「
「殺人鬼
「うるさい、うるさい!」
平野大造氏は手を振って制した。
「いま京太郎から研究問題の説明を聞いて
「だって殺人鬼権六と
「黙れ、おまえは
「じゃア黙りますよ」
「ああもう九時ですね」
と時計を見ながら静かに立った。
「帰って勉強する時間ですから、僕は
「そうか」
平野氏は残念そうに、
「いまの話は面白かった。火山岩を
「どうか伯父さん!」
京太郎は
「そんな大きな声で
「宜し宜し、もう決して云わん」
「では失礼します。||祐ちゃん失敬」
「うう」
祐吉は不愛想に
京太郎が
「祐吉、おまえもっと
「遺産なんか貰わなくても僕ァ、伯父さんの生きている方が
「直ぐそれだ!」
平野氏は
「貴様は直ぐ金なんぞと云うが、金が無くて人間なにが出来る。京太郎を見ろ、貴様より三ツ年上だけなのに、火山岩を金に変えるという驚くべき発明をやってのけたじゃアないか、国家的にも大功績と云うべきだぞ」
「へえ||まだ万有還金などという事が
「そう云う奴だ。何かと云うと直ぐ探偵みたいな事を云う」
「あッ、その探偵で
祐吉はぐいと身を
「殺人鬼権六が潜入したとなると、こいつは二三日うちに何か事件が
「もう
平野氏が傲然と
「た、大変です。人が殺されて······」
「なに

「
京太郎の顔は、恐怖のために蒼白くひき歪んでいた。
京太郎の話は
「余りに恐ろしい光景で、前後も知らず逃げて来たんです||」
「殺人鬼権六だ

祐吉が叫びながら立った。
「||そうかも知れぬ」
平野氏は急に振返ると、大股に
「祐吉、行こう。||京太郎案内して呉れ」
「しめた! そう来なくちゃア面白くないぞ!」
祐吉は
平野氏は下男に、警察へ電話を掛けるように命じて置いて、二人の青年と共に庭から出て行った。||戸外は半メートル先も見えぬ濃霧だった。
「
やがて京太郎が立止まった。
「あの
「行って見よう」
「ぼ、僕は
震えながら云うのを、祐吉は側からもどかしそうに、懐中電灯をひったくって、
「じゃア君は待ってい給え、伯父さん行きましょう。僕が先頭を引受けます」
「気をつけろよ、まだ犯人がいるかも知れぬぞ、||足許に注意して······」
「何だ祐吉」
「手帖が落ちていたんです」
「つまらん物を、どうするんだ」
「なに、どうもしませんさ」
直ぐポケットへ押込んで歩を進めた。
栗林の中に
「うむ!
と平野氏は見るなり其場へ
「も、もう削れねえだ、もう、
「おい、確りしろ、誰がやったんだ」
「············」
「おい! 君

耳許へ口を押付けて叫んだが、老人は奇怪な言葉を最後に、絶命して
「駄目です、死にました」
と云って立上った。
「
「村の者らしいな」
「そうでしょう」
祐吉は


という字があった。
「何だ、ぐひんさんを削るとは」
呟きながら次をめくると、


再び同じ事が書いてある。日附を調べてみると、この一週間ばかり毎日同じ事が続いていた。そしてその前には、


とある。
「伯父さん、ぐひんさんて何ですか」
祐吉が振返って
「伯父さん、警察から人が来ましたよ」
一、被害者は石屋の源助老人である。
一、加害者は殺人鬼権六の見込。
一、警官隊は山狩りを始めている。
一、加害者は殺人鬼権六の見込。
一、警官隊は山狩りを始めている。
そんな事が主要な記事だった。
殺人鬼権六とは何者ぞ。彼は半年ほど前から、京、大阪、名古屋へかけて、富豪紳商を襲っては残虐極まる殺人を犯し、金品を強奪して煙のように消える、実に神出鬼没の兇賊であった。||それが今や、この南伊豆の平和境へ現われ、銀行家宮橋氏に五千円の脅迫状を叩きつけた
「恐るべき怪賊、憎むべき兇漢、||我等は
と、新聞はいきり立って書いていた。
「お早ようッ、伯父さん」
庭口から祐吉が飛込んで来た。
「ええ、
「新聞を読みましたか」
祐吉は構わず、どかっと椅子に掛け、
「警察ではもう権六権六で血眼になっていますよ。||
「まだあんな手帖に
「あんな手帖と云うけど、あの手帖のお蔭で石屋の源助という身許が分ったんですからね。||僕は今朝警察へ行って云ったんです。大切なのは源助が殺された事ではなく、どんな理由で殺人鬼が源助を殺したのか? その点を確めなければ解決の鍵は握れないッて」
「貴様······警察などへ行ったのか」
「だってそうでしょう。権六は殺人鬼だが、金品を盗むのが目的です。京大阪の事件もみんな富豪か名士に限られています。それなのにどうして
「呆れた奴だ」
平野氏はかんかんに怒った。
「いったい貴様それで宜いのか、学問などは

