万葉集にある
浦島の長歌を
愛誦し、日夜
低吟しながら
逍遥していたという小泉八雲は、まさしく
彼自身が浦島の子であった。
希臘イオニア列島の一つである地中海の一
孤島に生れ、
愛蘭土で育ち、
仏蘭西に遊び米国に
渡って職を求め、西
印度に
巡遊し、ついに極東の日本に
漂泊して、その
数奇な一生を終ったヘルンは、
魂のイデーする
桃源郷の
夢を求めて、世界を
当なくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。
しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の
幻惑した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった
||後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里に
非ずと言って
嘆息した
||けれども、
貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、
寂しいながらも満足な晩年を経験した。ヘルン自ら、絶えずそれを
羞恥したごとく、彼のように短身
矮躯で、かつ不具に近い近眼の
隻眼者で、その上に気むずかし屋の社交
下手であったことから、至るところ西洋の女性に
嫌われ通していた男が、日本に来て初めて
人並の身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に
良人に仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に
幻滅して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、
一貫して
絶讃の言葉を
惜まなかったことによっても、またその多くの『
怪談』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を
聯想させるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有の
淑やかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に
拠るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、
飢餓と
冷遇を
忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の
惨たる
辛苦を
嘗めつくして、しかも常に魂の
充たされない
孤独に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマートでなかったにしろ、すくなくともその妻に
抱擁された家庭だけは、彼の最後に祝福された、
唯一の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の
隅に、幸福という物の
侘しい実体を見たのであろう。
すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、
環境的の
不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、
普通の常識が
思惟するように、日本を真に愛したからではなかった。その
頃の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり
醜い生存競争があり、常々不義や
奸計が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。詩人がその空想の中で
画くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、
生涯夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。だがその時、彼はその妻や子供のことを考えた。
既に老いの近づいたヘルンは、自分の死後における妻子の地位を考えた。そして
国籍を持たない家族が、財産上にも生命上にも、日本の政府から保護を受け得ないことを考えた。しかもその妻のごとき、純日本的な
可憐な女を、彼のいわゆる『
野蛮人』である西洋人の社会に、孤独で生活させることの痛ましさは、想像だけでも
耐えがたい
残忍事だった。だが彼が帰化を決心し、日本の土となることを
覚悟した時、言い知れぬ寂しさとやるせなさが、心の底にうずつき
迫るのを感じたであろう。それが日本人の
抒情的な言葉で、
あきらめと呼ばれるものであることさえ、おそらくヘルンは知ったであろう。
東京
帝国大学の
招聘に応じて、
松江や
熊本の地を去ったことも、同じくヘルンの身にとっては、愛する妻への
献身的な
犠牲だった。上陸当初の日に
一瞥して
嘔吐を
催し、現代日本の
醜悪面を代表する都会と
罵り、世界のどんな
