先頃テレビでセロの達人カザルスの対話をきいた。大きなパイプタバコをくゆらせながら翁は音楽を語り、また問われるままに政治についても自己の立場を説いた。彼は言う、自分は単純な人間で何事にも自然を
音楽はこれでよいのかという声はすでに久しく、トルストイの芸術論におけるベートーベン、ワグネルをも否定して、音楽をほとんど民謡とマーチに限るような厳酷な批判から、その商業化、機械化、卑俗化、あるいは過度の専門化による人間性からの逸脱を憂うる声は絶えない。著名な作曲家で音楽の将来に希望を失っているものさえある。我国でも古今東西のあらゆる音楽の雑居
かつて音楽史上最高の花を咲かせた欧州古典音楽も、本来は素朴な民謡や民舞を源泉として発達したものであるが、今では万人の心に訴える自然な生命力を失いつつあるのである。バルトークが東欧の民楽に創作感興の母胎を見出したり、ヒンデミートがバッハ以前の音楽やまるで発達系統のちがう我国の能楽にまで郷愁的親近感を示しているのも、音楽の素朴な生命力の回復を願ってのことと思われる。
我国でも最近、民謡民舞を再認識する運動が盛んになり、創作曲に対しても国民性、民族性あるいは東洋性が改めて要求されている。それは充分意義のあることであるが、一面、時代に逆らう生活感情への停滞偏執の危険を蔵しており、民族主義の行き過ぎは往々音楽の普遍性をさまたげ、その国際性を弱めることもあるのを忘れてはならない。これまで音楽は色々な姿で民族性と個人性を生かしながら、感情の国際的交流に一役を果してきた。そういう特質はますます護持すべきである。現に世界大戦の最も
芸術はそれぞれの時代の生活感情の鏡であり、音楽の現状ことに作曲界の現状もそれぞれの意味と程度においてそうであろう。しかし今日の有様は、人類の大多数の真に願望する姿とはどうしても思われない。現代楽に余りにも強調される不安焦燥絶望自棄の感情は、少数の不幸な魂の所産であり、人類の永く根強い生命力を考えて、このような音楽の状態は永続きするものでは無いと思う。現に今日でも世界の人間の大多数に愛好されているのは、依然として正常健康な音楽であり、決して
これまで音楽の姿は、初期の民謡やグレゴリオ讃歌のような単旋律から漸次和声や対位法による複音楽が生れ、遂に今日の如き複雑な構造になるまで古今東西実にさまざまであり、将来もなお表現の方法は色々と変化発達することと思うが、曲の大小や技法の如何を問わず良き音楽は常に自然であり、従って万人に素直に理解され、それをきくことによって悩み多き人の世に温き慰めと希望をもたらし、万人を愛と平和に結ぶものであり、それこそ時代を越え国境を越えて真に望ましい音楽であろう。
『心』昭和四十年三月号、二|三頁