大井、
中津川の諸驛を過ぎて、次第に木曾の
翠微に
近けるは、九月も
早盡きんとして、
秋風客衣に
遍ねく、虫聲路傍に
喞々たるの頃なりき。あゝわが吟懷、いかに久しくこの木曾の溪山に向ひて
馳せたりけむ。名所圖繪を
繙きて、幼き心に天下またこの
好山水ありやと夢みしは昔、長じて人の其山水を記せるの文を讀み、
客の
其勝を説くを聞くに及びて、興湧き胸躍りて、殆どそを
禁むるに由なかりき。さればわが
昨日遙かに
御嶽の秀絶なる姿を群山
挺立の
中に認めて、雀躍して
路人にあやしまるゝの狂態を演じたるもまた
宜ならずや。
木曾の溪山は十數里、其特色たる、山に樹多く、
溪に
激湍多く、
茅屋村舍
山
水隈に點在して、雲烟の變化殆ど
極りなきにありといふ。住民また甚だ太古の
風を存し、
婦は皆齒に
涅し、
山袴と稱する
短袴を
穿ち、ことに其の清麗透徹たる山水は
克く天然の麗質を生じて、世に見るを得べからざるの美
頗る多しと聞く。まして
須原の驛の
花漬賣の
少女はいかにわが好奇の心を動かしけむ。われも亦願はくはこの山中の神韻に觸れて、美しき神のたまさかなる消息を聞かばやと思ふの念甚だ切なりき。
ことに、既に長き旅路に
勞れたる我をして、
嚢中甚だ旅費の乏しきにも拘らず、
奮つてこの山中に
入らしめたる理由猶一つあり。そは、わが親しき友のこの山中なる
福島の驛にありて、美しき詩想を養ひつゝあること是なり。この友は木曾山中の
妻籠驛に生れて、其のすぐれたる詩想とそのやさしく美しき胸とは、曾てわれをして更に木曾の山水に
憧がれしめたるもの、今しも共にその山水に對して、詩を談し、文を論じたらんには、その興の
饒き、あはれ果して
如何なるべき。これ我の殊更に遠きを
厭はずして、この山中に
入りたる所以なり。
落合驛を過ぎて、路二つに
岐る。一は新道にして木曾川の流に沿ひ、一は
馬籠峠を
踰えて
妻籠に
入る。われは其路の
岐るゝ一角に立ちて、久しくその撰擇に苦しまざるを得ざりき。聞く、新道の木曾川に沿へるの邊、奇景百出、岩石の奇、
奔湍の妙、旅客必ずこれを過ぎざるべからずと。
况んや、其路
坦々として
砥の如く、復た舊道の如く嶮峻ならざるに於てをや。されど其道を過ぎんには、わが
稚き頃より夢に見つる
馬籠驛の
翠微は遂に一目をも寓する
能はざるなり。往古の木曾の關門とも稱すべき風情ある驛舍の景は、
永久にわが眼に映ぜずして終らざるべからず。
われは遂に舊道を取りつ。
數歩にして既にその舊道のいかに嶮に、
且いかに荒廢に歸したるかを知りぬ。昔の
大路には
荊棘深く茂りて、をり/\
横れる小溪には渡るべき橋すら無し。否、
崕は崩れ、路は
陷りて、
磊々たる岩石の多き、その歩み難きこと殆ど言語に絶す。かくて溪流を徒渉すること二、路は暫し
松林の間を
穿ちて、
茅屋村舍の上に
靡ける細き烟のさながら
縷の如くなるを
微見つゝ、次第に
翠嵐深き處へとのぼり行きしが、
不圖四面打開きたる一帶の高地に出でゝわれは思はず足を
停めぬ。あゝ何等の壯觀ぞ。今までかゝる後景を背にしながら夢にもそれと知らざりしはわれながらあまりのおぞさと思はるゝばかりの美しさ。
昨日仰ぎし
惠那岳は右に、
美濃一國の山々は波濤の打寄するが如く
蜿蜒と
連り