汚い俗悪の都市より、もっと殺風景で非芸術的な都市と評した東京は、彼が死んでも住みたくない所であった。しかも彼の夫人にとって
||世の多くの若い女性と同じく
||東京はあこがれの都であり、そこでの生活は一生最高の理想であった。『わたし、フロックコート着る。東京に住む。
皆あなたのためです』と、さすがにヘルンも夫人に
愚痴をこぼしている。夫人もよくその良人の心を知り、『ヘルンの一生は、皆私や子供のために
尽してくれた犠牲でした。
勿体ないほどありがたいことでした』と、その
追懐談の中で
沁々と語っている。
彼がいかにその妻を熱愛していたかは、
焼津の旅先から、
留守居の妻に送った手紙によく現われている。
小サイ
可愛イママサマ。
ヨク来タト申シタイアナタノ可愛イ手紙、
今朝参リマシタ。口デ言エナイホド喜ビマシタ。
ママサマ、少シモアブナイ事ハアリマセン。ドウゾ案ジナイデ下サイ。今年ハ一度モ
[#「一度モ」は底本では「一度も」]夜ノ海ニ行キマセン。
乙吉ト
新美ノ二人ガ、子供ヲ大事ニ気ヲ
附ケマス。
一雄ハ深イ所デ泳イデモ
危イコトハアリマセン。コノ夏ハクラゲヲ大変
恐レマス。シカシヨク泳ギ、ソシテヨク遊ビマス。
アノ成田様ノオ
護符ノコトヲ思ウ。アノイワレハ可愛ラシイモノデス。
私少シ
淋シイ。今アナタノ顔ヲ見ナイノハ。マダデスカ。見タイモノデス。
蚤ガ群ッテ集マルノデ
眠ルノハ少シムツカシイ。シカシ朝、海デ泳グカラ、皆、夜ノ心配ヲ忘レマス。
今年私ハ、小サイタライノオ
風呂ニ二三日ゴトニ入リマス。
小サイ可愛イママサマ。
今朝成田様ノオマモリガ参リマシタ。パパハ乙吉ニヤリマシタ。スルト大変喜ビマシタ。(中略)
ママニ願ウ。自分ノ
身体ヲ可愛ガルヨウニ。今アナタ
忙ガシイデショウネ。
大工ヤ
壁屋ヤ
沢山ノ仕事デ。デスカラ身体ヲ大事ニスルヨウニクレグレモ願イマス。
私今日ハ忙ガシカッタ。本屋ガ校正ヲヨコシタカラ。シカシモウ皆スマセマシタ。
巌ト一雄、
丈夫デ可愛ラシイ。海デ沢山遊ビ黒クナリマシタ。乙吉ハ二人ヲ大事ニシテクレマス。勉強毎日シマス。
サヨナラ、可愛イママサマ。
オババサンニ可愛イ言葉。
子供ニ
接吻。
この
情緒纏綿たる手紙は、
新婚当時の手紙ではない。結婚十数年、ヘルン既に五十
歳を過ぎ、二人の男児と一人の女児の親となってる晩年の手紙である。妻を愛称して『小サイ可愛イママサマ』と呼んでるヘルンは、同時にいかにまた
子煩悩であったかが
解る。彼はいつも手紙の終りに『オババサマニヨロシク』とか『オババサマニ可愛イ言葉』とか書いている。オババサマとは彼の妻の母であって、名義上、小泉家の養子たる彼にとっては、
姑の義母に当る老婦人である。ヘルンはその妻と共に、姑の老婦人と一家に同居し、純日本風の仕方でよく孝養の道を尽した。この姑の婦人もまた、旧武士の家庭に育った士族の
娘で、純日本風の
礼儀正しき教育を受け、かつ極めて善良に優しい心根の人であった。ヘルンの文学に出る日本婦人のモデルは、多くその妻に
非ずば姑の老婦人だといわれてるが、すくなくともヘルンは、この点での好運にめぐまれていた。なぜなら日本においても、それほど貞淑な妻や善良な姑は、
一般に沢山は居ないからである。それ故ある人々は、ヘルンがもし悪妻をめとり、意地悪の姑等と同居したら、彼の神国日本観は、おそらく
顛倒した結果になったろうと言っている。
ヘルンの生活様式は、全く純日本風であった。彼はいつも和服
||特に
浴衣を好んだ
||を着、
畳の上に
正坐し、日本の
煙管で
刻煙草を
詰めて吸ってた。食事も米の飯に
味噌汁、野菜の
漬物や
煮魚を食い、夜は二三合の日本酒を
晩酌にたしなんだ。(しかし朝はウイスキイを用い、ビフテキも好んで食った。)住居は
度々変ったが、純日本風の家を好んで、少しでも洋風を加味したものを
嫌った。日本人の知人を訪問しても、洋風の応接間などに通されると、帰ってからも
甚だ
不機嫌であった。当時の日本は、文明開化の
欧米心酔時代であったので、至るところ、彼はそうした不機嫌の目に
逢わされた。日本人は立派な文明を持っていながら好んで野蛮人の
真似をしたがると、彼は常に不満を述べていた。『野蛮人』という言葉は、彼の
語藻において『西洋人』と同字義であった。
そうしたヘルンの生活は、極めて質素のものであった。彼は学生に向っても、常に
奢侈を
戒めて質素を説き、生活を簡易化することの利得を説いた。
贅沢な
暮しをするほど、生活が
煩瑣に複雑化して来て、仕事に専念することができなくなるからである。一日二三合の米の飯と、少しばかりの副食物と、二三合の日本酒とさえあれば、それで私の生活は
充分であると、その訪問客に語っているヘルンは、実際に学者風の簡易生活をしていたのである。
しかし彼の精神生活は、反対に極めてデリケートで贅沢だった。いやしくもその詩興を
損い、
趣味を害するようなものは
||人でも、家具でも、物音でも
||絶対にその家庭に入れなかった。
書斎に仕事をしている時のヘルンは、周囲のちょっとした物音にも、すぐ『私の考え破れました』といって、腹立しくペンを投げた。夫人はその追想記の中で、
