瀬川君は妙に昂奮しながら話した。彼がその巣を見つけたとき、町はずれの淫売宿にいる若い女がうしろからのぞきこんでいたということに彼は不安を感じていた。
次の日、南里君はその巣を見るために出かけた。石地蔵のところから、南里君は丹念に断崖の上に注意していったが、しかし、何処にあるかまるでわからなかった。南里君は茫然として立ちどまったまま所在なさに煙草を喫うためにマッチを擦った。すると、その音に驚いたようにすぐ眼の前の岩の小さい裂け目から羽搏きをしながら一羽の鶺鴒がとびあがった。南里君は慌てて身をひいた。その裂け目の上の方に枯草を積みあげてつくった小さい巣と、その中におずおずとうごいている三つの雛の頭をたしかに見たからである。一瞬間、南里君はかすかな衝動に襲われた。南里君が手をのばしさえすれば一羽の雛を容易に奪いとることができるのである。南里君はその雛が欲しいのではない。
「ことによると、瀧の家(淫売屋の名前)の女が怪しいぞ。夕方もう一度見て、いなかったらあいつに聞いて見よう」
と言った。眼に見えないものを
「兎に角、ひどいことをしたもんですね。そう言えば、今日わたしがくるとき巣のまわりを鶺鴒がしきりに飛んでいましたよ」
そう言った瀬川君の言葉に対して南里君は平然としてこう答えた。
「鶺鴒はもう少し人通りの多いところへ巣をつくればよかったわけですね。蛇より人間の方がどんな場合でも道徳的だと考えたところに鶺鴒の錯誤があったわけだ!」
日暮れがた、南里君は瀬川君をおくり
巣のある場所の近くまでくると、足音におどろいたのか、一羽の鶺鴒が、もう一つ上の岩角へひょいととびあがって、軽く全身を弾むように動かせながら、不安そうに二人を眺めていた。瀬川君は巣に近づいて、じっと中をのぞきこんでいたが、急に頓狂な声で叫んだ。
「一つしかいない。一つしか。||さっきまでたしかに二ついたんだが」
南里君はぎくりとした。してみると、誰れか自分のあとから、もう一つ盗んだ奴があるにちがいない。南里君は急に不安になった。ことによると、その男は自分の盗むところをこっそり見ていたのかも知れない。そして、その男は、おれがとらなくともどうせ誰れかがとるのだ、それにあの男がとった以上はおれがとったって差支ない筈だ。||見知らないその男はそう考えることによっておれに罪をなすりつけるつもりでとったのかも知れない。南里君は一瞬間、道徳的な感情の方へ引き戻されたが、すぐ猛然として跳ねっ返った。||誰れも見ていなかった。あのときはたしかに誰れも見てはいなかった。おれはこんな幻覚におびえてはいけない。
南里君は、しかし、鶺鴒の親の悲しげな視線をうしろに感じながら、そこの曲り角から自分の宿へ帰ってゆく瀬川君とわかれて暮れかかった道を歩いていった。歩きながら、彼はこの村へ来てから知り合いになった一人の娘のことを考えていた。彼女は南里君の泊っている宿からあまり遠くない街道筋にある古い寺のひとり娘で、父と母が死んでしまって、おじいさんとおばあさんとだけに養われている。そのおじいさんと南里君とは将棋の友だちなので、彼は毎晩のように寺へ出かける。ありていに言えば、実は将棋よりも娘の方が目当なのだ。彼女は今年十五歳であるが、身体つきの子供らしいにもかかわらずその瞳の底には成熟した女の嬌羞が潜んでいる。南里君が寺へゆきはじめてからやっと一ト月にも充たないのであるが、しかし、その間に娘の肉体は異常な発達を示した。それはちょうど梅雨の頃の枇杷の実が一日ごとに色づいてゆくのを見ていると同じように、南里君は娘に対して新鮮な食慾を感じた。炉をかこんで話をしているとき、南里君は鈍い電灯のほかげの中に、じっとおびえるように自分を見据えている娘の視線を捉える瞬間があった。その視線は一晩中彼を追っ駈けてきた。彼女の肉体の微細な部分についての想像が彼を悩ました。あの娘は自分の近づいてゆくのを待っているのだ、||と、南里君は思った。彼は自分の頭の上にぶら下っている木の実を空想した。
その娘のことが、不意に南里君の頭にこびりついてきたとしても少しも不思議ではない。南里君の空想は異常な速度で発展していった。今こそ、おれは何でも出来るぞ、||と、彼は思った。彼はあの娘に対して自分だけが道徳的な責任を感ずる理由は無いと思った。何故かといって、彼が若しとることを躊躇したとしても、あの色づいた木の実は、偶然あの下を通りかかった誰れかによって必ずとられるであろうから。そういう
数日後、南里君は、夜おそくまで話しこんでいた瀬川君をおくって外へ出た。夜がおそいし、それに月があるので、大気が澄み透っていた。うねうねとつづく街道筋を歩いて二人が
「こいつはね、この二、三日僕が通るごとに巣の中にしゃがんでいるんだ。雛をとられやしないかと思って警戒しているのかも知れないね||」
うしろから肩越しに覗きこむようにして瀬川君が言ったとき、鶺鴒は急に物におびえたように巣の中からとびあがり、街道を横切って樹立の闇の中へ消えていった。
南里君の眼の前には、ほのかな月明りに照らし出された空虚な巣があった。積みあげた枯草の一角がばらばらに壊れて、巣の中は空き家のようにがらんとしている。そこには小さな雛の頭すら見出すことができなかった。
「へんだね。||雛はもう一つもいないじゃないか!」
月光の反射のために瀬川君の眼がうす気味悪く光った。南里君は自分の頬の筋肉がかたくなったのを感じた。一つの情景があわただしく彼の頭をかすめたのである。小さな炉をかこんで、正面におじいさん、その横におばあさんと娘とが並んで坐っている。||彼は鈍い電灯のほかげの中に、一つの欲情のために燃えている娘の悩ましい瞳をさぐりあてると急に不安になった。
あの娘は近いうちに、きっと誰れかほかの男に誘惑されて寺を逃げだすにちがいない。||そういう予感が南里君の胸に
娘のいない古寺の台所が荒涼として彼の幻覚の中に現われてきたのである。