。此地皆十月より雪
降る、その
深と
浅とは
地勢による。
猶末に
論ぜり。
蒲原郡の
伊弥彦山(弥一作夜)伊弥彦社を当国第一の
古跡とす。
祭るところの御神は
饒速日命の御子
天香語山命なり。
元明天皇の
和銅二年の
垂跡とす。
(社領五百石)此山さのみ高山にもあらざれども、越後の
海浜八十里の中ほどに
独立して
山脉いづれの山へもつゞかず。右に
国上山、左に
角田山を
提攜[#「提攜」の左に「カヽヘ」の注記]して一国の
諸山是に
対して
拱揖[#「拱揖」の左に「コシヲカヽメル」の注記]するが
如く、いづれの山よりも見えて
実に越後の
鎮[#「鎮」の左に「マモリ」の注記]ともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ
命もこゝに
垂跡まし/\たれ。此御神の
縁起或は
験神宝の
類記すべき

あまたあれども
姑こゝに
省。
○さて此山をよみたる古哥に
(万葉)「いや
日子のおのれ神さび
青雲のたなびく日すら
小雨そぼふる
(よみ人しらず)」又
家持に「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきて
つぬつきながら」▲
長浜 頸城郡に
在り。
(三嶋郡とする説もあり)家持の哥に「ゆきかへる
雁のつばさを
休むてふこれや名におふ
浦の
長浜」▲
名立 同郡
西浜にあり、今は
宿の名によぶ。 順徳院の御製に
(承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり)「
都をばさすらへ
出し
今宵しもうき身
名立の月を見る
哉」▲
直江津 今の高田の
海浜をいふ。 同御製に「なけば
聞きけば
都のこひしきに
此里すぎよ山ほとゝぎす」▲
越の
湖 蒲原郡に
潟とよぶ処多し。
里言に
湖を
潟といふ。その大なるを
福嶋潟といふ、四方三里
計。此
潟に遠からずして
五月雨山あり。
貫之の哥に「
潮のぼる
越の
湖近ければ
蛤もまたゆられ
来にけり」又
俊成卿に「
恨てもなにゝかはせんあはでのみ
越の
湖みるめなければ」又
為兼卿「
年をへてつもりし
越の
湖は
五月雨山の森の
雫か」▲
柿崎(頸城郡にある駅也) 親鸞聖人の
詠玉ひしとて
口碑に
伝へし哥に「柿崎にしぶ/\
宿をもとめしに
主の心じゆくしなりけり」
按ずるに、
聖人御名を
善信と申て三十五歳の時
讒口に
係りて越後に
謫さる、時に
承元元年二月なり。
後五年を
経て
勅免ありしかども、
法を
弘ん
為とて越後にいまししこと五年なり、
故に聖人の
旧跡越地に
残れり。
弘法廿五年御歳六十の時
洛に
皈玉へり。
(越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也)弘長二年十一月廿八日
遷化寿九十歳。
件の
柿崎の哥も
弘法行脚の
時の作なるべし。
此外▲
有明の
浦▲
岩手の
浦▲
勢波の
渡▲
井栗の
森▲
越の松原いづれも古哥あれども、
他国にもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を
去
(天保十一子なり)五百四十一年前、
永仁六年戌のとし藤原
為兼卿佐渡へ
左遷の時、三嶋郡
寺泊の
駅に
順風を
待玉ひし
間、
初君といふ
遊女をめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこし
路の
浦の
白浪も立かへるならひありとこそきけ」此哥
吉瑞となりてや、五年たちてのち
嘉元元年為兼卿
皈洛ありて、九年の
後正和元年
玉葉集を
撰の時、初君が
件の
哥を入れられ玉へり、是を越後第一の
逸事[#「逸事」の左に「スクレタコト」の注記]とす。初君が
古跡今
寺泊に
在り、
里俗初君
屋敷といふ。
貞享元年
釈門万元記といふ初君が哥の
碑ありしが、
断破しを
享和年間里入重修[#「重修」の左に「ツクリカヘ」の注記]して今に
存せり。
凡日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと
古昔も今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も
最雪のふかきこと一丈二丈におよぶは
我住魚沼郡なり。次に
古志郡、次に
頸城郡なり。
其余の四
郡は雪のつもる

三郡に
比すれば浅し。是を以
論ずれば、
我住魚沼郡は日本第一に雪の
深降所なり。我その魚沼郡の
塩沢に
生れ、毎年十月の
頃より
翌年の三四月のころまで雪を
視事
已に六十余年、
近日此
雪譜を作るも雪に
籠居のすさみなり。
○さて
我塩沢は江戸を
去こと
僅に五十五里なり、
直道を
量ばなほ近かるべし。雪なき時ならば
健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を
聞ば
縉紳朱門[#「縉紳朱門」の左に「ヲレキ/\」の注記]の

はしらず、
市中は千
門万
戸千歳の松をかざり、
直なる
御代の竹をたて、太平の
七五三を引たるに、
新年の
賀客麻上下の
肩をつらねて
往来するに万歳もうちまじりつ。女太夫とか
鳥追ひの
三味線にめでたき哥をうたひ、娘の
児のやり
羽子、男の
児の
帋鳶、見るもの
聞ものめでたきなかに、
初日影花やかにさし
昇たる、
実に
新玉の春とこそいふべけれ。
其元日も此雪国の元日も
同元日なれども、
大都会の
繁花と
辺鄙の雪中と
光景の
替りたる事
雲泥のちがひなり。
○そも/\
我里の元日は野も山も
田圃も
里も
平一面の雪に
埋り、春を知るべき
庭前の梅柳の
類も、去年雪の
降ざる秋の末に雪を
厭て丸太など立て
縄縛に
遇たるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を
不見、翁が句に 春も
稍景色とゝのふ月と梅、と
吟ぜしは
大都会の正月十五日なり。また「山里は万歳
遅し梅の花」とは
辺鄙の三月なるべし。
門松は雪の中へ
建、
七五三かざりは雪の
軒に引わたす。
礼者は
木屐をはき、
従者は
藁靴なり。雪
径に
階級ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪
全く
消る夏のはじめにいたらざれば、
草履をはく事ならず。されば元日の初日影も
惟雪の銀
世界を
照すのみ。一ツとして春の
景色を
不見。
古哥に「花をのみ待らん人に山里の雪
間の草の春を見せばや」とは雪浅き
都の事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて
生涯を
終る。これをおもへば
繁栄豊腴の
大都会に
住て
年々歳々梅柳※色[#「女+(而/大)」、U+5A86、173-11]の春を
楽む事
実に
天幸の人といふべし。
初編にもいへる如く我国の雪は
鵞毛をなすは
稀なり、大かたは
白砂を
降すが如し。冬の雪はさらに
凝凍ことなく、春にいたればこほること
鉄石のごとし。冬の雪のこほらざるは
湿気なく
乾たる
沙のごとくなるゆゑなり。
是暖国の雪に
異処なり。しかれどもこほりてかたくなるは雪
解とするのはじめなり。春にいたりても
年によりては雪の
降こと冬にかはらざれども、
積こと五六尺に
過ず。天地に
気有を以なるべし。されば春の雪は
解るもはやし、しかれども雪のふかき年は春も
屋上の雪を
掘ことあり。
掘とは
椈の木にて作りたる
木鋤にて
土を
掘ごとくして
取捨るを
里言に雪を掘といふ、
已に初編にもいへり。かやうにせざれば雪の
重に
屋を
潰ゆゑなり。されば
旧冬の
家毎に
掘除たる雪と春
降積たる雪と
道路に山をなすこと下にあらはす
図を見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも
高ゆゑ、春を
迎る時にいたればこゝろよく
日光を引んために、
明をとる処の
窗に
遮る雪を他処へ
取除るなり。
然るに時としては一夜の
間に三四尺の雪に降うづめられて家内
薄暗、心も
朦々として
雑煮を
祝ふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は
暖国の人に見せたくぞおもはるゝ。

江戸の
児曹が春の遊は、女
児は
繍毬羽子擢、男
児は
紙鴟を
揚ざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、
歩行に
苦しく
路上に遊をなす事
少し。こゝに
玉栗といふ
児戯あり。
(春にもかぎらず雪中のあそび也)始は雪を
円成て
卵の大さに
握りかため其上へ/\と雪を幾度もかけて足にて
踏堅、あるひは
柱にあてゝ
圧堅、これを
肥といふ。さて
手毬の大さになりたる時他の
童が作りたる
玉栗を
庇下などに
置しめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、
強き玉栗
弱き玉栗を
砕くをもつて
勝負を
争ふ。
此戯所によりて、○コンボウ○コマ○
地独楽○
雪玉(里のなまりに雪をいきといふ)○ズヽゴ○玉ゴシヨ○
勝合などいふなり。此玉栗を
作るに雪に
少し
塩を入るれば
堅なること石の如し、ゆゑに小児
互に塩を入るを
禁ずるなり。こゝを以てみる時は、
塩は物を
堅むる物なり。物を
堅実にするゆゑ
塩蔵にすれば
肉類も
不腐、朝夕
嗽に塩の湯水を以すれば
歯をかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は
児戯なれど、塩の物を
堅する
証とするにたれり。故にこゝに
記せり。又
童のあそびに
雪ン
堂といふ

あり、初編にいだせり。
(我里俗はねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし) 江戸に正月せし人の
話に、市中にて見上るばかり松竹を
飾たるもとに、
美く
粧ひたる娘たち
彩たる
羽子板を持て
並び立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子
擢は
辺鄙とはいひながら、かゝる
艶姿にあらず。正月は
奴婢どもゝ
少しは
許て遊をなさしむるゆゑ、
羽子を
擢んとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて
角力場のごとくになし、羽子は
溲疏を一寸
ンほど筒切になし、これに
※雉[#「櫂のつくり+鳥」、U+9E10、180-1]の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に
比れば甚大なり。これを
擢に雪を
掘木鋤を用ふ、力にまかせて擢ゆゑに
空にあがる

甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに
童はまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて
此戯をなすなり。一ツの羽子を
並びたちてつくゆゑに、あやまちて
取落したるものは
始に定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は
頭より雪をあぶする。その雪
襟懐に入りて
冷に
耐ざるを大勢が笑ふ、
窗よりこれを
視るも雪中の
一興なり。京伝翁が
骨董集に
(上編ノ下)下学集を引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの
前、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は
詳ならずといはれたり。又下学集には羽子板に
(ハゴイタ、コギイタ)と両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。
雪国にて
悚懼物は、冬の○
雪吹○ホウラ、春の
雪頽なり。此
奇状奇事已に初編にもいへり、されど
一奇談を聞たるゆゑこゝにしるして
暖国の
話柄とす。
○そも/\金銭の
貴こと、
魯氏が
神銭論に
尽したれば今さらいふべくもあらず。
年の凶作はもとより事に
臨で
餓にいたる時小判を
甜て
腹は
彭張ず、
餓たる時の小判一枚は飯一
碗の光をなさず。五十余年前の
饑饉の時、或所にて
餓死したる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。
○こゝに我が
魚沼郡藪上の庄の村より
農夫一人
柏崎の
駅にいたる、此
路程五里
計なり。途中にて一人の
苧
商人に
遇ひ、
路伴になりて
往けり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日
晴たれば、両人
肩をならべて
心朗にはなしながら
已に
塚の山といふ
小嶺にさしかゝりし時、雪国の
恒として
晴天俄に
凍雲を
布、
暴風四方の雪を吹
散して白日を
覆ひ、
咫尺を
弁ぜず。
袖襟へ雪を吹入れて
全身凍て
息もつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を
渦に
巻揚る、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは
不意にあるものゆゑ、
晴天といへども冬の
他行には必
蓑笠を用ること我国の常なり。二人は
橇に雪を
漕つゝ
(雪にあゆむを里言にこぐといふ)互に
声をかけて
助あひ
辛じて
嶺を
逾けるに、
商人農夫にいふやう、今日の晴天に
柏崎までは何ともおもはざりしゆゑ
弁当をもたず、今
空腹におよんで
寒に
堪ず、かくては
貴殿に
伴て雪を
漕ことならず、さいぜんの
話におみさまの
懐に
弁当ありときゝぬ、
夫を我に
与へたまふまじきや、
惟には
貰ふまじ、こゝに銭六百あり、
死か
活かの
際にいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を
売玉へといふ。
農夫は
貧乏の者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、
焼飯二ツを出して六百の銭に
替けり。商人は
懐にありて
温のさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に
咽を
潤して
精心健になり前にすゝんで雪をこぎけり。

○かくていそぐほどに
雪吹ます/\甚しく、
橇を
穿ゆゑ
道遅く日も
已に
暮なんとす。此時にいたりて焼飯を売たる
農夫は
肚減て
労れ、商人は焼飯に
腹満足をすゝめて
往。農夫は
屡後るゆゑ
終には
棄て
独先の村にいたり、しるべの家に入りて
炉辺に
身を
温て酒を
酌、
始て
蘇生たるおもひをなしけり。
○さてしばらくありてほうい/\と
呼声遠く
聞るを家内の者きゝつけ、
(ふゞきにほうい/\とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす)雪吹倒れぞ、それ助けよとて、
近隣の人をもよび
集め
手毎に
木鋤を持て
(木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也)走行しが、やゝありて大勢のもの一人の
死骸を家の
土間へ
※[#「臼/廾」、U+8201、182-7]入れしを、かの
商人も
立寄見れば、
最前焼飯を
売たる農夫なりしとぞ。この
苧
商人、
或時余が
俳友の家に
逗留の
話に
件の事を
語り
出し、
彼時我六百の銭を
惜み焼飯を
買ずんば、
雪吹の
中に
餓死せんことかの
農夫が如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと
俳友が
語れり。
五穀豊熟して
年の
貢も
心易く
捧げ、
諸民鼓腹の春に
遇し時、氏神の
祭などに
遭しを幸に地芝居を
興行する

あり。役者は皆其処の
素人あるひは
近村近
駅よりも来るなり。
師匠は田舎芝居の
役者を
傭ふ。
始に寺などへ
群居て狂言をさだめてのち、それ/\の役を定む。此
群居の
議論紛々として一度にて
果したる

なし。事定りてのち寺に於て
稽古をはじむ、
技熟してのち初日をさだめ、
衣裳髢のるゐは是を
借を一ツの
業とするものありて
物の
不足なし。此芝居二三月の
頃する事あり、此時はいまだ雪の
消ざる銀
世界なり。されば芝居を
造る処、此役者
等が家はさらなり、
親類縁者朋友よりも人を出し、あるひは人を
傭ひ芝居小屋場の地所の雪を
平らかに
踏かため、
舞台花道楽屋桟敷のるゐすべて皆雪をあつめてその
形につかね、なりよく
造ること下の
図を見て知るべし。此雪にて
造りたる物、天又
人工をたすけて一夜の間に
凍て鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの
崩る気づかひなし。
弥生の
頃は雪もやゝ
稀なれば、
春色の
空を見て
家毎に雪
囲を
取除るころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは
雪垂とて
茅にて幅八九尺
広さ二間ばかりにつくりたる
簾を
借あつめてすべての
日覆となす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに
冰つきて
釘付にしたるよりも
堅し。
暖国に
比れば
論の
外なり。物を
売茶屋をも
作る、いづれの処も平一
面の雪なれば、物を
煮処は雪を
窪め
糠をちらして火を
焼ば、雪の
解ざる事妙なり。
○さて
戯場の
造作成就しても春の雪ふりつゞきて
連日晴を見ず、
興行の初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に
逗留の
客多く毎日
空をながめて
晴を
待わび、
客のもてなしもしつくして
殆倦果、
終には役者
仲間いひあはせ、川の
冰を
砕て水を
浴千垢離して
晴を
祈るもをかし。

百樹曰、
余丁酉の夏
北越に遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと
聞て京水と
倶に至りしに、寺の門の
傍に
杭を
建て
横に
長き
行燈あり、是に
題して
曰、
当院屋根普請勧化の
為本堂に
於て
晴天七日の間芝居
興行せしむるものなり、
名題は
仮名手本忠臣蔵役人替名とありて
役者の名
多くは
変名なり。寺の門内には
仮店ありて物を売り、
人群をなす。芝居には
仮に戸板を
集て
囲たる入り口あり、こゝに
守る
者ありて一人
前何程と
価を
取、これ
屋根普請の
勧化なり。本堂の上り段に
舞台を作り
掛、左に花道あり、左右の
桟敷は
竹牀簀薦張なり。土間には
薦を
布、
筵をならぶ。
旅の芝居
大概はかくの如しと市川白猿が
話にもきゝぬ。
桟敷のこゝかしこに
欲然やうな
毛氈をかけ、うしろに
彩色画の
屏風をたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな
綿帽子したるは
辺鄙[#ルビの「へんび」はママ]に古風を
失ざる也。
観人群をなして大入なれば、
猿の如き
童ども
樹にのぼりてみるもあり。
小娘が
笊を
提て
冰々とよびて
土間の中を
売る。
笊のなかへ木の
青葉をしき雪の
冰の
塊をうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと
削氷の
条にいふべし。
○さて口上いひ出て寺へ
寄進の物、あるひは役者へ
贈物、餅酒のるゐ一々人の名を
挙、
品を
呼て
披露し、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて
幕開。おかるに
扮しは岩井玉之丞とて田舎芝居の
戯子なるよし、
頗る
美なり。由良の助に
扮しは
余が
旅中文雅を
以識人なり、
年若なればかゝる
戯をもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に
似たり。
技も又
観に
足り。寺岡平右ヱ門になりしは
余が
客舎にきたる
篦頭なり、これも常にかはりて関三十郎に似て
音声もまた
天然と関三の如し。
余京水と
相顧て感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と
誉けるが、尾張屋は関三の
家号なる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一
幕にてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、
便所は寺の
後にあり、
空腹ならば
弁当を
買玉へ、
取次申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、
人散ば
演場の
蕭然を
厭ふゆゑなるべし。いづくにか
出所あらんと
尋しに、此寺の四方
垣をめぐらして出べきの
隙なし。
折ふし
童が外より垣をやぶりて入りたるその
穴より両人くゞりいでしは、これも又
可笑一ツにてぞありし。
旧冬より
降積たる雪家の
棟よりも高く、春になりても家内
薄暗きゆゑ、
高窓を
埋たる雪を
掘のけて
明をとること前にもいへるが如し。此
屋上の雪は冬のうちしば/\掘のくる度々に、
木鋤にてはからず
屋上を
損ずる