箪笥の
抽出を開けるにさえも、そッと音を立てぬように気をつけたと書いている。しかしその他の場合では、罪のない
笑談を言ったりして、妻や子供の家族を笑わせ、女中までも仲間に入れて、一家
団欒の空気を作った。
どこへ旅行する時にも、彼はいつもその妻と
同伴した。唯一の例外は、二児を連れて焼津へ行った時だけだった。(その時末の女の児が生れたばかりで、母の手を
離れることが出来なかったから。)そうした彼の習慣は、普通に多くの西洋人が、彼等の風習によってするごとき、単なる形式的のものではなかった。『私少シ淋シイ。今アナタノ顔見ナイノハ。マダデスカ。早ク見タイモノデス』という焼津の手紙でも解るように、妻と同伴することなしには、どんな旅行も楽しくないほど、夫人を熱愛していたからだった。まだ子供が出来ない頃、この新婚の若夫婦は、
山陰道の
辺鄙な島々を旅し歩いた。それは本土との交通がほとんどなく、少数の貧しい漁夫たちが、所々の寂しい
山蔭に住んでるような、暗く
荒寥とした
島嶼であった。
人跡絶えた山道には、人力車の通う
術もなかったので、二人の若い男女は、
互に助け合いながら、
蔦葛の
這う細道を、
幾時間となくさまよい歩いた。そして気味わるく
物凄い顔をした、雲助のような男たちに
脅やかされたり、
黒塚の
一軒家のような家に
泊って、
白髪の
恐ろしい
老婆に
睨まれたりした。夫人はその時のことを追想して、
草双紙で読んだ
昔物語を、そっくり現実に経験した様だったと言ってる。新婚まもなく若い
稚気のぬけなかった夫人は、恐らく
恐怖にふるえながらも、人生の最も楽しく忘れ得ない夢を経験したのだ。
ヘルンは常に散歩を好み、学校の
帰途などには、まだ知らない町の
隅々を
徘徊したが、新しい興味の対象を見出すごとに、必ず妻を連れてそこへ再度案内した。『今日私、面白い所見つけました。あなた一所に行きます』と言って、ヘルンが妻を連れ出す所はたいてい多くは寂しい
静閑の所であり、寺院の墓地や、
邸の空庭や、小高い見晴らしの
丘などであった。つまり一口にいえば、今の日本の若い娘たちが、最も
退屈を感じて『
詰まンないの』というような場所であった。しかし
琴、
生花、
茶道によって教育され、和歌や昔物語によって、物のあわれの
風雅を知ってた彼の妻は、良人と共に、その楽しみを別ち味わうことができた。しかしある時、ヘルンが案内して連れ出した所は、暗い
闇夜の野道の中に、小高い丘があるばかりで、周囲は一面の
稲田であった。何の見る物もなく
風情もないので、夫人が
怪しんで質問したところ、ヘルンは耳を指して、『お
聴きなさい。なんぼ楽しいの歌でしょう』と言った。あたり一面、稲田の中で
蛙が雨のように鳴いていたのである。
松江から東京に移るまで、ヘルン夫妻は、自分の家を持たなかった。ある時は下宿をしたり、ある時は間借りをしたり、ある時は借家をしたりして、常に住居を転々としていた。しかし東京へ移ってから、子供が大ぜい生れたりして、
家内が
狭くなった上に、貯財も少し出来て来たので、夫人のすすめで売家を一軒買うことにした。ある日二人は、例によって
睦じく連れそいながら、
牛込辺の売邸を探しに歩いた。すると一軒
頃合の家が見つかった。それは昔の旗本が住んでた
屋敷で、大きな武家風の門があり、庭には
蓮池などがあった。しかし何となく陰気に
薄暗くじめじめして、
妙に気味の悪い
厭な感じがしたので、夫人が直覚的に反対したにもかかわらず、ヘルンは一見して大いに気に入り、『面白いの家』『面白いの家』と、子供のように
嬉しがって、是非それを買おうと言った。結局それは、夫人の強硬な反対によって中止されたが、後でそれが有名な
化物屋敷と解った時、夫人がほッと胸を
撫でおろしたとは反対に、ヘルンは大変失望して、『ですからなぜ、あの家住みませんでしたか。私あの家、面白いの家と思いました』と
幾度も
繰返して
口惜しがった。
ヘルンについての一不思議は、あれほど広く多方面の文献に
亘って、日本人以上に日本のことを知っていながら、日本語をほとんど知らなかったということである。彼の知ってた日本文字は、片仮名のイロハと
僅少の漢字にすぎず、彼の語る日本語は、焼津からの手紙にある通り、不思議な文法によって独創された、子供の片言のような日本語である。後に買った
大久保の家に、書斎を新しく建て増しする時、
一切の設計や事務を妻に一任して、自分は全く
無頓着で居たが、それでも妻が時々相談を持ちかけると、『もう、あの家よろしいの時、あなた言いましょう。今日パパさん、大久保にお出で下され。私この家に、朝さよならします。と大学に参る。よろしいの時、大久保に参ります。あの新しい家に。ただこれだけです』と
煩わしそうに言った。こうしたヘルンの日本語は、ヘルンの家族以外の人々には、容易に意味がわからなかった。家族の人々は、それを『ヘルンさん言葉』と呼んで面白がった。そうした
