「
書生の中野が
「大層お急ぎの様子ですからどうぞ」
「誰から?」
「お名前を
父の話に興じていた五郎は、話を中断されるのが残念そうに、軽く舌打をしながら廊下へ出た。
||電話は階段の脇にある。
「僕、五郎。誰だい?」
受話器を耳にあてて
「五郎か、日東劇場の地下食堂へ、午後五時に来い。重大な話がある」
「君は誰さ、橋本か||?」
「午後五時だぞ。忘れるな」
「もしもし、誰さ君は、何の用が······」
五郎の言葉が終らぬうち、相手はガチャリと電話を切ってしまった。||五郎は腹立たしそうに受話器をかけながら、
「妙な
そう
「誰からの電話だ」
「なに
「少し疲れたからまたこの次にしよう、今日は
そう云って父親は大きな伸びをした。
五郎の父、
怪殺人事件とは?
第一は長崎要港部の看視人の怪死、第二は大幡製鉄所の若い技師の怪死、第三は瀬戸内海遊覧船「むらさき丸」の船医の怪死、第四は大阪港湾局の
「今度は東京で事件が起るぞ!」
それが市造氏の言葉であった。
五郎は府立×中の四年生で、不良の兄のために前途ある官界を放擲した父に代って、自分こそ大いに出世し、海部家の名誉を
「あいつ厭に偉がってやがる」
という
その翌日、一郎は学校で橋本に会った。電話の
||おかしいな、すると誰か
一郎は急に何だか
ところがその日の午後のことである。
一郎の妹で
「お嬢さん、お電話です」
と知らせた。
「
「名前を
「男の声? ||厭あね」
そう云いながらも、とにかく
「もしもし、あたくしゆき子ですが」
と答えた。
相手は何を云ったか? ゆき子はさっと顔色を変えた。受話器を持つ手が眼に見えるほど震えている。
「ええ、||ええ、······分りました」
しどろもどろの声で、相手の話に返辞をしていたが、
「すぐ行きます」
と云って受話器をかけると、父の部屋の方を気遣いながらそっと二階へ戻った。
校服を清楚な散歩服に着換えたゆき子は、
「ちょっと
と云い残して家を出た。
野河
「日東劇場の楽屋口へいって頂戴」
と命じたのである。
ゆき子は車へ乗ってもそわそわと
車は日東劇場の楽屋口へ着いた。
「有難う、家へは
ゆき子はそう云って料金を払うと、そのまま狭い楽屋口を入って行った。
まだ午後三時頃であったが、廊下はじめじめと薄暗く、燭光の弱い電灯がぼんやりと光っている。まだ開演前なので楽屋番もいない。ゆき子は
「あッ!」
と不意を喰ったゆき子が
「あッ、助けてーッ」
声を限りに叫ぶのを、男は軽々と
劇場の中はひっそりとして物音もしない。ゆき子がこんな罠に

一方富士見町の家では、||
夕食の時間になってもゆき子が帰ってこないので、野河家へ行ったのなら御馳走になって来るだろうと、父親は五郎とともに食事を済ませてしまった。······それから部屋へ戻って、九時頃まで昨日の怪殺人事件の話をしていたが、ゆき子の帰って来る様子がない。
「少し遅過ぎるな。お
「僕ちょっと電話をかけてみましょう」
五郎はそう云って立ち上った。そして
「父さん、野河さんにはいませんよ」
「||いないッて?」
「野河さんでは一週間ほど前きたっきりだと云ってます。茉莉さんも今日学校で別れたきり会わないんですって」
市造氏の眉が歪んだ。
「それから中野に聞いたんですが、出かける前に男の声で電話がかかってきたそうですよ」
「男の声だと、||?」
「どうしましょう」
「とにかく、もう少し待ってみよう」
そして待った。
十時を打ち、十一時を打った。ゆき子は帰ってこない。五郎は何度も||警察へ頼んだら、と云おうと思った。しかし
「もう寝よう」
時計が十二時を打った時、市造氏は怒りと不安を隠しながら云った。
「でも、なんとかしないと······」
「心配する必要はない。
そう云って市造氏は寝室へ去ってしまった。
たとえ警察の力を
するとその翌朝まだ未明の頃、電話のベルがけたたましく鳴りだした。
こんな時間の電話、きっとゆき子のことに違いない。そう思った五郎は、階段を走り降りると、胸を躍らせながら受話器を手にした。
「もしもし、こちらは海部ですが」
と云うと、相手は非常な早口で、
「今日午後五時、日東劇場の地下食堂で待つ、大事件だ。必ず待っている」
「||あッ」
例の男の声、橋本の
「もしもし君は誰ですか、用事は」
「来ないと大変だ。待っている」
相手は
ゆき子を電話で誘い出したのも男の声だったと云う。すると五郎が二度聞いた声と、ゆき子を誘い出したのとは同一の男ではあるまいか。
||そうだ!
五郎は低く呟いた。
||そうに違いない、ゆき子は奴の手許にいるんだ。そして僕の代りに苦しいめに遭っているんだ

