私はいつも講演のあとで覚える、もっと話し続けたいような、また一役済ましてほっとしたような||緊張の脱け切らぬ気持で人々に混って行った。青く
「近在で
有志の一人は説明した。どこからかそら豆を
緊張の気分もやっと
窓の中の写真は、都会風を模した、土地の上流階級の夫人、
だが、私が異様に思ったのは、それらに囲まれて中央に貼ってある少年の大きな写真である。写真それ自体がかなり旧式のものを更に年ふるしたせいもあるだろうが、それにしても少年の大ようで豊かでそして何か異様なものが写真面に表われているのに心がうたれた。
少年は好い絹ものらしい着物を無造作に着て、眼鼻立ちの
私が思わず
「それは、東北地方では有名だった四郎馬鹿の写真です」
「白痴なのですか、これが」私は訊ね返した。
「白痴ですが、普通の馬鹿とは大分変って居りまして、みんなに、とても大事にされました」
そして、これも遠来の講演者に対する馳走とでも思ったように四郎馬鹿に
汽車の係員たちまでがこの白痴の少年には好意を寄せて無賃で乗車さす任意の扱いが出来たというから東北の鉄道も私設時代の明治四十年以前であろう。この町に
少年は、見当り次第の商家の前に来て、その辺にある
始めは何事か判らなかった店の者は余計なことをすると思って、少年の所作を途中で妨げたり、店先に立つ段になると叱って追い放ったりした。少年は情ない顔をして逃げ去る。ときどきは心ない下男に打たれて泣き
けれども少年はしばらくすると機嫌を取直す。というよりも
「性質のいい乞食なのだ。一飯の恵みに
そう受取るようになった店々のものは、掃除をしたあとで立つ少年を台所の片隅に導いて食事をさせた。少年は何故これが早く判らなかったのだろうという顔つきをして、嬉しそうに
少年には卑屈の態度は少しも見えなかった。
食事の態度は行儀よく慎ましかった。少年はたっぷり食べた。「お雑作でがんした」礼もちゃんと言った。店の忙しいときや、面倒なときに、家のものは飯を握り飯にしたり、または紙に載せて店先から与えようとした。すると少年は苦痛な顔をして受取りもせず、
少年は銭も受取らなかった。銭は貰ったこともあるが大概忘れて紛失するので
「あれは、どこか素性のいい家に生れた白痴なのだ」
「そう言えば、上品だ」
町の人は、少年自身が僅に記憶している四郎という名を聞き取って四郎馬鹿と言ったが、四郎馬鹿さんと愛称をもって呼ぶようになった。
「四郎馬鹿さんに見舞われた店はどうも繁昌するようだ」
東北の町々にこういう風評が立った。だいぶ以前から四郎は、最初出現したS||の城下町にも飽いて、五六里距った新興の市へ遊びに行った。誰か物好きに荷馬車にでも乗せて連れて行ったらしい。それから少年は町から町へ漂泊することを覚えた。汽車にも乗せた人があるらしい。奥羽、北国の町にも彼の放浪の範囲は拡張された。それらの町々でも少年の所作に変りはなかった。店先の掃除をして一飯の雑作に有りついた。誤解や面倒がる関門を乗り越して四郎の明澄性はそれらの町々の人の心をも捉えた。
「四郎馬鹿さんに見舞われた店は、どうも繁昌するようだ」
それには多分に迷信性と流行性があったかも知れない。しかし少年の一点の
町々の人は少年を歓迎し始めた。少年の姿を見ると目出度いと言って急いで羽織
「あの白痴を呼んで来るのは町の景気引立策にもいいですなあ」
北国寄りのF||町の表通りに、さまで大きくはないが
お蘭は、世の中の雑音には極めて
「もし、あたしがお嫁に行くとき、四郎さはどうする」
四郎は
「おらも行くだ、一緒に」
お蘭は転げるように笑った。
「そんなこと出来ないわ。人を連れて嫁に行くなんて」
四郎には判らなかった。
「どうしてだ」
「お嫁に行くということは私が向うの人のものになってしまうのだから、その人が承知して呉れないじゃ、一緒に行けないのよ」
「お蘭さが誰かのものになるというだかね」
「そうよ」
「ふーむ」
白痴の心にもお蘭が自分から失われ、自分は全く孤立無援で世の中に立つ侘しさがひしひしと感じられた。現われて来る眼に見えぬ敵を想像して
「お蘭さ、嫁に行っちゃいけねえ」
「そんなこと無理よ」
四郎は悲しい顔をして考え込んでいたが、