奇妙な日本語は、時にしばしば、家庭内のユーモラスな流行語となったであろう。化物屋敷の一件以来、おそらくは『面白いの家』という言葉などが、一種の反語として家族中に流行し、すべての不潔の家、陰気な家などを指す代名詞になったであろう。それは結果において、一層八雲の家庭を楽しく団欒的のものにした。
しかしヘルンの奇妙な言葉を、真に完全に理解し得たものは、彼の妻より外にはなかった。そういう場合に、妻もまたヘルンさんの言葉を使って応答した。二人の仲の好い
成人が、子供の片言のようなことをしゃべり合って、何時間もの長い間、笑ったり
戯れたりしている風景こそ、おそらく真にフェアリイランド的であったろう。そうした夫婦の会話は女中や
下僕にはもちろんのこと、子供たちにさえもよく解らなかった。『内のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉でだれにも解らない神秘のことを話している』と、学校へ行ってる男の子が、
自慢らしく仲間の子供に語ったほど、それは奇妙な別世界の会話であった。(子供と会話する時には、ヘルンは多く英語を用いた。)
元来人間の会話というものは、動物に比して甚だ不完全なものである。犬や小鳥やの動物は、単に鼻を
嗅ぎ合うとか、
尾を
振り合うとか、目をちょっと見合すとかいうだけで、
相互の意志が完全に
疎通するのに、人間は
廻りくどく長たらしい会話をして、しかもなお容易に意志を通じ得ない。自分の意志や感情やを、真によく
対手に
呑み
込んでもらうためには、対手が自分の親友
知己であり、自分の心持ちや性格やを、充分によく知っているものでない限り百万言を費して
無駄になる場合が多い。単に
眼を見合すだけで、一切の意味が
了解される
恋人同士の間には、普通の意味での言葉や会話は、全く必要がないのである。そしてヘルン夫妻の奇妙な会話が、おそらくそういう種類のものであろう。
『人生でいちばん楽しい
瞬間は』とゲーテが言ってる。『だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの秘密や楽しみやを、愛人同士で語り合っている時である』と。同じ家の中に住んでる家族の者にさえも、ほとんど全く解らない不思議な言葉で、何時間も
倦きずに睦じく語り合ってた二人の男女こそ、この世における最も理想的に幸福な夫婦であった。すべての恋する人々は、自分等以外に全く
人影のない
離れ小島の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけの会話をしたいと願うのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正にそうした通りの理想であった。彼等の愛人同士は、周囲に多くの人々が住んでる
環境に居て、しかも無人島に居る二人だけの会話を会話し、二人だけの生活を自由に
享楽していたのであった。
晩餐の時、ヘルンはいつも二三本の日本酒を
盃で
傾けながら、甚だ上機嫌に朗かだった。夫人や家族の者たちは、彼の左右に
侍って
酌をしながら、その日の日本新聞を読んできかせた。(ヘルン自身には、英字新聞しか読めなかったから。)ある日の新聞に、次のような記事が出ていた。山の手の
某所に住んでるある
華族の老婦人が、非常に
極端な西洋嫌いで、何でも
舶来のものやハイカラなものは、一切『西洋
臭い』と言って使用しない。そのためその家では、シャボンやランプはもちろんのこと女中たちの
髪飾や持物に至るまで、すべて禁令がやかましく、万事皆昔の
大名御殿にそっくりなので、どの女中も居つかずに
逃げ出してしまい、人に
頼んで
募集しても、『あのお邸なら真ッぴら、真ッぴら』と言って寄りつかない、というような記事が明治時代の新聞に特有な
洒落本口調で書いてあった。
夫人がそれを読んできかすと、ヘルンはすっかり上機嫌になってしまい、『いかに面白い。いかに面白い』と、子供のように手を
拍って
悦びながら、『私、その人大好きです。そのような人、私の一番の友達。私見る好きです。その家、私是非見る好きです。私、少しも西洋臭くない』と言って大満足なので、『あなた西洋臭くないでしょう。しかし、あなた鼻高い。眼青い。
駄目です』などと夫人にからかわれ、『あ、どうしよう、私この鼻』など言って
悄気返り、『真ッぴら、真ッぴら』と、今おぼえたばかりの日本語を面白がって使ったりして、夫人や女中たちを大笑いさせたりしているのだが、その後で、『しかし、よく思うて下さい。私この小泉八雲、日本人よりも本当の日本を愛するのです』と言ったヘルンは、真に日本を熱愛した詩人であった。晩年多少日本に幻滅を感じた時でさえも、他の外人が日本を悪意的に批評する時、いつも
憤然として
大に
怒り、さながら自分の愛人を
侮辱された時の
騎士のごとく、
鋭い
反撃の
槍をふるって
突き当って行った。そうした八雲の心理は、我が子の
魯鈍に幻滅を感じてる親が、他人から、その愛児の悪評を聞いて怒る心理と、よく似たものであったと思われる。
日本が西洋臭くなり日本の文化や風俗やが、日々にますます欧米化して来ることは、ヘルンにとって
忍びがたい
悲哀であった。なかんずくヘルンを最も悲しませたのは、