五郎は断乎として思案を決めた。
||よし、行ってやろう。相手がどんな奴で、どんな事を要求するか知らぬが、

五郎はその足でそっと父の書斎へ入ると、大
学校の放課が四時、
約束の時間が迫って来るにつれて、さすがに胸が波うつように思われ、客の男女が出入りする
||おや?
と急に眼を光らせた。
好評を得た各地として挙げてあるのは、長崎、小倉、別府、大阪、敦賀、静岡、横浜と七ヶ所である。
||みんな怪殺人事件のあった土地ばかりではないか。
そう思うと同時に、ポスターの妖魔の絵が、まるで殺人鬼のように見え、思わず五郎は
||もしそうだとすれば、
脇の下へ冷汗が滲み出た。そして思わずポスターから眼を外へ向けたとき、
||失敬な奴!
と思って振りかえると、今しも四五人の外国人が外へ出て行くところだった。
||待てよ、こいつは電話で呼び出した奴がよこしたのかも知れないぞ。
そう思ったので、その
五郎よ、僕はおまえの兄、あのやくざな一郎なのだ。||僕はいま、劇団「笑う妖魔」の一座で道化役をしている。
「兄さん、兄さんが······」
余りに思いがけない文句だった。不良少年として新聞に書かれたとき家出したまま、今日まで行方の知れなかった兄、その兄が外人劇団の道化役になって現われたのだ。
こうなる迄 の筋道を話している暇はない、僕はこの劇団の或る重大な秘密を握った。それをおまえの手から父さんに渡して貰いたい。それで一昨日電話をかけたのだが来て呉 れなかった。昨日はゆき子にも電話したのだが、これも到頭 こなかった。奴等は僕が秘密を嗅ぎ出したことを知っているらしい。僕は厳重に看視されている。だから秘密を握っても渡す方法がなかった。然し今日こそ盗み出してやる。そしておまえに渡すのだが、僕は一歩も出られない。渡す方法は一つしかないのだ。||いいかい、五郎はここにある切符で見物席へ入るんだ。この席は最前列だ。そこに座っていれば、僕が舞台から証拠の品を投げる。そしたら、五郎はそれを拾って直 ぐ家へ帰り、父さんに渡してくれ。重大な仕事だから間違いのないように頼むぞ! もしこれが成功したら、父さんもきっと僕の罪を赦 して下さるだろう。それだけを望みに、僕は身命を賭してやるよ。五郎、頼むぞ!
哀れな兄より。
「哀れな兄より」
そう呟く五郎の眼には、熱い
||奴等にみつかったのだ。
五郎は閃めくようにそう思った。ゆき子はいま恐るべき殺人団の手に
五郎は決然と立ち上った。||そして食堂を出るとすぐ警視庁へ電話をかけ、かねて父の友人としてよく知っている布山刑事課長を呼んで何やら頼んだ後、
もう一番目の奇術の幕があいていて、場内はぎっしりの観客だった。五郎の席は一番前の列で、舞台へ手が届くばかりだ。
||これなら大丈夫。
と坐ったが、演技を見るような余裕はない。
二番目は軽い喜劇だった。三番目が舞踊、その次が喜劇を取りいれた奇術で、その時はじめて道化役が出てきた。
||だぶだぶの服、筒帽子、顔を真白に塗って眼口を
||兄さんだ。
そう思ったとき、
五郎は息をつめた。舞台では演技が始まった。
まず三人いる奇術師が、お互いに巧妙な奇術をして見せる。すると道化役が側から種明しをするという、
すると間もなく、
がん

