明るい昼すぎの喫茶店で、彼は友人と待ち合わせた。友人はおくれていた。
客のない白い円テーブルが、いくつかつづいている。夏のその時刻は客の数もまばらで、そのせいか、がらんとした店内がよけいひろくみえる。
ふと、彼は、彼をみつめている一つの
若くはない。女は、そろそろ四十歳に近い
きっと、近くの会社にいる父親||つまり女の夫でも、二人は待っているのだろう。
新聞に目をもどしかけて、だが、彼はその和服の女の眼が、べつにうろたえも、たじろぎもせず、じっと親しげに彼に向けられたままだったのにひっかかった。
女は微笑をうかべていた。正面から彼をみつめる
しばらく
まだ、いたるところに戦火の跡がみられた時代だった。中学生だった彼は、アルバイトのついでに本が読めるのをたのしみに、「好文社」の求人広告をみて入った。その店は学校の近くで、すると女主人の頼子は、ここから通ったらどう? といった。留守番がてらに。疎開先の彼の家からは、片道二時間もかけねば学校に通うことができなかった。
ときどき、頼子は彼を食事にさそってくれたりした。戦災を免れた彼女の
バラックの貸本屋の屋根裏、二畳ほどの彼にあたえられた部屋の中に、ふいに頼子があらわれたのは、その年の秋、停電の夜半だった。目がさめると、もう頼子の姿はなかった。しかし、はじめての経験の記憶はあまりにもなまなましく、わけのわからない恐怖が彼をおそっていた。彼はその日荷物をまとめ店を出ると、二度と店には行かなかった。ただ、逃げねば、とだけ思いつづけていた。
あれから、頼子とは一度も
でも、それももう古い夢のような遠い記憶、遺棄された古い記憶の一片にすぎない。平然と
頼子は少女の頭ごしにまだちらちらと彼をながめ、無言の微笑をおくっている。少女は頼子の娘なのか。十歳よりは上だろう。満で十二くらいだろうか。
突然、彼は少女の裸の肩に目を吸われた。透明な、巨大な波に似たものが彼をつつみ、彼は、動くことができなかった。||満で十二。凝然と、彼は口の中でいった。あれから、まる十三年。
小さな
一目、少女の顔をみたく思った。
よろめくように、彼は頼子のテーブルへと歩いた。
「しばらくでした」
「御機嫌よう」
頼子と言葉をかわしながら、彼は目を少女に注いでいた。少女は、おびえたような、探るような大人の目で、彼と頼子とを交互に見て、もじもじと頼子のほうに
「ええ」
と頼子は答えた。「ちょうど、十になるの」
十? 彼は口の中で問いかえして、もう一度、少女の肩をみつめた。
あざはなかった。
数分後、彼が友人と一緒に喫茶店を出て行くのを、女はしずかな笑顔で目送した。
「ねえ、ママ」すると、それまでおずおずと黙りつづけていた少女は、さも不服そうな声で女にいった。
「ママったら、いやだわ。私もう十二じゃない。どうしてまちがえたの?」
女は、答えずに、おだやかな微笑のまま目をまた扉に向けた。そのときガラスの扉がひらいて、デパートの包みをかかえた一人の中年の男が店に入ってきた。
「さ、パパがいらっしゃったわ」と、女はいった。
「パパ!」と、少女が叫んだ。
胸いっぱいに紙包みをかかえた男は、相好をくずしてそのテーブルに歩み寄った。男は、左脚をかるく引きずるようにしていた。