亙りて、低き處には高原を
披き、
凹き處には溪流を
駛らせ、村舍の
炊烟、
市邑の
白堊、その眺望の
廣濶なる、殆ど
譬ふべき言葉を知らず。まして、秋の初の清く澄みたる空氣は明かに、山々の
巓に
白旗を飜したらんごとき雲の長くおもしろく
靡けるなど誰かつく/″\と眺入りて、秋の姿のさびしさに旅思を惱まさぬものかあらん。ことにわれは多恨の
遊子、秋の
草木に置く露の觸るればやがて涙の落つる悲しき身なるをや。
馬籠は風情多き
驛なり。
今の世に旅するもの、國道の到る處に昔榮えて今衰へたる
所謂古驛なるものゝ多きを見ん。
而して其の古驛なるものゝいかに荒凉
寂寞たる光景を呈したるかに傷心せざるものは
稀ならん。壁落ち、
庇傾きたる
大なる家屋の
幾箇となく其道を挾みて立てる、旅亭の古看板の幾年月の
塵埃に黒みて
纔かに軒に認めらるゝ、
傍に
際立ちて白く
夏繭の籠の日に光れる、驛のところどころ家屋
途絶えて、里芋、大根、
唐蜀黍などの畑のそこはかとなく
連りたる、殊に、白髮の
老爺の喪心したるやうに、默して背を日に
曝したる、皆これ等古驛に於て常に好く見る所の景なり。
其處には墓塲のくされたる如き
臭充ち/\て、新しき生命ある空氣は少しだになく、
住へる人また遠くこの世を隔てたるにはあらずやと疑はる。
馬籠は幸ひにして火災に逢ひぬ。火災に逢ひたるが爲め、他の古驛に見るが如き醜く
汚れたる光景とあはれに佗しき家屋とをとゞめずして止みぬ。されど古驛は依然として古驛なり。荒凉は依然として荒凉なり。見よその高原につくられたる新しき小さき家屋にいかに無限の
秋風の吹渡れるかを。更に見よ、新道の開通せられてより、更に旅客の此地を過ぐるものなく、當年
繁盛の驛路、今は一戸の旅舍をも
留めずなりたるを。
われはこの高原の上なる風情ある古驛の入口の石に腰を休めて、久しくなるまで
四邊の風景に見入りつゝ、さま/″\なる空想に
耽りたるを今猶記憶す。いかに美しき空なりしよ。いかにさびしき秋の日の光なりしよ。いかに秋風の空高く、わが思をして遠くかの
蒼に入らしめしよ。村の寺の鐘、村の
少女の唄、いかに
縹渺としてわが耳に
入り、いかに寂寞としてわが心を
撲ちたりしよ。わが腰を休めたる石の
彼方には、山より集り落つる清水の
筧ありて、わが久しく物を思へる間、
幾人の
少女來りて、その水を汲みては歸りし。
筧の細きに、水の來りてその桶に
充つること遲く、
少女は立ちてさま/″\の物語を
爲せしが、果ては久しく
留りて石の如く動かざる我が上に及びしと覺しく、互に
此方を見ては、何事をか
私語き合ひぬ。
『この
驛にて
晝餐食ぶべき家は無きにや』と我は遂に問ひぬ。
少女の最も年長なる一人進み出でゝ、
『
驛の外れに山田屋といへるあれば、そこに行きて聞きて見給へ』と教ゆ。
其顏は丸く、眼は光ありき。
驛の兩側を流れ落つる小溪、それに
臨みて衣洗へる
少女の
二人三人、
疎らに繁茂せる桑の畑などを見つゝ、
少時が程行けば、果して山田屋といへる飮食店あり。されど旅客の來りて
憇ふものもなければか、
店頭には白き繭の籠を
幾箇となく並べられ、客を待てる
準備は更に見えず。
檐頭に立寄りて、何にてもよし食ふべきものありやと問ふに、