あり。我国の
屋上おほかたは
板葺なり、屋根板は他国に
比れば
厚く
広し。葺たる上に
算木といふ物を
作り
添石を
置て
鎮とし風を
防の
便とす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに
早春の雪ふりつもりて
凍ゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も
稍深なれば雪も日あたりは
解あるひは
焼火の所雪早く
解るにいたりて、かの屋根の
損じたる処
木羽の下たをくゞりなどして雪水
漏ゆゑ、夜中俄に
畳をとりのけ
桶鉢のるゐあるかぎりをならべて
漏をうくる。もる処を
修治とするに雪
全くきえざるゆゑ手をくだす

ならず、漏は次第にこほりて
座敷の内にいくすぢも大なる
氷柱を見る時あり。是
暖国の人に見せたくぞおもはる。
百樹曰、
余越遊して大家の
造りやうを見るに、
楹の
太こと江戸の土蔵のごとし。
天井高く
欄間大なり、これ雪の時
明をとるためなり。
戸障子骨太くして手
丈夫なるゆゑ、
閾鴨柄も
広く
厚し。すべて
大材を
用る事目を
駭せり、これ皆雪に
潰ざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ
店下を越後に
雁木(又は庇)といふ、雁木の下広くして
小荷駄をも
率べきほどなり、これは雪中にこの
庇下を
往来の
為なり。
余越後より江戸へ
皈る時高田の城下を
通しが、こゝは北越第一の
市会なり。
商工軒をならべ百物
備ざることなし。両側一里余
庇下つゞきたるその中を
往こと、甚
意快[#「意快」の左に「コヽロヨイ」の注記]なりき。
文墨の
雅人も多しときゝしが、
旅中年の
凶するに
遭、
皈家を
急しゆゑ剌
[#「刺」の左に「テフダ」の注記]を入れざりしは今に
遺憾とす。
雪中
歩行の
具初編に
其図を
出ししが
製作を
記さず、ふたゝびその
詳なるを
示す。

○
藁ひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、
○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。
○是はうちわらにて作りあむ。常の
※[#「韈のつくり」の「罘−不」に代えて「冂<人」、189-6]のまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。
○他国には革にて作りたるを見る。
泥行には便なるべし。我国の雪中には
途に
泥ある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の
爪●牛のつめなど、さま/″\名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。
○ハツハキといふは
里俗のとなへなり、すなはち
裹脚なり。わらのぬきこあるひは
蒲にても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。

○シナ皮とて
深山にある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、
胸あてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。
○シブガラミはあみはじめの方を
踵へあて、左右のわらを
足頭へからみて作るなり。里俗わら
屑のやはらかなるを
シビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと
訛りいふなり。
○かんじきは
古訓なり、
里俗かじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、
形図の如く
ジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は
反して
クマイブといふ
蔓又は
カヅラといふつるをも用ふ。
山漆の肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。
○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて
獣を追ふ也。右の外、男女の雪
帽子雪
下駄、
其余種々雪中
歩用の
具あれども、
薄雪の国に用ふる物に
似たるはこゝに
省く。

百樹曰、
余北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人
家僕に
命じて雪を
漕形状を見せらる、京水
傍にありて此図を
写り。
穿物は、○
橇○
縋なり。
戯に
穿てみしが一歩も
進ことあたはず、
家僕があゆむは馬を
御するがごとし。
※[#「車+盾」、U+8F34、192-7](字彙)禹王水を
治し時
載たる物四ツあり、水には
舟、
陸には車、
泥には
※[#「車+盾」、U+8F34、192-7]、山には
※[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、192-7]。
(書経註)しかれば此
※[#「車+盾」、U+8F34、192-8]といふもの
唐土の上古よりありしぞかし。
彼は
泥行の用なれば雪中に用ふるとは
製作異なるべし。
※[#「車+盾」、U+8F34、192-9]の字、○
毳○
※[#「くさかんむり/絶」、U+855D、192-9]○
橇○
秧馬、
諸書に
散見す。
或は○
雪車○
雪舟の字を用ふるは
俗用なり。
そも/\此
※[#「車+盾」、U+8F34、192-11]といふ物、雪国第一の用具。
人力を
助事船と車に
同く、
且に
作る事
最易きは
図を見て知るべし。
堀川百首兼昌の哥に、「
初深雪降にけらしなあらち山
越の
旅人※[#「車+盾」、U+8F34、192-12]にのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふの
古をしるべし。前にもしば/\いへるごとく、我国の雪冬は
凍ざるゆゑ、冬に
※[#「車+盾」、U+8F34、192-14]をつかへば雪におちいりて

ことならじ。※
[#「車+盾」、U+8F34、192-14]は春の雪鉄石のごとく
凍たる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを
里俗※道[#「車+盾」、U+8F34、192-14]になりしといふ。
俳諧の
季寄に
雪車を冬とするは
誤れり。さればとて雪中の物なれば春の
季には
似気なし。古哥にも多くは冬によめり、
実にはたがふとも冬として可なり。
※[#「車+盾」、U+8F34、193-4]は作り
易物ゆゑ、おほかたは
農商家毎に是を
貯ふ。されば
載るものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。
只大なるを里俗に
修羅といふ、大石大木をのするなり。
山々の
喬木も春二月のころは雪に
埋りたるが
梢の雪は
稍消て
遠目にも見ゆる也。此時
薪を
伐に
易ければ
農人等おの/\
※[#「車+盾」、U+8F34、193-8]を

て山に入る、或はそりをば
麓に
置もあり。常には見上る
高枝も
埋りたる雪を
天然の
足場として心の
儘に
伐とり、大かたは六
把を一人まへとするなり。さて下に三把を
並べ、中には二把、
上には一把、これを
縄にて強く
縛し
麓に
臨で
蹉跌に、
凍たる雪の上なれば幾百丈の高も
一瞬の
間にふもとにいたるを
※[#「車+盾」、U+8F34、193-11]にのせて
引かへる。或はまた山に
九曲あるには、
件のごとくに
縛したる
薪の
※[#「車+盾」、U+8F34、193-12]に
乗り、
片足をあそばせて是にて
楫をとり、船を
走すがごとくして
難所を
除て数百丈の
麓にくだる、一ツも
過ことなし。
其術学ずして
自然に
得る処奇々妙々なり。
※[#「車+盾」、U+8F34、193-14]を引て
薪を
伐こといひあはせて
行ときは、二三人の
食を草にて
編たる袋にいれて
※[#「車+盾」、U+8F34、193-14]にくゝしおくことあり。
山烏よくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて
食を
喰尽す。
樵夫はこれをしらず、今日の
生業はこれにてたれり、いざや
焼飯にせんとて打より見れば一
粒ものこさず、
烏どもは
樹上にありて
啼。人はむなしく烏を
睨て
詈り、
空肚をかゝへて
※哥[#「車+盾」、U+8F34、196-2]もいでず、※
[#「車+盾」、U+8F34、196-2]をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。
![秋月庵牧之筆の図、※[#「車+盾」、U+8F34]の全図](../fig58401_07.png)
そりをひくにはかならずうたうたふ、是を
※哥[#「車+盾」、U+8F34、196-4]とてすなはち
樵哥なり。
唱哥の
節も
古雅なるものなり。
親あるひは
夫山に入り
※[#「車+盾」、U+8F34、196-5]を引てかへるに、遠く
※哥[#「車+盾」、U+8F34、196-5]をきゝて
親夫のかへるをしり、
※[#「車+盾」、U+8F34、196-5]に
遇処までむかへにいで、親夫をば※
[#「車+盾」、U+8F34、196-6]に
積たる
薪に
跨せて、
妻や
娘がこれをひきつゝ、これらも又※
[#「車+盾」、U+8F34、196-6]哥をうたうてかへるなど、
質朴の
古風今
目前に
存せり。是
繁花をしらざる
幽僻の地なるゆゑなり。
春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も
緑もあるかなきかにくれゆく。されど
二月の
空はさすがにあをみわたりて、
朗々なる
窓のもとに
書読をりしも
遙に
※哥[#「車+盾」、U+8F34、196-9]の
聞るはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の
人情ぞかし。
百樹曰、我が
幼年の頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく
声、あるひは白酒々の声も春めきて心も
朗なりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には
江
の
鮨鯛のすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は
鰹々に
白妙の垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、
師走の竹ヤ/\は
(すゝはらふ竹うりなり)聞に
忙。物皆季に
応じて声をなし、情に入る事天然の理なり。
胡笳の
悲も又然らん。
件のは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の
音、冬の
水鵲をや。
本編※哥[#「車+盾」、U+8F34、197-2]をきゝ春めきてうれしとは
真境実事文客の至情なり、我是に
感じてこゝに
数言を
置く。
※哥[#「車+盾」、U+8F34、197-3]の春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。
糞をのする
※哥[#「車+盾」、U+8F34、197-4]あり、これをのするほどに
小く作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、
渺々として
田圃も
是下に
在りて
持分の
境もさらにわかちがたし。しかるにかの
糞のそりを引てこゝに来り、雪のほかに一
点の
目標もなきに雪を
掘こと井を掘が如くにして
糞を入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が
農奴等もする事なり。
茫々[#「茫々」の左に「ヒロ/\」の注記]たる雪上何を
目的にしてかくはするぞと
問ひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。
所為は
賤けれども
芸術の
極意もこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして
初学の人
芸に
進の
一端を
示す。
※[#「車+盾」、U+8F34、197-11]の大なるを
里言に
修羅といふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを
大持といふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの
槻を

し事ありき。かゝる時は
修羅を二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋
伐りてそのまゝ山中におき、
※[#「車+盾」、U+8F34、197-14]を用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも

をもつて雪の
堅をしるべし。田
圃も平一面の雪なればひくべき所へ
直道にひきゆくゆゑ甚
弁なり。
修羅に大
綱をつけ左右に
枝綱いくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ
幟を二本
持つ、信心の老若男女
童等までも
蟻の如くあつまりてこれをひく。木やり
音頭取五七人花やかなる
色木綿の
衣類に
彩帋の
麾採て材木の上にありて木やりをうたふ。その
哥の一ツにハア

うさぎ/\
児兎ハアヽ

わが耳はなぜながいハアヽ

母の
胎内にいた時に
笹の
葉をのまれてハアア

それで耳がながい

大持がうかんだハアア

花の
都へめりだした
(いく百人同音に)
いゝとう/\

そのこゑさまさずやつてくれ

いゝとう/\/\。
児曹らが手遊の
※[#「車+盾」、U+8F34、198-6]もあり。
氷柱の六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、
暖国にはあるまじく
聞もせざる事なるべし。猶
※[#「車+盾」、U+8F34、198-7]に種々の
話あれどもさのみはとてもらせり。
春にいたれば寒気地中より
氷結あがる。その力
礎をあげて
椽を
反し、あるひは
踏石をも持あぐる。冬はいかほど
寒ずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は
凍て
※[#「車+盾」、U+8F34、198-11]をもつかふなれ。屋根の雪を
掘のけてつみ
上げおくを、
里言に
掘揚といふ。
(前にもいへり)往来の
路にも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に
箱梯のごとく
階を
作りて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに
下踏の
歯に
釘をならべ
打て
蹉跌ざる
為とす。
唐土にては是を
※[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、199-1]とて山にのぼるにすべらざる
履とす、
※[#「木+壘」の「土」に代えて「糸」、U+6B19、199-1]和訓カンジキとあり。
冬春にかぎらず雪の
気物にふれて
霜のおきたるやうになる、是を
里言に
シガといふ。
戸障子の
隙よりも雪の気入りて
坐敷に
シガをなす時あり、此シガ
朝※[#「口+敦」、U+564B、199-4]の
温気をうくる処のは
解ておつる。春の頃野山の
樹木の下
枝は雪にうづもれたるも
稍は雪の
消たるに、シガのつきたるは玉もて作りたる
枝のやうにて見事なるものなり。
川辺などはたらく者には
髪の
毛にもシガのつく事あり、此シガ我が
塩沢にはまれなり。おなじ
郡の
中小出嶋あたりには多し、大河に近きゆゑ
水気の霜となるゆゑにやあらん。
我国の雪
里地は三月のころにいたれば
次第々々に
消、
朝々は
凍こと鉄石の如くなれども、
日中は上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも
留るほどに
昨日今日と雪の丈け低くなり、もはや雪も
降まじと雪
囲もこゝかしこ取のけ、家のほとり
庭などの雪をも
掘すつるに、雪凍りて
堅きゆゑ雪を
大鋸にて
(大鋸○里言に大切といふ)ひきわりてすつる。その四角なる雪を
脊負ひあるひは
担持にするなど
暖国の雪とは大に
異り、雪に
枝を折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる
庭樹なども、
解ほどけばさすがに梅は雪の中に
莟をふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月
以来暗かりし
坐敷もやう/\
明くなりて、
盲人の
眼のひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば
田圃の雪も
斑にきえて、去年秋の
彼岸に
蒔たる
野菜のるゐ雪の下に
萌いで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる
泉水を
掘いだせば、去年初雪より
以来二百日あまり
黒闇の水のなかにありし
金魚緋鯉なんどうれしげに
浮泳も
言やれ/\うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる
日蔭の雪は
依然として山をなせり、
況や
山林幽谷の雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。
百樹曰、余丁酉の年の晩夏
豚児京水を
従て北越に
遊し時、
三国嶺を
踰しは六月十五日なりしに、谷の
底に鶯をきゝて、
足もとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこしの山ぶみ
拙作なれども
実境なれば
記す。此
嶺うちこし四里
山径隆崛[#「隆崛」の左に「ケハシクマガル」の注記]して
数武[#「数武」の左に「チトノアヒダ」の注記]も
平坦の路を
践ず
浅貝といふ
駅に
宿り
猶○
二居嶺(二リ半)を
越て
三俣といふ
山駅に宿し、
芝原嶺を下り
湯沢に
抵んとする
途にて
遙に
一楹の
茶店を見る。
庇のもとに
床ありて浅き箱やうのものに白く
方なる物を
置たるは、
遠目にこれ
石花菜を売ならん、口には
上らずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく
汗もしとゞに足もつかれたれば
茶店あるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には
最珍しければ立よりて
熟視ば、深さ五寸
計の箱に水をいれその中に
小き
踏石ほどの雪の氷をおきけり。
売茶翁に問ば、これは
山蔭の谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて
乞ひければ
翁菜刀を
把、

のなかへさら/\と
音して
削りいれ、豆の
粉をかけていだせり。氷に
黄な
粉をかけたるは江戸の目には見も
慣ず
可笑ければ、京水と
相目して
笑をしのびつゝ、是は
価をとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、
両掛に
用意したる
沙糖をかけたる
削氷に、歯もうくばかり暑をわすれたるは
珍しき事いはんかたなし。
そも/\このけづり
氷といふ物を
珍味とする事
古書に
散見せしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日
途より
和哥所に
参る、
家隆朝臣唐櫃二合を
取寄らる、○
破子○
瓜○
土器○
酒等あり、又
寒氷あり
自刀を
取り
氷を
削る、
興に入る事甚し』
(本書は漢文也)件の元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を
歴て、古人の如く
削氷を越後の
山村に
賞味したる事
珍とすべし奇とすべし。
実に
好古の
肝を
清くす。

○
按に
ひといふは
冰の
本訓、
こほりと
訓は
寒凝の義なりと士清翁が
和訓栞にいへり。
氷室といふ事、俳諧の
季寄といふものなどにもみえたれば
普人の知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。
御国は仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。
延喜式に山城国
葛城郡に
氷室五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして
朝庭に
貢献するを、
諸臣にも
頒賜事
年毎の
例なるよしなり。前に引し明月記の
寒氷は朝庭よりの
古例の
賜にはあるべからず、いかんとなれば
削氷を賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで
消ずやあるべき。明月記は千
写百

の書なれば七は六の
誤としても氷室を
出し六月の氷
朝を
待べからず。
盖貢献の後
氷室守が私に
出すもしるべからず。
○さて
氷室とは
厚氷を山蔭などの
極陰の地中に
蔵置、
屋を作りかけて守らす、古哥にもよめる
氷室守是なり。其
氷室は水の
氷ををさめおくやうに
諸書の
注釈にも見えしが、水の氷れるは
不潔なり、不潔をもつて
貢献にはなすべからず。且水の
冰は地中に
在りても
消易ものなり、
是他なし、水は極陰の物なるゆゑ陽に
感じ
易ゆゑなり。我越後に
削氷を視て
思に、かの
谷間に
在といひしは
天然の氷室なり。むかしの冰室といふは雪の
氷りむろなるべし。極陰の地に
竅を作り、屋を
造り
掛、別に
清浄の地に
垣をめぐらして、人に
踏せず、
鳥獣にも
穢させず、
而雪を
待、雪ふれば此地の雪をかの
竅に
撞こめ
埋め、人是を守り、六月朔日是を
開、
最清浄なる所を
貢献せしならん
歟。是
己が
臆断を以て理に
就て
古の氷室を
解するなり。
○氷室の古哥
枚挙べからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に
(拾遺愚艸)「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に
(千載集)「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を
消残りたる雪に見たてたる一首の
意、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を
献じ玉ふも雪の氷なり。これにても
古の氷室は雪の氷なるをおもふべし。
○さてかの
茶店にて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より
塩沢の
牧之老人が家に
在しに、日毎に
氷々とよびて売来る、
山家の
老婆などなり。
掌ほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の
得がたきは
珍らしく、
得易はめづらしからざるは
人情の
恒なり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも
飽ざる物は孝心なる我子の
顔と、
蔵置黄金の
光なるべし。
越後国南は上州に
隣る
魚沼郡なり。東は奥州羽州へ
隣る
蒲原郡岩船郡なり。
国堺はいづれも
連山波濤をなすゆゑ雪多し。東北は
鼠が関
(岩船郡の内出羽のさかひ)西は
市振(頸城郡の内越中の堺)に
至の道八十里が間
都て北の
海浜なり。海気によりて雪一丈にいたらず
(年によりて多少あり)又
消も早し。
頸城郡の高田は海を
去事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中
(町のながさ一リにあまる)雪に
埋りて
闇夜のごとく、
昼夜をわかたざる事十余日、市中
燈の油
尽て諸人難義せしに、御
領主より家毎に油を
賜ひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日
(連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり)人気
欝悶して病をなすにいたれるもありけり。
百樹曰、余牧之老人が此書の
稿本に
就て
増修の
説を
添、
上梓[#「上梓」の左に「ホンニスル」の注記]の
為に
傭書[#「傭書」の左に「ハンシタカキ」の注記]へ
授る一本を作るをりしも、老人が
寄たる書中に、
「当年は雪
遅く冬至に成候ても
駅中の雪一尺にたらず、此
日次にては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日
(十一月なり)黄昏より
降いだし、廿五六七八九日まで五日の間
昼夜につもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで
駅中家毎の雪
掘にて
混雑いたし、
簷外急玉山を
築戸外へもいでがたく
悃り申候。今日も又大
雪吹に相成、家内
暗く
蝋燭にて此状をしたゝめ申候。何程
可降哉難計一同心痛いたし居申候」
(下略)是当年
(天保十亥とし)十一月廿九日出の
尺翰なり。此文をもつても越後の雪を知るべし。
○余越後の夏に
遇しに、五
穀蔬果の
生育少しも雪を
畏たる色なし。
山景野色も雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。
五雑組に
(天部)百草雪を
畏ずして霜を畏る。
盖雪は雲に
生じて
陽位也、霜は
露に生じて
陰位也といへり。越後の夏を
視て
謝肇
が此
説に
伏せり。
我住塩沢より
下越後の方へ二宿
越て
(六日町五日町)浦佐といふ宿あり。こゝに
普光寺といふ
(真言宗)あり、寺中に七間四面の
毘沙門堂あり。
伝ていふ、此堂大同二年の
造営なりとぞ。
修復の
度毎に
棟札あり、今猶
歴然と
存す。毘沙門の
御丈三尺五六寸、
往古椿沢といふ村に椿の
大樹ありしを伐て
尊像を作りしとぞ。
作名は
伝らずときゝぬ。
像材椿なるをもつて此地椿を
薪とすればかならず
祟あり、ゆゑに椿を
植ず。又
尊
鳥を
捕を
忌玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に
群をなして人を
怖ず、此地の人鳥を捕かあるひは
喰ば
立所に
神罰あり。たとひ
遠郷へ
聟娵にゆきて年を
歴ても鳥を
喰すれば必
凶応あり、
験の
煕々たる事此一を以て知るべし。されば
遠郷近邑信仰の人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に
限りて
堂押といふ事あり、
敢祭式の
礼格とするにはあらねど、むかしより
有来たる
神事なり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此
浦佐に一宿し、此
堂押に
遇人もあれば
近村はいふもさらなり。
*11
○さて
押に
来りし男女まづ
普光寺に入りて
衣服を
脱了、身に持たる物もみだりに
置棄、
婦人は
浴衣に
細帯まれにははだかもあり、男は皆
裸なり。
燈火を
点ずるころ、かの七間四面の堂にゆかた
裸の男女
推入りて、
錐をたつるの地なし。
余も若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに
逼り
立けり。
押といふは
誰ともなくサンヨウ/\と
大音に
呼はる
声の下に、堂内に
充満たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ/\と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女
倶に
元結おのづからきれて
髪を
乱す