盆踊等の農村行事や風俗やが、明治政府によって禁圧されたことから、自然に
衰褪して来ることだった。彼はそれを
憤慨しているが、むしろ彼の真の怒りは
基督教に向っていた。政府が盆踊を禁ずるのも、国民が欧米人の
真似をするのも、固有の日本文化が
亡びるのも、すべて皆基督教の宣教師が宣伝するためであり、一切の悪は
耶蘇教の罪に帰せられた。『皆、耶蘇がさせるのです。耶蘇が皆悪くするのです。耶蘇、日本の敵です』と、至るところで彼は耶蘇教を
罵り、その宣教師を
仇敵のごとく
憎んでいる。そうした彼は、事実上において熱心な仏教信者でもあった。彼の
信仰の中には、仏教的な
輪廻永生思想があり、それがヘルンらしい純情の詩人的想像によって、一種独特の人生観にまで展開していた。『自分が死んでから、後生が鳥や虫に生れ変るとしても、自分は少しも悲しいと思わない。なぜなら鳥や虫の生活の方が、人間よりも不幸であるとは思えないから』と、あるエッセイの中で書いてるヘルンは、日本人の民族化した仏教情操であるところの、あの『物のあわれ』の
抒情的ペーソスを知ってたのである。
そうしたヘルンの小泉八雲が、常に最も好んだ散歩区域は、寺院の閑静な
境内だった。特に東京の
富久町に居た時には、近所の
瘤寺へ毎日のように出かけて行った。その寺は庭が広く、背後に老杉の
茂った林があったので、彼の
瞑想的な散歩に最も好ましい所であった。寺の
老僧とも
懇意になり、ついにある時、自分がその住持になりたいと言い出し、夫人と次のような問答をした。
『ママさん私この寺に
坐る。むずかしいでしょうか』
『あなた、
坊さんでない。ですから、むずかしいですね』
『私、坊さん。なんぼ仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』
『あなた、坊さんになる。面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よき坊さんです』
『その同じ時、あなた
比丘尼となりましょう。一雄
(註、長男)小さい坊主です。いかに可愛いでしょう。毎日経よむと墓を
弔いするで、よろこぶの生きるです』
『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』
『ああ、私願うです』
人間よりも、虫や鳥の方が幸福だと言ったヘルンは、人生について、悲哀の外の何物をも知らなかった。
厭離一切娑婆世界の
厭世観は、ヘルンの多くの作品中に
一貫して、その
特殊な文学情操の基調となってる。
彼の文学は、本質的に我が『
方丈記』や『
徒然草』の
類と同じく、仏教的無常観によった『
遁世者の文学』であり、ヘルン自身がまた現実の『遁世者』であった。寺の住持になって世を
隠遁し、
読経と
墓掃除に余生を送りたいといった彼の言葉は、決して一時の戯れではなく、彼の心の無限の悲哀を告白した言葉であった。だがそうした八雲の悲しい心は、常に最も夫人の心を痛ましめた。なぜならそれは、どんな貞淑に行き届いた妻の奉仕も、決して
慰めることのできないものであったからだ。しかしもし、現実に八雲が世捨人になったとしたら、おそらくその貞淑な夫人もまた、『その同じ時』比丘尼になったかも知れないのである。
こうした悲しい対話
||これほどにも悲しい対話があるだろうか
||が、いつもこの夫婦の間では、半ば詩のごとく、半ば笑談のようにして語られた。『あなたの鼻高い、あなたの眼大きい』などという時、夫人はいつも指でヘルンの顔を突ついたりして、子供を
扱うようにして戯れからかった。その
度ごとに、ヘルンはまた『ごめん、ごめん』などと言って笑いふざけた。そうした
外観だけを見ている人は、おそらくこうした夫婦の生活を、たわいもない子供の『ままごと』遊びのように思ったであろう。しかもその対話の中には、いつも人生の最も悲哀な言葉が
含まれていた。そしてその悲哀の意味を知ってるものは、世界にただ二人の、妻と良人よりなかったのである。『家のパパとママとは、だれにも解らない不思議な言葉で、だれにも解らない神秘なことを話している』と子供が
無邪気に言った言葉は、実際にもっと神秘な意味をもっていたのである。
ヘルン夫妻の結婚は、すべての点において特異であり、世の常の
凡俗な夫婦関係とちがっていた。ヘルンにとっての夫人は、この世にただ一人の愛人であり、永久に『可愛い小さいママさま』であったと共に、またその仕事の忠実な助手でもあり秘書でもあった。日本字の読めないヘルンは、その『怪談』や『
骨董』やの題材を、主として妻の口述から得た。怪談を話す時には、いつもランプの
蕊を暗くし、
幽暗な怪談気分にした
部屋の中で、夫人の前に
端坐して耳をすました。話が
佳境に入って来ると、ヘルンは恐ろしそうに顔色を変え、『その話、
怖いです、怖いです』といっておののきふるえた。夫人にとっては、それがまた何より面白いので、話がおのずから
雄弁になり、子供に聞かすようにしてなだめ話した。
こうした夫婦の生活では、読書が妻の重大な役目だった。ヘルンが学校に行ってる間、夫人は