素麺の外には何物もあらずと答ふ。止むなくこれを冷させて食ふ。常は左程
好まざるものなれど、その
旨きこと
譬ふるにもの無し。山の清水の
冷かなるが爲めなるべし。
驛を離れて峠に懸るに、
杉樹次第に路傍に深く、一歩は一歩より前なる高原の風景を失ひ、峠に達すれば、山樹
空濛として、四
顧只雲烟。
即ち疾驅してこれを
下る。
半里程にして、當面
俄かに一大奇山の蜃氣樓のごとく
聳立したるを認む。
而して僧の如き、佛陀の如き、
臥牛の如き、奔馬の如き小山脈はこれに從ひて遙かに西に
駛れるを見る。即ち思ふ、木曾の大溪はこのわが立てる山脈とかの山系との間に
横りて、其間にこそわが久しく見んことを願ひし奇絶快絶の大景は全く深く藏せらるゝなれと。
是に於て興の起るに堪へず、更に疾驅してこれに赴く。
始めて木曾の大溪に逢ひしは、
妻籠驛を經て、新舊兩道の分岐點なるなにがし橋と稱する一溪橋を渡れる
後にあり。わが最初の
寓目の感は
如何、われは唯
前山の麓に沿うて
急駛奔跳せる一道の大溪と
傍に起伏出沒する數箇の溪石とを認めしに過ぎざりしと
雖も、しかもその
鏘々として金石を鳴らすが如き音は、久しく山水に渇したるわが心を誘うて、思はず我をして手を
拍つて
快哉を叫ばしめぬ。
溪に沿ふて猶進むこと數歩、路は急に
兩傍より迫れる小丘陵の間に
入りて、溪聲俄かに前に高く、
鏗たる響は
復た以前の
々切々たるに似ず、
訝りつゝも猶進めば、兩傍の丘陵は忽ち開けて、前に一大奇景の
横れるを見る。
山は開けて上流を見るべく、一
曲毎に一
瀬をつくり、一瀬毎に一
潭をたゝへたる面白き光景は、
宛然一幅の
畫圖を
展げたるがごとし。
而してわが立てる脚下の大溪潭は、まさに是れ數十の
瀬、數十の
潭を合せたるものと稱すべく、沈々として流れ來りたる碧き水の、忽ち河中の一大奇巖に逢ひて、
々澎湃の趣を盡したる、自然の色彩またこれに過ぐべきものありとも覺えず。况んや前山の雲のたゝずまひの無心の
中におのづからの秋の姿を
具へて、
飄々高く揚らんとするの趣ある、我は
愈心を奪はれぬ。
惜むらくは時尚ほ早くして、全山紅葉の奇を見る
能はざるをと我は思ひぬ。福島にある友は、曾てわが爲めに語りて言ひき。木曾の美は秋にあり、秋の紅葉の節にあり、滿山皆なさま/″\の
錦繍を着くるの時、雲に水に山に、その色彩の多きこと殆ど状するに言葉なし。ことに、
純紫色は自然の神の惜みて容易に人間に示さゞる所、晩秋の候、天の美しく晴れたる日、
夕陽を帶びて、この木曾の大溪を傳ひ行けば、駒ヶ嶽
絶巓の紅葉
斜に夕日の光を受けて、稀にそのたまさかなる色彩を示すことあり。これわが日本畫家の知らざる所なるべしと友は語りき。まことにその晩秋の候はいかに。
これより
三留野驛へ三里。山
舒び、水
緩かに、鷄犬の聲
歴落として雲中に聞ゆ。人家或は
溪に臨み、或は崖に架し、或は山腹に
凭る。白堊の夕日に
閃めけるを望みては、其家にすめる
少女の美しきを思ひ、山巓に沈み行く一片の雲を仰ぎては、わが愁の甚だその行衞に似たるを嘆じ、一道の
坦途漸く其の古驛に達したるは、
夕陽の影漸く薄からんとするの頃なりき。
一
度は今宵は此驛にやどらんと思ひしが、猶脚の
勞れざると、次の驛なる
須原まで左程遠くもあらざるに勇を鼓して、とある
