梶井基次郎氏が死んだ。||氏の生の論理もたうとう往きつく処まで往きついた。それはもはや何ものも語らない。在るものは寂寞ばかりだ。まことに死は現実の極点であらう。氏は最後のその死を死んだ。そこからはもはや何にも始まらない。唯現在、何かが始まるとすれば、||それはまさしく私の入り込んでゐる薄暗い、冷やかな、しづかな世界以外の処ではないであらう。
······始めにはよく歩いてゐた、驀地に歩いてゐるなと思つてゐると、屡々立ち停つたり振り顧つたりして、それでもよく歩いてゐた。その内に坐らなければならなくなり、それから全く寝ついて了つた。それにも拘はらず、氏の「眼」はその生涯をとほして変りなく輝いてゐた。即ち氏はその克己の、その超己の生涯をとほして立派に歩き続けたのである、第一流の作家が恒にさうであるやうに。しかも、死と病苦とを鷲掴みにしながら、敢てこれに戯れながら。氏の作家的業苦は恰も大樹のやうに氏を成長せしめる以外のものではなかつた。けれどもこの大樹は次第に枝先から、やがてその全体が一遍に枯れて了つた。氏の死面の上には、おそらく原始人のそれのやうに深い苦悩と共に、それにもまして大きな安堵が休んでゐたことであらう。
ある夜、氏は
私は既に饒舌に過ぎたやうに思はれる、私はいまこれ以上を氏に就いて語るべきではないであらう。唯しまひに、梶井氏が没せられた三月廿四日よりほゞ三週間前に発梓された一雑誌の上で**、実は私が氏に就いて稍々饒舌を逞しうしてゐることを白状しなければならない。偶然若し故人がこの文章に目をとほしてゐたとするならば、||自らの孱弱な夢を語るのあまりにこれは多少慎しみを欠いてゐなかつたとはいへないであらう。この点、故人の母堂及び友人諸賢にお詫びをしなければならない。
不仕合せで、しかし仕合せであつた梶井基次郎氏は死んだ。しかし、氏の光輝ある精神的遺産を前にして氏の業に対する私の感歎は新しい。氏は没した。氏はこの地上を去つた。しかし現に、氏の質実な世界への、私の架橋はなほ断たれてはゐない。このとき、私にあつて悲哀とは何であるかを誰が知るであらうか?
*「闇の繪巻」著作集「檸檬」(武蔵野書院刊行)参照
** 拙稿「この人を見よ||堀辰雄と梶井基次郎」雑誌「蒼い馬」五号
** 拙稿「この人を見よ||堀辰雄と梶井基次郎」雑誌「蒼い馬」五号