小説家大江蘭堂は、人形師の仕事部屋のことを書く必要に迫られた。ブリタニカや、アメリカナや、大百科辞典をひいて見たが、そういう具体的なことはわからなかった。
蘭堂は、いつも服をつくらせている
マネキン
「あなたさまは、あの恐ろしい怪奇小説をお書きになる大江蘭堂先生でございますか。エヘヘヘヘヘ、それでしたら、ちょうどおあつらえむきの老人の人形師がございますよ。名人ですがね、そのアトリエには、だれもはいったものがございません。秘密にしているのです。しかしね、先生、先生でしたら見せてくれますよ。
ひどくお愛想のいい店員であった。伴天連爺さんのアトリエは
「先生、先方はよろこんでおります。今晩七時ごろに手がすくから、その頃おたずねくだされば、お待ちすると云っております。先生にくれぐれもよろしくと申しました」
そこで、大江蘭堂は、その晩、経堂の伴天連爺さんを訪問することにした。
経堂の駅で電車をおりて、教えられた道を十丁ほど行くと、街角に大きな
とびらもない門をはいって行くと、草の中に古い木造の洋館が建っていた。
こちらの足音を聞きつけたのであろう。玄関のドアがひらいて、赤い光の中に小柄な老人のシルエットが浮き出した。赤い光はチロチロ動いていた。老人は
「大江蘭堂先生でしょうな? どうぞ、おはいり下さい。お待ちしておりました」
何かの鳥がさえずっているような、妙に若々しい声であった。
「わたしがバテレンじじいです。よくおいで下さった。さア、こちらへおはいりください」
手をとらんばかりにして、廊下のドアをひらき、書斎らしい洋間に
部屋にも電燈はなかった。爺さんはあたりの様子を見せるように、太い
書棚にえたいの知れぬ古本がならんでいた。壁には、レオナルド・ダ・ヴィンチの人体解剖図の大きな複製がベタベタ貼りつけてあった。村役場にあるような粗末な木机と木の
これはすばらしい。これはもう、そのまま怪談の材料になる。蘭堂はホクホクしていた。爺さんも蘭堂に会えたのが、ひどく
「よく来て下さった。なんでもお見せします。なんでもお話しします。じゃが、その前に一ぱい
そういって、本棚の古本のあいだに入れてあった、変な形の
「人形師の秘密がお知りになりたいのですな、小説にお書きになる?」
だんだん蝋燭の光が目に慣れて来た。爺さんは、六十五六歳に見えた。黒いダブダブの洋服を着て、
「マネキン人形は
「そういうのもあります。いろいろありますよ。しかし、わたしは、ショーウィンドウのマネキンなんか造りません。そんなものは、
「ありません。しかし、チュソー夫人のことは本を読んで知ってますよ。僕もあの蝋人形は好きですね。
「そうです、そうです。血が通っています。死体人形なら、
「で、あなたは、蝋人形を造っておられるのですか」
「そうです。今は蝋人形がおもです。医学校や博物館の生理模型ですよ。病気の模型が多いのです。だが、それはただ
伴天連爺さんは、なかなか物知りであった。ホフマンのナタニエル青年は、生きた娘よりも、人形のオリンピアに命がけの恋をしたのである。
「それでは、ジェローム・ケイ・ジェロームの『ダンス人形』をお読みになったことがありますか」
蘭堂はつい誘いこまれて、西洋小説の話をはじめた。すると爺さんはニコニコして、
「読みましたとも、あれはわたしの一ばん好きな小説の一つですよ。娘たちのダンスの相手として、いつまで踊っても疲れない鉄の男人形を造ってやる人形師の名人の話でしょう。わたしはああいう名人になりたくて、修業したのですよ。あの鉄の人形も、生きて動き出したのですね。一人の娘を抱いたまま、無限に踊りつづけたのですね。実にいい話だ。ああいう小説を読むと、人形師の
ジェロームの「ダンス人形」は訳が出ていないはずだから、この老人形師は外国語も読めるのであろう。あらためて書棚の古本を眺めると、英語でもフランス語でもドイツ語でもない背文字があった。蘭堂はなんだか気味がわるくなって来た。目の前の皺だらけの小さな老人が、奥底の知れない人物に感じられて来た。
「蝋人形はどうして造るのですか。やはり型にはめるのですか」
「
「実物からとは?」