茶榻に
一休憩したる後、靜かに唐詩を吟じつゝ驛を出づ。
一里半餘にして、溪聲また大に、山容また奇なり。路は薄暮に近き山間を縫ひて、
杉樹の
蓊欝と繁茂せるところ、
髣髴として一大奇景の眼下に
横れるを見る。されど崖高く、四邊深黒にして容易に之を辨ずる能はず。
乃ち溪聲を樹間に求め、樹に
縋り、石に
凭りて
纔かにこれを窺ふ。水は國道の絶崖に
偏りて、其處に劒の如く
聳立せる
大岩に
衝り、その飛沫の飛散する霧のごとく
烟の如し。加ふるに絶崖の
罅隙を
穿ちて
々深潭に落下する一小瀑あり。
思はず奇を呼ぶ。
樹間を出でゝ數歩ならざるに、われはまた手を
拍つて快哉を叫ばざるべからざるの奇景に逢ひぬ。見よ、四邊
已に暗く、山樹、溪流また明かに辨ずる能はざらんとする今の時に當りて、當面夕日の餘光の
微かに殘れる空の上遙かに、黒く
大なる駒ヶ嶽の姿のさながら印せらるゝ如く顯はれたるを認めたるにあらずや。
諾威の詩人ビヨルンソンが山嶽小説を讀む者、皆その若主人公アルネが山中に生長して、山の美、山の靈、山の
神にいたく心を動せるを知らざるはあらぬなるべし。而してその少年が高山の
巓に沈み行く夕日の影を仰ぎ見て、山の
彼方なるめづらしき國々にあくがるゝ段は、ことに全篇の骨子として皆な人の
唱道するところ、あゝこの木曾山中、この駒ヶ嶽の絶巓に微かに消え行く
夕照の光を望み見て、
日夜都門に向ひて志を馳せつゝある少年なきや。
我は只その山容を打守りぬ。
山巓なる夕照の光は次第に微かに、いつか全く消え失せて、終にはその尨大なる黒き姿を
留むるのみになりぬ。
顧れば十三日の月光既に溪流にあり。
これより須原驛に至る間、わが
興はいかに揚り、わが吟懷はいかに振ひ、わが胸はいかにさま/″\なる空想を以て滿されたりけむ。われは
銀の如く美しき月光に浴しつゝ、
蹌々踉々として大聲唐詩を高吟し、路傍の人家を驚かしたるを今猶記憶す。酒を路傍の村舍に求め、一歩に一飮、一歩に一吟、われは全く人生の
覊絆を脱却して、飄々天上の人とならんとするが如くなるを覺えき。
須原驛に着きしは、夜の九時頃なりしが、山中の
荒驛は早くも更けて、
冷露聲なく
玉兎靜かに轉ずるの良夜も更に人の賞するものなく、旅亭は既に戸を閉ぢたるもの多かりき。わが宿りたるは
恰も木曾川の流に沿ひて、
室よりはその流の髣髴を見ることを得ざれども、水聲は近く枕に通ひて、
夢魂極めて穩かなりき。
翌朝花漬賣の
少女より一箱二箱を買ひ、活溌に旅亭を出づ。
行く/\
旭日未だ昇らず、
曉露の繁きこと恰も雨のごとし。霧は次第に
東山より晴れて、未だ
寢覺に至らざるに、日影は早くも對岸の山の半腹に及びぬ。空氣は
飽まで清澄にして、中に言ふべからざる秋の靜けさとさびしさとを交へたり。木曾川の溪流よりは
朝の水烟
盛に登りて、水聲の
潔き、この人世のものとしも覺えず。
寐覺の
床の名はかねて耳に熟せるところ、路傍にその標柱の立てるを認めて、直ちに路をもとめてこれに赴く。
臨川寺の庭に
踞して、獨り靜かに
下瞰するに、水は
飽まで
碧に、岩は飽まで奇に、其間に松の面白く
點綴せられたる、更に
畫圖のごとき趣を添へたるを見る。
雛僧あり、寺の縁起を説くの
傍、
溪に下るべきの路あるを指點し、わが爲めに導を
