がちゃん!
「おや、またやっちゃった」
下女のお松が恨めしそうに、洗い
「どうしてわたしはこう運が悪いのだろう、皿でも茶碗でもわたしが触りさえすれば欠けてしまう。今朝からもう五ツも壊しちゃった。とてもこれでは
「お松さんまた出来たね」
と水口からのぞいた者がある。
色白の
「ああびっくりした」
お松は眼をむいて、
「気味が悪いよ又平さんは、わたしが茶碗を欠きさえすればきっと
「鼻じゃない耳さ、えっへへへへ」
又平はだらしのない声で笑った。
「武士は
「そんな話は聞いたこともないよ」
「ところで今度は何だね」
「この茶碗さ」
「えっへへへ有難え、
又平は欠け茶碗を押し
「変だよ、全く変だよ又平さんは。いったいそんなに欠け皿や欠け茶碗を持って行って何にするのさ」
「これがおいらの道楽さ。欠けっ振りのいい皿や茶碗を集めて、じっとこう眺めている気持は何とも言えねえ味なんだ。どうかこれからもせっせと欠いておくんなさい」
「馬鹿におしでないよ」
お松はぷんぷん怒っている。又平は愛想笑いをしながら立去った、||この有様をさっきから、
「お松||」
と声をかけた。
「あ、まあお嬢さま」
「そんなに驚かなくてもいいわ。いまおまえ又平と欠け茶碗がどうかしたとか話していたようだけれど、あれは何のことなの?」
「はいお嬢さま、あの又平はずいぶんおかしな人で、わたしが粗相をして欠いたお皿やお茶碗を集めているのでございます」
「何にするんですって······?」
「道楽だと申しております。欠けっ振りのいい皿や茶碗を並べて、じっと眺めていると
「お黙りなさい」
椙江はきつい調子で、
「又平は下郎でも男です。女のおまえがそんな悪口を言ってはなりません」
「はい、すみません」
「それから、こんなことは誰にもおしゃべりをするんではありませんよ」
そうたしなめておいて椙江は去った。
ここは
椙江は八重樫主水の一人娘で、年ようやく十九歳、才智に秀でているうえ、城下町で評判の美しい
「||道楽······本当に道楽かしら」
椙江は自分の居間へ戻ろうとして広縁まで来たが、ふと小首を傾げて
「欠け茶碗、欠け皿、そんな物を集めて眺める道楽なんて、話に聞いたこともない。||みんなは半化けなどと言っているが、どうもあの又平はただの下郎とは······」
と呟いていると、庭の方でどっと笑い
横庭のところで、又平は四、五人の内弟子につかまっていた。みんな
「やい又平、貴様はこの城下で美しい娘が何人いるか知っているか」
「えっへへへへ一人は知っています」
「誰だ、どこの娘だ」
「こちらのお嬢さまでさあね」
門弟たちはどっと笑った。
「馬鹿でも椙江さまの美しいのは分かるとみえるな、||どうだ又平、貴様お嬢さまの婿君になる気はないか」
「でも······身分が違うから||」
「わっはっはっははは」
またしてもみんなは腹を抱えて笑う。
「こいつめ、身分が違うなどと本気になっているぞ。もし身分が違わなかったらどうする」
「違わなかったら······まあ止しましょう」
「どうして止すんだ」
「言うとまた皆さんが笑うから」
「皆様は何をしています」
と声をかけた。一同はびっくりして、
「や、これは、お嬢さま」
「大勢で下郎を
「と、とんでもない。ほんの座興で、決して弄り物などに致した訳ではございません。どうか御勘弁を」
門弟たちは首をすくめて逃げだした。椙江は苦笑しながら見送っていたが、
「又平||」
と振返って、
「おまえ、門人衆のつまらぬ冗談にかかわり合ってはいけません」
「へい」
「あの人たちはおまえをからかっているのです。何を言っても知らぬ顔をしておいで。分かりましたね」
「へい有難うございます」
又平はぺこりとお辞儀をしたが、
「けれどお嬢さま、本当のところを申しますと、からかっていたのはわたしの方でございますよ。えっへっへへへへ」
「何ですって||?」
しかし又平はさっさと立去って行った。椙江は
「それとも、何か
椙江はそっと呟いた。