甚
奇なり。七間四面の堂の内に
裸なる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の
気息正月三日の寒気ゆゑ
烟のごとく
霧のごとく
照せる
神燈もこれが
為に
暗く、人の
気息屋根うらに
露となり雨のごとくに
降、人気
破風よりもれて雲の立のぼるが如し。婦人
稀には小児を
背中にむすびつけて
押も
有ども、この小児
啼ことなきも常とするの
不思議なり。
況此堂押にいさゝかも
怪瑕をうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには
湯具ばかりなるもあれど、
闇処に
噪雑して一人もみだりがましき事をせず、これおの/\
毘沙門天の
神罰を
怖るゆゑなり。
裸なる
所以は
人気にて堂内の
熱すること
燃がごとくなるゆゑ也。
願望によりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気
肌を
射がごときをも
厭ず、
柱のごとき
氷柱を
裸身に
脊負て堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も
熱こと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の
盥盤に入りて水を
浴び又押に入るもあり。一ト押おしては
息をやすむ、七押七
踊にて
止を
定とす。
踊といふも
桶の
中に
芋を
洗ふがごとし。ゆゑに人みな
満身に
汗をながす。第七をどり目にいたりて
普光寺の
山長(耕夫の長をいふ)手に
簓を
持、人の
手輦に
乗て人のなかへおし入り
大音にいふ。「毘沙門さまの
御前に
黒雲が
降た
(モウ)」
(衆人)「なんだとてさがつた
(モウ)」
(山男)「
米がふるとてさがつた
(モウ)」とさゝらをすりならす。此さゝら内へ
摺ば
凶作なりとて
外へ/\とすりならす。又
志願の者
兼て
普光寺へ達しおきて、小桶に
神酒を入れ
盃を
添て
献ず。山男
挑燈をもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば
幸ありとて人の
濤をなして取んとす。
神酒は神に
供ずる
状して人に
散し、盃は人の中へ
擲る、これを
得たる人は宮を
造りて
祭る、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも
争ひ
奪ふにかならず
破る、その
骨一本たりとも田の
水口へさしおけば、この水のかゝる田は
熟実虫のつく事なし。
神
のあらたかなる事あまねく人の知る所なり。
神事をはれば人々
離散して普光寺に入り、
初棄置たる
衣類懐中物を
視るに
鼻帋一枚だに
失る事なし、
掠れば
即座に
神罰あるゆゑなり。
○さて堂内人
散じて後、かの
山長堂内に
苧幹をちらしおく
例なり。
翌朝山
長神酒供物を
備ふ、
後さまに
進て
捧ぐ、正面にすゝむを神の
忌給ふと也。
昨夜ちらしおきたる
苧幹寸断に
折てあり、
是人散てのち
諸神こゝに
集りて
踊玉ふゆゑ、をがらを
踏をり玉ふなりといひつたふ。
神事はすべて
児戯に
似たること多し、しかれども
凡慮を以て
量識べからず。此堂押に
類せし事他国にもあるべし、
姑記して
類を
示す。
北越雪譜二編巻之一 終[#改丁]北越 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
酉陽雑俎に
云、
熊胆春は
首に
在り、夏は
腹に在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。
余試に
猟師にこれを
問しに、
熊の
胆は常に
腹にありて
四時同じといへり。
盖漢土の
熊は
酉陽雑俎の
説のごとくにや。
凡猟師山に入りて
第一に
欲る
処の物は熊なり。
一熊を
得ればその皮とその
胆と大小にもしたがへども、
大かたは金五両以上にいたるゆゑに
猟師の
欲るなり。しかれども熊は
猛く、
且智ありて
得るに
易からず。雪中の熊は
皮も
胆も常に
倍す、ゆゑに雪に
穴居するを
尋ね
捜し、
猟師ども
力を
戮せてこれを
捕るに
種々の
術ある事
初編に
記せり。たま/\
一熊を
得るとも
其儕に
価を
分ゆゑ
利得薄し、さればとて雪中の熊は
一人の
力にては
得事難しとぞ。
○
茲に
吾が
住近在に
后谷村といふあり。此村の弥左ヱ門といふ
農夫、
老たる
双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ
参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる
留守、
隣家の者
過て火を
出したちまち
軒にうつりければ、弥左ヱ門が
妻二人の
小児をつれて
逃去り、
命一ツを
助りたるのみ、
家財はのこらず
目前の
烟となりぬ。弥左ヱ門は村に
火災ありときゝて
走皈りしに、
今朝出し家は
灰となりてたゞ
妻子の
无
をよろこぶのみ。此
夫婦心正直にして
親にも
孝心なる者ゆゑ、人これを
憐みまづしばらく
我が家に
居るべしなど
奨る
富農もありけるが、われ/\は
奴僕の
業をなしても
恩に
報ゆべきが、
双親皈り来りて
膝を
双て人の家に
在らんは心も安からじとて
諾ず。
竊に
田地を
分て
質入なしその金にて
仮に家を作り、親も
皈りて
住けり。
草を
刈鎌をさへ
買求るほどなりければ、火の
為に
貧くなりしに家を
焼たる
隣家へ
対ひて
一言の
恨をいはず、
交り
親むこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて
翌年の二月のはじめ、此弥左ヱ門山に
入て
薪を取りしかへるさ、谷に
落たる
雪頽の雪の
中にきは/\しく
黒き
物有、
遙にこれを
視て、もし人のなだれにうたれ死したるにやと
辛じて谷に下り、
是を
視れば
稀有の大熊
雪頽に
打殺れたるなりけり。此
雪頽といふ事
初編にもくはしく
記たるごとく、山に
積りたる雪二丈にもあまるが、春の
陽気下より
蒸て
自然に
砕け
落る事
大磐石を
転しおとすが如し。これに
遇ば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に
悦び、
皮も
胆もとらんとおもひしが、日も西に
傾たれば
明日きたらんとて人の見つけざるやうに
山刀にて熊を雪に
埋めかくし、心に目しるしをして家にかへり
親にもかたりてよろこばせ、次のあした
皮を
剥べき用意をなしてかしこにいたりしに
胆は常に
倍して大なりしゆゑ、
弁当の
面桶に入れて持かへりしを人ありて
皮を金一両
胆を九両に
買けり。弥ざゑもんはからず十両の金を
得て
質入れせし田地をもうけもどし、これより
屡幸ありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて
栄けり。弥左ヱ門が
雪頽に熊を得たるは
金一釜を
掘得たる
孝子にも
比すべく、
年頃の
孝心を
天のあはれみ玉ひしならんと人々
賞しけりと
友人谷鴬翁がかたりき。
吾が
住塩沢は
下組六十八ヶ村の
郷元なれば、郷元を
与り知る家には
古来の
記録も
残れり。其
旧記の
中に元文五年庚申
(今より百年まへ)正月廿三日
暁、
湯沢宿の
枝村
掘切村の
后の山より
雪頽不意に
押落し、
其※[#「口+向」、U+54CD、215-10]百
雷の如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の
両家なだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋
即死、
妻と
嗣息は半死半生、浅右ヱ門は父子即死、
妻は
梁の下に
圧れて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門
息へ米五俵、浅右ヱ門
妻へ米五俵
賜し事を
記しあり。此
魚沼郡は
大郡にて 会津侯御
預りの地なり。元文の昔も今も
御領内の
人民を
怜玉ふ事
仰ぐべく
尊むべし。そのありがたさを吾が
后へも
示さんとて
筆の
序にしるせり。近年は山家の人、家を作るに此
雪頽を
避て地を
計るゆゑその
難まれなれども、
山道を
往来する時なだれにうたれ死するもの
間ある事なり。
初編にもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、
雪頽は春にあり。他国の人越後に来りて
山下を
往来せばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる
石塔今も所々にあり、おそるべし/\。
吾が国に
雪吹といへるは、
猛風不意に
起りて
高山平原の雪を
吹散し、その風四方にふきめぐらして
寒雪百万の
箭を
飛すが如く、
寸隙の
間をも
許さずふきいるゆゑ、ましてや
往来の人は
通身雪に
射れて
少時に
半身雪に
埋れて
凍死する

、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは
晴天にも
俄におこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、
往来もこれが
為にとまること毎年なり。此時に
臨で
死亡せしもの、雪あれのやむを
待も
程のあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを
犯て
棺を
出す事あり。
施主はいかやうにもしのぶべきが
他人の
悃苦事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの
苦状といふべし。
我江戸に
逗留せしころ、
旅宿のちかきあたりに死亡ありて
葬式の日大
嵐なるに、
宿の
主もこれに
往とて
雨具きびしくなしながら、
今日の
仏はいかなる
因果ものぞや、かゝる
嵐に
値て人に
難義をかくるほどなればとても
極楽へはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の
雪吹に
比ぶればいと安しとおもへり。
筑紫のしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その
然るさまは
春暉が
西遊記*12にしらぬ火を
視たりとて、
詳にしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ
竜燈のたぐひなるべし。我国
蒲原郡に
鎧潟とて
(里言に湖を潟と云)東西一里半、南北ヘ一里の
湖水あり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火
燃るを、里人は
鎧潟の万燈とて
群り
観る人多し。
余が
友人これをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年
湖水を北海へおとし新田となりしゆゑ、
湖中の万
燈も今は
人家の
億燈となれり。又我国の
八海山は
巓に八ツの池あり、依て山の名とす。
絶頂に八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて
竜燈あり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある

諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも
出、山よりもくだる。毎年其日其
刻限、定りある事甚
奇異なり。竜神より神仏へ
供と
云が
普通の
説なれど、こゝに
珎き
竜燈の談あり、少しく竜燈を
解べき説なれば
姑くしるして
好事家の
茶話に
供す。
我国頸城郡米山の
麓に
医王山米山寺は和同年中の
創草なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を
禁ず。此米山の腰を米山
嶺とて越後北海の
駅路なり、此
辺古跡多し。
余先年其古跡を
尋んとて
下越後にあそびし時、
新道村の
長飯塚知義の
話に、
一年夏の頃

の
為に村の者どもを
从へ
米山へのぼりしに、
薬師へ参詣の人山こもりするために
御鉢といふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに
是日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ
竜燈のあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは
手鞠の如く、小なるは
卵の如し。大小ともに此御
鉢といふあたりをさらずして、
飛行する

あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて
遊ぶが如し。其
光りは
螢火の色に
似たり。つよくも光り、よはくもひかるあり。
舞ひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を
閉、人々ひそまりて
覗ゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の
竜燈二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、
形ち鳥のやうに見えて光りは
咽の下より
放つやうなり。
猶近くよらばかたちもたしかに
視とゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は
山中に一宿の心
得なれば心用の
為に
筒をも
持せしに、
手たれの上手しかも若ものなりしが光りを
的にうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。
罰あたりめと
叱りたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと
知義語られき。
およそ越後の雪をよみたる
哥あまたあれども、
越雪を
目前してよみたるはまれなり。
西行が
山家集、
頓阿が
草菴集にも越後の雪の哥なし、此
韻僧たちも越地の雪はしらざるべし。
俊頼朝臣に「
降雪に
谷の
俤うづもれて
稍ぞ冬の
山路なりける」これらは
実に越後の雪の
真景なれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、
俗にいふ
哥人は
居ながら
名所をしるなり。
伊達政宗卿の御哥に「さゝずとも
誰かは
越ん
関の
戸も
降うづめたる
雪の夕
暮」又「なか/\につゞらをりなる
道絶て雪に
隣のちかき山里」此君は御名たかき
哥仙にておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の
口碑にもつたふ。雪の
実境をよみ玉ひしはしろしめす御
ン国も
深雪なればなり。芭蕉翁が
奥に
行脚のかへるさ越後に入り、
新潟にて「海に
降る雨や
恋しきうき
身宿」
寺泊にて「
荒海や
佐渡に
横たふ天の川」これ夏秋の
遊杖にて越後の雪を見ざる事
必せり。されば近来も越地に遊ぶ
文人墨客あまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて
故郷へ
逃皈るゆゑ、越雪の
詩哥もなく
紀行もなし。
稀には他国の人越後に雪中するも
文雅なきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人
崑崙山人、北越奇談を出板せしが
(六巻絵入かな本文化八年板)一辞半言も雪の事をしるさず。今
文運盛にして新板
湧がごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を
記したる
書なし。ゆゑに吾が
不学をも
忘れて
越雪の
奇状奇蹟を記して
後来に
示し、且
越地に
係りし事は
姑く
載て
好事の
話柄とす。

