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呪はれた手

葛西善蔵




 彼が、机の上の原稿紙に向つてペンを動かしてゐると、細君が外からべそ面して、駈け込むやうに這入つて来た。五つになる二女がおい/\泣いてついて来た。||また継母にやり込められたのだ。

 困つたものだ||と彼は眉を寄せて、ペンを置いて、細君がおろ/\声して、例のヒステリー声して、訴へるのを聴いた。

 それは今朝、彼の八つになる長女が、学校へ行く前に、継母の貰ひ子の十二になるお春と口争ひをしたのだ。その時長女は、「お前やばあさん(継母のこと)なんか、山の畑へ行つたきり一生帰つて来なければいゝ」、とお春に言つたのだ。それをお春は継母に告げたのだ。そこで継母は好いきつかけにして、彼の細君に当つて来たのだ。

「たつた今のうちに皆出て行つちまへ! 誰のかまどでもない、おれのかまどだぞ、ひとのかまどを喰ひ潰してゐて、そんたらこと言ふものどもは、たつた今のうちに出て行け!」継母は斯う呶鳴り散らしたのだ。

「何と言はれたつて、今暫らくのことだがね、辛抱するさ。そんなこと一々気にしたつて仕方が無いよ。······あんな性質の人なんぢやないか」

 彼は斯う言つて細君をなだめにかゝつた。

「いゝえ駄目です」と、細君はかぶりを振つた。「それはあなたは子供のことだから、何と言はれても平気で居られるか知れませんが、私は嫁ですもの。あんなにまで言はれて居る訳には行きません。それで、あなたのそれが出来あがつてお金の来る間、私は子供達をつれて実家へ行つて来ます」

 細君は斯う言ひ張るのだ。

 斯うなつては駄目だ||と彼も思つた。またヒステリーでもおこされては大変だと思つたのだ。それで、「では兎に角おやぢとも相談して来よう」斯う言つて、自在鍵のかゝつた炉辺をたつたのだ。

 彼はこの二ヶ月程前に、妻と三人の子供をつれて都会から帰つて来て、父の家に居候をしてゐるのだ。そしてこの十日程前に、近所の百姓が一家をあげて北海道へ移住したあとを借り受けて、彼ひとりそこに寝泊りして、三度の食事は細君に運ばせて、書きものをしてゐるのだ。そしてそれが出来あがつて金になれば、そこへ別居すると云ふことになつてゐるのだ。併し継母の気持としては、借家も出来た以上一日も半日も、継母の所謂かまどにゐてほしく無いと云ふ訳なのだ。それで一寸したことにも目角を立てゝ当り散らすと云ふ訳なのだ······

 老いた父は、狭い店の帳場に背を丸くして坐つてゐた。彼の子供等が村の学校から持つて来た悪性の皮膚病をうつされて、それが全身にはびこつて悪寒がすると云ふので、綿入羽織を着て、襟巻までしてゐた。

 彼の顔を見ると、父は痛いやうな、また悲しげな、表情をした。それが、彼にひどく辛い気持を与へた。彼は父の煙管で二三服吸つたあとで、父の顔を見ないやうにして吃り/\言ひ出したのだ。

「それは、私の分は、これからまだ/\、もつと/\、火の中でもくゞらにやならんと思つて居るのですからね、それはどんなに言はれても構ひませんがね、併しあれは女のことですからなあ······身体ばかし大きくても、年齢ばかし多くても、から意気地無しの馬鹿者ですからなあ······

 彼は斯う言つた調子で、だから継母に余り激しいことは言はないやうにと、嘆願に言つたのだ。そしてつい昂奮して来て、二三日前の晩の妻君のヒステリーのことも話したのだ。

「何しろ困つたことだなあ······」と、父はすつかり当惑して、目をしばたゝかないばかしの顔して嘆息するやうに言ふのだ。

 併し彼もまた、これ以上のことを何か父から言はれることは、予期してゐないのだ。何故と云ふと、彼等が継母を恐れてゐる以上に父は平生から継母のことを恐れてゐるのだから。そしてその継母が、今も現に、茶の間にゐて、彼等父子が何を言ひ合ふかを聴き耳立てゝ聴いてゐるのだから。

 彼はまづ第一に、いつも斯うして彼等と継母との間に板挟みになつて苦しむ父のことを、考へなければならないのだ。

 そこへ、今日の事件の発頭人の長女が、鞄をさげて学校から帰つて来た。そして彼の、突然な詰問的な眼に見迎へられると、平常から特別に臆病な性質の彼女はすくみあがつたやうに、あがり口の処に突立つたのだ。

「お前はまたなんだつて、お春やばあさんなんか山の畑へ行つて帰つて来なければいゝなぞと云つたのか?」彼は鋭い目附して言つた。

「だつてお春が苛めるんですもの······」彼女はもう泣声であつた。

「苛めるからつて、そんな馬鹿なことを云ふ奴があるか! お前は一等の馬鹿者だぞ。お前はみよ子よりも馬鹿だ!」

 彼は斯う言つて起ちあがるとぴしやり/\と、長女の赤く丸く肥えた頬に、二度ばかし平手を呉れた。長女はわつと泣き出した。

「何をするのだ! 何も知らない子供を打つなんて······

 父は斯う言つて不自由な腰をおこしかけたのを、彼は「どうぞ構はないで······」と目顔でおさへた。

 継母は茶の間から出て来た。そして、「おゝわしが悪かつた。わしが一番悪いのだ、さあもういゝから泣かないで······」斯う言つて、彼の前から長女をつれて行つた。併し彼には、その刹那に、継母の口辺にある残忍な勝利の微笑が浮んだ気がした。

 彼は外に出た。

 打つに値しないものを打つた。意気地のない呪はれた自分だ、呪はれた手だ||と彼は九月半ばの明るい往来へ出て、何処へも顔向けの出来ないやうな気持を感じた。

 細君は子供をつれて午後の汽車で実家へ発つて行つた。






底本:「日本の名随筆 別巻65 家出」作品社

   1996(平成8)年7月25日第1刷発行

底本の親本:「葛西善蔵選集 第二巻」改造社

   1948(昭和23)年1月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:浦山敦子

校正:noriko saito

2022年6月26日作成

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