暇を
盗んで熱心に読書をし、手の
及ぶ限り、日本の古い伝説や怪談の本を
漁りよんだ。夫人が書斎の掃除をしたり、家事の雑務をしたりする時、ヘルンはいつも不機嫌であった。『ママさん。あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ、話たくさん、私にして下され』と言った。しかしヘルンは、素読される書物の記事には、何の興味も持たなかった。すべての物語は、夫人自身の主観的の感情や解釈を通じて、実感的に話されねばならなかった。『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません』と常にいった。それ故多くのヘルンの著作は、書物から得た材料ではなく、その妻によって主観的に
飜案化され、創作化されたものを、さらにまたヘルンが詩文学化したものであった。それ故にヘルンもまた、自分の著作は皆妻の功績によるものだといって、深く夫人の労に感謝し、ある著述のごときは、実際に夫人の名で出版しようとしたほどであった。しかし夫人はあくまで良人に対して
謙遜だった。
彼女は
田舎の程度の低い学校を出たばかりで、充分の高等教育を受けなかったので、常に自分の無学を悲しみ、良人に対して満足な
奉仕ができないことを
嘆き
詫びた。
ある時ヘルンから万葉集の歌を質問され、答えることができなかったので、泣いてその無学を詫び、良人に不実の罪の許しを
乞うた。その時ヘルンは、
黙って彼女を
書架の前に導き、彼の
尨大な著作全集を見せて言った。この沢山の自分の本は、一体どうして書けたと思うか。皆妻のお前のお蔭で、お前の話を聞いて書いたのである。『あなた学問ある時、私この本書けません。あなた学問ない時、私書けました』と言った。実際もし彼の妻がインテリ女性であったとすれば、日本の古い伝説や怪談やを、女の素直な心で率直に実感することはできなかったろう。『無学で貞淑な女は天才以上である』とニイチェが言っているが、ヘルンの妻のごとき女性は、正にその意味での『天才以上』であったのである。
こうした貞淑の妻にかしずかれて、日本での晩年を平和に暮した詩人ヘルンは、さすがに自らその寂しい幸福を自覚していた。彼はその故国の友人に手紙を書き、日本での生活
実況を次のように
詳述している。
曰く、学校の講義が終ると、車夫が人力車を持って
迎えに来ている。家の
玄関へつくと、車夫がとても
威勢の
好い大きな声で、『オ帰リイ』と
叫ぶ。すると家中の者がぞろぞろ出て来る。妻や女中たちが、玄関の畳に
列び坐って、『お帰り遊ばせ』とお
辞儀をする。それから座敷へ上ると、妻が洋服をぬがせて和服に着かえさせてくれる。まるで女の子が、人形を
玩具にするようである。私は妻の
為す通りに任せている。それから少し休息し、書斎に入って仕事をする。晩食の時には、一家の者が集まって話をする。私が日本酒を飲むので、妻が酌をしてくれる。女たちはよく笑う。私も時々笑談を言う。仕事の多い日には、しばしば
夜更かしをして書きつづける。そういう時、妻はわざわざ私の所へやって来て、『
遅くなりますから、お先へ休ませて
戴きます』と言う、
丁寧に三つ指をついてお辞儀をし、それから自分の
寝床へ入る。度々のことで
面倒だから、今度から
止めにして、先へ勝手に寝ることにしろと何度も言うが、妻は婦道に背くと言い、なかなか承知しないので困っている
云々(大意)と。
こうした手紙の中に、ヘルンの大得意な
満悦さが現われている。実際彼の妻のように、良人に対して忠実な奉仕をする女性は、普通の西洋婦人の中にはほとんどなく、これほどまた男が
殿様扱いにされる家庭生活も、西洋では考え及ばないことであるから、ヘルンの手紙をよんだ外国人たちが、いかにその日本の友人を
羨望したかが想像される。ヘルン自身も、もちろんまたそれを意識して書いてるので、『どうだ。
羨やましかろう』という
自誇の情が、そうした手紙の言外によく現われてる。
しかしヘルンのように神経質で気むずかしく、感情の変化が
烈しい男に仕えるのは、普通のありふれた日本の女性では、容易に為し得ないことであったろう。真の『貞淑』とは、良人に
奴婢としての善き奉仕をすることではなくして、良人の気質や性格をよく理解し、努めて良人に同化して一心同体となることの奉仕である。そしてそのためには、人の心理を
洞察する
聡明な
智慧と、絶えず同化しようと努めるところの、献身的な意志と努力が必要である。ヘルンの妻であった日本女性は、もとより極めて聡明であったと共に、武士道ストイシズムの家庭教育から、非常な意志の力をもって努力した。彼女は自らそれを告白して、良人の気性をすっかり
呑み
込むようになるまでは、一通りでない努力をしたと言ってる。しかしよく解った後では、全く子供のように
正直一途で、子供のように純情無比の人であったと言ってる。実際ヘルンは
||多くの天才的な詩人と同じように
||本質的に子供らしい純情さと無邪気さを持った性格者だった。そのため夫人は一面において旧日本的な婦道と礼節とによって、