「まあそう怒らないで下さい」
「怒るのは当然じゃ、貴様などには一文も遺産はやらんからそう思え、馬鹿馬鹿しい」
「僕だって」と祐吉は立上って、
「遺産なんか欲しくはありませんや」
「な、何を、このッ」
平野氏が突立上るより早く、祐吉はにこにこ笑いながら素早く庭へ飛出して行った。
祐吉は医科大学生であるが、法医学(犯罪に関する医学)をやっているので、こんな事件に興味をもつのは当然であった。||客間から庭へ飛出した祐吉が、門を出て坂を下りようとしていると、向うから
「
「そうです、何か御用ですか」
「種田さんは
「京ちゃんは浜のホテルの方ですよ」
「ホテルにはいないんですが」
着古した洋服、抱えた折鞄、どことなく眼つきの悪い下品な男である。||祐吉は無遠慮にじろじろ見ながら、
「京ちゃんに何か用があるんですか」
「はあ、||少しその······」
「僕が取次ぎましょう、やがて
「然し、そうですな」
男は
「では斯う
「一体なんの用事かね君」
「学校の友達で井上だと云って下されば分りますよ」
男は冷笑するように云うと、そのまま元の道を引返して行った。||厭な奴だ! そう思った祐吉は裏道の急坂をとっとと村の方へ下りて行った。今日は東京の母からお小遣を送って来たので、郵便局へ替えに行く
「まてよ、
ふといま会った厭な男が気になり始めた。学校友達だと云うが
蔦屋という宿は乗合自動車の停留場の前にある。祐吉はその店へとび込んだ。
「ああその方ならお泊りです」
番頭は直ぐ宿帳を調べて呉れた。
「何をする人ですか」
「宿帳には金融業と書いてございますが」
「金融業······金貸だね」
金貸し、金貸し||あの
「あんな奴は、友達の借金でも
ふふんと笑いながら郵便局へ入った。
小為替を金にして外へ出ると、通りが妙にざわついている。消防組や青年団の人たちが、青竹や樫棒を持ってがやがやと物々しく往来しているのだ。||祐吉は青年団の一人を捉えて、
「どうしたんです。何かあったんですか」と訊いた。
「ええ、大倉山の方へ殺人鬼が
「殺人鬼、それは本当かい君?」
「丘の平野さんの甥で種田京太郎という人が浜のホテルにいるんです。その人が
「種田は
「猟銃を取りに平野さんのお屋敷へ行きました」
へえと思った。あの君子が猟銃を取りに行って、この連中と一緒に山狩りをやろうというのかしらん。||そいつは意外だ、そんな元気のある奴とは知らなかった。
「じゃア僕は伯父さんの
面白くなって来たぞと、祐吉は会釈もそこそこに走りだした。
栗林をぬけて行く近道を、足も宙に走りつづけて、横の通用口から裏庭へ入った祐吉、ばったり下男の銀作に会ったので、
「伯父さんは客間かい」
と訊く、||銀作はぽかんとして、
「
「え? 釣に行ったって?」
「へえ、鯛釣りだと云ってね、場所は向う淵だと云ってござらしっただ」
「なんだ馬鹿げてる!」
祐吉は舌打をした。||猟銃を取りに戻るなどと云って、矢張り山狩隊に加わる勇気はなかったんだ。
「向う淵というのは馬車で行くほど遠いのか」
「遠いだよ、あのぐひん様の下の崖道を通って五丁ばかり先だ」
「ぐひん様」
祐吉は聞き咎めた。
「なんだい、其のぐひん様て云うのは」
「あははは、
「なんだ天狗岩か······」
祐吉は失望して、伯父の部屋へ
「あっ