又平がこの家へ奉公に来たのは一年ほど前のことである。人入れ業「
「でも、そうとすると、何のために馬鹿の真似をする必要があるだろう」
結局、椙江には分からなかった。
それからさらに十日ほどたったある夜のことである。ちょうど秋の最中で、十七夜の月がすばらしく
「静かだこと······」
ほっと呟いた時、椙江は||どこか近くで忍びやかに気合をかける鋭い声を聞いた。父はもう
「||えィ······」
と、骨へとおるような気合。
「門人衆の気合ではない」
さすがに八重樫主水の娘、自分で稽古こそしないが、気合に
「||あ、又平」
椙江は思わず低く呟いた。さよう、木剣を振りかざしているのは下郎又平である。そして
「||えィ······」
紙燭の光をきって木剣が
「まあ······お見事」
思わずあげた
「だ、誰だ」
と振返った又平、そこに椙江の姿をみつけると仰天したらしい。慌てて木剣を隠しながらぺこりとお辞儀をした。
「お見事でした」
椙江は近寄って言った。
「木剣の一撃で大皿を、まるでお豆腐のようにお切りなすった秘術||あれこそ古中条流『忍び太刀』の
「な、何と······」
「下郎に姿こそやつしても、まことは名ある御方とお察し申しました。仔細あれば他言は致しませぬ。どうぞお打明け下さりませ」
「えへへへ、どうも、えへへへへへ」
又平はだらしなく笑って頭を
「どうも、そんなにおっしゃられると面目がございません。名ある御方にも何にも、下郎又平は下郎又平で、へへへへどうか」
「いえ、お隠しなされても駄目です。百人に余る門人衆のうち、一人としてまだ伝授された者のない『忍び太刀』の秘手、そうやすやすと会得できるはずがござりませぬ」
「いや驚いた、これは驚いた、||すると、なんでございますか、いまの皿割りが、古中条流の大事な術に似ているとおっしゃるのでございますか。へえ······こいつは
又平は急に胸を反らして、
「それではわたしはもう、大先生と同じ腕前になった訳ですな。さあ大変だ。そうだとするとこんな下郎などはしていられないぞ」
「||又平」
「いやそれは冗談ですが、実はこうなのですお嬢さま、わたしも八重樫道場の下郎とあれば、木剣の持ちようぐらい知らなくては恥だと思いまして、毎日あの道場の
「それでは、どうしても本当のことを打明けては下さらないのですか」
「打明けると言えば、いま申し上げただけでぎりぎり結着、これ以上は逆さに振って絞っても出る物はございません。どうか内証にお願い致します。でないと本当に困りますので、えへへへへ」
突拍子もなく笑いだす馬鹿らしさ。椙江はじっと相手の顔をみつめていたが、やがて
「お嬢さま、もし||お嬢さま」
又平は驚いて呼んだが、
「||へっ」
と首をすくめ、「何が御機嫌に障ったのだろ、何か悪いことでも言ったかな」
困ったように、椙江の後ろ姿を見送っていたが、これもやがて紙燭を消して自分の小屋の方へ去って行った。
椙江は「下郎に身をやつしているが、本当は名ある武士に違いない」と言った。しかし又平の様子はどこまでも、「半化け」で、自分の口から言った通り、下郎の猿真似としか思えぬ節が多い、||この男、果して下郎か? それとも名ある武士のやつしであろうか?······この謎は間もなく解ける時が来たのである。
それから四、五日経った||ある日、八重樫道場には門弟中の腕利きで、三羽烏と呼ばれる
上段に
「いずれも揃ったな」
と一座を見廻して、静かに
「
五人の高弟は思わず
「承知の通り儂には娘が一人しかない。そこで、ただ今からここに集まった者五名で勝抜き試合をしたうえ、最後に勝った者へ古中条流の秘伝、忍び太刀、浮き太刀、飛電、
「||ははっ」
五名は平伏して、
「何で異存がござりましょう。仰せの趣有難くお受け致しまする」
「いずれも同意じゃな」
「ははっ」
主水は微笑しながら
「さらば、早速ながら勝抜き試合を致す。組合せはこれに
「