恭しく彼に仕えながらも、半面においては彼を子供扱いにせねばならなかった。夫人にとってのヘルンは、最も
信頼する良人であったと共に、一面ではまた『大きな
駄々ッ
子坊や』でもあった。ヘルンの趣味はすべてにおいて
庶民的で、儀式ばったことが嫌いなので、フロックコートなどの礼服を非常に嫌い、常に野蛮人の服と称し『なんぼ野蛮の物』と言っていた。それで学校に式のある時など、他の教師は皆礼服で列席するのに、ヘルンは
一張羅の背広で
押し通していた。しかしそれではあまり体面に関するので、夫人が是非フロックコートを新調するようにすすめたが、
頑として中々きかない。それで夫人から『あなた、日本のこと、大変よく書きましたから、お
上で、あなた
賞めるためお呼びです。お上に参るの時、あなた、シルクハット、フロックコートですよ』などと、子供をだますようにして説き
伏せられ、やっと礼服を新調したけれども、やはり少しも着ようとしない。それで式のある日などには、夫人が無理に
押えつけ、女中までが手伝って
騒ぎながら、まるで駄々ッ子を扱うように、あやしたりすかしたりして、
厭がるのを
強いて着せねばならなかった。
いわゆる『文明』を嫌ったヘルンは、反対にあらゆる自然を深く愛した。特に虫や鳥やの小動物を愛し、
蛇、蛙、
蝉、
蜘蛛、
蜻蛉、
蝶などが好きであった。それらの小動物に対して、彼はいつも『あなた』という言葉で呼びかけ、人間と話すようにして話をした。そうした彼の宇宙的博愛主義は、草木万有の中に
霊性が有ると信じられてるところの、仏教的な
汎神論にもとづいていた。それ故彼は、動物を始め植物に至るまで、すべて生物を
虐めたり殺したりすることを非常に
叱った。女中が蛇を追ったといって叱られ、植木屋が
筍を
抜いたといって怒られ、はては『おババさま』の姑でさえが、
枯れた朝顔をぬいたというので『おババさま好き人です。しかし朝顔に気の毒しました』と
叱言を言われた。
ヘルンはまた
猫が特別に好きであった。松江に居た時も焼津に居た時も、道に捨猫さえ見れば拾って帰り、
幾疋でも
飼って育てた。夫人と結婚して間もない頃、雨でずぶ
濡れになった小猫を拾って帰り、その
泥だらけのままの猫を
懐中に入れて、長い間やさしく暖めていた。夫人の告白によれば、自分の良人に対する真の愛は、その時初めて起ったという。これほどにも情深く、心根のやさしい人があるかと思い、ヘルンに対して、何かいじらしく
涙ぐましいものさえも感じたというのである。
そうしたヘルンの家庭では、自然界のちょっとした出来事や現象やが、いつも
物珍らしく大騒ぎの種になるのであった。たとえば裏の
竹藪に蛇が出たとか、
蟇が鳴いてるとか、
蟻の山が見つかったとか、
梅の花が一輪
咲いたとか、夕焼が美しく出ているとかいうようなことを、だれか家人の一人が発見すると、一々それをヘルンの所へ報告に行く。するとヘルンは大悦びで部屋をとび出し、『いかに可愛きでしょう』とか『なんぼ楽しいの声でしょう』とか『いかに
綺麗』とか言いながら、何時間もその小動物を
眺めたり、夕焼雲を見たりして悦ぶので、そうした小事件が見つかるたびに、女中や書生等の家人たちが、さも
大手柄の大発見をしたように、功を争ってヘルンの所へ
馳つけるので、いつも家中が
和やかに
賑っていた。
しかし仕事をしている時のヘルンは、最も気むずかしやの
八釜しい主人であった。家内のちょっとした物音や話声にも、感興を破られたといって苦情を言った。夫人でさえも書斎に入ることは許されなかった。ちょうど『美しいシャボン玉』を
壊さないように、注意に注意して気をつけましたと、未亡人となった夫人が後で言っている。しかしあまり部屋が乱雑に散らかるので、夫人が
折を見て掃除に行くと、『あなた、いつも掃除、掃除、掃除。あなたの悪い
病です』といって、中々許してくれないので、書斎はますます乱雑になるばかりであった。
ヘルンの机の
座右には、常に日本の煙草盆と煙管がそなえてあった。ヘルンは日本の煙管を好んだので、夫人が外出するごとに変った物を見付けて帰った。それがたまって三十本にもなってるのを、残らずヘルンは座右におき、仕事の
中にも手当り次第に
掴み出しては、
国分の刻煙草をつめて吸ってた。ある時夫人が、
江の
島に遊んだ
土産として、大きな
法螺貝を買って帰った。ヘルンはそれがたいへん気に入り、『面白いの音』といいながら、
頬をふくらして、ボオボオと
吹き鳴らしては、また『いかに面白い』といって吹き続けた。それでその貝を机に置き、今後煙草の火が消えた時は、手を鳴らす代りに貝を吹くという
約束にした。
西大久保の家に移った時は、ヘルン夫妻と姑の外に、子供が三人。女中が二人、書生が一人、
老僕が一人、他に
抱車夫が一人という大家族であったので、家も相当に広く、間数がいくつもあって
廊下続きになっていた。しかしヘルンが仕事をしている時は、家人が皆神経質に注意しているので、家中がひッそりとして
閑寂に静まり返っていた。そういう時の夜などに、ヘルンの書斎から法螺貝の音が聞えて来ると、それが広い家中に響き渡って、ボオボオと
余韻の