爲さんことを乞ふ。則ち共に
細徑を
竹林の
中に求め、石に
縋り、岩に
凭りて辛うじて溪に達す。
溪、直徑
大凡七八町、岩石の奇なるものを
屏風岩、
硯岩、
烏帽子岩、
蓮華石、
浦島釣舟岩と爲し、其水の
來るや、沈々として聲無く、其色の深碧にして
急駛せる、
座ろにわれの心を惹きぬ。岩石の中央に一小祠あり、稱して浦島太郎が
綸を垂れたるの古跡と爲す。
岩上に
盤踞して四顧すること
多時、興の盡くるを待ちて、來路をもとめ、再び木曾川の流に沿ふ。
上松驛は木曾山中福島に次ぐの
都邑にして、其の繁華は中津川以西
未だ曾て見ざるところ、街區また甚だ整頓せり。而して駒ヶ嶽登臨の客は多くこの地よりするを以て、
夏時は
白衣の
行者陸續として
踵を接し、旅亭は人を以て
填めらるゝと聞く。
上松を過れば、一
度遠く離れし木曾川は再び來りて路傍を洗ひ、激湍の
水珠を飛ばし、奇岩の水中に
横れる、更に
昨日に倍せるを覺ゆ。兩岸の山また漸く迫り、
棧橋に至りて、更に有名なる一大奇溪を現出し來る。
棧橋や命をからむ
蔦かつら、芭蕉翁の過ぎし頃は、其路、其溪、果して
如何の光景を呈したりけむ。名所圖繪を
繙きても、其頃は
路嶮に、
溪危く、少しく意を用ゐざれば、千
尋の
深谷に
墮つるの憂ありしものゝ如くなるを、
纔かに百餘年を隔てたる
今日、
棧橋の
跟なく、
溪またかく淺く平らかにならんとは、我はその變遷に驚かざる能はざりき。
されど風景としては、さして
惡しゝと言ふにてもなく、見ん人の心々にて、寢覺などよりも
勝れたりと思ふもあるなるべし。溪はその長さ二町ばかり、上流より
弦形を爲して流れ來りたるが、その弦の中央に當りたらんとも覺しきあたり、最も深潭の趣に富み、溪樹の
蓊鬱として其上に生ひ茂れる、また捨つべきものとしも覺えず。殊に、其の深潭に
臨みて、瀟洒なる一軒の
茶亭あり。名物あんころ餅は旅客の大方は憇ひて味ふところ、秋の紅葉の頃に至れば、來りて遊ぶもの
踵を接し、欄干をめぐらしたる茶亭に酒を汲みて一日を暮すもの甚だ多しと。
さはいへ、
棧橋の名の甚だ高きに
惑されて、その實の甚だ名に添はざりしを覺えしは、われに取りて實に少なからざる遺憾なるをいかにかせん。
棧橋を出でゝ一二里、路は次第に高く高くなりて、
王瀧川の來りて木曾川に會するあたりに至れば、其の岸の高さ、殆ど俯して水脈を窺ひ得るばかりなり。
不圖見れば、王瀧川の上流遠く、雲の
幾重ともなく重れる間より、髣髴としてあらはれ渡れる偉大なる山の半面。
折から過ぐる村童に、
『あれは
御嶽にや』と
指して問ひぬ。
村童は只
點頭くのみ。
あゝなつかしの御嶽! 二三日來われはいかにその
翠鬟の美しきとその姿の
卓れたるとを指點したりけむ。群山の上に
挺立すること數百尺、雲は斜にその半腹を帶のごとく卷きて、空の
碧、日のかゞやき、ある時は茶褐色の衣を着け、或時は
深紫の服をかさね、
朝は黄金の寶冠を戴きて、來り
朝する
宇内の群山に接するの光景は、いかにわがあくがれ易き心を動かしたりけむ。今、これをこの群山の間に見る、髣髴と
雖もわが心いかでかこれに向つて
馳せざらんや。
雲は見るが
中に次第に解けて、その見馴れたる山の
絶巓は、明かにわが眼底に落ち來りぬ。
われは
