いまや白衣をぬいで浄光をはなつ山々、しずまりたもうかたを拝んで筆をとる。秩父おろしが枯葉をまいて、思いは首筋から遠く天外をかけめぐる。そこにまたしてもかずかずの、すぎし山間遍歴のあとがあらわれる。そしてなんたるしみじみしい景色だ。ゆったりした景色だ、清らかな景色だ。
ゆらい老人は、むかしを語るをこのむという、そうかも知れない、が、なんでもむかしのものはよく、いまのものはわるいなどとは、そこにたしかにぐちがあろう。しかも山のむかしを渇仰するのは、けっしてそんな亜流ではない。老人でもないわたしでさえ、むかしというほどでない二十何年の山を、そんなにもなつかしむのは、ひとつはそれほど山のおもむきがわるく変わってしまったからだ。そのころの山はまだいかにも山らしい山であった。いまは||山の大彫像は、いぜんとして厳乎天半を領している、しかしちかづいてみると、そこにもここにも人間の
||山はどこにあるの?
||これが山じゃないか
このこたえは、しかしはなはだ力がなかった。
自然の純粋のすがたこそ尊い、自然の恩恵ここにきわまる。それを物質的にのみ解してはこまる、忘恩はもってのほかだ。このころの山民の眼のとがりようはどうだ。自然の恩恵はそもそも文字によって知らないのである、それには清純なる自然に参するを要する、文化進んでいよいよその須要を痛感する。大地はひとの母であり、その純乎たるすがたを山にみる。山をきよめよ、山にたしゅうをみちびくはよい、こころせざればかえって外見と逆に少数の霊能ある者のほか、その醍醐味にふれえないであろう。やがて山はにおいのうすれるにまかせ、しまいには伽藍やぶれ、壮厳毀たれ悲痛なぬれ仏をのこす廃寺のようになるときさえこないとはいえない。これをまもるのは、一に山に縁をもつひとの心にある、この神妙な心のもちぬしこそいよいよでて多きをうれえない。いわんや自然は粛々としていきている。たとえば十余年をへだててみた剣池の平では、鉱山のダイナマイトのひびき絶えて仙人の池畔疎林がしげり、南越餓鬼田圃あたりの樹草や種池棒小屋乗越辺の疎林さえなんと
秩父おろしがまた背戸のけやきに音をたてる。||田部君や木暮君と雪の大菩薩ふるみちや三宝甲武信飛竜などの旅もわすれられないが、なかにもあの山裏梓山の高原は魅力があった。年の暮れのあそこはまた荒涼としてうつくしかった。紅葉のなかば粗枝にのこってなかば薄雪に委した十文字峠を越えてはいったこともあり、雪の金峯を星明かりにふみわけ、つまさきをしびらせつつ越えてもいった。まだ戦場ガ原に落葉松の大木が林立していたころのことだ。あの白木屋に滞留してまいにちのように戦場ガ原や川端下の原をあるきまわったものだ。落葉松はほうきをさかさになでたように、せきらの枝幹がむらさきをおびて、そうけだっている。しもにさらされたくさが原いちめん、病みほうけたように靡きふし、かばや、かわやなぎや落木のこずえ越しに八ガ岳が氷白の峰々から寒藍の大翼をひろげて、そのしたにおさえられたように梓山の村家が息をころしている。巨材を校倉風にくんだ土蔵や大きな石屋根が、ひくい片陽に広い村道をなかばとっぷりと、かげにそめ、その軒下のくらさは||ひとがすむとも思えない。
川端したの原あたり、霜の壮観をはじめてみたのもこのころだ。雪とちがって広漠たる野に複雑な面をつくり、厚さ何寸かあろう、朝日をうけて半透明に痛光をはなち、不思議なはながさきつづいたようだ。白樺の林に寒月がさしいって、枝幹がつめたい絹のようにさやぐのもすさまじかった。雪のふりつむ椽先に馬がはく白いいき。霜にいたむ大根にゆずをきりこんだ塩漬のあじ。落葉松といえば、なかにはながい枝のなかばから庭木のように、こずえまでかりあげたのがある。聞くと苗をつくるため実をとったあとだという。あまりのいたいたしさに実をとるなら実だけもいだらよかろうにといって、あきれ顔をされてまいった。そんな手数はさらでもはげしいかれらの生活にもとめられるものでなかった。
春になればこの原は、またなごやかな楽園のおもむきになる。枯れ木かと思う落葉松からあまりにもやさしい糸細工のような芽をふき、かばがはじらうような紅味をさしてねばりけのあるやわらかい葉を光におどらせながら、下草は枯れ株のあいだにまず桔梗のような芽からぞくぞくとあらわれる。そのやわらかいくきのむらさきに、白い粉をはいたかれんさ。なるたけそれを踏むまいと、さぎのような足どりで歩きまわって、あせをかいたことも思いだされる。山の春はことさら足がはやい、たちまち緑が枯色を塗り消す。四方の山はかすみたち、村びとは固い土をほりおこし、こどもらは学校へいくまえにかわるがわる村じゅうの馬をこの原へつれあがり、夕方また追いにくる。そこにもここにも、うぐいすがさえずり、ほととぎすがなき、山ばとがのどをゴロゴロさせ、かっこうがよび、きじがさけぶ。落葉松の枝はやさしい手のようにたれて、人頭をなで馬のたてがみをはらう。ありが忙しそうにふとい幹をあがったりおりたりし、ちょうや蜂は、光によってはねをならしたり、うなったりしている。馬がどうかすると画架をたてているわたしのそばへきてひとなつこく顔をよせる、一度はあっというまにパレットをなめられておどろいた。夕方馬を追って村へくだるこどもが手にした敦盛草の花が眼に残る。