勝抜けば古中条流の極意秘伝を授けられたうえ、姫路城下でも何人という美しい椙江をめとり、八重樫道場の跡目相続ができるというのだから、五人の喜びと意気は燃上がった。||身支度も
「試合の前に一言申し聞ける」
主水はかたちを正して言った、「この度の勝負、勝つも負けるも必ず遺恨なきよう。またいままでは同輩ながら、勝抜いた者には今日より師として仕えること、きっと申し付けたぞ||さらば、試合検分しよう」
一同は左右に座をひらく、まず最初のひと組、師範代岡部五太夫と黒板権六の両名が進み出た。
試合は
さていよいよ最後の勝負である。四半刻ばかり休んで息を入れ、いざ立合おうとした時、||不意に娘の椙江が、
「しばらく、しばらくお待ち下さいませ」
と父の前へ進み出た。
「なんだ椙江、ここは女子供の出る場所でないぞ、控えて居れ」
「お言葉ではござりますが、この勝負はわたくしにとっても生涯の大事お怒りを承知でお願いがござります」
「なるほど、勝抜いた者をそなたの婿に定める勝負、
「恐れながら、この試合へ、下郎又平をお差加え下さりますよう」
意外な一言に、並いる面々は
「なに、下郎を加えよとは?」
「
娘ながらいかんと言えば覚悟がありそうな、思い詰めた
「聞かれる通りだ」
と門弟たちの方へ振返った。「娘の願い通り取計らってやろうと思うが、一同の意中はどうじゃ?」
「はっ、先生の
妙なことになって来たぞとは思ったが、なにしろ相手は下郎、しかも日ごろから自分たちが「半化け」と
「
と椙江は急ぎ足に去って行ったが、||待つほどもなく又平を
「ど、どういうわけでございますか、何か悪いことでも致したなら、御勘弁下さい、どうかひらに御勘弁を」
「いや何も謝ることはない」
伊丹兵右衛門が冷笑して言った。
「お嬢さまのお望みで、その方と拙者共と試合をするのだ、さあ立て」
「と、とんでもない、そんな」
「ええ面倒だ。誰か道具を着けてやれ」
兵右衛門の言葉に、二人ばかり立って来て無理矢理道具を着けさせてしまった。
「どうかお助け下さい、だ、駄目だ」
と悲鳴をあげるのへ、兵右衛門が竹刀を構えながら大喝一声、
「そら行くぞ、えィーッ」
だ! と踏込んだ。
「助けてえッ」
悲鳴と共に右へ跳ぶ又平、つけ入った兵右衛門、一撃のもとにのしてしまおうと、胴を望んで猛然と打込んだ。
鋭い横胴、危うし! と見る刹那、又平の体は
「や、えいー

踏込み踏込み打ってかかる。
「駄目だ、勘弁、助けて、うわあーッ」
又平は泣声をあげながら逃げ
「参った、参った」
と両手を振りながら跳び退いた。||いや骨が折れたのなんの、こんな馬鹿げた勝負があるものではない。兵右衛門ぐっしょり汗をかいている。||とその時、上段に
「軍十郎、貴公お立合いなさい」
と言った。
「は?
「又平と勝負じゃ、早く」
変だな、負けた奴と立合えとは訳が分からぬ、軍十郎は心中いささか不平に思ったが、||よしそれなら足の一本も叩き折ってくれようと、
「先生の仰せじゃ、又平来い」
「そ、そ、そんな馬鹿な、わたしは負けましたので、こ、この上やったら殺されます。どうか御勘弁」
「先生の御意じゃ、竹刀を持て」
ぐゎんと
「そら、いえーッ!」
た! と
「あっ

又平が首をすくめて避ける。がらがらっ、竹刀が鳴ったと見ると、踏みかわした軍十郎、猛然と体当りをくれた、刹那、
「お助け······」
叫んで又平が体を
「うぬ、もう
と
「かーッ」
と打込む一瞬。
「ひやあー、助けてくれ」
と右へ躱した又平、第二第三の猛襲を、鼠のように逃げ廻っていたが、やがて竹刀を投出すと、手を合わせて、
「参った、参った、命ばかりはお助け、この通りでございます」
と泣声で叫びながら道場を逃出してしまった。
「ば、馬鹿者め!」
軍十郎よほど怒ったらしい、流れる汗を押
「今日の試合これまで」
と言った。軍十郎と兵右衛門は驚いて、
「しかしまだ最後の勝負が残っております。勝ち残りました我ら二人の内いずれか、先生の跡目相続を定めて頂いたうえ······」
「分からぬ奴だな」
主水は
