底冷えのする寒さで眼がさめた。夢からさめたあとの味気なさのせいでもあるが横の蒲団に枕をならべて眠っている妻と子供の顔が
「おい、雪だよ」
と浮ついた声で、眠っている妻をよびおこし、そのまま蒲団の中へもぐりこんだ。妻の登代は「う、う」とうめくように呟きながらうす眼をひらいたと思うと添寝をしていた四つになるマユミ(女の子の名前)の、蒲団のそとへはみだした肩を片手でおさえながら自分の方へひきよせた。もうそろそろ三月だというのに季節はずれな気候の変化がだしぬけにひとすじの明るさを彼の胸にそそぎいれた。言って見れば残された青春のまぼろしを心のどこかにさぐりあてたというほどの気もちで彼は雪が二日も三日も降りつづいてくれればいいがと心に念じながら、そのままぐっすりと眠ってしまったらしい。まもなく、誰かが玄関口でさけんでいる疳高い声が聞え、やがてせきこんだ調子のするどさがうつらうつらとしている伍一の神経にチカチカと迫ってくると、彼は急に不穏な予感に襲われながらとび起きた。
玄関の障子の前に立っているのは二、三日前にわかれたばかりの従弟の小橋多吉であった。彼は半分すぼめたままの雪の降りつもった傘を格子戸の上に立てかけたまま伍一の顔を見ると飛びつくような声で、
「知ってますか、今朝のことを?」
雪の中を外套も着ないで歩いてきたのであろう、よれよれの紺絣の着物がびしょびしょにぬれているのも平気で、
「いよいよはじまったんです、||今朝」
こみあげてくる声が咽喉につまって、彼の眼が急に異様な輝きを帯びてきた。
「何がさ?」
と言いながら伍一はわざとらしくつめたい表情をしてみせた。その手に乗るものかという気もちである。しかし、そうは言っても、何時もの、途方もないことをしゃべりだしては伍一の感情を大きくぐらつかせておいてからその
「えっ、||ほんとにどうしたんだい?」
「新政府が、||新政府が出来るんですよ、今朝いよいよ」
吐き出すような調子で多吉が声をはずませた。
「新政府?」
「じゃあ||」
と、彼はもどかしそうに、
「知らないんですね、今朝のことを、||総理大臣から要路の大官まで根こそぎにやられたんです。日本はこれからどうなるかわかりませんよ」
青くひきしまった彼の頬がぴくぴくと顫えた。
「いよいよ」
と多吉は半分あけ放したままになっている表の木戸口を振りかえりながら、「われわれの時代が来ましたよ。||黒幕には丈ちゃんがいるんです、みんな丈ちゃんの立てた計画どおりになって」
落ちつこうとあせればあせるほど声の調子はますますみだれてくる。あとからあとからとこみあげてくる昂奮のために心の平衡をうしなった彼の眼がどうにも収拾のつかないほど湧きかえる空想の焦点を定めかねて
「とにかくあがったらどうかね。そんなところに立っていないで」
「そうしちゃあいられないんですよ、今日一日が勝敗の瀬戸際なんです、いざとなったら僕も一役買って出なくっちゃあ」
「買って出るって||?」
「何も彼も根こそぎに変ってしまうんですよ、ああ何も彼も、とにかくバタバタと事は決ってしまうんですからね」
「まア、それにしても」
と言いながら伍一は玄関の左手にある応接間の
「とにかく大へんなことをやりましたよ」
と、ケロリとしている伍一の顔を不満そうに眺めながら、その日の未明に
「僕も、||」
と言ってから、しばらくもじもじしていたが、
「いよいよ、立つときがきましたよ、時が来たんです、時が」
ひとりでに胸の底からのぼってくる言葉をどうにもおさえきることができないというかんじだった。そこへ、台所口で近所の薬屋の御用聞きと話をしている登代が
「大へんよ、||今ね、あそこで電話をかけているひとのはなしをきいたんだけど、今朝、総理大臣も教育総監もそれから大蔵大臣もみんな殺されてしまったんですって」
「ほんとうかい?」
と言いながら伍一はやっと意識の上にうかびあがってくる現実の情景を頭の中にハッキリ描きだした。多吉の話をきいているときには何か空虚な空々しいものがかんじられて、半信半疑でいたものが急に防ぎきれない力となって身近に迫ってきたのである。
「とにかくおれは舟形の家まで行って来よう||ことによったらその足で東京まで行くことになるかも知れないからね」
もう押しかくすことのできない心の狼狽を多吉に見透かされないために、「まあ酒でも一ぱいひっかけて落ちついた方がいいよ、おれはすぐかえってくるからな」