「食堂のショーウィンドウに並んでいる蝋製の料理見本をごらんになったことがあるでしょう。あれは実物に
「じゃあ、人間の肌に石膏をぬるのですね」
「そうです。ごらんなさい。ここに見本がありますよ。ホラ、これがわたしの手です。実物と見くらべてごらんなさい」
やっぱり本棚の古本のあいだから、ひらいた人間の手を取り出して、机の上においた。手首のところから切りとった
「これは、わたしの手に石膏をぬって、女型をとったのです。全身をとるのも、りくつは同じですよ」
「では、ほんとうの人間からとった全身人形も造ったことがあるのですね」
「ありますとも、画家がモデルを使うように、人形師もモデルを使うのです。モデルはドロドロの石膏にうずまるのですから、あまり気持がよくありませんがね。顔をとるときは、鼻の穴にゴム管を通して、息ができるようにしておくのです。たいていの娘はいやがりますが、なかには、石膏にとじこめられ、抱きしめられるような気持が好きだといって、進んでモデルになる娘もいますよ」
伴天連爺さんは、歯の抜けた口をあけて、ニヤニヤと笑った。
「そのアトリエを見せていただきたいものですね」
「むろん、お見せしますよ。では、これをすっかり飲んでから、アトリエへ行きましょう、今晩はうすら寒いですから、からだをあたためてからね」
老人はそういって、グラスを取りあげ、グッとのみほした。蘭堂もそれにならった。強い酒が腹にしみわたって、からだがほてってくるようであった。
老人は机の上の燭台を持って、先に立った。そのとき、蝋燭の光の加減で、机の上にほうり出してある蝋製の手首が少し動いたように見えた。それから、まっ暗な廊下を三
「このあいだ電燈会社と
弁解をしているうちに、ドアがひらくと、彼は燭台をヌッとこちらへさし出して、しばらく、じっと蘭堂の顔を見つめていた。
「びっくりしてはいけませんよ。なにしろ蝋人形というやつは、ちょっと気味のわるいものですからね」
警告するように云って、部屋の中へはいって行った。蘭堂は年甲斐もなく、少し
燭台の蝋燭が部屋の中をソロソロと動いて行った。その光の中へ、何もない
「これ、なんですか」
気味がわるくて、黙っていられなかった。
「よくごらんなさい。
土色の男のからだであった。目が血ばしって赤く、
「これもほんとうの人間から型を取ったのですか」
蘭堂は声が震えないように用心しなければならなかった。
「そうです。生きた人間からです。まさか死骸からではありませんよ」
伴天連爺さんは、そういってから、フフと笑った。
その次には、皮膚病の半身像や、変てこな局部像が、いろいろ並んでいた。並んでいるというよりは、ころがっていた。ひどく生き生きとして、今にも動き出しそうなものもあった。
「このつぎに、面白いものがあります。蝋燭を消しますよ。でないと、感じが出ないのです」
フッと火が消えて、まっ黒なビロードに包まれた感じであった。突然めくらになったように、まったく何も見えなかった。
「さア、両手を出して、さわってごらんなさい。目で見てはちっとも美しくないけれども、手でさわれば、たまらない美しさです。わたしが考え出した類のない美術品です。ですから、夜をえらんだのですよ。先生にわざと
蘭堂はいわれるままに、オズオズとそれにさわって見た。冷たいなめらかな肌であった。
「もっと手をのばして、全体をなでまわしてごらんなさい」
だんだん手をのばして行くと、それは人間のからだに似たものであることがわかった。しかし、普通の人間ではない。手が何本もある。足が何本もある。肉体の山と谷が無数にある。
はじめは薄気味がわるかった。不快でさえあった。だが、なでまわしているうちに、神経の底から妙な感じが湧き上がって来た。今まで一度も経験しなかった不思議な快感であった。そこには、想像し得るあらゆる美しい曲線が、微妙に組合わされていた。スベスベした、なだらかな運動感があった。手が自然にすべって行く、そのすべり方に、異様な快感があった。それは触覚だけでなくて運動感覚にも訴える美しさであった。
老人は暗闇の中で、息の