佇立時を移しつ。
これより山
緩かに水
舒びて、福島町に至る間、また一ところの激湍をも見ず。路も次第に
下り下りて、その
極まる處、遂に數百の
瓦甍を認む。
わが友はこの福島町なる
奇應丸の
本舖高瀬なにがしの家に
滯れりと聞くに、町に
入るや
否、とある家に就きて
先その家の所在を尋ねしに、
朴訥なる一人の
老爺わざ/\奧より店先まで出で來りて、そはこの町を右に曲りて、殆ど通拔けんとするところの右側の石垣のある家なりと親切に教へて呉れぬ。
細く暗くして古風の家屋のみ多き町を眞直に突當りつ。それより右に、旅亭の三四戸
連れる間を過れば、木曾川は路と共に大屈曲を爲して、其路の
傍に一道の
大橋を架したり。それをも顧みずに猶進めば、果して町の
盡頭とも覺しき
邊の右側に、高く石垣を築きおこしたる
嚴しき
門構の家屋あり。
これ、友の
滯れる家なり。
石階を
上らんとしてわれは少しく躊躇せざるを得ざりき。顧れば、われは身に一枚の
藺席を纏ひ、しほたれたる白地の
浴衣を着、脚には
脚絆も
穿たず、
頭には帽子をも戴かず、背には
下婢の宿下りとも言ひつべき丸き
一箇の風呂敷包を十文字に背負ひて、その旅に
窶れたるさまはさながらあはれなる乞食ともまがふべきにあらずや。
勇氣を鼓して玄關に向ひぬ。
聲に應じて出で來りたるは、此家の
下婢とも覺しき十七八歳の田舍女なるが、果してわれの姿の亂れたるに驚きたりと覺しく、
其處に立ちたるまゝ、じつとわれの顏を
訝り見ぬ。
『なにがし君は
此方に居給ふにや』
『
貴下は?』
東京より
來れるなにがしと名乘りたれど、下婢は猶
疑惑晴れざるものゝ如く、じつとわれを打守りぬ。やがて其旨を奧へ報ずべく立ち行きしが、
少時經ちて足音高く其處に立現はれしは、なつかしきわが友の姿。
『君か』
『や、
何うも
······』
『誰かと思ひし』
霰の如き
間投詞の互に
交されたる後、
灑ぎの水は汲まれ、
草鞋は
脱がれ、其儘奧の
室に案内せられたるが、我等二人は
先何を語るべきかを知らざりき。
友は
先わが衣の
汚れたるを脱がしめ、わが旅の汗を風呂に流がさしめぬ。われはいかに喜びてその清き風呂に浴し、その厚き待遇に接したりけむ。殊に湯より上り來れば、虎の皮を敷き一
閑張の大机を据ゑたる瀟洒なる一室には、九谷燒の徳利を載せたる
午餐の膳既に
陳べられて、
松蕈の
香はしき
薫氣はそこはかとなくあたりに滿てるにあらずや。
盃を執りつゝ、われ等は何をか語りけむ。友は未だ世に
公にせざる新しき詩を吟してわれに聞かせ、われはわが旅のさま/″\の興を語りて以て友を羨ましめぬ。友はいふ、君來らんとはまことに思ひ懸けざりき。またかゝる山中にて君に逢はんとは夢にも思ひ知らざりき。
此處はわが姉の
嫁げる家にて、さらに心置くべきもの一人もあらねば、長くとゞまりて、
御嶽にも登り給へ、
王瀧にも遊び給へ、殊に、
橋戸村は木曾山中屈指の勝と稱せらるゝところなれば、必ず行きて其景を探り給へ、否、君さへ其心あらば、おのれも共に行きて遊ばむと。
我はこの旅の意外に長くなりたるを語り、この山中に來りたるも、實は君に逢ひたしと思ひてなれば、君にすら逢はんには、
最早それにて望は達しぬ。都にも
爲殘したる用事多きに、
明日はいかにしても此處を