と、わざと落ちついた声でにやりと笑ってみせてから急いで洋服に着替えると廊下の柱を両側からおさえて二、三度ぶっつかってみた上に、こんどは畳の上で四股を踏む真似をして左右の足の弾力をためし、さあ来いという身構えをつくりあげてから玄関へ出た。「大丈夫?」と不安そうによびかける妻の声をうしろに聞きながして格子戸をあけると、伍一は急に自分の肉体に思いがけない変質作用が起ったような緊張を覚えた。降りつもる雪のためにかたちを変えてしまった市街の輪廓や、遠い森や丘までが彼の眼にはまったくあたらしいもののように映ってきて、その朝、眼をさましたときのもやもやとした不安の性質が自然現象の変化をとおして彼の心の中にぬきさしのならぬかたちを現わすのであった。それは当然起るべきことが起ったというかんじではなく、もはや自分の力で推しはかることのできない運命に身をまかせているような気もちである。雪の中を歩いていると個人の力で防ぎきれない悲惨な情景がすでに遠くすぎ去った歴史のうすくぼやけた回想の中にうかびあがる一つ一つの場面のように彼の頭をかすめるのであった。するとあたらしい空想に胸をときめかせている多吉の顔も何時の間にかこの運動の外廓的な雰囲気の中に
舟形の家は彼の家から十町足らずのところにある。郊外の屋敷町はしいんとしずまりかえってときどきトタン屋根からすべり落ちる雪のかたまりがずしんずしんと大きな音を立てた。舟形は戸をしめきった二階の書斎の中でぼんやり机にもたれていたが勢いこんで入っていった彼の顔を見ると、
「どうだい?」
とせせら笑うような微笑をうかべた。「何かはじまったそうじゃないか、||」
「だからさ」
伍一は長火鉢の前へぐったりと腰をおろした。「今日の結婚式はどうなるのかと思ってね?」
「別にどうというわけでもないだろう、おれたちにとっちゃあ」
舟形は高をくくったような落ちつきを見せながら言った。「
その日彼等の先輩である老作家、秋山無弦の長女が新進作家の高垣と結婚することになって舟形はその媒酌人になっているのである。しかし、
伍一がだまっていると彼はあの大蔵大臣だけは生かしておきたかったとか、こんなにバタバタやられたんじゃあ今に大臣になり手がなくなるんじゃないかと、ひとりごとのように呟いていたが、自動車が東京へちかづくにつれて窓にうつる街の空気はしいんと鳴りをひそめながらも何処かに無気味なものを孕んでいることが眼に見えるようであった。森川町へゆく舟形と日比谷の交叉点でわかれると伍一はざわざわとうごく人波を押しわけてその日の朝、暴徒に襲われたというA新聞社の方まで歩いていったが、町角や電柱の前にかたまっている群集の眼はやっとひと幕終ったあとの次の舞台を待ち望んでいるような好奇の感情にみちみちていた。襲撃された筈のA新聞社の前には自動車が二、三台置いてあるきりで格別変った様子もなかったがひっそりとしているだけに不穏なかんじがまだ何処かに
「よう、鷺野!」
と隅の方から太い声が聞え顔じゅう髯だらけの男が煙草をくゆらしながらゆっくりと立ちあがった。どきっとして見あげると二十年前、彼が社会主義青年であった頃の同志の一人で今はある右翼団体の頭目として幅を利かせている帆上佐久良であった。この雰囲気の中では帆上も話相手がないらしく一つのテーブルに陣どってひとりだけしょんぼり頬杖をついていたが、「君か!」と鷺野がなつかしそうに答えると慌てて横の空椅子を片手でずらしながら、
「めずらしいのう、||何年になるか、おれは高垣のおやじと親友なんで誘われてやってきたが、ことによったら君にも会えるかと思ってな」
あたりを憚らぬ大声でハ、ハ、ハ、ハ、と笑いながら彼の手をしっかりとにぎりしめたのである。笑顔には昔のおもかげがかすかに残っていたが、左翼から右翼にうつるとこうも変るものかと思われるほど態度から物の言い方までもがらりと変って今は何処から見ても押しも押されもせぬ憂国の志士であった。
「どうじゃ」
と言いながら帆上佐久良は肩をそびやかした。「いよいよやりおったのう、ひとつ大きなやつをどかんと放してしまえばいいんじゃが」
彼は民衆の冷然として落ちついているのが歯がゆくてならないというかんじでひとわたり会衆の顔を睨めまわした。
「どかんとぶっ放さなくっちゃ駄目だ、それからでないと仕事が出来んわい」
そこへ小柄な品のいい一人の老紳士がちかづいてくると彼は慌てて、「高垣君!」と太い声でよびとめた。
「紹介しよう、||鷺野伍一君じゃ」
「やあ、これは」
と言って老紳士が丁寧に頭を下げた。伍一も恭々しく答礼をして、身体の向きの変ったとたんにひょいと座をはずした。低い衝立で仕切ってある次の部屋へゆくと片隅のテーブルに十人あまりの男が円陣をつくってかたまっている。まん中にどっしり腰を据えてあふれるような調子でしゃべっているのは彼と同じ村に住んでいるB新聞記者の内狩だった。情報の報告はひととおり終ったところらしく彼は声の調子にまかせて、あのときはああすべきであった、このときはこうすべきであったと、もっともらしい批判を下しはじめたが、しかし意見に大した確信があるわけではなく、むしろたのしそうにしゃべりつづけている自分の姿に陶酔しきっているというかんじだった。まもなく食卓がひらかれたので、会衆が一時にざわざわと立ちあがった。