さて元禄の
頃高田の御城下に
細井昌庵といひし医師ありけり。一に青庵といひ、
俳諧を
善して
号を
凍雲といへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり
凍雲をたづねて「
薬欄にいづれの花を
草枕」と
発句しければ、
凍雲とりあへず「
萩のすだれを
巻あぐる月」此時のはせをが
肉筆二枚ありて一枚は
書損と覚しく
淡墨をもつて
一抹の
痕あり、二枚ともに
昌庵主の家につたへしを、
后に本
書は同所の
親族三崎屋吉兵衛の家につたへ、
書損のは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の
邦君風雅をこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚
持主より奉りければ、吉兵ヱヘ
常信の三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに
御蔵となりぬと友人
葵亭翁がものがたりしつ。葵亭翁は
蒲原郡加茂明神の
修験宮本院名は
義方吐醋と
号し、又
無方斎と
別号す、
隠居して
葵亭といふ。
和漢の
博識北越の
聞人なり。芭蕉が
件の句ものに見えざればしるせり。
百樹曰、芭蕉
居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の
藩に生る。
(次男なり)寛文六年歳廿四にして
仕絆を
辞し、京にいでゝ
季吟翁の門に入り、
書を
北向雲竹に
学ぶ。はじめ
宗房といへり、季吟翁の
句集のものにも宗房とあり。
延宝のすゑはじめて江戸に来り
杉風が家に
寄、
(小田原町鯉屋藤左ヱ門)剃髪して
素宣といへり、
桃青は
后の名なり。
芭蕉とは
草庵に芭蕉を
植しゆゑ人よりよびたる名の
后には
自号によべり。翁の作に芭蕉を
移辞といふ文あり、その
終りの
辞に「たま/\花さくも花やかならず
茎太けれども
斧にあたらず、かの山中
不材の
類木にたぐへてその性よし。
僧懐素は是に筆を
走らし
張横渠は
新葉を見て
修学の
力とせしとなり。
予その二ツをとらず。たゞ此
蔭に遊びて風雨に
破れ
易きを
愛す「はせを
野分して
盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の
旧蹟は
深川
清澄町万年橋の南
詰に
対ひたる今
或侯の
庭中に在り、古池の
趾今に存せりとぞ。
(余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆刻を乞ども考証未レ足ゆゑに刻をゆるさず)翁身を
世外に
置て四方に
雲水し、江戸に
趾をとゞめず。
終には元禄七年甲戊十月十二日「
旅に
病て
夢は
枯埜をかけ
廻る」の一句をのこして浪花の花屋が
旅※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、223-9]に
客死せり。是
挙世[#「挙世」の左に「ヨノナカ」の注記]の知る処なり。翁が
臨終の事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉
終焉記に目前視るが如くに
記せり。此記を
視るに翁いさゝか
菌毒[#「菌」の左に「キノコ」の注記]にあたりて
痢となり、九月晦日より病に
臥、
僅に十二日にして
下泉せり。此時
病床の
下にありし門人○
木節(翁に薬をあたへたる医なり)○
去来○
惟然○
正秀○
之道○
支考○
呑舟○
丈草○
乙州○
伽香以上十人なり。其角は此時和泉の
淡の
輪といふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の
臨終に
遇り、
奇遇といふべし。
(以上終焉記を摘要す)其角が終焉記の文中に
(此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり)『義仲寺にうつして葬礼義信を
尽し京大坂大津
膳所の
連衆被官従者までも此翁の
情を
慕へるにこそ
招ざるに
馳来る者三百余人なり。
浄衣その外智月と
(百樹云、大津の米屋の母、翁の門人)乙州が妻
縫たてゝ着せまゐらす』又曰『二千
余人の
門葉辺遠ひとつに
合信する
因と
縁との
不可思議いかにとも
勘破しがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十
哲をいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、
庵に十哲とよぶ門人あり。
至善の
大道と
遊芸の
小技と
尊卑の
雲泥は論におよばざれども、孔子七十にして
魯国の
城北泗上に
葬て
心喪を
服する
弟子三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に
葬る時
招ざるに来る者三百余人、
是以人に師たるの徳ありしをおもふべし。
盖芭蕉の
盆石が孔夫子の
泰山に似たるをいふなり。芭蕉
曾
[#「
」の左に「ウルコヽロ」の注記]の
風軽薄の
習少しもなかりしは
吟咏文章にてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の
推慕する事今に於も
不可思議の
奇人なり。されば一
句一
章といへども人これを
句碑に作りて
不朽に
伝ふる事今
猶句碑のあらざる国なし。
吟海の
幸祥詞林の
福禎文藻に於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる
薬欄の一句の
墨痕も百四十余年の
后にいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、
論外不思議といふべし。蜀山先生
嘗謂予曰、
凡文墨をもつて世に遊ぶ
者画は論せず、
死後にいたり一字一百銭に
当らるゝ身とならば
文雅幸福
足べしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に
当らるゝ事
嗟乎難かな。
○さてまた芭蕉が
行状小伝は
諸書に
散見して
普く人の知る所なり、しかれども
翁の
容
は
挙世知る人あるべからず。されば
爰に一証を
得たるゆゑ、此
雪譜に
記載して
后来に
示すは、かゝる
瑣談[#「瑣談」の左に「チヒサイハナシ」の注記]も世に
埋冤[#「埋冤」の左に「ウヅマル」の注記]せん事のをしければ、いざ
然ばとて雪に
転す筆の
老婆心なり。
○こゝに二代目市川団十郎初代
段十郎
(のち団に改む)の
俳号を
嗣で才牛といふ。
后に
柏筵とあらたむ。
(元文元年なり)此
柏筵は、○正徳○享保○元文○寛保を
盛に
歴たる名人なり。
妻をおさいといひ、俳名を
翠仙といふ、夫婦ともに俳諧を
能し
文雅を
好り。此
柏筵が日記のやうに
書残したる
老の
楽といふ
随筆あり。
(二百四五十帋の自筆なり)嘗梱外[#「梱」の左に「シキヰ」の注記]へ
出さゞりしを、狂哥堂真顔翁
珎書なれば
懇望してかの家より借りたる時
余も
亡兄とともに
読しことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち
柏筵一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする
旁にて、
人参をきざみながら此絵にむかしをおもひいだして
独言いひたるを
記したる文に「我れ
幼年の
頃はじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を
着て、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本
堤を
往し事今に
忘ず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた
頗る
聞えたり
(中略)今日小川
破笠老まゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。
常に茶のつむぎの羽織をきられ、
嵐雪よ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。
(翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし)小川破笠俗称平助
壮年の
頃放蕩にて嵐雪と
倶に
(俗称服部彦兵ヱ)其角が堀江町の
居に
食客たりし事、
件の
老の
楽又破笠が
自記にも見ゆ。破笠一に笠翁また
卯観子、
夢中庵等の号あり。
絵を一蝶に
学び、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四
筆とあり。
描金を
善して人の
粕をなめず、別に
一趣の
奇工を
為す。
破笠細工とて今に
賞せらる。吉原の七月
創て
機燈を作りて今に其
余波を
残り、
伝詳なれどもさのみはとてもらせり。
東游記に越前国大野領の山中に
化石渓あり。何物にても半月あるひは一ヶ月此
渓に
浸しおけばかならず石に化す、
器物はさらなり紙一
束藁にてむすびたるが石に
化たるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、
魚沼郡小出の
在羽川といふ
渓水へ
蚕の
腐たるを
流しが一夜にして石に
化したりと
友人葵亭翁がかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の
為に
名高けれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が
雲根志変化の部に
(前編)人あり語云、越後国
大飯郡に
寒水滝といふあり、此処
深山幽谷にして
沍寒[#「沍寒」の左に「ツヨクサムキ」の注記]の地なり。此滝
坪へ万物を
投こめおくに百日を
過ずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の
実その外
生類までも石に化たるを得るとぞ。
予去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず
全躰鐘乳なり、木の葉など石中にふくむ
則石なり。
雲林石譜にいふ
鐘乳の
転化して石になるならん云云。
牧之案るに、越後に
大飯郡なし又
寒水滝の名もきかず。人あり
語るとあれば
伝聞の
誤なるべし。
盖北越奇談に
会津に
隣る
駒が
岳の
深谷に入ること三里にして
化石渓と名付る処あり、
虫羽草木といへども
渓に入りて一年を
歴ればみな化して石となる。
其川甚
苦寒にして夏も
渉べからざるが如し。又
蘇門岳の北
下田郷の
深谷にも
化石渓あり云々。
雲根志の
説はこれらの所を
聞誤たるならん。
吾が
同郡岡の
町の
旧家村山藤左ヱ門は
余が
壻の兄なり。此家に先代より
秘蔵する亀の
化石あり、
伝ていふ、
近き
山間の土中より
掘得といふ、
実に化石の
奇品なり、
茲に
図を
挙て
弄石家の
鑒を
俟。
百樹曰、
件の
図を
視るに常にある亀とは
形状少しく
異なるやうなり。依て
案るに、
本草に
所謂秦亀一名
筮亀あるひは山亀といひ、俗に
石亀といふ物にやあらん。
秦亀は山中に
居るものなり、ゆゑに
呼で山亀といふ。春夏は
渓水に遊び秋冬は山に
蔵る、
極て長寿する亀は是なりとぞ。又
筮亀と一名するは
周易に亀を
焼て占ひしも此亀なりとぞ。
件の亀の化石、本草家の
鑒定を
得て
秦亀ならば一
層の
珎を
増べし。山にて
掘得たりとあれば
秦亀にちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は
小きものにてあるひはまた
体全も
稀なり。
図の化石は
体全く
且大なり、
珎とすべし。

○
余先年俗にいふ
大和めぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、
旧友の画家
春琴子に
就て
諸名家をたづねし時、
鴻儒の
聞高き
頼先生
(名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎)へも
訪ひ、
坐談化石の事におよび、先生
余に
蟹の化石一枚を
恵。その色
枯ずして
生が如く、
堅硬ことは石なり。
潜確類書又
本草三才
図会等にいへる
石蟹泥沙と
倶に化して石になりたるなるべし。
盆養する
石菖の
下におくに水中に
動が如し。亀の
徒者に
其図を
出す、是も今は名家の
形見となりぬ。
雲根志
異の部に曰、
予が
隣家に
壮勇の者あり儀兵衛といふ。或時
田上谷といふ山中に
行て
夜更て
皈るに、むかうなる山の
澗底より青く光り
虹の如く
昇てすゑは
天に
接る。此男
勇漢なれば
无二
无三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの
根元をさぐりみるに、たゞ何の
異る事もなき石なり。ひろひとりて
背に
負ひ
皈るに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の
労をたすかり、
暁の
頃我が家に着ぬ。
件の石を
軒の
外に
直し
置、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま/″\にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国
甲賀郡石原潮音寺和尚のものがたりに、近里の農人
畑を
掘居しに
拳ほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること
流星の如し。友のいふ、是は
石なり、人の持ものにあらず、家にあらば必
災あるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて
斧をもつて
打砕しを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。
翌朝近里の人きゝつたへて
集り来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又
筑后国上妻郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。
(以上一条全文)是等は他国の事なり、我が
越后にも夜光の玉のありし事あり。
新発田より
(蒲原郡)東北
加治といふ所と中条といふ所の間
路の
傍田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの
円石を
鎮してこれを
礼る。此石その
先農夫屋の
后の竹林を
掃除して竹の根など
掘るとてかの石一ツを
掘得たり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、
農夫これをもつて
藁をうつ
盤となす、其夜妻
庭に
出しに
燦然として光る物あり、妻
妖怪なりとして
驚叫。
家主壮夫三五人を
伴ひ来りて光る物を
打に石なり、皆もつて
怪とし石を竹林に捨つ、その石
夜毎に光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に
泥土を
塗て光をかくす、今
猶苔むしてあり。
好事の人この石を
乞へども
村人祟あらん

を
惧てゆるさずとぞ。又
駒が
岳の
麓大湯村と
橡尾村の間を流るゝ
渓川を
佐奈志川といふ、ひとゝせ
渇水せし頃水中に一
点の光あり、螢の水にあるが如し。数日処を
移さず、一日
暴風に水
増て光りし物所を
失ふ、
后四五町川下に光りある物
螢火の如し。此地山中なれば
村夫等昏愚にして夜光の玉なる事をしらず、
敢てたづねもとむる者もなかりしに、其秋の
洪水に夜光の玉ふたゝびながれて
所在を
失ひしとぞ。
(以上北越奇談の説)偖茲に
夜光珠の
実事あり。
我文政二年卯の春
下越後を
歴遊せしをり、三嶋郡に入り
伊弥彦明神を
拝、
旧知識なれば高橋
光則翁を
尋しに、翁大によろこびて
一宿を
許しぬ。此翁和哥を
善し
且好古の
癖ありて
卓達の人なり、
雅談湧が如く、おもはず

をとゞめし事四五日なりし。一
夕翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の
(三島郡の内なり)ほとり大鳥川といふ
渓川に夜な/\光りものありとて人
怖て近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに
鍛冶の兄弟あり、ひとりの母を
養ふ、家
最貧し。此兄弟
剛気なるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし
妖怪ならば
退治して村のものどもが
肝をひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川
面をみるに、月
暗くしてたゞ水の音をきくのみ。両人
炬をふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また
怪しむべきをみず、さては人のいふは
空言ならん、いざとて
皈らんとしけるに、水上
俄に
光明を
放つ、すはやとて両人衣服を
脱すて水に飛入り
泳ぎよりて光る物を
探りみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを
取得て家に
皈り、まづ

の
下に
置しに光り
一室を
照せり。しか/″\のよし母にかたりければ、
不思議の
宝を
得たりとて親子よろこび
近隣よりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば
趙壁随珠ともおもはずうち
過けり。かくて
后弟別家する時家の物二ツに
分ちて弟に
与んと母のいひしに、弟は
家財を
望ず光る石を
持去んといふ。兄がいはく、光る石を
拾ひ
得しは我が
企なり、
汝は我が
力を
助しのみなり、光る石は親の
譲にあらず、兄が物なり。
家財を
分ならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、
与ふまじ/\。弟いな/\あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を
拾んとの
企にはあらず、
妖物を
退治せんとて川へいたり、おん身よりは
我先に川へ飛いり光りものを
探りあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや/\此兄がものなり、弟がのなりと
口論やまず、
終にはつかみあひうちあひしを、母やう/\におししづめ、しからば光る石を二ツに
破りて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし
鍛冶する
※[#「金+質」、U+9455、233-10]の上にのせ
※[#「金+奄」、U+4936、233-10]をもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉
砕破内に白玉を
孕しがそれも
砕け、水ありて
四方へ
飛散けり。其夜水のかゝりし処
光り暉く事
螢の
群たるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも
消失けりとぞ。いかに
頑愚の手にありしとはいひながら、
稀世の宝玉
鄙人の
一槌をうけて
亡びたるは、玉も人も
倶に不幸といふべしと
語られき。
牧之案に、
橘春暉が
著たる
北※瑣談[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、233-14](後編の二)蔵石家の事をいふ
条に
曰、江州山田の浦の木之内
古繁、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の
好事家侯国の
逸人、
蔵石に名の高き人近年
夥し、
余も諸家の
奇石を見しに皆一家の
蔵る処三千五千
種にいたる、五日十日の日を
尽してやう/\
眼をふる

を
得るにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの
珎奇の物は
无ものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、
過し
年北国より人ありて
拳の大さの
夜光の玉あり、よく一
室を
照す、よき
価あらば
売んといひしかば、
即座に其人に
托して
曰、其玉
求たし、
暗夜にその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても
読えられなば金百両にもとむべし、又
書状よむほどならば三百金、いよ/\一室をてらさば吾が身上のこらずの
力を
尽して
求むべし、
媒して玉はるべしといひしが、そのゝちなにの
便もなくてやみぬ、
空言にてありしと思はる云云。此文段は天明年中
蔵石の世に
流行たる頃加嶋屋が
話をそのまゝに
春暉が
后にしるしたるなるべし。さて又
余がかの
鍛冶屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、
鍛冶が玉を
砕きたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。
然りとすれば、
蔵石の
流行たる頃なれば、かのかじまやが
話に北国の人
一室をてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の
縮商人などがかぢやの玉の

をきゝつたへて
商ひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ
答へざりしにやあらん。
卞和が玉も
楚王を
得たればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の
話五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、
嗟乎惜むべし/\。
百樹曰、
五雑組物の部に
鍛冶屋がはなしに
類せる

あり。
明の
万暦の
初
中連江といふ所の人蛤を
剖て玉を
得たれども
不識これを
烹る、
珠釜の中に
在て
跳躍して
定ず、
火光天に
燭、
里人火事ならんと
驚き来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを
聞て
釜の
蓋を
啓て
視れば
已に玉は
半枯たり。其
珠径一寸
許、
此真に
夜光明月の
珠なり。
俗子に
厄せられたる事
悲夫と
記せり。又曰、
(五雑組おなじつゞき)魏の
恵王が
径寸の
珠前後車を
照こと十二
乗の物はむかしの事、今
天府にも
夜光珠はなしと
明人謝肇
が
五雑組にいへり。○
神異記○
洞冥記にも
夜光珠の

見えたれども
孟浪に
属す。
古今注にはすぐれて大なる
鯨の
眼は夜光珠を
為といへり。
卞和が玉も
剖之中果有玉といへば、石中に玉を
孕たる事
鍛冶の
砕たる玉
卞和が玉に
類せり。
趙の
恵王が夜光の玉を、
秦の
照王が
城十五を以て
易んといひしは、加嶋屋が北国の
明玉を
身上尽して
買んと
約せしに
類せり。さて又
癸辛雑譏続集(巻下)に、
機婦糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる
蜘蛛きたりてその水をのむに
身に光りをはなつ、かの
婦人これを見て大にあやしみ、
籠を
罩てかの
蜘蛛をとらへしに
腹に
夜光珠在、大さ
弾丸[#「弾丸」の左に「テツハウタマ」の注記]の如しとしるせり。
(此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし)又
増一阿含経(第卅三。等法品第卅九)に
転輪聖王の徳にそなはりたる一尺六寸の
夜光摩尼宝は
彼国十二
由旬を
照すとあり、
文多ければあげず。
盖一由旬は
異国の四十里なり、十二
由旬は日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは
奇異といふべし。
転輪王此玉を
得て
試に高き
幢の
頭に
挙著けるに、
人民等玉の光りともしらず夜の
明たりとおもひ、おの/\
家業をはじめけりと
記せり。此事
碩学の
聞高き
了阿上人の
話にきゝてかの経を
借得て
読しが、これぞ夜光の玉の
親玉なるべき。
餅花や
夜は
鼠がよし野山
(一にねずみが目にはとあり)とは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月
餅搗の時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、
俳諧の
季には冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを
大正月といひ、十五日より廿日までを
小正月といふ、是
我里俗の
習せなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、
(我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる)餅花を作り、大神宮歳徳の神
夷おの/\餅花一
枝づゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは
川楊の
枝をとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを
蚕玉といふ。
稲穂又は紙にて作りたる金銭、
縮あきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、
農家にては木をけづりて
鍬鋤のたぐひ
農具を小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ/\が
家業にあづかるものゝひなかたを掛る、これその
業の福をいのるの
祝事なり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ
手業なり。
祝ひとて男女ともうちまじりて
声よく
田植哥をうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き
季寄にもいでたれば二百年来諸国にもあるは
勿論なり。ちかごろ江戸には
季によらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。
我が
塩沢近辺の風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の
童ども
斎の神
勧進といふ事をなす。少し
富家の
童これをなすには
※木[#「木+備のつくり」、U+235BE、239-10]を上下より
削り
掛て
鍔の形を作る、これを
斗棒といふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、
童僕に一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を
頭ばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに
綿をきせ、紙にて作りたる衣服に
紅にて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて
髭とす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、
斎の
神勧進々々とよばゝりありく。
敢物の
欲にもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、
児輩おの/\する事なり。これに
与ふるものは切餅あるひは銭も
与ふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人
余も
党をなし、
茜木綿の
頭巾にあさぎのへりをとりたるをかむり、かの
斗棒を一本さし、かの
二神を柳こりに入れて首にかけ

さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ/\とおやれ/\ と
門々をおしありく。これに銭をもあたへあるひは
濁り酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして
勧進す、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。
勧進のことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は
娵でも
聟でもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ/\」かくして勧進の銭をあつめて
斎の神を
祭る入用とするなり。
(さいの神のまつり下にしるす)又去年むこよめをむかへたる家の
門に、
未明よりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を
敲き、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の
祝事とすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる
俗習他国にもあまたあるべし。
○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、
醒斎京伝翁が
骨董集を
読て
本拠ある事を
発明せり。
骨董集上編下、
粥の木の
条に、○
粥杖○
祝木○ほいたけ
棒といふ物、前にいひし
斗棒に同じ。京伝翁の
説に、
粥の木とは正月十五日粥を
烹たる
薪を
杖とし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○
枕の
草紙○
狭衣○
弁内侍の
日記その外くさ/\の
書を
引て、上代の
宮裏近古の
市中粥杖の事を
挙て、
考証甚詳なり。今我が郡にいふ
斗棒は
則いにしへの
粥杖の
遺風なる事を
発明せり、我国にも
祝木あるひは
御祝棒といふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる
書にてしらるゝなり。その
引書の
中にも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此
書は今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が
聞つたへて書たるものなれば、今我国にて
小童のたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗
遠境にもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記
(巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふ)に「
但街道郷村の
児童年十五八九已上に
及ぶ
者、
各柳の枝を取り皮を
去り
木刀に
彫成なし、皮を以
復外刀上に
纏ひ
用火焼黒め皮を
去り
以黒白の
花を
分つ、名づけて
荷花蘭蜜といふ。
再荊棘の
条を
取香花神前に
挿供。次に
集る
各童手に木刀を
執途に
隊閙[#「隊閙」の左に「ムレサワギ」の注記]、
凡有婚无子の
婦木刀を
将て
遍身打之口に
荷花蘭蜜と
舎ふ。かならず此
婦当年孕男を
生」我国にて
児童等が人の
門を
斗棒にてたゝき、
娵をだせ
聟をだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の
俗習の
遺事なるべし。
百樹案に、
件の風土記に
再び
荊棘の
条を取り
香花神前に
挿といひしは、
餅花を
神棚へ
供ずる事を聞て
粥杖の事と
混錯して記したるなるべし。
然りとすれば
餅花も古き
祝事なり。
吾が
国正月十五日に
斎の神のまつりといふは
所謂左義長なり。
唐土に
爆竹といふ
唐人除夜の
詩に、
竹爆千門の
※[#「口+向」、U+54CD、242-4]燈燃万戸
明なりの句あれば、
爆竹は大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の
書始を此火に焼て天に奉るの
義とす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて
燃し玉ふを祝事とせさせ玉ふ。
民間にもこれを
学びて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて
燃す、これ
左義長とて昔よりする事なり。これを
斎の神
祭りといふも古き事なり。
爆竹左義長の
故事俳諧の
季寄年浪草に諸書を引てくはしくいへり。
○吾が
郡中にて
小千谷といふ所は
人家千戸にあまる
饒地なり、それゆゑに
斎の神の
(斎あるひは幸とも)まつりも
盛大なり。これをまつるにその町々におの/\毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに
周したる高さ六七尺の
円き壇を雪にて作り、これに
二処の上り
階を作る、これも雪にてする、
里俗呼で
城といふ。さて
壇の
中央に杉のなま木をたてゝ
柱とし、正月かざりたるものなにくれとなくこの
柱にむすびつけ又は
積あげて、
七五三をもつて上よりむすびめぐらして
蓑のごとくになし、
(かやをまじへ入れてかたちをつくる)此
頂に
大根注連といふものゝ左右に開たる扇をつけて
飛鳥の
状を作りつける。
壇の上には
席をまうけて
神酒をそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて
拝をなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を
四隅より
移す、
油滓など火のうつり
易きやうになしおくゆゑ
々熾々と
然あがる、
(此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり)是則爆竹左義長なり。他国にてもする事なり。
或人の
話に、此事百余年前までは江戸にもありしが、
火災をはゞかるために
禁下てやみたりとぞ。
○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に
翳て火をうつらせ
焼を
祝事とす、おんべは御
ン幣の
訛言[#「訛言」の左に「ナマリ」の注記]なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き
幣束のやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを
数千あつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に
誇る。
棹の末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ
美事なり。これを作りてまづおのれ/\が
門へ
建おく事五月の
幟のあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして
焼捨るを祝ひとし
慰とす。
観る人
群をなすは
勿論、事をはりてはこゝかしこにて
喜酒の
宴をひらく。これみな
国君盛徳の
余沢なり。他所にも左義長あれどもまづは
小千谷を
盛大とす。