浪をうって伝って来る。すると『それ貝が鳴った』とばかり、夫人を初め女中や書生たちが大騒ぎをし、先を争って離れの書斎に
駈けつけた。『吹くのが面白いものだから、自分でわざと火を消しては、やたらに吹いた』と、夫人が追想談で話しているが、おそらくそういう場合、ヘルンの筆が行き
渋り、感興が中断した時であったろう。そうした時の寂しさとやるせなさを
紛らすために、詩人はわざと煙草の火を消し、ボオボオという寂しい貝を吹いたのである。
晩年の八雲は、痛ましいまでその仕事に熱中した。既に老の近づいたことを知った彼は、自分の残されてる短かい時間に、なおまだ書かねばならない大事の事が、あまりに多くありすぎるのを考えて
愁然とし、『人生は短かすぎる』と
幾度も言って
嘆息した。彼は心臓に病があった。その危険な
兆候が、五十
歳を
越えてからしばしば現われて来た。初めて大久保の新居に移った時は、春の
麗らかな日であって、裏の竹藪で
鶯がしきりに鳴いてた。八雲は
縁側に立ってそれに聞き
惚れ、『いかに面白いと楽しいですね』と言って喜んだが、また『私、心痛いです』と言った。何か心配でもあるのかと夫人が聞いたら、あまり楽しくて
嬉しいので、いつまでこの家に住み、いつまでこんな幸福が続くかと思い、それがまた心配になって来たと言った。そうした彼の言葉通りに、現実の心配が
迫って来た。老いが既に来り、死の近づいて来たことを知った彼は、すべての自然を感傷的に眺めることから、万象に対して愛以上の深いものを注いだ。ある晩秋の日に、庭の
桜が返り咲きをしたのを見て、『春のように暖かいから、桜思いました。ああ今、私の世界となりました。で咲きました。しかし
······』と言って悲しげに『かわいそうです。今に寒くなります。
驚いて
凋みましょう』と言った。桜は実際その日一日で散ってしまった。またその同じ秋の夕べ、
籠に飼ってる松虫が鳴いてるのを聞き、『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ悦びました。しかし段々寒くなって来ました。知ってますか。知っていませんか。
直に死なねばならないということを。気の毒ですね。かわいそうな虫』と寂しげに言い、この
頃の暖かい日に、そっと草むらの中に放してやれ、と家人に言いつけた。
その頃のヘルンは、瞬時を
惜しんで仕事に熱中していたため、以前のようには、度々妻と一所に旅行したり、散歩したりすることができなかった。それで妻の
屈託を慰めようとし、夫人に向って度々外出や
遊山をすすめた。『外に参りよき物見る。と聞く。と帰るの時、少し私に話し下され。ただ家に本を読むばかり、いけません』と言った。また時々は夫人に
芝居見物をすすめて、『
歌舞伎座に
団十郎、たいそう面白いと新聞申します。あなた是非に参る、と、話のお土産』など言いながら、後ではいつも少し
凋れて『しかしあなたの帰り、十時、十一時となります。あなたの留守、この家私の家ではありません。いかに
詰らんです。しかし仕方がない』などと言った。
初めて病気の
発作が起った時、ヘルンは自己の運命をすっかり自覚し、死後における妻子の保護と財産の管理とを、親友の法学士に一任して、後に心がかりのないようにした。そして妻に向って言った。『この痛み、もう大きの、参りますならば、多分私は死にましょう。私死にますとも、泣く、決していけません。小さい
瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位です。私の骨入れるために。そして田舎の、寂しい寺に
埋めて下さい。悲しむ、私よろこばないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。いかに私それを悦ぶ。私死にましたの知らせ、
要りません。もし人が
尋ねましたならば、ハア、あれは先頃なくなりました。それでよいです』と、そして何か困難な事件が起ったならば、法学士の梅氏に相談しろと言った。『そのような
哀れな話、して下さるな。そのようなこと、決してないのです』と夫人が言うに対しても、『心からの話、
真面目のことです』と言い、『仕方ない!』と死を
覚悟していた。しかもなお残された仕事のことを考え、『人生は短かすぎる』と幾度か嘆息した。
桜の花が返り咲きをした日から、数日を経てまもなくヘルンは死んでしまった。死ぬ前の日に、彼は不思議な夢を見たと妻に話した。それは日本でもない、支那でもない、大層遠い遠い見知らぬ国へ、長い旅をした夢であった。そして今ここに居る自分が本当か、旅をした自分が本当かと夫人に問い、『ああ夢の世の中』、と
呟いて寂しげに嘆息した。わが漂泊の詩人
芭蕉は『旅に病んで夢は
枯野をかけめぐる』といって死んだ。夢見ることによって生きた詩人等は、また夢見ることの中で死ぬのであった。世界の国々を漂泊して、ついに心の郷愁を慰められなかった旅人ヘルンは、最後にまたその夢の中で漂泊しながら、見知らぬ遠い国々を旅し歩いた。今、この悲しい詩人の
霊は、
雑司ヶ谷の草深い墓地の中に、一片の骨となって埋まっている。
(昭和十六年九、十月)