日本は四面海に囲まれていながら、海洋の文学が乏しい。海上生活を描いた
私は山を好む。それは山の空気は下界とは異り、爽やかであるためである。山を好むと云っても、身体
登山家の深田久彌氏が云っている。「僕などはただの山好きで、降りたり登ったり景色に見惚れたりするだけで満足している男であった。功利的な収穫は何一つないが、ただ漫然と山を歩いていることがきっと眼に見えぬ生命の大きな貯えになっているに違いない。」
この態度がいいと私は思う。そこが深田氏の『わが山々』という近刊の登山記録集が、清新で面白い所以である。あまり玄人染みた登山家のは、我々には案外面白くない。氏はまた「風景鑑賞の玄人は、次第に渋みがかった落ちついた景色が好きになる。」と云い、ニイチェの文句を引用し、「ジュネーヴからモンブランを見た景色はつまらない。ただ観念的な知識の慰めがあるばかりだ。」と云ったニイチェの感想に同感しているが、私自身に取っては、ジュネーヴから見たモンブランの景色は天下の絶勝のように感銘されている。
スイスの湖水、アルプスの山々は、近年はむしろ平凡視され、登山者はヒマラヤの連峰などに熱意を注ぐようになったそうだが、我々には登山記のうちでは、今なおスイス物が最も趣味豊かである。日本人の筆に成ったものでは、辻村伊助という人の『スイス日記』が最も傑れている。これは登山紀行中の神品である。アルプスの雪崩の中に巻き込まれ生死の境を体験してようやく助ったこの著者は、十余年後の大地震の際、箱根の山崩れに会って、家とともに埋没されたそうである。