百樹曰、
余京水をしたがへて越後に遊びし時、此
小千谷の人
岩淵氏
(牧之老人の親族なり)の家に

をとゞめたる事十四日、
(八月なり)あるじの
嗣子廿四五
許、
号を
岩居といふ、
書をよくす。
余に
遇せしこと
甚篤。
小千谷は
北越の
一市会、
商家鱗次として百物
備ざることなし。
海を
去る事
僅に七里ゆゑに
魚類に
乏しからず。
余塩沢にありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に
乏しく、江戸者の口に
魚肉の
上らざりし事四十余日、
小千谷にいたりてはじめて
生鯛を
喰せしに
美味なりし事いふべからず。又

の
時節にて、
小千谷の
前川は海に
朝するの大河なれば今
捕しをすぐに
庖丁す。
味はひ江戸にまされり。一日

をてんぷらといふ物にしていだせり。
余岩居にむかひ、これは此地にては名を
何とよぶぞと
問ひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の
名義暁しがたく、
古老にたづねたれどもしる人さらになし、先生の
説をきかんといふ。
余答てまづ
食終てテンプラの
来由を
語べしといひつゝ

のてんぷらを
飽までに
喰せり。
岩居に
語て
曰、今をさる事五十余年
前天明の
初年大阪にて
家僕四五人もつかふほどの次男
年廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの
哥妓をつれて
出奔し、江戸に下り余が家の
(京橋南街第一※[#「衙」の「吾」に代えて「共」、U+8856、246-12])対ひの
裏屋に住しに、
一日事の
序によりて余が家に来りしより常に
出入して
家僕のやうに
使などさせけるに、
花柳に身を
果したるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を
弁ずるゆゑ、をしき人に
銭がなしとて
亡兄もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には
胡麻揚の
辻売多し、大阪にてはつけあげといふ
魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。
亡兄(京伝)いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて
俄に
調じさせしに、いかにも
美味なり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその
行灯に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと
乞ひければ、
亡兄しばらくしあんして筆をとり
天麩羅とかきてみせければ、利助
不審の

をなし
天麩羅とはいかなる
所謂にかといふ。亡兄うちゑみつゝ
足下は今
天竺浪人なり、ぶらりと江戸へきたりて
売創る物ゆゑに天ふらなり、
是に
麩羅といふ字を
下したるは
麩は小麦の粉にてつくる、
羅はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ

なりと
戯言云れければ、利助も
洒落たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此
店をいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、
余がをさなき時天麩羅と
大書して与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに
近辺所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に
伝染わたり、此
小千谷までもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる
碩学鴻儒の大先生もしるべからず。てんぷらの
講釈するは天下に我一人なりとたはむれければ、
岩居も
手をうちて笑ひけり。
○先年此てんぷらの
話を友人
静廬翁に語りしに
(翁は和漢の博達時鳴の聞人なり)翁曰、
事物紺珠(明人黄一正作廿四巻)夷食の部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其
書を
借りえてよみしに、○
塔不剌とありて
注に○
葱○
椒○油○
醤を
熬、
後より
鴨或は

○
鵞をいれ、
慢火にて
養熟とあり。
蟹をあぶらげにするも見えたり。
○さて天麩羅の
播布[#「播布」の左に「ヒロマル」の注記]に
類せる事あり、
因に記す。○
橘菴漫筆に
(享和元年京の田仲宣作)「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の
食卓を料理して弘めける。是京師
浪花に
食卓料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの
老婆となりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど
野堂町の
貴徳斎ほど久しくつゞきたるはなし」
岩居がてんぷらをふるまひたる夜その友
蓉岳来り、
(桜屋といふ菓子や)余が酒をこのまざるを聞て
家製なりとて
煉羊羹を
恵ぬ、
味ひ江戸に同じ。
余越後にねりやうかんを賞味して大に
感嘆し、岩居に
謂曰、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば
味ひまされり。
吾がをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも
出来逢のねりやうかんあるは
実に大平の
徳化なりといひしに、
蓉岳も書画をよくし
文事もありて
好事ものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が
家産なり、ねりやうかんを近来のものといふ
由来を
示し玉へといふ。
余かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町
字を
式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に
丁稚ひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ
※子造[#「竹かんむり/隔」、U+25D29、249-2]にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは
貴重の御菓子を
調進する家の菓子
杜氏なるよし。奉公をやめてこゝに住し、
極製の菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて
煉羊羹と名づけてうりけるに
(羊羹本字は羊肝なる事芸苑日鈔にいへり)喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱
空しくかへる事度々なり、これ
余が
目前したる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此
小千谷にもあれば此国に
市会をなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、
蓉岳わらつて
小倉羹もあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には
似気なき
弁なれど本文
小千谷のはなしにおもひいだしたれば人の
話柄に
記せり。なほ
近古食類の
起原さま/″\あれど
余が
食物沿革考[#「沿革考」の左に「ウツリカハリ」の注記]に上古より
挙てしるしたればこゝにはもらせり。
初編にもしるしたるごとく、我国の
獣冬にいたれば山を
踰て雪
浅国へさる、これ雪ふかくして
食にとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの
棲へかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ
食にたらず、をりふしは夜中
人家にちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ
山村の事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に
穴居するは
熊のみなり。熊は手に
山蟻をすりつけ、これをなめて
穴居の
食とするよしいひつたふ。

○こゝに
我郡中の
山村に
(不祥のことなれば地名人名をはぶく)まづしき
農夫ありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫
性質篤実にしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな
山道なり。母いはく、山なかなれば用心なり、
筒をもてといふ、
実にもとて
鉄炮をもちゆきけり。これは
農業のかたはら
猟をもなすゆゑに
国許の
筒なり。かくてはからず時をうつし日も
暮かゝる
皈りみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山
蔭に
狼物を
喰ふを見つけ、
矢頃にねらひより
火蓋をきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の
足なり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと
我家をきづかひ
狼はそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに
血のくれなゐをそめけり。みるよります/\おどろきはせいりければ狼二疋
逃さりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、
片足はくひとられてしゝゐたり。
妻は
※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、252-14]のもとに
喰伏られあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は
庭にありてかばね
半ば
喰れたり。
妻はすこしいきありて
夫をみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、
狼がといひしばかりにてたふれしゝけり。
農夫はゆめともうつゝともわきまへず
鉄炮もちて立あがりしが、さるにても
娘はとてなきごゑによびければ、
床の下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。
山家は
住居もこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。
農夫は時の
間に六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の
牙にころされ、
歯がみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう/\にきゝつけきたり此
体をみておどろきさけびければ、おひ/\あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、
※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、253-8]をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは
竈に火をたきてゐたりしゆゑすぐに
床の下へにげ入り、ばゞさまと母さまと
おとがなくこゑをきゝて
念仏申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ
棺一ツに
妻と
童ををさめ、母の
棺と二ツ
野辺おくりをなしけるに
涙そゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが
筒をもてといひしゆゑ、母の
片足を雪の山
蔭にくらひゐたる
狼をうちおとして母の
敵はとりたれど、二疋をもらししはいかに
口惜かりけん。これよりのち此
農夫家を
棄、
娘をつれて
順礼にいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。
百樹曰、日本の狼は
幻化事をきかず、
唐土の狼はばけること老狐にことならず。
宋人李
等が太平広記
畜獣の部に
(四百四十二巻)狼美人に幻化
[#「幻化」の左に「バケ」の注記]して
少年と通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして
逃さり、又は人の父を
喰殺してその父にばけて年を
歴たるに、一日その子山に入りて
桑を
採るに、
狼きたりて人の如く立
其裾を
銜たるゆゑ
斧にて狼の
額を
斫、狼にげ
去りしゆゑ家にかへりしに、父の
額に
傷の
痕あるを
視て狼なることをさとり、これを
殺すに
果して
老狼なり。親をころしたるゆゑ
自県にいたりて事の
由をつげたる事など○
広異記○
宣室志を引てしるせり。
悍悪の事に狼の字をいふもの○
残忍なるを
豺狼の心といひ○声のおそろしきを
狼声といひ○
毒の
甚しきを
狼毒といひ○事の
猥を
狼々○
反相[#「反相」の左に「ムホン」の注記]ある人を
狼顧○
義无を中山狼○
恣に
食を
狼
○
病烈を
狼疾といひ○
狼藉○
狼戻○
狼狽など、皆
彼に
譬て是をいふなり。
(文海披沙)されば
獣中最可悪は
狼なり。
余竊に
以為、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが
為に
狼毒をうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも
可惧可悪。
篤実を
外面とし、
奸慾を
内心とするを
狼者といひ、
娵を
悍戻を
狼老婆といふ。
巧に
狼心をかくすとも
識者の
心眼は
明鏡なり。おほかみ/\
惧ざらんや
恥ざらんや。
北越雪譜中巻 終[#改丁]越後塩沢 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
農家市中正月の
行事に
鳥追といふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま/″\なる事は
諸書に
散見せり。江戸の
鳥追といふは
非人の
婦女音曲するを女太夫とて
木綿の
衣服をうつくしく
着なし、
顔を
粧ひ、
編笠をかむり、
三弦に
胡弓などをあはせ、
賀唱をおもしろくうたひ、
門々に立て銭を
乞ふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の
(小正月とは正月十五日以下をいふ)はじめ
鳥追櫓とて
去年より
取除おきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに
応じて
末を
広く雪にて
櫓を
築立、これに
登るべき
階をも雪にて作り、
頂を
平坦になし松竹を四
隅に立、しめを
張わたす
(広さは心にまかす)内には居るべきやうにむしろをしきならべ、
小童等こゝにありて物を
喰ひなどして
遊び、
鳥追哥をうたふ。その一ツに「あの
とりや、
どこから
おつて
きた、
しなぬの
くにからおつてきた。なにを
もつておつてきた、
しばを
ぬくべておつてきた、
しばの
とりも
かばのとりも、
たちやがれほい/\引」
おらが
うらの
さなへだのとりは、おつても/\
すゞめ
たちやがれほい/\引」あるひはかの
掘揚(雪をすてゝ山をなす所)の上に雪を以て
四方なる
堂を作りたて、雪にて物をおくべき
棚をもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん
抔此雪の棚におき、物を
煮焼し、
濁酒などのみ、
小童大勢雪の堂に
(いきんだうと云)遊び、
同音に鳥追哥をうたひ、
終日こゝにゆきゝして遊びくらす。これ
暖国にはなき正月あそびなり。此
鳥追櫓宿内にいくつとなく
作り
党をなしてあそぶ。
前にもしば/\いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも
魚沼・
古志・
頸城の
三郡を大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども
寒気は江戸にさまでかはる

なしと、江戸に寒中せし人いへり。
五雑組にいへる霜は
露のむすぶ所にして
陰なり、雪は雲のなす所にして
陽なりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の
儲に
蒔たる
野菜のるゐも雪の下に
萌いでゝ、その用をなす

おそきとはやきのたがひはあれども
暖国にかはる

なし。その
遅きとは三月にはじめて梅の花を見、五月の
瓜・
茄子を
初物とす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。
此書の前編上の
巻雪中の火といふ
条に、六日町の
(魚沼郡)西の山手に
地中より火の
燃る事をしるせしが、地獄谷の火の

をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ
我越後に名高く
七不思議にかぞへいふ
蒲原郡如法寺村百姓
荘右エ門
(七兵衛孫六が家にも地火あり)が家にある地中より
燃る火は、
普く人の知る所なれども、其火よりも
盛大なるは魚沼郡のうち、かの
小千谷の
在地獄谷の火なり。
唐土に
是を
火井といふ。
近来此地獄谷に家を作り、
地火を以て
湯を
※[#「火+覃」、U+71C2、259-8]し、
客を
待て
浴さしむ、夏秋のはじめまでは
遊客多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内
或家にて井を
掘しに、其夜
医師来りて井を掘し

を
聞、家に
皈る時
挑灯を井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より
俄に火をいだし
火勢さかんに
燃あがりければ
近隣のものども
火事なりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を
罵り
恨みければ、主人も此火をおそれて
埋けるとぞ。此地火一に
陰火といふ。かの
如法寺村の陰火も
微風の
気いづるに
発燭の火をかざせば
風気手に
応じて
燃る、
陽火を
得ざれば
燃ず。
寛文のむかし
荘右エ門が
(如法寺村)庭にて

をつかひたる時より
燃はじめしとぞ。前にいふ井中の火も
医者が
挑灯を井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。
●さて又
頸城郡の
海辺に
能生宿といふは
北陸道の
官路なり、此宿より山手に入る

二里ばかりに
間瀬口といふ村あり、こゝの
農家に地火をいだす
如法寺村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に
乏しき所にては、
旱のをりは山に
就て井を
横に
掘て水を
得る

あり、ある時井を掘て横にいたりし時
穴の
闇きをてらすために
炬を用ひけるに、
陽火を
得て
陰火忽ち
然あがり、人
是が
為に
焼死しけるとぞ。
是等の

どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす
火脉の地
多く、いまだ陽火を
得ずして
発せざるも多かるべし。
百樹曰、
余小千谷にありし時
岩居余に
地獄谷の火を見せんとて、
社友五人を
伴ひ
用意の
酒食を
奚奴二人に
荷しめ、
余与京水と
同行十人小千谷をはなれて西の方●
新保村●
薮川新田などいふ村々を
歴て
一宮といふ村にいたる、
山間の
篆畦曲節て
茲に
抵る
行程一里半
可なり。
是日はことに
快晴して
村落の
秋景百逞目を
奪ふ。さて
平山一ツを
踰て
坡あり、
則地獄谷へいたるの
径なり。
坡の上より目を
下せば一ツの
茅屋あり、
是本文にいへる
混堂なり。人々
坡の
半にいたりし時、
茅屋の
楼上に四五人の
美婦あらはれ、おの/\
檻によりて、
遙にこの人々を
指もあり、あるひは
笑ひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。
四面皆山にて
老樹欝然として
翳塞の
中に
個美人を見ること
愕然し、是
狸にあらずんばかならず狐ならんといひければ、
岩居友だちと
相顧、
手を
拍て
笑ふ。これは小千谷の下た町といふ所の
酒楼に
居る
酌採の
哥妓どもなり、
岩居朋友と
計りて
竊に
此に
招おきて
余に
興させん
為とぞ。
渠は狐にあらずして
岩居に
魅されたるなり。
已に地獄谷にくだり
皆楼にのぼれり。岩居は
余と京水とを
伴ひてかの火を
視せしむ。
●そも/\
茲谷は山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十
歩(六尺を歩といふ)をひらきて
平坦の地となし、地火を
借りて
浴室となし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために
地獄とよばるゝこと、花はさぞかし
薀憤かるべし。
●さてその火を
視るに、一ツの浅き井を作りたるその
井中より火の
燃る事常の湯屋の火よりも
盛なり。上に
釜あり一間四方の
湯槽あり、
細き
筧ありて
后の山の清水を引き
湯槽におとす。湯は
槽の四方に
溢れおつ、こゝをもつて此
湯温からず
熱からず、天
工の
地火尽る時なければ
人作の湯も
尽る
期なし、見るにも
清潔なる事いふべからず。此
混堂に
続きて
厨処あり、

にも穴ありて地火を引て物を
烹薪に同じ。次に中の
間あり、
床の下より
竹
を出し、口には一寸ばかり
銅を
鉗て火を
出さしむ。上より
自在をさげ、此火に酒の
燗をなしあるひは
茶を
煎、夜は
燈火とす。さて
熟此火を視るに、