しかし別室の、設けられた席につくと文壇関係者の中でも主だった人の顔の見えないのが急に外の空気の険悪さを思い起させるほど落ちつきのないものに変ってきた。花婿の友人である若い作家やジャーナリストがかわるがわる立ちあがって次々と祝辞を述べはじめたが、パチパチと起る拍手にも気勢がなく言葉がとぎれるごとに街頭に起る不安の幻影が何処からともなく忍びこんできて、こういう宴会にふさわしいどよめくような感興は何時まで経っても湧いて来なかった。やがて一人立ち二人立って空席がだんだんふえてくると伍一もじっとしていられない気もちになり、ちらっと前の席から眼配せして内狩のあとから、便所へゆくようなふりをして表の扉をあけると先に出た批評家の秋庭が内狩とならんで彼の方を向いて立っていた。
時間はまだやっと八時を少しすぎたばかりでもあるし、このまま別れてかえるにもかえりきれないかんじで、「何処かへゆこうか!」と伍一が言うと、
「さア」
と、内狩はどっちつかずの返事をしてから、
「今夜あたりが一ばん危いんじゃないか、このままかえった方が無事らしいな」
呟くような声で言ったが、しかし、右に省線の駅のあかりの見える四つ角まで来ても方向を変えようとはせず、名残惜しそうにあたりを振りかえっていた。銀座の表通りにはさすがにほとんど人通りはなかったが、雪はまだ街の片隅につみあげられ、どの屋根からも雫が滴り落ちていた。もう戸をしめる用意をしている店が多く、氷りついた路上に灯火のかげのゆれているのさえ何故ともなくうす気味のわるいかんじで、歩きながら伍一は、「行こうか、行くまいか」||と、何べんとなく自分の心に念を押してから左手にひらけた横町へまがっていった。そこから二つ目の四つ角の百合のいる酒場の扉をあけると外の空気とはおよそ不調和なざわめきがたちまちしいんとしずまって、テーブルを占めている客の顔が一せいに扉の方をふりかえった。誰ひとり声高に話しているものもなく、あたらしい客が入ってくるごとに物におびえたような視線がチカチカと入りみだれる。十二、三人いる女給たちも三分の一はやすんでいたが、三人が入口にちかいテーブルに腰を据えると奥の方からそっと立ちあがった百合が笑いかけた。
「やっぱり」
と、彼女はうきたつような調子で伍一の耳へ口を寄せると、
「ねえ、きっと来て下さると思ったのよ」
声にも表情にも何か見透しつかない不安の中へ誘いこまれてゆくようなひた向きなものがひそんでいる。どうにでもなれというほど捨鉢なかんじでもないが、見えざる暴力に対して心を湧き立たせているような溌剌とした情感が彼女の顔をひきしめているのだ。伍一の好みからいうとまったく逆な型の女であったが、表情をかすめる陰影の変化がときどき彼女を二十二、三の若さにひきもどすかと思うと、何かの拍子でだしぬけに長い生活の習慣がムキ出しにあらわれ、その顔がみるみるうちに生きることに不敵になりきった四十女の太々しさにぬりつぶされる。言わば実体からぬけだした魅力の幻影だけが伍一の心の中に、どんな雰囲気にも適応のできる擬態だけで生きている女の印象をつくりあげているのであったが、それが今夜は外から来る不安のために一層肉体的に見えるのであろう。
「ねえ、ほんとにうれしかったの!」
彼女は二、三杯のビールでやっと一つの雰囲気の中におさまりかけた三人の顔へ乱れた視線をちらつかせながら、
「こんな気もちがまだ自分に残っていたのが不思議なくらいよ」
伍一は心の中で自嘲的なうす笑いをうかべたが、じっと自分を見つめている女の思いがけない真剣な表情にぶつかると不意にぬきさしのならぬ気もちに襲われ、こいつはいかんぞ、と自分をたしなめながら、もう一度百合の言葉をたしかめるために、うすくぼやけた電灯の光りの中で急にあたらしい希望にかがやきだした女の顔を見据えた。伍一は飲みさしのビールをぐっとひっかけてから、
「今夜は大へんなことになるかも知れないぜ」
「だからどうなの?」
「君たちも早くかえらなくっちゃあ」
「だって」
眼球の上にかすかに残っているかすり傷のような翳が百合の顔を悲しげな相貌につくりかえた。「まだいらっしたばかりじゃないの、もう二十分、||せめて二十分、それにいろいろはなしもあるんだけれど、何だか今夜はうれしくって仕方がないのよ」
「うれしいって、||一向うれしそうでもないじゃないか?」
「そりゃあ」
と、百合はしなだれかかるように肩をすぼめて、
「厭んなっちゃうわね、思うことは何一つ言えやしないんだもの、||犬なら尻尾を振るところなんだけれど」
睨むような眼つきをしてから、くつくつと口ごもるように笑いだしたが伍一は妙に白けた気もちになってうしろの壁にもたれかかった。「何しろ形勢がどう変るかわからないんだし、それにうっかり」
「うっかり?」