耳を聾する銃声、
「ああーッ」
道化は喉にひっかかるような
「あ、いまのは実弾だぞ」
「そうだ、実弾らしい」
「
と観客たちも色を失って総立になった。||舞台では奇術師の一人が
「幕だ幕だ、幕を下せ」
と叫んだ。然しそのとき五郎は、
「待て! その体に触るな」
と絶叫しながら舞台へ
歓楽の大劇場は一瞬にして恐怖の
「兄さん、僕です、五郎です」
と狂気のように叫んでいた。
「

「五······郎」
「こ、こ、||ここに、······ここを、||」
胸を指さしながら、それまで云うとがくり前へのめって絶命した。||五郎は道化服をびりびりと
||どうしたんだ。
五郎は気も狂わんばかりだった。兄は死んだ、間違いか故意か? 空弾の筈の
「||ああ神さま!」
五郎は思わず
取調べは簡単だった。舞台用の
こうして取調べが進行している側で、五郎は必死に考えを
||身命を賭しても秘密を渡す、と兄さんは云った。あの言葉に嘘はない

そこまで考えたとき、五郎は兄が死ぬ間際に云った言葉をもう一度思い返してみた。
||兄さんは胸を押えて「ここに」と云った。しかし裸にして調べても何も出てこなかったではないか。そうすると「ここに」と云ったのは別に意味があるのかしら?
「あッ!」
愕然と、五郎は椅子からとび上った。
「そうか、そうか、兄さん


半ば泣くように叫んだ五郎は、いきなり司法主任の前へ突っ立って、
「
「死体に? ······重大な秘密だって?」
「すぐにやって下さい。それが説明になるでしょう。僕は父を迎えに行って来ます。||むろんこいつらは一人も逃さぬように!」
云い捨てるとともに、五郎は帽子をつかんで外に走り出した。
一時間の後、||五郎が父市造氏を伴って戻ってくると待ちかねていた司法主任は、市造氏に挨拶をするのも忘れて、
「五郎君、あったぞ、あったぞ」
と取り乱した調子で叫んだ。
「ありましたか」
「解剖したら死体の胃からすばらしい物が出てきた。見給えこれを||みんな要港地帯の機密写真だ。防空設備を写したやつもある。超小型カメラで撮ったフィルム、合計七十三枚。みんな国防上の重大なものばかりだ」
「それから手紙がある。読んでみたらゆき子さんが日東劇場の地下室に監禁されていると書いてあったから、いま救い出しに人をやったところだ」
「見せて下さい」
五郎は手紙を受取って
五郎よ、さっきの約束は取消す。
僕は彼等に発見された、万事休すだ。僕は証拠品と共にこの手紙を嚥 む。そして拳銃 へ実弾を填 める。舞台の上で僕が射殺されれば、必ず警察で手入れをするだろう。その他にもう手段はない。おまえは頭が良いから、きっと死体の解剖に気づいてくれるだろう。それを神に祈る。お父さんに会って「許して下さい」と云って死ねないのが残念だ。||五郎、おまえから云って呉れ。
「兄さんはやくざでした。然し日本人として、最後は立派でした」と。
ゆき子は日東劇場の地下室にいる。早く救い出してやって呉れ。僕はあの世からみんなの仕合せを祈っているよ。
僕は彼等に発見された、万事休すだ。僕は証拠品と共にこの手紙を
「兄さんはやくざでした。然し日本人として、最後は立派でした」と。
ゆき子は日東劇場の地下室にいる。早く救い出してやって呉れ。僕はあの世からみんなの仕合せを祈っているよ。
一郎。
「父さん、||」
五郎は
「||五郎」
市造氏が近よってきた。
「父さん」
五郎は
「見てあげて下さい。兄さんです。兄さんは立派に罪を償いました。よく死んだと······褒めてあげて下さい」
市造氏は、然し何も云わなかった。ただ黙って、一郎の冷たい手を
ゆき子はその夜のうちに救い出されたし、劇団「笑う妖魔」の一座十七名(その多くは、×××国のスパイであった)は捕縛された。||そして厳重な取調べの結果、例の七つの怪殺人事件は、彼等が撮影する現場を発見されたので殺したという事実まで判明した。······彼等がどう裁かれるか、それはここに記すまでもあるまい。