彼には兄と妹とが一人づゝあつた。彼は第三番目で、末子であつた。隨分甘やかされて育てられたらしい。少年時から空想勝ちな兒で、學校の日課の準備をしてゐながら、遠い國々の事や、熱帶地方の光景なぞを胸に浮べて、恍りしてゐた。學校へ行くのもとかく怠け勝ちであつた。
彼の祖先等は船乘りであつた。彼の祖父はトラファルガアの海戰にも出てゐた。彼と海との關係は生前からの宿縁である。幼年時から海は恐れと不思議との感じを彼の心に充たしてゐた。暗碧の色をした果てしない水の廣野、四方から迫るが如く響きを寄せて來る夕方の海を初めて彼が眺めやつた時は、恐れと悲しみと、寂しさと、然かもなほ言ひ難い誘引とを身に感じたのであつた。
寂しさと悲しさと然かもなほ言ひ難き誘引とを起す大洋は、彼にとつては一種不可思議な世界であつた。セルトの種族の前へいつも誘引の魅力を見せる自然は、彼にも同じ力を及ぼさずにはゐなかつた。夢を追ふ心、不思議の國を追求する心、それが彼を驅つて洋上の人とならしめずには置かなかつた。
彼は佛蘭西の海軍へ身を入れて、廿九歳までには世界中を周航した。その時、彼は初めて處女作小説 “Azyad

“Le Mariage de Loti.” (千八百八十年) “Le Roman d'un Spahi.” (千八百八十一年) “Fleurs d'Ennui.” (千八百八十二年) “Rarahu.” (同年) “Mon Fr
re Yves.” (千八百八十三年) “Les trois Dames de Kasbah.” (千八百八十四年) “P
cheurs d'Islande.”(氷島の漁夫) (千八百八十六年)
海といふ不思議な國を追求して海上生活に入つた彼は、茲に初めてエグゾティックな光景と人事との鮮かな世界を、彼の藝術を通じて萬人の前へ提供する事になつた。彼の藝術の最初の出發點は、同じセルトの先人シャトオブリアンの歩みを起したると、同一點である。たゞ後者が所謂「世紀の惱み」に苦しめられ、懷疑と厭世との痛ましい經驗を味はつてゐるのに比して、前者は、眼前の光景の中へ全身を浸し、それに醉ひ、それと共に溶け合つてゐる如き姿を見せてゐる。併し兩者とも我る[#「我る」はママ]目に見えぬ世界を求め、その出現の影をとめて走つてゐる點は全く同じである。たゞ一方がより多く情緒によつてその世界の響きを傳へんとするのに比して、他方が多く官能によつてこの世界の姿を飜譯せんとしてゐる差があるだけである。それだけ前者の藝術には音樂的の暗示があり、後者の藝術には繪畫的の眩耀がある。ロチが近代の大なるアムプレッショニストであるといはるる所以もこの點に横はつてゐるのであるが、彼の藝術の生命は、その鮮かな印象そのものではなくして、その印象の奧に漂ふ不可見の或る力である。

「氷島の漁夫」は千八百八十六年、彼三十六歳の時の作である。この作には彼が幼年時から海について持つてゐた感じが最も具體的に、明瞭に、人格化せられて出てゐる。海洋を描く作家も多くある。併しロチのこの作の如く、海そのものが、自由に擴がり伸びて、地球は殆ど水の大なる球となつて、虚空を

我々はこの作を讀む時、冷たい霧深い、そして無始無終の極氷洋の光景と、灼熱した太陽の光りの溶けて漂ふ印度洋と、北佛蘭西の寂しい海岸の
またこの作は、アイルランドの劇詩人ジョン・ミリングトン・シングに影響して、その作「
シングの作中の老婆||自分等に生命を與へ、自分等を育て上げ、やがてはまた自分等の生命を奪ひ取つて行く海、その不思議な廣大な自由な水の國、その海が、その國が、彼女の男の兒を一人また一人と奪ひ取つて行くのを、ぢつと忍び耐へて、四方の水平線上から遠く攻め寄せて來るその響きに聽入つてゐる老婆、彼女は自分の運命を悲しみもし、哭きもしても、その底には深い諦めがある。彼女その者が海水の中から身を拔き出して、孤つ岩の上で休息してゐる海獸の姿のやうにも思はれる。
ロチのこの作に現はるる老祖母イヴォンヌにしてもさうである。ブルターニュの岸邊へ打ち寄せて來る海の波は、彼女の周圍の者を盡く冷たい北の波の國へ連れて行つて了ふ。然るに最後に殘つた一人の孫息子は東の方印度洋上で死んでしまふ。彼女はやがて自分と同じ運命の路を歩むべき少女ゴオドと共に寂しい孤つ家に日を送つてゐる。
女性は、彼等の作中では、運命への默從者であり、忍從者である。男性は運命の誘ふまゝに、何處へでもあれ、夢を追うて走つて行く。ロチのこの作で、この男性の代表者はヤンである。彼は強健な體躯と、負け嫌ひな氣象との快男兒である。如何に甘き陸上の戀が彼を引止めようとも、彼は遂に自分が豫見してゐた花嫁、恐ろしい歡喜の響きを立てる海と結婚するまでは、如何にしても海上生活を思ひ止まる事は出來なかつた。蛾が己が身を燒かうとも、燈火に引つきけられずにはゐられないやうに、海の魅力は遂に彼の生命を吸ひ取らずには置かなかつた。
陸上に止まつてゐる者も、海上で命を捨てる者も、いづれは目に見えぬ或る力に從はしめられ、或は誘はれたる者共である。この不可抗の力に對する一種の默聽、それこそはセルト種族の他とは異つた特徴ではあるまいか。彼等はその力を心内に聽いたと思ふ時は、何を置いてもその聲に從はずにはゐないのである。彼等が他と戰ふにしてもこの啓示によつてである。彼等が放浪の旅に上るにしても、この力を求めんがためである。
併しまたこの默聽忍從は、歡樂のたゞ中へ一脈の哀愁を漂はし、白日の底へ一味の暗涼を誘致する。畢竟目に見える世界へ、目に見えぬ世界を誘致せずにはゐられないのである。現在を現在としてでは滿足出來ず、更にその先きを求めずにはゐないのである。先きを求むる中に現在に對する不滿がある。歡樂に終始し得ざる悲しみがある。この心理は無視し笑殺し難き儼然たる事實である。たゞセルトの種族が他よりもより多くその傾向を持つてゐるといふに過ぎないのである。ルナンの内心の默示に聽け、シャトオブリアンの漂泊の思ひ、そしてロチの哀歡に想到せよ、セルト種族の心理、セルト種族の生命の一端に接し得らるるに異ひない。 (大正五年六月)