せせら笑うように鼻をゆがめて「どう、今夜は?」と思わせぶりな表情をしてみせる百合の顔を彼はドギマギしながら何時の間にか好色的な微笑で迎えているのであった。
客は誰ひとり腰をあげようともしなかった。そこへ四、五人の会社員風の男がどやどやと入ってくると、彼等はまん中の席にひとかたまりになりぼそぼそとした調子で何かしきりに論じはじめた。女給たちは何時の間にか彼等の周囲にあつまってしきりに聴耳を立てているのであった。
*
形勢はまだどう動くかわからないような状態にあったが、しかしどう変ったにしたところでだしぬけに民衆をおびやかすような異変はこれで一段落を告げたというかんじが街の隅々から湧きあがってきた。生きることの支柱をうしなってうろついていた市民的な感情が、逆に叛乱軍の非を鳴らそうとする傾向に変ってきたのである。しかし、戒厳令が布かれたところで危機はまだ通り去ったわけではなく流言におびえていた民衆がこんどは逆に流言をまき散らそうとしているのであった。一刻ごとに数のふえてくる無責任な煽動者たちは自分のつくった幻覚に戦きながら険悪な状態を長びかせることによってせめてもの生甲斐をかんじようとしていたのである。伍一の家の書斎に近所に住んでいる同業者の小説家や画家があつまってきたのは三日目の夜であった。彼等はそれぞれこの憂うべき現象について一家言を吐いていたがそこへ新聞記者の内狩が半分以上当てになりそうにもない情報を持って入ってくると急に一座が緊張してきた。内狩の顔はまことしやかな情報をつたえるというだけではなく何か悲壮な英雄的な昂奮にみちているようであった。
彼は誰の意見が強硬で誰の意見が軟弱であったというようなことまで見てきたような調子で話すのであったが、しかし、彼の同僚がその日、叛乱軍の本部にあてられている赤坂のホテルを訪問してきたところによると、青年将校たちは目的を貫徹するまでは最後までがんばる決心でいるという。
「とにかく、死を決してやったんだからね、尋常一様の覚悟じゃないにきまっているよ」
内狩が眼をパチパチとうごかすと、
「だけど君」
と、片肘で上体を支えながら畳の上に寝そべっていた洋画家の八代がむくむくと起きあがった。「これ以上がんばったらいよいよ彼等は悲境に陥るだけじゃないか、||僕は悲しむ、壮烈なる彼等の決心のために」
「それがまだどうなるかわからないんだよ、正規軍にしたところで、
内狩はそう言ったあとで急に沈痛な表情になって、
「ときすでにおそしだ」
と低い語調で言った。「||やるなら昨日のうちさ、それをほっといて、時をすごしていたのがいけないんだ、やっぱり彼等の失敗は機会をうしなったというところにあるんじゃないか、例えば明智光秀が本能寺を攻めたときだって」
内狩の智識の出所は近ごろ彼の愛読している『太閤記』であったが、しかし、この雰囲気の中では誰も彼の卓抜な意見に耳をかたむけようとしていた。
「ねえ、||やっぱり僕はそう思うよ、本能寺を
内狩は前かがみになって下からじろっと一座を睨みつけながら、調子に乗って光秀が山崎の合戦にやぶれて名も知らぬ一土民の竹槍にもろくも敗残の身をぐさりとやられるところまでひと息に弁じだしたが、そこまでくるとさすがに彼も話が横みちへ外れすぎたことにひけ目をかんじたらしく、文学青年の丸川が「ハハア」と感心するのを照れくさそうな微笑でまぎらしながら、||
「とにかく、一つの錯覚は民衆が動いてくることを信じたところにある」
「いや」
と、その言葉を今までだまって聞いていた舟形がさえぎった。「彼等はあれだけで当初の目的を貫徹しているんだよ、これ以上何を望むところがあるのかね、||これから先き民衆運動に移ろうとするのは無理だよ、むしろこんな大事件を起した責任を明かにするために国民の前に責任を明かにするべきじゃないか」
「それもそうだが」
と、八代が言った。「一体どうなるのかね、おれたちは?」
「どうにもなりゃしないさ||どんな時代が来たところでおれたちの生活がこれ以上悪くなる筈はないんだからな、むしろ僕は」
舟形は言いかけて急に沈痛な表情になった。「文壇なんていうものが一掃されてしまった方がいいんじゃないかと思うよ」
「ところが」
丸川が眼鏡越しに昂奮した眼をかがやかした。「||これ以上悪い状態が出てきますよ、どっちへころんだところで政治的権力は一方的にかたむくことはわかりきっているし、そうなったら残るものは政府的思想を宣伝するための通俗ジャーナリズムだけになるんじゃないかな、僕は今にきっとあそこの荒物屋のおやじやそば屋のおやじが肩で風を切って歩き廻るような時代が来ると思いますよ」
「そうも言えるがね、||しかし案外そうじゃないかも知れないよ」