發たん。只
一夜の宿りを
······とのみ。
友の詩のかゞやけるも亦
宜なりや。
室は木曾の清溪に對して、其水聲は
鏘々として枕に近く、前山後山の
翠微は絶えずその搖曳せる
嵐氣を送りて、雲のたゞずまひまた世の常ならず。まして
屋後の花園には山ならでは見るを得られぬ珍しき草花咲き亂れて、苦吟の
後は、必ずその花園を逍遙するを常と
爲したりと、友は
秋海棠の花の咲き
後れたるを
摘みつゝわれに語りぬ。友の眉には無限の愁思あり、友の胸には無限の
琴線あり。われはこれに觸れんとして、却つてわが情の純ならざるを悔ひぬ。
午后は町を逍遙せずやといふ友の言葉に從ひて、家の若き
主人と
三人共に家を出づ。先づ、木曾川を渡りて、對岸なる
興禪寺を訪ふ。寺は町の古寺にして、域内に木曾義仲の墳墓あり。境内また
頗る廣く、盆踊の
盛なるは殆ど町中第一なりといふ。それより町をめぐりて四時少し過る頃、家に歸りぬ。
夜、友と共に再び町を散歩す。美しき月は後山より出でゝ、其興の揚れる、また此宵に似るべくもあらず。われ等は詩を語り、人生を論じ、運命を言ひて、靜かに木曾川の橋上に立てば、滿天の
風露冷かに衣を
掠め、溪流に碎くる月の光の美しきは殆ど
譬ふるに言葉を知らず。
『盆踊見んとは思はずや』
と友の言ひしは、猶それより
彼方此方を逍遙して、美しき月の光を充分に賞し盡したる
後なりき。
『まだ、盆踊はあるにや』
『一月ほど前のものとは甚しく劣れど、今も踊れるものなきにあらず。行きて見んと思はゞ、
伴ひ行かん』
『行きて見ん』
とわれは應じつ。
町を少し左に曲れば、何ともなき廣き土地に、祭禮のごとく人集りて、その中央には手拭にて頬冠りしたる若き男女
圈形をつくりつゝ手を
繋ぎ合せて
頻りに踊れり。月は水の如くその廣塲を照して、一塲の光景さながら一幅の
畫圖のごとくなるに、われは思はず興に入りてこれを見る。
友はわが爲めに説きていふ、この福島町に於ける盆踊の
盛なるは到底
此一
塲のさまなどにては想像にだも及ばぬことなり。毎年その盛期に達すれば、夜ごとに近郷近村より集り
來れる若き男女殆ど無數、皆この一塲の廣塲に集りて、
徹宵踊り騷ぐを常となし、
夜深に至るに從ひて、その踊の
圈次第に大に、一時二時頃に及べば、その一
圈の數七八十餘名の多きに達し、而してその
圈の數もまた七八組に及ぶこと尠なからず。されば淫風從つて盛に、見るに忍びざるの醜體を演ずること徃々にしてありと友は語る。
『君は其の光景を見たる事あるにや』
『
幾度も見たり。幼き頃にもよくこの地に泊りに來ては、その賑かなるさまを面白しと思ひぬ。されど今年ほどよくその光景を觀察したる事なし。見給へ、今宵などは左程熱したるさまにも見えねど、かれ等の踊りて興に乘ずるや、殆ど周圍の見物人などは眼中に無く、その自己をすら全く忘れ果てたりと思はるゝ程にて、手の揃ひ足の亂れざる、
人業にてはあらじと思はるゝばかりなり。かれ等はかくて終夜踊り、翌日は直ちに野に出でゝ烈しき勞働に從事するなるが、その根氣強きはまことに驚かるゝばかりならずや』
『町の者も出づるにや』
『
否、近在より
來れる農夫多し。町にても下等社會には
交りて踊るものあれど、中以上はこれを敢てするものなし』
われ等は盆踊より