をはなるゝこと一寸ばかりの上に
燃る、扇にあふげば
陽火のごとくに
消る。

の口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。
発燭の火を
翳せば
忽然としてもゆることはじめの如し。
主の
翁が曰、この火夜は
昼よりも
燥烈く、人の
顔青くみゆるといへり。翁が
妻水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、
混堂のうしろに
僅の山田ある所にいたり、田の水の中に少し
湧ところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火
蝋燭のもゆるが如し。
老婆がいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと/″\く火をもやすゆゑ
獣きたらずといへり。
余が江戸の目には
視る所こと/″\く
奇妙なり。
唐土には此火を
火井とて、
博物志或は
瑯※代酔[#「王+耶」、U+7458、262-7]に見えたる
雲台山の火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の
洪大なるは此谷の火に
勝らず。
唐土と日本とをおつからめて火井の
最第一といふべし、是を見たる事越遊の一
奇観なり。唐土に火井の
在る所北の
蜀地に
属す、日の本の火井も北の越後に在り、
自然の
地勢によるやらん。
●さて一人の
哥妓梯上にいでゝしきりに
岩居を
呼ぶ、よばれて
楼にのぼれり。
余は京水とゝもに此
湯に
浴す、
楼上には
早く
三弦をひゞかせり。
浴しをはりて楼にのぼれば、
既に
杯盤狼藉たり。
嬋娟哥妓袖をつらね、
素手弄糸朱唇謡曲迦陵頻伽の
声、
外面如※[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、262-13]の
色興を
添れば、
地獄谷遽然極楽世界となれり。此
妓どもを
養ふ
主人もこゝに
来り
居て、
従る料理人に
具したる
魚菜を
調味させてさらに
宴を
開く。
是主人俗中に
雅を
挾で
恒に
文人を
推慕ゆゑに、
是日もこゝに
来りて
余に
面識するを
岩居に
約せしとぞ。此人
※[#「齒+巴」、U+4D95、263-1]なるゆゑ
自ら
双坡楼と
家号す、その
滑稽此一をもつて知るべし。
飄逸洒落にしてよく人に
愛せらる、家の前後に
坡ありとぞ、
双坡の
字下し
得て妙なり。
双坡楼扇をいだして
余に
句を
乞ふ、妓も
持たる扇を
出す。京水画をなし、余
即興を
書す。これを見て
岩居をはじめおの/\
壁に
句を
題し、
更に
風雅の
興をもなしけり。
●かくてやゝ日も
傾きければ
帰路を
促しけるに、
哥妓どもは
草鞋にて
来りしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを
争ふてはきいづる、みな
酔興なれば
噪閙して
途を
行く。
細流ある所にいたれば
紅唇粉面の
哥妓紅※[#「ころもへん+昆」、U+88E9、263-7]を

て
渉る、
花姿柳腰の
美人等わらじをはいて水をわたるなど
余が江戸の目には
最珍らしく
興あり。
酔客ぢんくをうたへば
酔妓歩々躍る。
古縄を
蛇とし
駭せば、おどされたる
妓愕して
片足泥田へふみいれしを
衆人
然す。此
途は
凡て
農業の
通路なれば
憇ふべき
茶店もなく、
半途に
至りて古き
社に入りてやすらふ。
一妓社の
后に入りて立かへり石の
水盤の
涸たる水を
僅に
掬、
手を
洗ひしは
私に
去りしならん。そのまゝ
樹下に立せ玉ふ
石地蔵※[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-12]の
前に
並びたちながら、
懐中より
鏡を
出して
鉛粉のところはげたるをつくろひ、
唇紅などさして
粧をなす、これらの
粧具をかりに
石仏の
頭に
置く。
外面女※[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-13]内心如夜叉のいましめもあれば、
※[#「くさかんむり/廾」、U+26B07、263-14]はなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。
日も
已に
下
なればおの/\あしをすゝめて
小千谷へかへりき。
(此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。)
板額女は
加治明神山の城主
長太郎
祐森が
室、古志郡の
産なり。又三歳の小児も知れる
酒顛童子は蒲原郡
沙子塚村の
産、今猶
屋敷跡あり。
始は
雲上山国上寺の
行法印の
弟子なり。
玄翁和尚は
伊夜彦山の
麓箭矧村の
産なり。
近世にいたりて
徳僧高儒和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に
雷名せるはすくなし。
(画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり)近年
相撲に
越海・
鷲ヶ浜は
新潟の
産、
九紋竜は高田今町の産、
関戸は
次第浜の
産也。
常人にて
力士の
聞えありしは
頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、
是等無双の大力にて人の知る所なり。又
鎧潟に近き
横戸村の長徳寺、
谷根村の行光寺も
怪力のきこえたかし。此人々はいづれも
独して
鐘を
軽く
掛はづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、
新発田の
菊女、
頸城郡の
僧知良、近くは三嶋郡村田村の
百合女
(百姓伊兵衛がむすめ)新発田荒川村門左エ門
(百姓丑之介がせがれ)塚原の
豆腐売春松
(鎌介がせがれ)蒲原郡
釈迦塚村百姓新六、いづれも
孝子の名一国に高かりき。今
存在するもありとかや。
百樹曰、
余越後にいたらば
板額あるひは
酒顛童子の
旧跡をもたづね、
新潟をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、
寺泊にのこる
順徳帝の
鳳跡、
義経、
夢※国師[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、266-14]、
法然上人、日蓮上人、
為兼卿、遊女
初君等の
古跡もたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち
気運順を
失ひ、
年稍倹して
穀の
価日々に
躍、
人気穏ならず。
心帰家にありて
風雅をうしなひ、
古跡をも
空しく
過り、
惟平々たる
旅人となりて、きゝおよびたる
文雅の人をも
剌問ざりしは今に
遺憾なり。
嗟乎年の
倹せしをいかんせん。
蒲原郡村松より東一里
来迎村に寺あり、
永谷寺といふ
曹洞宗なり。此寺の近くに川あり、
早出川といふ。寺より八町ばかり下に
観音堂あり、その下を流るゝ所を
東光が
淵といふ。永谷寺へ
入院の
住職あれば此
淵へ
血脉を
投げ入るゝ事
先例なり。さて此永谷寺の住職
遷化の
前年、此
淵より
墓の石になるべき
円き
自然石を一ツ
岸に
出す、
是を
無縫塔と名づけつたふ。此石
出ればその
翌年には
必ず
住職病死する事むかしより今にいたりて一度も
違ひたる事なし。此
墓石大小によりて住職の心に
応ぜず
淵へかへせば、その
夜淵
逆浪して住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年
凡僧こゝに住職し此石を見て
死を
惧れ
出奔せしに
翌年
他国にありて病死せしとぞ。おもふに此淵に

ありて
天然の
死を
示すなるべし。
友人北洋主人
(蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす)件の寺を
覧たる
話に、本堂
間口十間、右に
庫裏、左に八
間に五間の
禅堂あり、本堂にいたる
阪の左りに
鐘楼あり、禅堂のうしろに
蓮池あり。上に坂あり、登りて
住職の墓所あり。かの
淵より
出したる
円石を
人作の石の
台の
脚あるにのせて
墓とす。
中央なるを
開山とし、左右に
次第して廿三
基あり。大なるは
径り一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に
応ずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの
淵に

ありといふは、むかし永光寺のほとりに
貴人何某住玉ひしに、その
内室色情の
妬にて
夫をうらみ、東光が淵に身を
沈め、
冤魂悪竜となりて人をなやまししを、永光寺の開山
(名をきゝもらせり)血脉をかの
淵にしづめて
化度し玉ひしゆゑ悪竜
得脱なし、その礼とてかの
墓石を
淵にいだして
死期を
示す。
是以今にいたりても
入院の時は淵に血脉を
沈むと
寺説につたふとぞ。
○さてまた我が
隣国信濃にも
無縫塔の事あり。近江の石亭が
雲根志にいはく
(前編
異之部)信濃国高井郡
渋湯村横井温泉寺の前に星河とて
幅三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧
遷化の前年に、此河中へ
何方よりともなく、高さ二尺ばかりなる
自然石の
方にしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、
実に
彫刻せるごとくにて
天然の物なり。此石
出ると
土民ども温泉寺へしらせる事なり、きはめて
翌年住僧
遷化なり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも
違はず
並びあり。
或年の住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我
法華千部
読経の
願あり、今一年にして
満り、何とぞ命を今一年
延し玉へと念じて、かの塔を川中の
淵に
投こみたり。何事もなく一年すぎて千部
読経のすみし月に
件の石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして
遷化なりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく
淵へなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を
無帽塔と名づく。
(以上一条の全文)越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の
相似たる一
奇怪といふべし。
○
百樹曰、牧之老人が此
草稿を
視て
無縫塔の
縫の
字義通じがたく
誤字にやとて
郵示して
問ひければ、
無縫塔と
書伝たるよしいひこしぬ。
雲根志には
無帽塔とあり、
無帽の
字も又
通じがたし。おそらくは
無望塔にやあらん。住僧の心には
死がいやさに
無望塔なるべし。こゝに
無稽の
一笑を
記して
博識の
確拠を
竢つ。
魚沼郡|
雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の
慈光寺、
(村松にあり)村上の
耕雲寺、
伊弥彦の
指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世
通天和尚は、
霜台君の
(謙信の事)親藉にて、
高徳の聞えは今も
口碑にのこれり。
景勝君も此寺に
物学び玉ひしとぞ。一国の大寺なれば
古文書宝物等も多し、その中に
火車落の
袈裟といふあり、
香染の
麻と見ゆるに
血の
痕のこれり。是を火車落とて宝物とする
由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは
学徳全備の尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の
農家に
死亡のものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき
雪吹もやまざりければ、三四日は
晴をまちて
葬式をのばしけるに
晴ざりければ、
強ていとなみをなし、
旦那寺なれば北高和尚をむかへて
棺をいだし、
親族はさら也人々
蓑笠に雪をしのぎて
送りゆく。その
雪途もやゝ半にいたりし時
猛風俄におこり、
黒雲空に
布満て
闇夜のごとく、いづくともなく火の玉飛来り
棺の上に
覆かゝりし。火の中に尾はふたまたなる
稀有の大
猫牙をならし
鼻をふき
棺を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を
捨、こけつまろびつ
逃まどふ。北高和尚はすこしも
惧るゝいろなく口に
咒文を
唱大声一喝し、
鉄如意を
挙て飛つく大猫の
頭をうち玉ひしに、かしらや
破れけん血ほどはしりて
衣をけがし、
妖怪は
立地に
逃去りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの
法衣とて今につたふ。

百樹曰、
余越遊して塩沢に在し時、牧之老人に
伴れて雲洞庵にいたり、
(塩沢より一里ばかり)庵主にも
対話なし、かの火車おとしの
袈裟といふ物その外の宝物
古文書の
類をも一
覧せり。いかにも大寺にて祈祷の二字を
大書したる
竪額は 順徳院の
震筆なりとぞ。
(佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし)門前に
直江山城守の
制札あり、
放火私伐を
禁ずるの文なり。
庭中池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守
刃死の
古墳在りしを、先年牧之老人
施主として
新に
墓碑を
建たり。
不朽の
善行といふべし。
(本文に火車といふは所謂夜叉なるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。) 余六十一
還暦の時年賀の
書画を
集む。
吾国はさらなり、諸国の
文人三
都の
名家妓女俳優[#「俳優」の左に「ヤクシヤ」の注記]来舶清人の一
絶をも
得たり。みな牧之に
贈といふ

をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、
帖となして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため
舗につゞきたる
坐しきの
障子をひらき、年賀の帖を
披き
並べおきたる所へ
友人来り、年賀の
作意書画の
評などかたりゐたるをりしも、
順礼の
夫婦軒下に
(我が里言には廊下といふ)立けり。吾が家常に
草鞋をつくらせおきてかゝる
者に
施すゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の
翁立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが
云やう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。
乞食のやうなるすがたには
似気なきことばのおぼつかなしと思ひながら、
短尺すゞりばこいだしければ、
三途川わたしは先へ百年も君がむかひをとゞめ申さん 五放舎
としるしたるふでのはこびも
拙からず。年賀にはひとふしかはりたる
趣向といひ、
順礼に五放舎と
戯れたる名もおもしろく、友人と
倶におどろき
感じ、
宿を
施行せん、ゆる/\ものがたりせんなど、友人もさま/″\にすゝめたれど、
杖をとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。
小千谷より一里あまりの
山手に
逃入村といふあり、
(にげ入りを里俗にごろとよぶ)此村に大
塚小塚とよびて大小二ツの
古墳双びあり。所の
伝へに大なるを
時平の塚とし、小なるを時平の
夫人の塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に
在べき
由縁なきことは論におよばざる
俗説なり。しかれども
爰に一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に
流されなどして此地に
終りたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人
手習をすれば天満宮の
祟ありとて一村の人皆
無筆なり。
他郷に
身を
寄て手習すれば
祟なし。しかれども村にかへれば日を
追て
字を
忘れ、
終には無筆となる。このゆゑに
文字の用ある時は他の村の者にたのみて
書用を
弁ず。又此村の子どもなど江戸
土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の
祟りの
兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の
古墳なりと古くいひつたふるも何か
由縁ある事なるべし。
菅家の
筑紫にて
薨じ玉ひたるは
延喜三年二月廿五日なり、今を去る事
(百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり)九百十五年前なり。今にいたりても
神
の明々たる事おそるべし
尊むべし。
さて又これにるゐする事あり、
南
が
東遊記を見るに、南

東遊して
津軽に居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や
居ると
旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南

あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国
岩城は人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて
社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に
悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の
堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると
捜すなりといへりと。
南
子此事に
遇たりとて記せり。右にいふ兄弟の父
岩城判官正氏在京の時
讒にあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の
怨魂今に
消滅せざる事
人知を以論ずべからず。
(百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考)西遊記
(前編)景清が
塚は日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国
求麻の人吉の城下より五六里ほど東、
切幡村にまつる。此所に景清が娘の
墳もあり、一村の氏神にまつる、此村かならず
盲人を
忌む、盲人他処より入れば必
祟あり、景清
後に盲人になりしゆゑ、母の
盲人を嫌ふと所の人のいへりと
記せり。これらの
逃入村の
不思議に類せり。しかれども
件の二ツは
社ありて丹後の人を
忌、
墓ありて
盲人をきらふなり、
逃入村は
墳あるゆゑに天満宮の
神
此地を
忌玉ふならん。こゝをもつて
考ふるに、かの
古墳はいよ/\時平が
血脉の人なるべし。
百樹曰、
余越遊して
小千谷に在りし時、所の人
逃入村の事を
語りて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ
文墨の者
強てゆくべきにもあらねば、
話をきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を
讒言したる悪人なりとて、其悪千古に上下して
哥舞妓狂言にも作りなし、婦女子も
普く知る所なれど、
童稚女子はその
実跡をしれるが
稀なり。さればかゝるはかなき
冊子に此 御神の事を
記すはいともかしこけれど、
逃入村の
因によりてこゝに
書載す。
○
謹で
案るに、
菅原の本姓は
土師なりしが、
土師の
古人といひしが、
光仁帝の御時、大和国
菅原といふ所に
住たるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は
道真、
字は三、童名を
阿呼と申たてまつる。
(阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく) 仁明帝に仕へ玉ひたる
文章博士参議是善卿の第三の御子、
承和十二年に
生れ玉へり。七歳の時
紅梅を御覧じて「梅の花
紅脂のいろにぞ似たる哉
阿古が顔にもぬるべかりけり」十一の春
(斉衡二年)父君より
月下梅といふ
詩の
題を玉ひたる時
即坐に「月
ノ輝如
シ二晴、雪
ノ一梅花
ハ似
タリ二照
ル星
ニ一可
シレ憐
ム金鏡転
シテ庭上玉房
馨」御祖父
(清公)御父
(是善卿)の学業を
受嗣玉ひて
文芸はさらなり、武事にも
疎からずまし/\けり。
○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年
文章生に
挙られ、下野の
権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母
伴氏身まかり玉ひ、
陽成天皇の
元慶四年八月晦日御父
是善卿も身まかり玉へり。
(御年六十九)此時 菅神は御年四十一なり。
○
寛平四年御年四十八
類聚国史二百巻を
撰み玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻
(後草は筑紫にての御作なり)今も世に伝ふ。大納言
公任卿が
朗詠集に入れられたる菅家の詩に「送
ルハレ春
ヲ不
レ用
ヒレ動
スコトヲ二舟車
ヲ一唯別
ル三残鴬
ト与
トニ二落花
一若使
シテ二韶光
ヲ一知
ラシメバ二我
ガ意
ヲ一今※
[#「雨かんむり/月」、U+2B55F、277-5]旅宿在
ン二詩家
ニ一」此御作は 延喜帝いまだ
東宮たりし時
令旨ありて
一時の間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。
○さて御若年より
数階を
歴給ひて後、
寛平九年御年五十三権大納言右□将を
兼らる。此時
時平大納言に
任ぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て
執政たり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日
宇多帝御位を太子
敦仁親王へ
譲り玉ひ
朱雀院へ入らせ玉ひ、
亭子院と申奉り、御
法体ありては
寛平法皇とぞ申奉る。
敦仁親王を
醍醐天皇とも
後よりは延喜帝とも申奉る。
(御年十三)年号を
昌泰と改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣
相倶に
帝を
補佐し奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども
才徳年齢双璧をなさず、故に心
齟齬して相
和せず。
是 菅神の
讒毒を
得玉ふの
張本なり。
○そも/\時平公は大職冠九代の
孫照宣公の
嫡男にて、代々□臣の
家柄なり。しかのみならず延喜帝の
皇后の
兄なり。このゆゑに若年にして□臣の
貴重に
職ししなり。此人の
乱行の一ツを
言ば、
叔父たる大納言
国経卿は
年老、
叔母たる北の方は年若く
業平の
孫女にて
絶世の
美人なり。時平是に
恋々す、
夫人もまた
夫の
老たるを
嫌ふの心あり。時平
或日国経の
許に
宴し、
酔興にまぎらして
夫人を
貰はんといひしを、国経も
酔たれば
戯言とおもひてゆるしけり。さて国経が
酔臥たるを
見て
叔母を車にいだき入れて立かへり、此
腹に生れたるを中納言
敦忠といふ、時平の
不道此一を以て
其余を
知るべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の
(帝の御父)御心には時平の
任を
除き 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、
帝亭子院へ
朝覲のをりから御内心を
示し玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを
内勅ありしに 菅神
固辞したまひしに
許し玉はざりけり。
(同月七日従二位にすゝみ玉へり)此
密事いかにしてか時平公の
聞にふれしかば、事に
先じて 帝に
讒するやうは、君の御弟
斉世親王は
道真の
女を
室適[#「室適」の左に「オクサマ」の注記]して
寵遇厚し。
是以君を
廃して親王を立、
国柄を一人の手に
握んとの
密謀あり
法皇も是に
応じ玉ふの
風説ありと
言を
巧に
讒しけり。時に 延喜帝御年十七なり。
皇后は時平公の妹なれば内外より
讒毒を流して
若帝の御心を
動し奉りたるなり。
○さて時平が
毒奏はやく
中りて、同月廿五日
左降の
宣旨下りて右□臣の
職を
削り、従二位はもとのごとく
太宰権帥とし
(文官)筑紫へ
左遷に定め玉へり。
寛平法皇此事を
聞しめして大におどろかせ給ひ、
御車にもめし玉はず俄に御
沓をすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、
斯と申せとおほせありしかども左右の諸陣
警固して事を通ぜず、是も時平が
讒に一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は
草坐玉ひ終日
庭上に
御し
晩にいたりてむなしく本院へ還
□玉へり。
○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ
流れ玉ふ、是も時平が
毒舌によれり。
姫たちは都にとゞまり
幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。
年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「
東風吹ば匂ひをこせよ梅の花
主なしとて春な
忘ぞ」此梅つくしへ
飛たる事は
挙世の知る処なり。又桜を「桜花
主を
忘れぬものならば吹こん風にことつてはせよ」
○
斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国
須磨の浦に日を
移しつくしへ
抵りたまへり。
(やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。)○
筑紫太宰府にて「離
レテレ家
ヲ三四月 落涙百千行 万事
ハ皆如
シレ夢
ノ 時々
仰二彼蒼一」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の
朝かくるゝ人もなければやきてしぬれ
衣ひるよしもなき」
(ぬれぎぬとは無実のつみにかゝるをいふなり)○つくしにいたり玉ひては
不出門行といふ
詩を作り玉ひて、
寸歩も
門外へいで玉はず。是
朝廷を
尊恐、御身の
謫官[#「謫官」の左に「ナガサレモノ」の注記]たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼
ハ纔看二瓦
ノ色
ヲ一 観音寺
ハ只聴
ク二鐘
ノ声
ヲ一」
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ
(十二巻)左遷より後のを菅家後草とて
(一巻)今も世につたふ。後草に九月十三夜の
題にて「去年今夜
侍二清涼
ニ一 秋思
ノ詩篇独
リ断
ツレ膓 恩賜
ノ御衣今
在レ此 捧持毎日拝
ス二余香
ヲ一」此御作に
注あり、その
趣は、○去年とは
昌泰三年なり
(延喜元年の一年まへ)其年の九月十三夜、 清涼殿に
侍候ありし時、秋思といふ
題を玉はりしに、
詩の
意にことよせて
諫たてまつりしに、其いさめを
容玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此
配所にもちくだりて毎日御衣にのこりたる
余香を
拝すと、
帝をしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の
誠を作り玉ひたるなり。此一詩をもつても
無実の
流罪に
所して露ばかりも帝を
恨み玉はざりしを知るべし。
朝廷を
怨み給ひて
魔道に入り、
雷公になり玉ひたりといふ
妄説は次に
弁ずべし。
○高辻の御庭の桜
枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
○さて太宰府に
謫居し給ふ事
三年にして延喜三年正月の頃より 御心
例ならず、二月廿五日太宰府に
薨じ玉へり、御年五十九。御
墓は府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御
棺をいだしけるに
途中にとゞまりてうごかず、
則その所に葬り奉る、今の
神
是なり。
○延喜五年八月十九日同所安楽寺に
始て 菅神の神殿を建らる。
味酒の
安行といふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子
配流をゆるされ玉ひ、おの/\
故の位にかへされ玉ふ。
○
神去玉ひしのち
水旱風雷の天
変しば/\ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の
祟りなるらんなど風説しけるとかや。
○菅神
薨去より七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公
薨ず、歳三十九。又一男八条の大将
保忠、その弟中納言
敦忠および時平の
女、
(延喜帝の女御なり)孫の東宮までも相つゞきて
薨ぜらる。又時平の
讒毒に
荷担したる
菅根の朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に
流布せしは 菅公の
冤謫[#「冤謫」の左に「ムジツノナガサレ」の注記]を世の人
哀戚きたるゆゑとかや。
○延長元年三月
保明太子
薨去。
(時平の孫、まへに東宮といひし是也。)○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に
復し玉ふ。
(神さり給ひしより二十年。)○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を
贈らる。
(菅神百年御忌にあたる。)○同年閏十月十九日大政□臣を
贈らる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。
後年屡神
の
赫々たる
徴ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の
贈称あり。
○そも/\
醍醐天皇は
(在位卅二年)百廿代の御
皇統の中にも殊に御
徳達たりしゆゑ、延喜の
聖代と称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、
賢者の
聞えある重臣の 菅公を時平
大臣が一時の
讒口を信じ玉ひて其実否をも
糺し玉はず、
卒尓に菅公を
左遷ありしは 御一代の
失徳とやいふべき。しかるを 菅神の
恨み玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも
賢徳忠臣の
冤謫を天のいきどほりて
水旱風雷の
異変、
讒者奸人の
死亡ありしならん。
俗子は是を 菅神の
怨
とするは是又 菅神の
賢行に
瑾つけるなり。しかれども
竊に
謂く、
賢者は
旧悪をおもはずといふも事にこそよれ、
冤謫懆愁のあまり
讒言の
首唱たる
時平大臣を
肚中[#「肚中」の左に「ハラノナカ」の注記]に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ
逃入村を神の
忌玉ふも其
徴とするの一ツなるべし。
○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に
隕て藤原
清貫(大納言)平稀世(右中弁)其外
侍候の人々雷火に
即死す、 延喜帝
常寧殿に渡御ありて雷火を
避たまふ。是をも 菅神の
祟とするはいよ/\
非説なりと、
安斎先生
(伊勢平蔵)の
菅像弁にもいへり。
○太宰府より一里西に天
拝山あり。 菅神この山にのぼりて
朝廷を
怨む
告文を天に
捧て
祈り、雷神となり玉ひしといふは、
賢徳の御心をしらざる
俗子の
妄説を今に
伝へたるなり。和漢三才
図会にも
実しやかに
記したるは、
不出門行の御作に心を
深めざるにやあらん。
○法性坊
尊意叡山に在し時 菅神の
幽
来り我
冤謫の
夙
を
償とす、願くは師の道力をもつて
拒ことなかれ。尊意曰、
卒土は皆王民なり、我もし
皇の
詔をうけ玉はらば
避るに所なし。菅神
色あり、
適柘榴を
薦、 菅神
哺を
吐て
焔をなし玉ひしといふ
故事は、
元亨釈書の
妄説に
起る。
(此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なり)かゝる奇怪の事を記すは仏者の
筆癖なりと、
安斎先生もいへり。
○白太夫といふは伊勢
渡会の
神職 菅神
文墨に於格外の
懇友なり、ゆゑに北野に
祀りて今も社あり。
(此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。)○北野の御社の
始は
天慶五年六月九日より
勅命によりて
建創。其起りは西の京七条に
住たる
文子といふ女に神
託ありしによりてなり。
(北野縁起につまびらかなり。)○世に
渡唐の天神といひて
唐服に梅花
一枝を持玉ふを画く。
故事は、
仏鑑禅師(聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖)博多に住玉ひたる
跡の地中より掘いだしたる石に 菅神の
唐土へ渡り玉ひて
経山寺の
無準禅師に
(聖一国師の師なり)法を
受玉ひて
日本へ
帰り玉ひたりと、
件の石に
彫つけありしと
古書に見えたるを
拠として、
渡唐の
神影を画き
伝へたるなり。此事
固妄説なりと安斎先生の
菅像弁にいへり。
(菅家聖
伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。)○菅神
左遷の
実跡を
載たるは、○日本
紀略(抄録に巻序を失意せり)○
扶桑略記(巻卅三)〇日本
史(百卅三)の
列伝(五十九)〇菅家御伝記
(神統菅原陳経朝臣御作正史によられたれば証とすべし)其余虚実混合[#「混合」の左に「マジリ」の注記]したる古今の
書籍枚挙[#「枚挙」の左に「アゲツクス」の注記]すべからず。
○本朝
文粋に
挙たる大江
匡衡の文に「天満自在天神或は塩
二梅於天下一輔導一人一(帝の御こと)或
日二月於天上一照
二臨万民一就
レ中文道之大祖風月之本主也」云云。大江
家は 菅原家と
倶に
朝廷に
累世する
儒臣なり。しかるに 菅神を
崇称たる事
件の文の如し。
是以凡文道に
関者此 御神を
崇ざらんや、信ぜざらんや。
○およそ 菅神を
祀る
社にはおほかたは
雷除の
護府といふ物あり。此 御神雷の
浮名をうけ玉ひたるゆゑ、
神
雷を
忌玉ふゆゑに此まもりかならず
験あるべし。
○さて
如件条説するは、本編にいへる
逃入村の
神
の事に
因て
実跡の書どもを
摘要して御神の
略伝を
児曹に
示すなり。
固不学のすさみなれば
要跡の
漏たるも
説の
誤謬たるもあるべし。あなかしこ
謹で
附記す。
○
再按るに、孔子の
聖なるもその

は
生る時よりも
照然として、その
墓十里
荊棘[#「荊棘」の左に「ムバラ」の注記]を生ぜず、鳥も
巣をむすばず。
関羽の
賢なるも
死しては神となりて
祈に
応ず。
是則生は
形を以て
運り、
死ては
神を以て
運ゆゑなりとかや。
(文海披沙の説)菅神も此
論に近し。
逃入村の事を以ても千年にちかき
神
の
赫々たること
仰ぐべし
敬ふべし。
盖冥々には年月を
置ずときけば百年も
猶一日の如くなるべし。
(菅公の神
にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。) 魚沼郡の
官駅十日町の南七里
計、
妻在庄の山中
(此へんすべて上つまりといふ)に
田代といふ村あり。村を
去事七八町に七ツ釜といふ所あり、
(里俗滝つぼを釜といふ)滝七
段あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。
銚子の口
不動滝などいふも七ツ釜の内にて、
妙景奇状筆をもつて
云べからず。第七番目の釜の
地景を
爰に
図するをみて其
大概をしるべし。此所の
絶壁を
竪御号横御号といふ、
里俗伊勢より
御師の持きたるおはらひ箱を
おがうさまといふ、此
絶壁の石かの箱の
状に
似たるをもつて
斯いふなり。その
似たりといふは此ぜつへきの石どもの
落てあるを視れば、
厚さ六七寸
計にして
平みあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、
石工の作りなしたるが如し。此石数百万を
竪に
積重ねて、此数十丈の
絶壁をなす也。
頂は山につゞきて
老樹欝然たり、是右の方の
竪御がうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に
積かさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて
行儀よくつみあげたるごとく寸分の
斜なし、
天然の
奇工奇々妙々
不可思議なり。此石の落たるを此
田代村の
者さま/″\の物に用ふ、
片石にても他所に用ふれば
祟ありし事度々なりとぞ。
余文政三年辰七月二日此七ツ釜の
奇景を
尋て
目撃[#「目撃」の左に「ミタトコロ」の注記]したるを記す。天の
茫々たる他国にも是に似たる所あるべし、
姑くその
類を
示す。

○
百樹曰、
余仕に在し時同藩の文学関先生の
話に、
君侯封内の
(丹波笹山)山に
天然に
磨の
状したる石をつみあげて
柱のやうなるを
並て
絶壁をなし、
満山此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる
磨の
状の石を産する所ありと
春暉が
随筆にて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。
○又尾張の名古屋の人吉田重房が
著したる
筑紫記行巻の九に、
但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の
温泉に
抵る
途中を
記したる
条に
曰、○猶舟にのりて
行。右の方に
愛宕山、
宮島村、
野上村、
石山(地名)など
追続てあり。此石山の川岸に
臨れる所に
奇しき石あり、其
形ち
磨磐の如く、上下
平にして
周は三角四角五角八角等にして、
石工の切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる
跡もありて
洞のごとし。天下の
広きには
珍奇なる事おほきものなりけり云云。是も
奇石の一
類なれば筆の
次にしるしつ。
北越雪譜二編巻之三 終[#改丁]越後 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
魚沼郡
堀内より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の
間道なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白
縮なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の
昼すぐる頃竹助といふ
剛夫をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて
途も
梢々半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に
腰かけ
焼飯をくひゐたるに、
谷間の
根笹をおしわけて
来る者あり、ちかくよりたるを見れば
猿に
似て猿にもあらず。
頭の
毛長く
脊にたれたるが
半はしろし、
丈は
常並の人よりたかく、
顔は猿に似て赤からず、
眼大にして光りあり。竹助は心
剛なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を
提、よらば
斬んと
身がまへけるに、此ものはさる
気色もなく、竹助が石の上におきたる
焼飯に
指しくれよと
乞ふさまなり。竹助こゝろえて
投与へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる/″\とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は
嶮岨の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて
池谷村ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく
語りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり/\は此
異獣を見たるものもありしとぞ。
○前にいふ池谷村の者の
話に、我れ十四五の時村うちの娘に
機の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる
※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、290-11]のもとに
機を
織てゐたるに、
※[#「窗−穴かんむり」、U+56F1、290-11]の
外に
立たるをみれば猿のやうにて
顔赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ
独りなればことさらに
惧れおどろき、
逃んとすれど
機にかゝりたれば
腰にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに
飯櫃に
指して
欲きさまなり、娘此
異獣の事をかねて
聞たるゆゑ、飯を
握りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり/\来りて飯を
乞ふゆゑ、後には
馴ておそろしともおもはずくはせけり。
○さて此娘、 尊用なりとて
急のちゞみをおりかけしに、
折ふし
月水になりて 御
機屋に入る事ならず。
(御機屋の事初編に委しく記せり)手を
停め
居れば日限に
後る、娘はさらなり、
双親も此事を
患ひ
歎きけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの
農業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、
不思議とおもひながら身をきよめて御
機を
織果、その父問屋へ
持去り、
往着しとおもふ頃娘時ならず
俄に
紅潮になりしゆゑ、さては我が
歎しを
聞てかのもの我を
助しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと
語り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても
連ある時は
形を見せずとぞ。又高田の
藩士材用にて
樵夫をしたがへ、
黒姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に
似て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて
焼火にあたれり。たけは六尺ばかり、
赤髪、
裸身、
通身灰色にて、
毛の
脱たるに
似たり、
腰より下に
枯草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に
馴しと高田の人のかたりき。
按るに
和漢三才
図会寓類の
部に、
飛騨美濃あるひは西国の
深山にも
如件異獣ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。

宝暦年中平賀
鳩渓(源内)火浣布を
創製し、
火浣布考を
著し、和漢の古書を引、本朝
未曾有の
奇工に
誇れり。
没してのち
其術つたはらず、
好事家の
憾事とす。しかるに我国
甞火浣布を
作るの
石を
産す、その
在る所は、○
金城山○
巻機山○
苗場山○
八海山その外にもあり。その石
軟弱して
爪をもつても
犯すべきほどの
軟なる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば
石綿を
出す。此石を
得て
試みしに、石中に
在る
石綿といふものは、
木綿わたを
細く
紬たるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。
是を
紡績[#「紡績」の左に「イトニスル」の注記]するに
秘術ありて火浣布を
造るなり、其秘術を
得ば小女子も火浣布を織るべし。
○さて
我駅中に稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を
紡績する事に
千思万
慮を
費し、
竟に
自その術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が
近村大沢村の医師黒田
玄鶴も同じく火浣布を織る術を
得たり。
各々秘してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の
奇工を
得たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の
説をきゝしに
力をつくせば一丈以上なるをも
織うべし、しかれども其
機工容易ならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に
過ずと
火浣布考にいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に
火浣紙火浣墨の二
種を
造れり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、
烈火にやけて火となりしをしづかにとりいだし、
火気さむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も
火災の
供には
憑がたし、いかんとなれば、火に
遇ば
倶に火となり人ありて火中よりいださゞれば火と
倶に
砕けて
形をうしなふ、たゞ
灰とならざるのみなり。
翫具には用うる所さま/″\あるべし。源内死して奇術
絶たりしに
件の両人いでゝ火浣布の
機術再世にいでしに、
嗚呼可惜、此両人も術をつたへずして
没したれば火浣布ふたゝび世に
絶たり。かの源内は江戸の
饒地に火浣布を
織しゆゑ其
聞え高く、この両人は越後の
辟境に火浣布をおりしゆゑ其名
低し、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に
供す。
弘智法印は児玉氏下総国
山桑村の人なり。高野山にありて
蜜教を学び、
後生国に
皈り大浦の蓮花寺に住し、
行脚して越後に来り、三嶋郡
野積村(里言のぞみ)海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に
錫をとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に
寂せり。
辞世とて
口碑につたふる哥に「岩坂の
主を
誰ぞと
人問ば
墨絵に
書し松風の音」
遺言なりとて
死骸を
不埋、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて
枯骸生るが如し。是を越後廿四奇の一に
数ふ。此事
雑書に
散見すれども
図をのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は
余先年
下越後にあそびし時
目撃したる所なり。見る所たゞ面
部のみ、手足は見えず。寺法なりとて近く
観る事をゆるさず、
閉眼皺ありて
眠りたるが如し。
頭巾法衣はむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一
奇跡なり。

百樹曰、
唐土にも
弘智に
似たる事あり。唐の世の僧
義存没してのち
尸を
函中に
置、毎月其
徒これをいだし
爪髪の
長たるを
剪薙常とす。百余年を
経ても
廃せざりしが、
後国のみだれたるに
因てこれを
火葬せしとぞ。又
宋人彭乗が
作墨客揮犀に
鄂州の
僧无夢も
尸を
不埋、
爪髪の
長たる
義存に同じかりしが、婦人の手に
摸られしより爪髪のびざりしとぞ。事は
五雑組に
記して
枯骸の
確論あれども、
釈氏を
詰るに
似たる
説なればこゝに
贅せず。
(○高僧伝に義存が
ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。) 蒲原郡五泉の
在一里ばかりに
下新田といふ村あり。或年此村の者ども