筆をとめて窓外をみると、落葉にうもれた庭に山茶花もさいている。||高崎から沼田へ通う馬車にわたしはのっている、雪のちらちらするなかをだらだらのぼりのあがき。声高に話す乗合いはたいがい近在の人々らしく知合いとしか思われない。草鞋をはいた旅仕度のわたしは、どこへいくとたずねられて、あたりの寒山のつもったうえへまた降る雪をながめながら、山へ登るとはちょっと言うのが躊躇された。それほどそのころは山登りも通りがわるく、まして冬の山なぞは用のあるべきところでなかったから。しかし行く手には大きなふところの広い山がゆったりと、たのもしげな形にすわっているのだ、わたしはそこへ心をかよわしている、それは武尊山であった。
川場のぬるい湯へ縮んだからだを浸し、薄根川の谷間にはいって武尊のひろげたふところのなかに、だかれたようになったときは、ほっと微笑のもれる気持だ。さえかえった冬空、用水の流れをはさんだ山村、氷柱のたれた水車、針金をたばねたような桑畑、北蔭に雪をのせた大きな屋根が眼のしたにある。人気もない花咲峠を越えて谷間にしがみついたような花咲の山村にはいり、途中きいてきた木賃宿めいた小家に泊る。亭主に武尊へ登りたいというと、眼をまるくしてなかなか今はむつかしいという。さてこそといまさら胸がおどりだす、もうぜひ登らないではいられない、ようやくに猟師と杣とふたりたのんでもらう、つまり輪


かくしてようやく花咲武尊の頂上小祠のほとりにたどりついて、奥上州裏日光の連山の雲母をちらしたような深雪薄雪の光を浴びたものの、間近くそびえるピラミッド型の大きな絶頂や藤原武尊の峰つづきなどは思いきらねばならなかった。ちからなくくだる谷間に枯木が紅珊瑚のように燃えたち、近い尾根の一角が紅梅色にさかえて、つめたい薄もやたった谷のすえには日光つづきの山波のひときわうちあがった一峰がさむざむと暮れのこる。猟師はそれをスケーとおしえてくれた(のちにしる皇海山)。この辺にはもとおおかみが多かったが明治七年とか八年とか大洪水があった以後、巣をうばわれたか、いなくなったともきいた。帰りに穴原温泉ただ一軒の宿のただひとりの客となり、川原の自然石の湯に、たまたまくる村人とともに浴した。おりから旧正月をむかえ亭主が羽織袴で三宝に酒盃をもちだし、絶大な円餅をいくつかやまなりに重ねたぞうにをしきりにすすめられて、うれしいながら、すくなからずたじろいだのをおぼえている。
温泉といえば、あの梅ガ島を思いだす。みかんと茶をかおらす安倍川をさかのぼって、大日峠にまず南天の雪山の片鱗をあおぎ、大井川奥小河内の山村から枯笹をわけて大崩山三尺峠に登って、ためつすがめつ峰の白影においすがり、雪どけ羊歯の根土にすべってこの温泉にころげこんだが、提灯をたよりに谷むこうの堂のような湯小屋にはいると暖かい煙がもうもうとこめ、柘榴口めいた巨材をくぐった湯槽には油とまがう湯があふれて、狂おしいまではやる気をこころよくしずめてくれた。
あくる日はまた、熊の血を犬のようにかぎまわる猟夫とつれだち、無名の峠から白峯をあおいで巨大な心臓をこおらしたような北岳のすがたにふるえあがった。ひとりくだる雨畑の谷は昼もくらく、こずえにのこる柿をしるべの山村は化石したように動かない、ひとり昼夜にさめているのは峰の雪だ。容易に応じない村びとをたのんで幾日かののちようやく笊ガ岳に登れたが、蝋を流したような氷の岩角にすがり、凍ったガレにかんじきをすべらしてあやうく助かり、手袋をたらしたような石楠花から偃松の枝をつかんだときは瞼があつくなった。
頂上三角櫓の残骸が一本足を寒天に冲するところ、悪沢、荒川、赤石、聖、上河内、がきりがきりと氷雪の稜線を額を圧して投げかける。充実の極、空虚になって、わたしはあやうく帰るときを失おうとした。日は刻々氷雪の山を異なった角度から照らしだす、なかにもその焦点となるのはそのしょせん圏谷の雪だ。わが山々をきざむにはたして氷河のさくが用いられたかどうか、それはいつに学者の探究にまつ、しかし、それがなんとするも、かの工匠の偉大さ、幽遠さにかわりはない。それは永劫にいきて存す、いきて四方に漂泊したもうひとの心の奥深くまで。