「下郎又平を相手の試合、両人とも己れの勝ちと思いおるか」
「は、その、まさに手前共の······」
「駄目だ、そんなことではまだ古中条流の極意伝授など思いもよらぬ。||よく見よ、勝ったはずのその方たちが、二人とも大汗をかいているのに、又平は汗どころか呼吸も変えてはいなかったぞ」
「し、しかしそれは、その」
「見苦しい、申すな。隠退しようと思ったが、この有様ではとても覚束ない。跡目相続のことは延期とする。いずれもなお両三年勉強するがよい、これまで!」
不興げに言い捨てると、主水は椙江を
いよいよ大望成就という瀬戸際で、事は意外な方へ発展した。まるで土俵際のうっちゃりである、||兵右衛門も軍十郎もすっかり当てが外れたし、ほかの三人も驚いた。否······驚いたというよりもいささか不服になってきた。
「どうも先生もお年のせいで少し
黒板権六がしばらくして言った、「あんな馬鹿下郎を引張り出して我々と立合わすというだけでさえ苦々しいのに、汗をかいたとかかかぬとか、つまらぬことを言って、||これはなんだぞ、気をつけぬと今に、八重樫の跡目をあの下郎に奪われるかも知れぬぞ」
「まさかそれほどまでに······」
と兵右衛門が言った時、軍十郎が急に声をひそめて、
「いや、権六の言葉も冗談だとは言い切れぬぞ、||というのはお嬢さまが下郎をひどく
何を考えたか、軍十郎の顔には無気味な殺気が
「よし、必ず行こう」
兵右衛門はじめみんなは固く
その夜と、いうよりもすでに明け近い八ツ半ごろ(午前三時)、のことだった。自分の小屋で眠っていた又平は、心へ徹る鋭い殺気を感じてがばと起上がった。
「||はてな······」
闇の中で耳を澄ますと、母屋の方に当たって乱れた足音と
「何かある」
と
「お嬢さま!」
と呼ぶ又平を見るなり、
「あ、又平、早く、父上が」
「お
椙江を押退けるようにして跳び込んだ又平、居間へ駆けつけると、
「
「や||?」
振返るのを見ると意外や、伊丹兵右衛門はじめ五人の高弟である。
「こ、これは?」
と驚く又平に、主水が油断なく身構えたまま言った。
「又平か。こやつら······
「奇怪な、||」
又平はさっと主水の横へ出る。とたんに黒板権六が、
「それっ、おのおの、やってしまえ」
「心得た!」
だっと一時に斬ってかかった。又平は権六の
「先生、こやつらは又平が引受けました。お嬢さまをお護り下さい」
と叫ぶ。振返って、「やいこいつら、子飼いの弟子の分際として非道無残な振舞い、一人も生かしてはおかぬぞ、来い

「下郎め、その口忘るなッ」
兵右衛門がさっと斬りつける。
「こっちだ、えいッ」

「きゃあ!」
のめって行って
「やい、伊丹に沼田、さっきはお世辞で負けたが、今度はお世辞ぬきだぞ。古中条流はこう使うのだ見ておけ、||えィッ」
叫ぶなり又平は
「あっ!」
「下郎

と叫んで踏込んだが、
「心得たッ」
又平が
「あっぱれ、見事じゃ、見事じゃ」
主水は思わず手を挙げて褒めた。又平はにっこり笑って木刀をおくと、近寄って来る主水の前へ平伏して、
「先生にはお怪我もなく祝着に存じます。早速この趣を届け出でまして」
「いや待たれい」
主水は静かに制して、「昼、道場においてわざと負けた手の内といい、またただ今の太刀筋、殊に沼田、伊丹を仕止めたは、正しく古中条流の秘伝、火竜、
「恐れ入りました」
又平はぴたりと
「今は何をか包みましょう、拙者は
そう言い終わると共に、又平||否、梅本又次郎はぐいと首を差しのべた。主水は黙って始終を聞いていたが、
「あああっぱれ」
と
「ではあの、お
「貴殿ほどの人に伝えらるれば古中条流も本望でござる。道場へおいでなされい。土産代りに流儀の秘伝
支度に立上がる主水の後ろ姿を、又次郎は感謝と
「さ、道場へおいで遊ばしませ」
と言う。又次郎はすっくと立って、
「お嬢さま、
とばかりに振返る。半化けと
それから三日後。本望を達して加賀国へと旅立つ又次郎に、一人の美しいつれがあった。いうまでもなくそれは椙江であった。