延いて、人間に於ける動物的慾情の消長に及び、その根本的本能の性のいかに吾人人類の上に烈しく恐るべき勢力を有せるかを嘆きぬ。
歸りて
眠りしは十時過なりき。
あくる朝、友の強ゐて
留むるをさま/″\に言ひ解きて
程に
上る。旅の衣を着け、
草鞋を
穿ち、
藺席を
被ればまた依然として
昨日の乞食書生なり。友と若き主人とは少し送らばやとて
後より追ひ來りぬ。美しく晴れたる日にて、路傍の草の露の繁き、思はず人をして秋の氣の胸に
沁するごとくなるを覺えしむ。一二町にして友に
別離を告げんことを望む。友
諾せず。猶來ること數町、われより強ゆる更に數次なるに及び、さらばとて立留りしは、町を既に遠く離れて、路の少しく右に曲りたる、一株の
松樹の面白く立てる處なりき。
友は
微笑みてわが旅の姿を見送れり。われは胸に限りなき旅の淋しさを覺えたれど、しかもそを強ゐて押へつゝ一歩々々次第に
其處を遠ざかり行きぬ。一町にして顧るに、友猶ほ其處に立てり。否、わが
方を指點して
頻りに何事をか語合へるものゝ如し。猶行くこと一町、顧るに友の姿は早既にあらず。
これより
宮の
越驛に至る、
坦々砥の如き
大路にして、木曾川は遠く開けたる左方の山の東麓を流れ、またその髣髴を得べからず。宮の越驛は木曾義仲の古蹟多きを以て世に聞えたるの地、その本城たりし
山吹城の
遺址は今猶其の東端にありて、
田圃蕭條の
中仔細にその地形を指點すべく、
傍に
祀れる八幡宮の
小祠は義仲が初めて元服を加へたるところと傳ふ。
驛を過れば、山影再び
帽廂に近く、木曾川の流も亦その美しき景を眼前に展開し
來る。一危橋あり、
翠嵐搖曳するの間に架し、
刈草を滿載したる馬の
徐ろに其間を過ぎ行く、また趣なしとせず。路は
溪と共に左に折れ又右に折れ、遂に群山
重疊せる間に沒却し去る。雲あり、
輕羅のごとし。飄々として高く揚り、日光に照されてさながら
金烏のごとき光を發し、更に無限の秋風に吹かれて、次第に旗のごとく帶のごとくその山巓を卷かんとす。かくて兩山
相仄し、溪聲
雷のごとき間を過ぐること一里餘、路は更に幾屈曲して、遂に萬山の
窮るところ、蕭々たる數軒の人家の遙かに雲中に
歴落たるを認む。
これ即ち
籔原驛なり。
一時間の
後、われは鳥居峠の絶巓、
御嶽神社遙拜所の
華表の前なる、一帶の草地に
藺席を敷きて、峠を登り來りし勞を醫しながら、じつと眼下に展げられたる木曾の
深谷の景を見やりぬ。
其景や甚だ大なるにあらず、
其眺矚や甚だ
廣濶なるにあらず、否、
此處よりはその半腹を登り行く
白衣の行者さへ見ゆと言ふなる御嶽の姿も、
今日は麓の深谷より
簇々と渦上する白雲の爲めに蔽はれて、その髣髴を辨ずる能はざれど、しかもわれはこの絶巓の眺望を限りなき激賞の念を以て見ざることを得ざりき。見よ、四面の連山のさながら波濤の起伏するがごとく遠く高く
連れるを。天下
何れの處にかこのおもしろき一
矚とこの深奧なる無數の山谷とを見ることを得む。また、何れの處にかこの秋のさびしさとこの山の靜けさとを味うことを得む。况んや秋の日の光は美しく四山の白雲に
掩映して、空の
藍碧は
透徹るばかりに黒く嶮しき山嶺を包み、
中に無限の秋の姿を藏したるをや。
われは茫然として時の移るをも知らざりき。