ありて阿加川の
岸を
掘しに、
土中より長さ三間ばかりの船を掘いだせり。
全体少しも
腐ず、
形今の船に
異るのみならず、
金具を用うべき処みな
鯨の
髭を用ひて
寸鉄をもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを
弁ずる者なく、おそらくは
異国の船ならんといへりとぞ。
余下越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、
木質漢産ともおもはれき。上古漂流の
夷船にやあらん。
前にもいへる如く雪譜と
題するものに他事をいふは哥にいふ
落題なれど、雪はまた末にいふべし、
姑くおもひいだすにまかす。
○天保三年辰四月、我が
住塩沢の
中町に鍵屋某が家のほとりに
喬木あり。此
樹に
烏巣をむすび、
雛梢々頭をいだすころ、巣のうちに白き
頭の鳥を見る。主人
怪しみ人をして是を
捕へしめしに、
全身は
烏にして白く、
觜眼足は赤き
烏の
雛なり、人々
奇として
集り
観る。主人
俄に籠を作らせ心を
尽して
養ひ、やゝ長じて
鳴音も
烏に
異ならず、我が
近隣なれば朝夕これを
観たり。奇鳥なれば
乞ふ人も多く、江戸へ
出して
観物にせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の
鼬狐など
餌に
乏く人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ
所為にや、
籠はやぶれて
白烏は
羽ばかり
椽の下にありしときゝし。初編に
白熊の事を
載たるゆゑ、
白烏もまたこゝに
記しぬ。
文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の
在、
余川村の農人太左エ門の
軒端に、両頭の蛇いでたるを
捕ふ。長さ一尺にたらず、その
頭二ツ
並びて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、
餌もいれおきしに、二三日すぎていつ
逃ゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。
小千谷より西一里に
芳谷村といふあり、こゝに
郡殿の
池とて四方二三町斗の池ありて
浮嶋十三あり。晴天風なき時日
出れば十三の小嶋おの/\
離散して池中に遊ぶが如し、日入れば池の
正中にあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の
奇異あれども
文多ければしるさず。羽州の浮嶋はものにも
記して人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。
小千谷の内農人
某の地面に小社あり石打明神といふ。昔より
祀る
処也、その
縁起は
聞もらせり。
贅肉あるもの此神をいのり、小石をもつていぼを
撫、社の
椽の下の
※子[#「竹かんむり/隔」、U+25D29、300-3]の内へ
投いれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の
円めたるごとく
円石となるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の
円石満みちたり。
○百樹曰、
余も小千谷に遊びし時、此石を
視て
話柄に一ツ
持帰んとせしに、所の人のいふやう、此神
是石を
惜み玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら/\
視たるに数万の石人の
磨なしたる玉のごとし。
凡神妙は
肉知を以て
測べからず。
百樹曰、
小千谷の
因にいふ、
余小千谷の
岩居が家に旅宿せし時
(天保七年八月)或日筆を
採に
倦、山水の
秋景を
観ばやとて
独歩いで、小千谷の前に流るゝ川に
臨岡にのぼり、用意したる
書をかく。
毛氈を
老樹の
下にしき
烟くゆらせつゝ
眺望ば、引舟は浪に
遡りてうごかざるが如く、
下る舟は
流に
順ふて
飛に
似たり。
行雁字をならべ
帰樵画をひらく。
群木は
少しく霜を
染て
紅々、
連山は
僅に雪を
載て
白々。
寒国の
秋景江戸の眼を
新になし、おもはず
一絶を
得などしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの/\
柴籠をせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。
余は山水に目を
奪はれたるに「火をかしなされ」とて
烟管さしよせたる
顔を見れば、
蓬髪素面にて
天質の
艶色花ともいふべく玉にも
比すべし。
百結の
鶉衣此
趙璧を
羅む。
余愕然し山水を
棄て此娘を視るに
一揖して
去り、
樹の
下の草に
坐してあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく
吹烟。
双無塩独の
西施と
語るは
蒹葭玉樹によるが如く、
皓歯燦爛としてわらふは
白芙蓉の水をいでゝ
微風に
揺がごとし。
嗟乎惜べし、かゝる
美人も
是辺鄙に
生れ、
昏庸頑夫[#「昏庸頑夫」の左に「バカナヤラウ」の注記]の妻となり、
巧妻常に
拙夫に
伴れて
眠り、
荊棘と
倶に
腐らん事
憐に
堪たり。
若江戸にいださば
朱門[#「朱門」の左に「オヤシキ」の注記]に
解語[#「解語」の左に「モノイフ」の注記]の花を
開、あるひは又
青楼[#「青楼」の左に「ヨシハラ」の注記]に
揺泉樹[#「揺泉樹」の左に「カネノナルキ」の注記]の
栄をなし、此
隣国出羽に
生れたる小野の小町が如く
美人の名をもなすべきに、此美人を此
僻地に
出すは
天公事を
解さゞるに似たりと
独歎息しつゝ
言んとししに、娘は
去来とてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。
目送て
顧、越後には
美人多しと人の
口実にいふもうべなり、是
無他なし、水によるゆゑなり。されば
織物の清白なる越後の
白縮に
勝れるはなし、ことさら此辺は
白縮を
産する所なり、以て其水の
至清なるをしるべし。
江河潔清なれば女に
佳麗多しと
謝肇
がいひしも
理なりとおもひつゝ
旅宿に
帰り、
云々の事にて
美人を
視たりと
岩居に語りければ、岩居いふやう、
渠は人の知る美女なり、
先生を他国の人と
眼解欺てたばこの火を
借たるならん、
可憎々々「
否々にくむべからず、
吾たばこの火を
借て美人にえん
(烟縁)をむすびし」と
戯言ければ、岩居
手を拍て大に笑ひ、先生
誤り、かれは
屠者の娘なりと
聞て
再び
愕然[#「愕然」の左に「ビツクリ」の注記]たり。
糞壌妖花を出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。
○
再按に、小野の小町は
羽州の
郡司小野の
良実の
女なり、
楊貴妃は
蜀州の
司戸元玉が
女なり、和漢
倶に北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に
佳人ありといひしも、北は
陰位なれば女に
美麗を出すにやあらん。二代目の高尾は
(万治)野州に
生れ、初代の
薄雲は信州に
産して、ともに
北廓に名をなせり。されば越後に
件の美人を見しも北国なればなるべし。
文政八年乙酉十二月、
苅羽郡(越後)椎谷の
漁人(椎谷は堀侯の御封内なり)ある日椎谷の海上に
漁して一木の流れ
漂ふを見て薪にせばやとて
拾ひ取て家にかへり、水を
乾さんとて
庇に立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ
熟視に、
蛾眉山下※[#「木/喬」、302-12]といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、
漁人には
薪を
与へて
乞ひうけけるとぞ。さて
余が
旧友観励上人は
(椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺)強学の
聞えあり、
甞て
好事の
癖あるを以てかの
橋柱の文字を
双鈎刊刻[#「双鈎刊刻」の左に「カゴジホル」の注記]して
同好におくり且
橋柱に
題する
吟詠をこひ、是も又
梓にして世に
布んとせられしが、
故ありていまだ
不果。かの橋柱は
後に
御領主の
御蔵となりしとぞ。
椎谷は
余が
同国なれども幾里を
隔たれば其
真物を
不見、今に
遺憾とす。
姑伝写の
図を以てこゝに
載つ。
(○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。)百樹曰、
了阿上人が和哥の友相場氏は
椎谷侯の
殿人ときゝて、上人の
紹介をもつて相場氏に対面して
件の
橋柱の事を
尋ねしに、
余に
謂しは、橋柱にはあらず
標準なりとて、俗に
書翰
といふ物に作りたるを出して
其図を示さる。余が友の画人
千春子が
真物を
傍におきて
縮図なし、
蛾眉山下※[#「木/喬」、303-8]といふ五字は相場氏みづから心を
深めてうつされしとぞ。
(下に図するこれなり)彫たる人の
頭を左りに
顧せ、その
下に五字を
彫つけしは、是より左り
蛾眉山下橋なりと人にをしゆる
標準なりとかたられき。是にて
義理渙然[#「渙然」の左に「ワカル」の注記]たり。今俗に
指をゑがきてそのしたにをしゆる所を
記したるを
間みる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。
○さて此
標準を
得たる
実事をきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風
烈しく
礒へ物をうちよする、
椎谷はたきものにとぼしき所ゆゑ
貧民拾ひ取りて
薪となす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、
例の如く薪を拾ひに出しに、物ありて
柱のごとく浪に
漂ふをみれば人の
頭とみゆる物にて甚
兇悪なり。
貧民等惧れてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの
竟に
礒にうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども
読者なく、是は何ものならんとさま/″\
評し
居たるをりしも、こゝに
近き
西禅院の
童僧通りかゝり、
唐詩選にておぼえたる
蛾眉山の文字を
読、これは
唐土の物なりときゝて
貧民拾ひて持かへり、さすがに
唐土の物ときゝて
薪にもせざりしに、此事
閧伝[#「閧伝」の左に「マチノウハサ」の注記]して
竟に
主君の
蔵となりしと
語られき。
縮図左のごとし。丈一丈余、周二尺五寸余。木質弁名べからず。○
按るに、蛾眉山は唐土の北に
在る
峻岳にて、富士にもくらぶべき高山なり。
絶頂の
峯双立て八字をなすゆゑ、
蛾眉山といふなり。此山の
標準、
日本の北海へながれきたりたる其
水路を
詳究[#「詳究」の左に「ツマヒラカニキハムル」の注記]せんとて「
唐土歴代州郡沿革地図」に
拠て
清国の
道程図中を
[#「
」の左に「アラタムル」の注記]するに、蛾眉山は
清朝の
都を
距こと日本道四百里
許の北に在り、此山に遠からずして
一条の大河東に
流。蛾眉山の
麓の河々皆此大河に入る。此大河
瀘州を流れ三
峡のふもとを
過ぎ、
江漢に
至り
荊州に入り、○
洞庭湖○
赤壁○
潯陽江○
楊子江の四大
江に
通じて
江南を
流湎りて東海に入る。
是水路日本道五百里ばかりなり。さて
件の
標準洪水にてや水に入りけん、○
洞庭○
赤壁○
潯陽○
楊子の海の如き四
大江を
蕩漾周流[#「蕩漾周流」の左に「ナガレシダイメグリナガレ」の注記]して
朽沈ず。
滔々たる
水路五百
余里を
流れて東海に入り、
巨濤[#「巨濤」の左に「オホナミ」の注記]に千
倒し風波に万
顛すれども
断折[#「断折」の左に「ヲレル」の注記]砕粉[#「砕粉」の左に「クダケル」の注記]せず、
直身[#「直身」の左に「ソノミ」の注記]挺然[#「挺然」の左に「ソノマヽ」の注記]として我国の
洋中に
漂ひ、北海の地方に
近より、
椎谷の
貧民に
拾れて
始て水を
辞れ、
既に一
燼の薪となるべきを、幸に
字を
識者に
遇ひて
死灰をのがれ、
韻客の
為に
題詠の
美言をうけたるのみならず、
竟には
椎谷侯の
愛を
奉じて身を
宝庫に安んじ、
万古不朽の
洪福を
保つ

奇妙
不思議の天幸なれば、
実に
稀世の
珍物なり。
按ずるに、
蛾蛾同韻(五何反)なれば
相通じて
往々書見す。
橋を
※[#「木/喬」、305-9]に作る
頗る
異体なり。
依て
明人黄元立が
字考正誤、
清人顧炎武が
亭林遺書中に
在る

金石文字記あるひは
碑文摘奇(藤花亭十種之一)あるひは
楊霖竹菴が

古今
釈疑中の
字体の
部など
通巻一
遍捜索[#「捜索」の左に「サガス」の注記]したれども
※[#「木/喬」、305-11]の字なし。
蛾眉山のある
蜀の
地は都を
去る事
遠き
僻境なり。
推量するに、
田舎の
標準なれば
学者の
書しにもあるべからず、
俗子の筆なるべし。されば
我今の
俗竹を※
[#「にんべん+竹のつくり」、305-13]と

に
誤の
類か、
猶博識の
説を
俟つ。
苗場山は越後第一の高山なり、
(魚沼郡にあり)登り二里といふ。
絶頂に
天然の
苗田あり、依て昔より山の名に
呼なり。
峻岳の
巓に苗田ある事甚奇なり。
余其奇跡を尋んとおもふ事
年ありしに、文化八年七月
偶おもひたちて友人四人
(●嘯斎●
斎●扇舎●物九斎)従僕等に食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ
俣といふ
駅に宿り、次日暁を
侵して此山の神職にいたり、おの/\
祓をなし案内者を
傭ふ。案内は白衣に
幣を
捧げて先にすゝむ。
清津川を
渉りやがて
麓にいたれり。
巉道を
踏嶮路に登るに、
掬樹森列して日を
遮り、
山篠生ひ
茂りて
径を
塞ぐ。
枯たる老樹折れて
路に
横りたるを
踰るは臥竜を踏がごとし。
一条の
渓河を
渉り猶登る事半里
許、右に折れてすゝみ左りに
曲りてのぼる。
奇木怪石千態万
状筆を以ていひがたし。
已に
半途にいたれば鳥の声をもきかず、
殆東西を
弁じがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、
山篠をおしわけ
幣をさゝげてみちを
示す。
藤蔓笠にまとひ、
※竹[#「林/取」、U+6A37、308-11]身を
隠し、石高くして
径狭く、一歩も
平坦のみちをふまず。やう/\午すぐる頃山の半にいたり、
僅の平地を
得て用意したる
臥座を
木蔭にしきて食をなし、
暫く
憇てまたのぼり/\て
神楽岡といふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが
稍は雪霜にや
枯されけん、
低き森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御
花圃といふ所、山桜
盛にひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の
植やしなひしに
似たり。
名をしらざる
異草もあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき/\て
桟※[#「齒+彦」、U+9F74、309-3]なる道にあたり、岩にとりつき竹の根を
力草とし、一歩に一声を
発しつゝ気を張り
汗をながし、千
辛万
苦しのぼりつくして馬の
背といふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所
僅に二三尺、
一脚をあやまつ時は身を
粉砕になすべし。おの/\
忙怕あゆみて
竟に
絶頂にいたりつきぬ。

○
偖同行十二人、まづ草に
坐して
憇ふ時、
已に
下
なり。はじめ案内者のいひしは登り二里の
険道なれば、一日に
往来することあたはず、
絶頂に小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の
枝、山さゝ、
枯草など取りあつめ、ふぢかつらにて
匍匐入るばかりに作りたるは、
野非人のをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな/\笑ふ。
僕どもは
枯枝をひろひ石をあつめて
仮に

をなし、もたせたる食物を
調ぜんとし、あるひは水をたづねて茶を
烹れば、上戸は酒の
燗をいそぐもをかし。さて
眺望ば越後はさら也、
浅間の
烟をはじめ、信濃の連山みな
眼下に
波濤す。
千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き
盆石をおく。能登の
洲崎は
蛾眉をなし、越前の遠山は
青黛をのこせり。こゝに
眼を
拭て
扶桑第一の富士を
視いだせり、そのさま雪の
一握りを
置が如し。人々手を
拍、奇なりと
呼び妙なりと
称讃す。千
勝万
景応接するに
遑あらず。
雲脚下に
起るかとみれば、
忽晴て
日光眼を
射る、身は天外に在が如し。
是絶頂は
周一里といふ。
莽々[#「莽々」の左に「ノヒロキ」の注記]たる
平蕪高低の所を
不見、山の名によぶ
苗場といふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の
植たるやうに苗に
似たる草
生ひたり、
苗代を
半とりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に
蛙
螽もありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも
田水枯ずとぞ。二里の
巓に此
奇跡を
観ること甚
不思議の
山なり。案内者いはく、御
花圃より
(まへにいひたる所)別に
径ありて
竜岩窟といふ所あり、
窟の内に
一条の清水ながれそのほとりに古銭多く、
鰐口二ツ掛りありて神を
祀る。むかしより
如斯といひつたふ。このみち今は草木に
塞れてもとめがたしといへり。
絶頂にも石に
刻して
苗場大権現とあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には
挑燈をさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を
酌。六日の月
皎々とてらして
空もちかきやうにて、
桂の
枝もをるべきこゝちしつ。人々
詩を
賦し哥をよみ、俳句の
吟興もありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に
烈しく、用意の綿入にもしのぎかねて
終夜焼火にあたりて
夢もむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御
来迎を
拝たまへと案内がいふにまかせ、
拝所にいたり日の
昇を
拝し、したくとゝのへて山をくだれり。
(別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。)○
百樹曰、
余越遊したる時、
牧之老人に此山の地勢を委しくきゝ
真景の
図をも
視たるに、
巓の
平坦なる
苗場の
奇異、
竜岩窟の
古跡など水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、
絶頂を
平坦になし、馬の
背の
天険をたのみてこゝに住居し
耕作をもしたるが、
亡びてのち其
魂こゝにとゞまりて
苗場の
奇異をもなすにやと
思へり。
国史を
捜究[#「捜究」の左に「サガシキハム」の注記]せば其
徴する
端をも
得べくや、
博達の
説を
聞ん。
我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは
雨降る事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の
半にいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より
積雪しだい/\に
消るなり。されども
家居などは
乾に
(北東の間)あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は
里地よりもきゆる

おそけれども、
春陽の
天然につれて
雪解に水
増て川々に
水難の
患ある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の
住あたりの雪は
自然にきゆるをまたずして
家毎に雪を
取捨るに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは
鋸にて雪を
挽割てすてもし、又は
日向の所へ
材木のごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。
(少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆ)そも/\去年冬のはじめより雪のふらざる日も
空曇りて
快く
晴たるそらを見るは
稀にて、雪に
家居を
降埋められ手もとさへいとくらし。是に
生れ是に
慣て、年々の

なれども雪にこもりをるはおのづから
朦然として心たのしからず。しかるに春の半にいたり
雪囲を
取除れば、日光明々としてはじめて
人間世界へいでたるこゝちぞせらる。
一年夏の頃、江戸より来りたる
行脚の
俳人を
停おきしに、
謂やう、此国の所々にいたり見るに
富家の
庭には手をつくしたるもあれど、
垣はいづれも
粗略にて
仮初に作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。
答ていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし
崩るゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は
馬足もたゝず
耕作もせざれば、馬は
空く
厩にあそばせおく事
凡百日あまり也。
(我国に牛のみつかふ所もあり)雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに
嘶き
路にいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて
厩をひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、
胴縄ばかりの
馬に
跨り雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの
飼やうによりて
痩ると
肥るありて、やせたるは馬
主の
貧さもしるゝものなり。馬のみにあらず、
童どもゝ雪のはじめより
外遊する事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう/\
冬履稿沓をすてゝ
草履せつたになり、
凧などにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に
世外の花を
視るなり。

天保七年丙申の春、我が
郡中小千谷の
縮商人
芳沢屋東五郎
俳号を二松といふもの、商ひの
為西国にいたり
或城下に
逗留の間、旅宿の
主がはなしに、此近在の
農人おのれが田地のうちに
病鶴ありて
死にいたらんとするを見つけ、
貯たる
人参にて鶴の病を
養しに、日あらず
病癒て飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの
農人が家の
庭ちかく
舞くだり、稲二
茎を
落し一
声づゝ
鳴て飛さりけり。
主人拾ひとりて見るにその
丈六尺にあまり、
穂も是につれて長く、
穂の一
枝に稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の
病鶴恩に
報んため
異国より
咥えきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて
領主に
奉りけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ
主にたまはり、よくやしなへとおほせによりて
苗のころにいたり心をつくして
植つけけるに、鶴があたへしにかはらずよく
生ひいでければ、
国の
守へも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも
尋きけば、鶴を
助けたる人は東五郎が
縮を売たる家なれば、すぐさまその家にいたり
猶委く聞て、さて国の
土産にせん、
穀を一二粒
賜はれかしと
乞ければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに
生ひなんとて、もみ五六十粒
与へたるを国へ持かへりて事の
来由を申て
邦君に奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御
褒賞など在しと小千谷の人その
頃物がたれり。おもふに
余がごとき
賤農もかゝるめでたき
御代に生れたればこそ
安居してかゝる筆も
採なれ。されば千年の
昌平をいのりて鶴の
話に筆をとゞめつ。猶雪の
奇談他事の
珎説こゝに
漏したるも
最多ければ、
生産の
暇ふたゝび
編を
嗣べし。
通巻画図
京水
岩瀬百鶴 筆 
北越雪譜二編 四巻大尾