内狩は何か言おうとして口をもぐもぐさせていたがそれきりでだまってしまった。それからまた話は一転して軍の勢力関係に移っていったが言葉がとぎれると今にも彼等の生活が根こそぎにうち壊されるような、||もはや昨日まで夢みていた未来というものが、そのおぼろげなかたちさえ消え去ったあとの味気なさだけが残るのであった。しかし、それから酒が出ると話はまた前にもどって彼等は何時の間にか元の観覧席におさまり舞台の上の俳優の動静について勝手な意見を闘わしていたが、話がはずむにつれてまだまだおそろしいものが何処かに影をひそませているという気がしてきた。それが急にあたらしい好奇心に変ってきたのである。危険はすでに通り去ったようでもあるし、いよいよこれから本格的にあらわれて来そうでもある。安心と不安とが胸一ぱいにひろがって、誰も彼も言おうとして口に出して言い切れないものを残したままでかえっていったのは十時少しすぎだったが、伍一はこれから東京の叔母の家へゆこうという丸川をおくって郊外の駅まであるき、そのままひっかえして、駅から右へ一町ほど行ってすぐ左にひらけている石畳の広い坂みちをのぼってくると、坂の上からながれてくる電灯の灯かげの中に長い影を曳いてせかせかとあるいてきた男が黙って擦れちがったまま二、三歩行ってからすぐ立ちどまって、
「鷺野君!」||と呼びかけながらくるりとうしろを振りかえった。
彼の近くの高台に住んでいる先輩の島であった。文学者にはめずらしいほどの事業的才能に恵まれている島が丸ノ内のT劇場の支配人になってから滅多に会う機会はなく道であっても、「やア」と何時も威勢のいい声をかけて足早に通りすぎてゆくくらいが関の山であったが、それが今夜は急になれなれしく呼びかけられたので、伍一は虚を突かれたかたちで、
「どこへゆくんです、今頃?」
「それがね」
五十を過ぎている島の顔が青年らしい若々しさに張りきって見えた。「||今、寝ようと思っているところを電話で起されちゃってね、何でも正規軍」
と、言ってから、
「どっちがどうなのか僕にもよくわからないがね、とにかく、帝国劇場を本拠にした一部隊が警視庁と対峙していていつ何が起るかわからないような状態なんだそうだ、ところが夜になって警備の兵士が劇場のそばの料理屋にどやどやと入ってきて今、飲めや唄えの大さわぎをしているというんで万一のことがあっちゃいけないから来てくれというんだよ、||ありがたくないね、今頃からひっぱり出されるのは」
しかし、彼は格別危険におびえているという風でもなく、
「失敬」
と威勢のいい声で片手を帽子にあてたと思うとくるりと向きを変えて急ぎ足にあるいていった。伍一の頭に疲れて酔っぱらった兵卒のむれが食卓をかこんで口々に叫んだり、浪花節を唸ったり唱歌を唄ったりしている情景がうすくさびれた物語の中の風景のようにとぎれとぎれにうかんでくる。石のようにかたくなった雪は道の両側に高くつみあげられ、夜風の寒さの中から酒気に煽られた兵卒のわめきちらす声が聞えてくるようであった。もう形勢はどう動かすこともできないところまで来ているらしい。家へかえってくると彼が出てゆくのとほとんど入れちがいにやってきたという多吉が茶の間の長火鉢の前にしょんぼり坐っていたが、彼の顔には前の日のような精気がなく、左の眼から耳にかけて繃帯をしているのさえ何か痛々しいかんじであった。「どうしたのかい?」と彼がたずねると、
「いや」
と、しきりに頭をかきながら、
「それよりも兄貴のことで心配しているんですよ」
「丈ちゃん||?」
「それがね、昨日まではハッキリしなかったのが、だんだん外部関係がわかってきたらしいんですよ、||今朝も民衆聯合を指導していた根本という人が夫婦で僕の家へ逃げこんできたんですがね、兄貴は兄貴で夕方出たきりかえってこないんですよ、今のところではまだ兄貴の関係していることは警察にも憲兵隊にもわかっていないらしいけれど、やがてわかることはきまっているんですからね」
彼のはなしによると丈吉は聯合の幹事長をしている永富から情報をうけとる手筈になっていたのであるが、今朝約束の時間に訪問すると、形勢が変ってきたために永富の態度が急にぐらついてきたといって憤慨していたそうである。しかし、丈吉がどの程度まで関係があったかということにも疑えば疑える節が残っていたが、多吉はもう昨日の昂奮は洗い去ったあとのようなケロリとした顔をして、
「どうしたもんですかね、||」
と、げっそりした声で言ってから忌まいましそうに舌舐めずりをして、
「まったくどっちを向いたって人のふんどしで相撲をとろうとしているようなやつ等ばかりですよ、兄貴の友人の岩越弁護士だって昨日は朝から晩までペコペコしながら兄貴の行く先々へついて廻っていたようなやつが今日になるとどうでしょう、わるいことをまるで丈ちゃんのせいのようにして喰ってかかるような始末ですよ、その岩越が昨日、丈ちゃんといっしょに「山王ホテル」の本部へゆく自動車の中で、君、大丈夫だろうかな、というんで、もちろん大丈夫さといって答えると、いや、僕だって大臣ぐらいにはなれるだろうなと耳うちしたというんで、あとになって大笑いしちゃったんだが」