まるで
「畜生、そうか、そうかッ」と云うと身を翻えして、
「銀作! 馬を出して呉れ、馬を」
「あ、なにするだね、馬なんぞ出して」
「何でも宜い、早くしろ、大変だッ」
祐吉の凄じい叫びに、下男は眼を剥きながら
平野氏は
「ええ、鞍なんぞ要らん」
祐吉は裸馬の背へひらり跨がると、側に伸びていた梅の枝を
門を出て右へ、だらだら坂を下ると、村とは反対の方へ、海沿いの静かな道が坦々と続いている。それは東の半島をぐるりと廻って、下田港の方まで伸びているのだが、危険な崖道なので乗合自動車などは通らない。然し風景は美しく、
「もっと早く、ええ畜生、それっきり走れないのか、もっと早くそらッ」
アラブ種の名馬も
「あッ、伯父さーん」
祐吉は馬上に絶叫した。
「ああ、間に合った。間に合った」
裸馬を煽って駈けつけた祐吉を見ると、
平野氏は馬車の速度をゆるめながら、
「どうしたんだ」
「京、京ちゃんは? 一緒に来たんじゃアないんですか」
「一緒に来たさ」
「いないじゃアないですか」
馬車には京太郎の
「
「||伯父さんも降りて下さい」
「なに、なんだって?」
「伯父さんも降りて下さいと云ってるんです。一生のお願いです。遺産も何も要りませんから今日一度だけ僕のお願いを
「一体それはどう云う訳だ?」
「訳は後で話します、早く」
祐吉の真剣な態度に、平野氏は
「何をするんだ祐吉」
「いま面白いものを御覧に入れますよ、||さ少し後から
馬車を先へ進ませ、祐吉は伯父と共に裸馬を曳きながら、五六間後れて歩きだした。||左手は五メートル程の崖、右は百
「いったい是は」
「
平野氏に一言も云わせず、黙って行くこと
「あっ

平野氏が絶叫する、それより
ほんの一瞬の、そして実に驚くべき出来事だった。||夢でも見ているように茫然と立竦んでいる平野氏を、祐吉がつと崖下へ引寄せた。
「静かに、いま誰か降りて来ますよ」
「||||」
「騒がないで見ていて下さい」
囁いていると、やがて、崖の裂目を伝いながら、ずるずると道へ降りて来た者がある。見るとそれは種田京太郎だった。
「あ! 京太郎」
平野氏が我を忘れて叫んだ。と、その声に
「待てッ」
叫びながら、飛鳥のように
「うぬ、殺して呉れるぞ」
悪鬼のような形相で振返るや、逆に猛然と殴りかかって来た。祐吉はひっ外して相手の腕を肩へ、腰をおとして見事な一本背負だ。
「えイッ」
力任せに叩きつける。京太郎の体は地響うって崖縁へ落ちたが、岩地が
「あっ」「ああーッ」
手を伸ばしたが間に合わなかった。||京太郎は馬車と運命を共にしたのである。平野氏と祐吉は
恐るべき奸計はその最後の一歩前で曝かれた。
京太郎は善良を装いながら、実は最も不良な青年であった。彼はふしだらな生活で莫大な借金に責められ、伯父から金を引出して穴埋めをしようと、「火山岩を金にする発明」などという嘘をついたが、||平野氏がおいそれと金を出さぬと知って、遺産をめあてに平野氏殺害を思い立ったのである。
そこで、平野氏が例の道をよく馬車でドライブするのを利用し、天狗岩を落して馬車諸共粉砕しようと考え、石屋の源助に金をやって天狗岩の根元を削らせた||何と云って削らせたか、源助も京太郎も死んだ今となっては分らぬが、
||もう是以上は削れない。
死ぬ時に、妙な
然し源助を生かして置いては奸計が
「柳の虫を獲るどころか、自分は裏山から先廻りをして天狗岩の処で馬車の来るのを待っていたんですよ」
「ああ||実に、実に恐ろしい奴だ」
平野氏は身震いをした。
「然し天罰ですね」
祐吉もしんみりと云った。
「自分のかけた罠、それと同じような結果に成って自分も死んだ······あの方が彼のためにも
「そうだ、
「しかし、遺産は要りませんよ」
祐吉は朗かに笑った。