「すばらしい。これはすばらしいですよ。ぼくはこんな美しいものに初めてさわりました。これは何という微妙な曲線でしょう。いったい、どんな法則から割り出した曲線でしょう。······」
闇の中から、老人のフフという笑い声がした。
「さっきから、もう三十分もたちましたよ。ずいぶんお気に入ったものですね。さア、つぎに移りましょう。もっとお見せするものがあるのです」
闇の中で手をとられて、その場を離れた。四五歩もあるくと、シュウとマッチがすられて、再び蝋燭が輝いた。いそいでうしろを見たが、さっきのふしぎな曲線の物体は見えなかった。老人は用心ぶかく、あの物体に
「これですよ。この中ですよ」
燭台をかざしたのは、一つの大きな黒い箱の上であった。それは西洋の装飾
老人は燭台をおくと、またポケットから
蝋燭の光といっしょに、目がチラチラした。箱の中には、白いなめらかなものが横たわっていた。蓋がすっかりひらいてしまうと、それは美しい裸体の女であることがわかった。
蘭堂は
「お気に入りましたか。美しい女でしょう。これは生きているのですよ」
老人はささやくような低い声で云った。すると、その声が蝋人形に通じたように、美しい
伴天連爺さんとはよくも名づけた。彼は伴天連の魔術を心得ているのであろうか。
「ハハハ、大江蘭堂さんは、こんなものに驚く
爺さんは顔じゅうを、すぼめた
「これが蝋人形ですか。なにかカラクリ仕掛けでもあるのですか。ああ、目だけじゃない。唇が動いている。息をしている······」
「生きているでしょう。あなた、わたしのトリックにかかりましたね。これはほんとうに生きているのですよ。人造人間じゃありません。さわってごらんなさい」
老人は無理に蘭堂の手を引っぱって、箱の中に横たわっている美女の肌にさわらせた。その肌は暖かくて弾力があった。
すると、人形が、くすぐったいと云うように、身もだえして、ムクムクと起き上がった。その時は、さすがの怪奇小説家も心臓が止まる思いをしたが、すぐに、それは老人形師の子供らしいトリックであることがわかった。箱づめになっていたのは、人形ではなく、ほんとうの生きた人間にすぎないことがわかった。
「ひどいいたずらをしますね。可哀そうにこのお嬢さんは、箱の中で、さぞ息ぐるしかったことでしょう」
蘭堂はそう云いながら、美しい
「ごめん、ごめん。これが怪奇小説家のあなたには、何よりのご
だが、ふしぎなことに、この美しいモデル娘は、少しも裸体をはにかむ様子がなかった。無言のまま、向うの
「先生、まだ心臓が静まりますまい。こういうときは一ぱいやるに限ります。この子に
老人形師は燭台を持って先に立ち、その次にガウンの美女、あとから蘭堂がつづいた。
以前の書斎で、それぞれ椅子にかけると、またコニャックの
美女は
娘は人形から人間になって、またもとの人形に戻っていくように感じられた。生きた人間にしては余りに美しすぎた。ホフマンのオリンピア嬢はこんな美しさだったかも知れない。
「このモデルの娘さんは、なんとおっしゃるのですか」
「
令子はパチッとまばたきをした。まるで自動人形のようなまばたきであった。人間らしくなくて、人形とそっくりの娘。そこからこの世のものならぬ、あやしい美しさが発散した。人間らしくないところに、
「令子さん、あなたは、自分とそっくりの人形ができるのを、怖いとは思いませんか」
蘭堂ははじめて娘に話しかけた。
「いいえ」
彼女はかすかに
蘭堂と老人形師とは、この美女をかたわらにして、一時間近く、コニャックを傾けながら、人形の話をつづけた。
「それじゃ、令子さんをモデルにして仕事をはじめたら、知らせてください。ぜひ見たいのです。約束しましたよ」
恐ろしく酔って、ろれつが怪しくなっていた。そして、二人に見送られてそとに出たのだが、そのとき、玄関の戸口で、令子の手が蘭堂のからだにさわった。意味ありげにさわった。
彼は暗い町に出て、電車の駅の方へヨロヨロと歩きながら、その感触を思い出していた。ふと、若しやと気づいたので、さわられた
「この爺さんは大悪人です。助けて下さい。わたしは殺されます」
【附記】これも一挙掲載で、私の次の発展篇を角田喜久雄 君、解決篇を山田風太郎 君が執筆した。