多吉はもう雪の日の朝、政治面へ打って出ようという決心をもらしたことなぞは忘れてしまったような調子で皮肉そうなうす笑いを洩らした。すると、常識の限界から飛び出すまいとつとめている人間がやっぱり心の底ではだしぬけにあらわれる偶然を待ち望んでいるということが伍一の心にますます不確かな民衆の動きをかんじさせるのであった。
「それで、丈ちゃんは一体何処にいるの?」
「そいつがわからないんですがね、しかし、兄貴はしっかりしていますよ、唯、いよいよとなったときの用意だけは今のうちにしておかないと」
幻想の消えつくしたあとのげっそりとした疲れが多吉の顔にうかんでいる。伍一はそのままひとりで書斎へ入ったが、しかし不安は叛乱軍よりもむしろ丈吉と自分との関係の中にどっしり根をおろしているように思われる。そのかんじはあくる日になると一層つよくなってきたのである。夕方になって次々と配達される号外には短い報道の中にもいよいよ叛乱軍の最後の運命のちかづいたということを暗示するような暗い翳がちらついていた。伍一は書斎の窓をあけて遠い街々の屋根にまだかすかに残っている雪のあとがキラキラと輝くのを眺め、この数日間不安に湧き立った青春がふたたび元の位置にひきもどされて小さい生活の中に
「これを今日飛行機で陣地の上から配ったんだよ、||もう駄目だね、こうなったら」
彼のはなしによると日暮れがたであったが「近衛師団長」の機智で山王台の上から帰営ラッパを吹き鳴らすと急に隊を組んでいた兵卒のむれが一角からくずれるようにうごきだしたというのである。
「それで、どうしたんだい、将校たちは?」
「ハッキリしたことはまだわからんがね、代表者の野村大尉が悲壮な訣別演説をしたそうだ、||それからみんな一斉に自決したという説もあるんだがどうもこいつは怪しいね、生き残ったとしたら何だか少し寂しいよ、死刑になることはわかりきっているんだし」
「あんなときにはやっぱりひと思いに死ねないものかね?」
「そりゃあ||」
と、内狩はだんだん冷静な表情になって、
「覚悟はしているだろうが、いざとなると万一という気もちも出てくるにちがいないからな」
悲劇はむしろそこにある||と、伍一は思わず心の中で呟いた。感激のクライマックスをとおりすぎた人間の冷やかな眼にうつる末路の現実が彼の頭に救われようのない惨忍なものをかんじさせるのである。人間が
多吉の兄の丈吉が憔悴しきった顔をしてやってきたのはもう夜が更けてからだったが、彼は外套をぬいで茶の間に腰を据えると、
「ああ」
と、かすれるような溜息を吐きながら神経的に首を烈しく振ってみせた。「いよいよ決心すべきときですね」
おさえきれない思いがうるんだような彼の眼にチカチカとひらめくのを見ると伍一は何も彼もわかっているという風に二、三度軽くうなずいてみせてから、
「それでどうするの、丈ちゃんは?」
「そのことでね」
と、丈吉が沈みきった声で言った。「相談しようと思っているんですよ、||外部の関係者は今日までに百人ちかくいるんですがまったく連絡がついていないらしいんです、だから当分どこかに身をひそめてハッキリした情報をつかんでから進退を決めようと思っているんですが」
「しかし、情報といったってもう大勢はきまっているんだからね」
「ええだけど」
たるんだような力のない声で彼は考え込むように眉をひそめた。「まだほかの情勢がどう変るかもわからないし」
「それにしたって、今となっちゃどうしようもないじゃないか、||それより問題は丈ちゃん自身の進退だね」
「そいつがどうしていいか見当がつかないんですよ、やっぱり自首して出るか、それともどこかへ逃亡しようかと考えあぐんでいるんですが」
「どっちとも僕には言えないが、どうせつかまるもんなら自首してしまった方がいいんじゃないかな?」
「それも考えるんですがね」
声が涙にくもってくるのを彼はぐっとおさえて、無理にもまだ何処かに
「どんなに追いつめられても」
と言いながら苦しそうな笑いをうかべた。「自首すべきじゃないと思います、ああ僕にだって」
眼鏡越しに伍一を見る丈吉の眼がだんだん嶮しい輝きを帯びてきた。「まだ骨がありますよ、つまり僕には生きているかぎり一つの仕事が残っているということになるんです」
「そいつはわかっているがね」
伍一は次第に切迫してくる感情を避けるために、「おい酒を持って来い」ととなりの部屋にいる登代に命じてから、
「だけど君、||そのことはまた別じゃないか、すくなくとも僕の認識の中では今度の事件についての君の役割は終っているよ。それにもし君が逃亡したとなったら家の方じゃ大へんなことが持ちあがるぜ」
「そうなんだ」
