本因坊名人
ところで、いまぼくたちの感じでは、秀哉名人は近世の名人たちの間でもやはり一つの大きな山であつたようだ。その峯の高さを秀甫、秀栄の峯の高さと比べることはやはり出来ないとしても、野沢竹朝八段が、天下の芋掘り碁と批評したのは、あたつていないのではあるまいか。竹朝は秀栄に学んで秀栄の碁風を骨の髄までたたきこんでいるために、力戦に特色を持つ秀哉の芸風が気にいらなかつたのであろう。秀栄は碁を打つ時間も早く、ことに有名な話として伝えられているように······秀栄名人と対局するといつでも、次に打つ手が二ついい所があつて、その一方を打てば秀栄名人にほかの一方を打たれる······というように、こちらは一生懸命考えて石を下しても、名人の方はちやんとほかの好点を占めて、いささかも、渋滞することがない。流れる水のようにさらさらと打ち進んで、しかも、碁は非常に広くなつている······これは秀栄の名人芸として有名な話なのだが······秀哉はそれに反して、対局時間は永く、打つ手を、一手一手読み切らないと打てない棋風のようだつた。しかも中盤の力闘には、古今に比べもののない激しさを持つている。強いて例をあげれば文化文政年間の名人本因坊文和があるけれど、秀哉名人が明治から大正、昭和にかけて戦つたたくさんの争い碁を調べてみても、その特色ははつきりしている。たとえば元棋正社の総帥雁金準一との有名な対局も、布石からいきなり激しい攻合いが初まつて、そのまま終局になつた。いま、並べ返してみるとさながら大石を山の頂きから追い落すどうどうたる響きを耳にする思いがある。
また、呉清源との天元の一局にしても、あの激しさは、ちよつと近世の囲碁史に類がないものである。あの碁は、実際に打たれた対局の棋譜のおもしろさもあるが、対局の裏のいろいろなエピソードがぼくたちを楽しませた。決定的な勝をもたらした運命の一手について、本因坊門下の前田七段が発見したのが真相であるとか。その一手を呉清源は気がつかないでいて、黒の勝を信じていたのに、あの運命の一手が打たれる日の朝、あの妙手があるのを発見し、必敗を覚悟していたとか。瀬越門下の呉清源同門の人たちは、橋本宇太郎、井上一郎たちが先生の瀬越憲作を中心にして、呉清源の勝を読んで研究していたが、あの運命の妙手をやはり同じころにみつけ出して、「我やんぬるかな」と嘆いたとか······事の真相はいずれであるか、ぼくは知らない······ただ、亡くなられた吉田操子先生に直接に、ぼくが伺つた話では、べつにそのようなうわさを否定されてはいなかつたようだ。ちょうど[#「ちょうど」はママ]、吉田先生は所用で上京されていて、たまたまあの日の前日本因坊さんのお宅に行き、祝盃をあげて、上機嫌の秀哉名人に逢われたといふ。秀哉名人の機嫌のよさなどは、ぼくはいちども見たことがないから想像も出来ないけれど、呉清源との一局が、当時やかましかつた新布石法と旧布石法との対立であつただけに、本因坊名人も、生死を賭けての対局であつただろう。現実の生命を賭けるというのでは、もちろんなく、明治大正と受けついで来た古来の定説を守る最後の人として、棋士として、また碁界最高の権威として本因坊名人には敗けられぬ一戦であつた。それだけに盃をあげる名人のうれしさは、吉田操子先生から伝え聞くぼくにも分つた。その後、木谷実との箱根での最後の対局に敗れた名人晩年の姿は、わが師川端康成の小説「名人」に浮彫りされて、いま読みかえしてみると、名人の悲しさ、一つの道に終生を捧げた人の哀れがそくそくと心に迫る。
その本因坊秀哉名人とぼくは、ただの一度も親しく逢うこともなくすごした。五尺にも満たぬ身体のどこにあのような烈しい闘いを支える魂がひそんでいるのか、時たま、日本棋院の玄関や編集室で見かけるひよろひよろの老人に目を見張る思いであつた。
碁という一筋の道に、なにもかも打ちこんで生きた名人の面影を伝える話がある。
ある年の秋、生前本因坊秀哉は京都を愛し、たびたび、川端丸太町の吉田操子の家の客になつた。そのころもいまも、日本中で吉田塾ほど居心地のよい家は珍らしいが、本因坊名人はことに吉田操子さんと親しかつた。そのころのある年の秋、吉田さんの家にはいつでも、多勢の学生が遊びに来ていたものだ。藤田梧郎、島田拓爾、垣内良三、みんなぼくと同じころ京都帝大に学んで、碁を習つているのか、学校へ出ているのか、けじめがつかない連中ばかりだ。それに専門棋士の染谷たちも交つていたのだろう。がやがや集まつて、だれかの打碁を調べていた。専門棋士の対局ではなくアマチユアの碁だつた。ところで中盤の一手が難かしくて、ああでもない、こうでもないと、さかんにつつついているとき、ひよろりと人影が射した。本因坊名人だつた。それで、仲間の一人が「本因坊先生、ここ、どう打てばいいのですか」とたずねた。無口な名人は碁盤の前に坐つて「どれ、どれ」といつた様子で碁盤を眺め初めた。十分たつた、二十分たつた。本因坊名人が坐つているので、はたでがやがや喋舌つていた連中は、本因坊さんがなんというのか、それを待つて黙つていた。ところが、いつまで経つても黙つてタバコを吹かしているので、しびれを切らした連中は、なんとなく立ち上つて、その碁盤のお守りを本因坊名人にまかして、外へ出た。
出ればきまつてそのころは、三条河原町まで往復ぶらぶら歩いて一時間の散歩に行くのがおきまりだつた。お茶ぐらいは呑んだことだろう。歩き疲れ、喋舌り疲れて、さて川端の家に帰つてくると、みんなはおどろいてしまつた。夕闇の迫つた庭のほの明りに向いて、本因坊名人はさつきのまま端然と碁盤に座つて、つくねんと考えに耽つているのだ。それこそ、おどろいてしまつた藤田梧郎は、ずつとそばによつて、かしこまつて「本因坊先生、ここはどうなんでしようか」と改めてたずねると、名人は、タバコの煙を静かにくゆらせながら、ぽつつと「はてね」と唸つたまま、黙々とその碁の読みに耽けつていたという。