「それええだ、おらお蘭さ嫁に貰うべえ」
お蘭は呆れた。けれどもこう答えた。
「四郎さが私をお嫁に貰って呉れるの。こりゃ偉いわねえ」
「おら貰うべえ」四郎は得意な顔つきをした。
「けれども四郎さ。あんたが私をお嫁に貰うには、もっと立派な賢い人にならないじゃ||ねえ、判って」
お蘭に取って、この言葉は一時
夏はさ中にも近づいたが山の傾斜にさしかかって建て連らねられたF||町は南の山から風が北海に吹き抜けるので熱気の割合に涼しかった。果樹園や畑の見えるだらだら下りの裾野平の果に、小唄で名高いY||山の山裾が見え、夏霞がうっすり籠めている中に浪がきらりきらり光った。刈り取って乾してある熟麦の匂いがした。
それらが縁側から見える中座敷でお蘭は
四郎はお蘭の前に来ると、お蘭が何とか言って呉れるまでぷすっとして黙って立っているのがいつもの癖であった。それがこの白痴に取ってせいぜい甘えた態度だった。それが面白いのでお蘭はなるたけ気がつかぬ振りをしてうつ向いている。
だが、やがて振仰いだときにお蘭はびっくりして叫んだ。
「何ですねえ、四郎さんは。そんなおかしな
四郎は赤い羽織に大黒さまのような
「おら、嫌だと言ったんだけれど、みんなが無理に着せるんだよ」
四郎はお蘭の怒りに
「すぐお脱ぎなさい」
お蘭は手伝って四郎からそのおかしなものを取り去ってやった。
「白痴だと思ってこの子を
すると四郎は、
「白痴だと思って||この子を||玩弄物にするにも程がある」
とおずおず口移しに真似て言った。不断、お蘭のいうことはすべて賢い言葉だと思って、口移しに真似て見るのが四郎の癖であった。日頃はそれも愛嬌に思えたが、今日はお蘭には悲しかった。お蘭は冷水で絞った手拭を持って来てやったり、有り合せの
四郎は怯えも取れて、いつものようにお蘭の側に坐ってどこかで貰って来た絵本を拡げてお蘭の説明を訊くのであった。お蘭は仕事をしながら説明をしてやる。
「これなんだね」
「鉄道馬車」
「これなんだね」
「お勤め人、洋服を着て
四郎はその絵姿をつくづく眺めていたが、やがて言った。
「おら、もうじき洋服を着るだよ」
お蘭は、これがただの四郎の空想だと思った。
「それはいいわね」
四郎は得意になった。
「おら唄うたって、踊りおどるだよ」
お蘭は少々
「どこでよ、どうしてよ」
「そして、
お蘭はふと、近頃人の噂では四郎の人気につけ込んで興行師がこの白痴の少年に目をつけ出したということを思い出した。これは只事ではない。
「駄目よ、駄目よ、四郎さん。そんなことしちゃ」
けれども四郎はいつもの通りにはお蘭のいうことを聴き入れなかった。
「よっぽど悧巧にならなけりゃ、おらに、お蘭さ嫁に来めえ」
そういうと四郎はふいと立って出て行ってしまった。
洋服を着て派手な舞台に立つことと嫁を貰う資格とを無理に結びつけて誰かがこの白痴の少年の心に深々と染み込ませたものらしい。
四郎がお蘭のところへ来なくなって、この白痴の少年が金モールの服をつけ曲馬の間に舞台に現れて、唄をうたい踊りを踊ったのち、
冬が来て春が来た。四郎の人気はだんだん落ちて、この頃では、
また幾つかの春秋が過ぎた。四郎の噂は聞かれなくなった。
父親は死んで、お蘭は家を背負わなければならなかった。生前に父親も親戚も
北海の浪の
いつか婚期を失ってしまったお蘭は自分自身を諦め切っている気持に伴って、
私はこの話を昼も
「お蘭さんは、まだ生きている筈でございます。××蘭子と言うのです。何なら尋ねてご覧遊ばせ。F||町はちょうど講演に御廻りになる町でもございましょう」
私が尋ねるまでもなく私がF||町へ入ると、停車場へ出迎えた婦人連の中にお蘭を見出した。白髪の上品な老婦人で耳もかなり遠いらしく腰も曲っている。だが、もっと悲劇的な憂愁を湛えた人柄を想像していたのに、極めて快活で人には
私は
私がたずねようとした四郎という白痴の少年の名だけを聞き取った彼女は直ぐこう言った。
「一時は四郎も死んだことにして思い諦めましたが、なにしろ自分より六つ七つ若いのですからまだ生きているかも知れません。もし四郎が帰って来たら
だから一時
私は、不思議な人情を