と丈吉が沈痛な声で答えた。八人の弟妹の顔や、老父母の顔が彼の瞳をかすめたのであろう、丈吉はときどき襲いかかる三日前の幻影||まだ彼の頭の中では消えがたい影を曳いている、||に胸をときめかせながら、
「僕にはまだ、今あらわれている事実だけでは信じられないものがあるんです、だからハッキリどうにもならぬという見極めがつくまで何処かへ身を潜めていようと思うんだが」
しかし、すぐひとりごとのようなぼそぼそとした声になって、
「だけど、やっぱり自首するのがほんとうかも知れないな、||しかしこの身体で二タ月も三月も留置場へつながれていたんじゃあすぐにまいってしまうと思うんですよ、ああ、やっぱり気にかかるのは家のことだな、取調べは長びくにきまっているし」
自分の陥ちこんだ運命をまだハッキリ自覚しきれないもどかしさのために彼は絶えず下唇をじっと噛みしめたり、烈しい貧乏ゆすりをしたりしていたが、酒が入ると少し気もちが楽になってきたらしく、「疲れたな!」と呟きながらごろりと横になった。それから急にむくむくと起きあがって、
「今日、来なかったかしら、多吉は?」
「じゃあ会わないんだね、||夕方かえった筈なんだが」
「夕方?」
丈吉の眼が嶮しくつりあがった。「何をしてるんだろう、困っちまうな、||あいつは家のことだけを心配してるんだから、それはそれでいいんだけれど」
前の晩にも多吉は「うなぎ屋」の店で一杯やっているうちに別のテーブルで飲んでいた仕立屋の職人とこんどの事件のことがきっかけで喧嘩をはじめ、「表へ出ろ!」と威勢よく怒鳴って大見得を切ったまではよかったが、表へ出るとすぐにしたたかうちのめされてそのまま路上にへたばってしまったというのである。
「とにかく軽率すぎますよ、あいつはもう自分の一生涯が終ったような気もちでいるんですからね、||もう少し落ちついたらいいと思うんだけれど」
丈吉はヒステリカルな調子でだしぬけに笑いながら、
「とにかく最初の日の威勢のよさったら大へんなものですよ、近所に住んでいる自動車の運転手をうまくだまして、一日じゅう危険区域を乗り廻していたんだそうですからね、運転手もまた妙なやつで、多吉といっしょにいさえすれば何かいいことがあると思ったんですね、到頭二日目の午後になってから大損をしたといってさわぎだしたというんですが」
「なるほどね」
伍一の眼には皺くちゃのニコニコ絣を着た多吉が勝手放題な
「ああ、||」
と、丈吉は感傷的な瞳をかがやかしながら蒲団の上へ起きなおって、マユミを膝の上へしっかりと抱きあげた。「ああいいな、いい子、どうしたの、||今夜はおじちゃんとねんねしようね」
彼は自分の背中を狭苦しい蒲団のそとへはみ出すようにしてマユミの寝る場所をつくってやり、きょとんとしている子供の顔を長いあいだ見つめていた。しかし、この感傷的な場面さえも伍一の頭の中では何時の間にか戯画化されたかたちに変っている。||哀愁が彼の胸の底を足早に通りすぎる陽ざしのようにかすめ去ったことも事実ではあるが、それがために丈吉の感傷に調子を合せようという気もちにはならず、胸をわくわくさせるような幻影の一掃されてしまったあとの寒々とした感情だけが堪えがたきもの、忍びがたきものの中につづいてきた自分の生活を思い出させるのであった。それはやがて、彼の頭の中で蒼ざめた青年将校たちの顔になり、うすぼやけた黄昏の空気をゆすぶってひびいてくるラッパの音になり、希望でもなければ絶望でもないあらゆる悲惨な事実を歴史のひと閃きの中で見失ってしまう宿命的なたよりなさに変ってきた。すると事件は何一つ終ったのではなく、あとからあとから起ってくるということにまだ堪えてゆかれそうな自分が始末に負えない人間のようにも思われてくるのであった。
*
丈吉が大阪にいる友人をたずねて東京を逃げ落ちる決心をしたのはあくる日の朝だった。玄関で前かがみになって靴の紐を結んでいる丈吉のうしろから、伍一が「駅まで送ってゆこうか?」と声をかけると彼は慌てて立ちあがり、
「いいんですよ、||そんなことをされたんじゃあ」
と、言いかけてから、障子のかげから顔を出してきゃっきゃっとさわいでいるマユミを見るとこみあげてくる気もちを微笑にまぎらし、
「いい子だね、||待っているんだよ、今におじちゃんがおみやをどっさり持ってかえってくるからね」
肩をおさえようとして伸ばした手をマユミは無心な素振りでそっと
「おじちゃん」
と、疳高い声で呼びかけた。「おみやを忘れちゃ駄目よ」
すると丈吉は眼をしょぼしょぼとさせながら、
「さよなら、||ね、さよなら」
と、幾度となく会釈をして出ていった。雨になりそうな空模様で、木の根や垣根の下に氷りついている雪が
と、彼は家に残ったものの迷惑を考えないで勝手に逃げ廻っている丈吉に対する非難をまじえた言葉をもらしながら何とかして自首させる工夫はあるまいかと考えあぐんでいる様子だったが、伍一あてに届いた大阪の友人からの、「ニモツトドイタアンシンセヨ」という電報を見ると、急に悲壮な気もちになり、
