いまわたしの胸の奥にあることばは、
ひとの幸福をともによろこび
ひとの不幸をともにかなしむ
といふものだ。(「ひと」とは〈人間〉の意でなく〈他人〉の意)。わたしはもとより道徳なんて説くがらではないし、処世訓・座右の銘なんて大きらひなはうだが、ここのことばは、いつしかわたしの心にしみついてゐること、そして最近、後にいふある事情から、いつさうはつきり意識されてゐることもまた事実なので、問はれるままにいつてみたまでだ。他に語り、他にすすめるのではなく、自分がさうありたいとねがつてゐるにすぎない。ひとの不幸をともにかなしむ
なになにの書物に出てゐたといふやうなことばではない。さりとてわたしの手製のことばといふのでもない。その因縁はかうだ。
昭和の初年||といへば、わたしがまだ若くして結核を病んでゐたころだが||はじめて盤珪和尚(一六二二|一六九三)の仮名法語を読み、幼稚な程度ながらも、不生禅の説法にひどく感動した。そのをり、あはせて長井石峰の『正眼国師盤珪大和尚』といふ評伝も読んだが、この本の中にかういふ話が出てゐた。
盤珪在世の当時、姫路に一人の盲人あり、ひとの音声をきいてその心事をさとる天才をもつてゐた。盲人のつねにいふには、
賀詞にはかならず愁ひのひびきを帯び
弔詞にはかならず喜びのひびきがこもる
と。さらに盲人は語を継ぎ、人心の機微はかうしたものであるが、盤珪和尚だけはべつで、師の音声を聞くに、得失・弔詞にはかならず喜びのひびきがこもる
道元禅師が正法眼蔵に〈愛語〉を説き、大愚良寛が〈愛語〉の体行をもつて生涯の課題としたことをもおもひ合せ、かういふすぐれた人々の音声は想像するだにすがしく、たのしく、同時に、こんにちテレビ・ラジオに〈美声〉はあつても、〈良声〉〈善声〉のじつに乏しいことまで嘆かれるが、話をもとにもどさう。
かの盲人の音声の批評は、若き日のわたしに痛烈な印象を与へた。自他ともに、人間とはあらましさうしたものらしいことをかなしみ、よしそれならば、その逆に「ひとの幸福をともによろこび、ひとの不幸をともにかなしむ」でなくてはなるまいと、胸中ひそかに期したことであつた。ただし、その後のわたしの三十数年間において、これしきのことさへ、とても完全には、なしとげえなかつたこともまた事実である。
さて半年前、わたしの長男がわたしの目の前で狂気するといふ出来事がもちあがつた。世に突発的な不幸は、連日無数にくりかへされてゐる。わたしの経験など、ほんのちつぽけな一例にほかならぬし、また不幸そのものが人生の真相で、幸福はむしろまぐれざいはひにすぎぬこともよくわかつてゐるつもりだ。しかしいざ、それが自分のあたまにふりかかつてきたとき||わたしがげんに四年ごしの動けぬ病人だといふせゐもあつて||わたしは心臓のとまるほどおどろき悩んだ。わたしにはかねて称名念仏といふ恵みがあり、このたびこそ心の底からナムアミダブツを唱へつつ、どうやらしのぎをつけ、再び一段とつよく生きてゆかう、そして一日でも永く妻子のために力になつてやらうと考へなほしたのであつたが、その際のハンブルになりきつたわたしの心に、これまでにない精彩をもつてよみがへつたのが、この、
ひとの幸福をともによろこび
ひとの不幸をともにかなしむ
といふことばであつた。ひとの不幸をともにかなしむ
(『毎日新聞』昭和四十年十二月五日)