「どうでしょう、||いっそのこと支那へでも逃げてしまったら」
と、ひとりごとを言ったりするのであったが、しかし、次第に追求が烈しくなるにつれてやっぱり丈吉に自首させるよりほかに仕方がないということに彼の一家の意見が一致してくると、多吉は、自分にも多少心あたりがあるからと、刑事をうまく説き伏せて伍一から旅費をうけとり一人で大阪へ立っていったが、二、三日経つと丈吉とつれだってかえってきた。
彼以外の民間関係者がことごとく挙げられたという新聞の報道がもう逃げ場所のなくなっていることを観念させたらしく、丈吉はその夜、伍一の家で別れの小宴をひらいたときにも、前とはがらりと変ったあかるい調子で逃亡中につくったという漢詩風の文章を読みあげたりして愉快そうにはしゃいでいた。やるだけのことをやったというかんじにやっと落ちついたらしく、ひと晩ぐっすり眠ってから、次の朝、多吉につれられてN署へ出頭していったが、多吉は夜になってかえってくると「バカにしていやがる」と忌まいましそうに顔をしかめてみせた。「まるで一杯喰わされたようなものですよ、丈ちゃんを迎えにゆく前に僕はあの刑事と約束をしていたんですがね、きっと君の署へ自首させるからというと顔色を変えて、是非そうしてくれというんです、そしたらこっちも礼を厚うして待遇するからというんで僕は意気揚々と乗込んだんですがね、ところが行ってみると僕等を待たせておいてからすぐ丈ちゃんを検束してしまったんです、だから僕が、それじゃあ君、話がちがうじゃないかと突込むと、いや順序としてこうやっておくだけですと言うんです」
「仕方がないさ」
と、伍一が無感動な声で答えた。その夜、久しぶりで訪ねてきた内狩と彼は二階の書斎でしばらく話していたが話が少しもはずまなかった。「考えてみるとあの二、三日は楽しかったな」と、げっそりした声でうすら笑いをもらす内狩の顔にみずみずしい青春のおとろえが目立ち退屈な生活の翳がながれていた。もう四月も終りにちかづいて、銀座裏の酒場では「まだおそくはない」という叛乱軍の兵士に呼びかけた師団長の言葉が女給の殺し文句に変ってひとしきり
「どうかね、一口」
と、すすめると、彼は横の席にいた刑事の方を向いて、「どうです、吉川君」と呼びかけた。垢のしみついたワイシャツの上からうすい
「同志の本堂君です、||二人で同じ留置場にいるんでまだ助かるんですが」
と、ささやきかけると、やっと二十五、六に見える頬骨のとがった本堂が消えるようなうす笑いをうかべた。しかし、そのまま彼は元いた窓のそばの椅子に腰をおろし、正午ちかい夏の照りつける陽ざしに乾いた下の電車みちにじっと視線を落していた。電車線路のすぐ上は小高い丘になっていて、丘の上には高い
「兄弟二人とおっかさんとの三人ぐらしで、小さい印刷屋をやっていたのが兄弟二人ともやられているんです」
伍一はだまってうなずいてみせた。見るに忍びないものが、
「あの、||」
と、隅の席に腰をおろした男の方へ顔を向けた。「紹介しましょう、これが僕の親戚の鷺野伍一です」
「ほう」
ちょび髭の男は丁寧に頭を下げた伍一の方を振向こうともせず、ちらっと腕時計をすかすように見て、
「おい、だいぶ時間が立ちすぎたぞ」
と、つっけんどんな声で言った。すぐ前の席にいた刑事が、「さア、かえるかな」と丈吉を促しながら腰をあげた。一瞬間、嶮しい感情が丈吉の顔にあらわれたが、しかし彼は何時の間にか自分をおさえる習慣をつくってしまったのであろう、怒りを噛みころした唇をかすかに顫わせただけで伍一の方を向いた顔は「ごらんのとおりです」と言わんばかりの微笑をふくんでいた。窓に凭れかかっていた本堂はぴくっとして立ちあがり、何か弁解をするためにしばらく口をもぐつかせていたが、すぐ刑事に追い立てられるように出ていった。
「何か君、||差入れるものでもあったら」
と伍一は多吉に目くばせしてから、横を向いている主任の方へ、「どうもいろいろありがとうございました」と静かな表情で礼を述べ、そのまま暗い階段を下りてゆくと、多吉があとからすぐ下りてきたので、
「何か言っていた?」
と、訊くと、
「ええ」
口ごもった彼の顔がぼうっと赤くなった。「鰻が喰べたいというんですが」
「鰻を||?」
「前に僕が届けてやったことがあるんで、そいつを思いだして」
街へ出ると伍一はだまって電車の停留場まで歩き、丈吉に差入れをするための金をわたしてから一ぺん自分の家へかえろうという多吉とわかれたが、その夜、一時すぎまで机に向って仕事をしていると、しずまりかえった街の方から串本ぶしを唄う声が聞えてきたかと思うと乱れた下駄の音が次第に彼の家へちかづき、耳をすますと多吉の声になった。夜中に酔ってかえってきた多吉に