今年の三月上旬頃、井伏鱒二の『青ヶ島大概記』を読みながら(この小説は佳作である)、私は青ヶ島という言葉を
||「
『日本風景論』は明治二十七年十月二十九日に初版が発売され、私の持っている十一版は明治三十三年八月六日発行であるから、約六年の間に十一版を重ねている。これは当時の出版界では可なり読まれた証拠になる。尤も、私がこの本を買ったのは、今から十三四年前、本郷の古本屋である。
買った当時、私は嬉しくて、二三度この本を通読したものである。
一昨年の秋(?)のことである。私がその『日本風景論』を手に入れた頃、これも三度も四度も(それ以上)通読した『日本アルプス』の著者小島烏水に思いがけない所で知る栄を得たばかりでなく、その崇拝していた先輩から『氷河と万年雪の山』という本を贈られた。私は贈られたその日にその本を通読した。尤も、その本の中には既に新聞雑誌で読んだものが十数篇入っていたが。
(前記『日本アルプス』四巻は、四五年前、友人に貸し無くしたので、残念ながら、その初版出版年月を記憶しない。)
その『氷河と万年雪の山』の中の「槍ヶ岳の昔話」と題する一篇の中に、
「近ごろの古本漁りは、江戸時代は珍本どころか、大抵の安本までが、払底のため、明治時代に下って、初期の『文明開化』物から、
「三 木曽山脈と相対して、高峻を競い、之を圧倒して、北の方越後海辺まで半天に跳躍
中央大山脈は鋸歯状に聳えて、四壑のために鉄より堅牢なる箍 を匝 ぐらしたるもの、曰く鍋冠山、曰く霞沢山、曰く焼嶽、或ものは緑の莢を破りて長く、或ものは、紫の穂に出て高きが中に、殊に焼嶽(中略)は、常春藤の繞纒 せる三角塔の如く、黄昏 は、はや寂滅を伴いて、見る影薄き中に屹立し、照り添う夕日に鮮やかに、その破断口の鋭角を成せるところを琥珀色に染め、(中略)初めは焼嶽を指して、乗鞍と誤認したるほどなりき、乗鞍に至りては、久しく離別の後に、会合したる山なり、今日大野川に見て、今ここに仰ぐ、帽を振りて久闊を叫びしが、峰飛びて谿蹙 まる今も、山の峻峭依然として『余の往くところ巨人有り焉』(My giant goes wherever I go)と、そぞろ人意を強うせしめぬ、(下略)(拙著『鎗ヶ嶽紀行』)
この一群中に卓絶せるを、鎗ヶ嶽となす、その『日本風景論』、『日本山水論』、『日本アルプス』その他の山岳書を読み耽った頃、私は『山恋ひ』という三分真実七分空想の中篇小説を書いた。その表題の脇に
北に遠ざかりて
雪白き山あり。
雪白き山あり。
||小島烏水著「日本アルプス」の中の言葉
と題註のようなものを添えた。これは前記『日本アルプス』の中のところが、最近、ふと『平家物語』を
「······宇津の山辺の蔦の道、心ぼそくも打越えて、手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白根という。その時、三位中将落つる涙を抑へつつ、
惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白根をも見つ」
という一節を読み、十二三年前に作った小説の題の脇に添えた文句の出所を初めて知った訳である。||小夜中山というと、
甲斐が根をさやにも見しがけけれなく横ほりふせるさやの中山(古今集の内、東国歌)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古今集の内、西行)
の二首を私は思い出した。年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(新古今集の内、西行)
小夜中山は、今の東海道線金谷駅から西方半里程の旧東海道にあるということである。私は小夜中山に行ったことはないが、沼津の牛臥でか、東海道線の沼津を過ぎた辺か、御殿場辺だったか忘れたが、汽車の窓から、富士の西に引く裾野の空に、雪を被った赤石山脈(或いは甲斐ヶ根或いは白峯、白根)の山々を眺めたことを覚えている。沼津と金谷(佐夜中山)とは可なり離れているが、赤石山脈ほどの高山であれば、東海道中の随所から望めるかも知れない。高山の遠望は今でも私の心を引く。
高山の遠望||といっても、私などの乏しい思出など述べて恥を曝すことは凡そ大人気ない事であるから、遠慮して、唯一つ、これも大人気ない話であるが幾らか愛嬌がある話であるから、書いてみる。||
或る年(大正末年頃)の二月頃、亡友直木三十五と日本アルプスを眺望するだけの目的で飯田町駅を夜の十一時の汽車で出発した。今考えると、どうしてそのような行先を選んだか見当がつかないが、木曽福島行の切符を買った。私たちはまだ三十歳を越したばかりの時だったから、「木曽福島」という名に憧れたのだったかも知れない。近松秋江が或る夏この木曽福島に何日か滞在した時の思出話に、大変涼しい、(それを秋江一流の美文調で聞かされた、)窓を開けると木曽の御岳山が月明の中に聳えているのが見える、||これは何と間違った話であろう。何故なら木曽福島のいかなる高楼に登っても御岳山のオの字も見えないからである。併しこれは恐らく私に劣らぬ机上山嶽家(当時は二人ともこの名にも値しない)であった秋江の空想談か、私が秋江の別の話をそんな風に取ったのか、||という話を私が思出して、先ず木曽福島に行こうと私が云い出したものか、或いは当時は直木も『木曽福島|御岳山|木曽節』などという甘い空想を抱くことが好きだったから、彼が木曽福島行を主張したのか、私は覚えていない。
唯、その時の記憶で最も私の印象に(今でも)はっきり残っているのは、乗換の為に塩尻駅で下りた時、満目悉く枯れ尽くした桑畑が日の下に曝されている野の果に、北アルプスの山々が、全山雪に蔽われているかと思われる程、余り白くて、じっと目を据えて正視できない程、二月の晴れた空の下、輝いていたパノラマ風の眺望である。直木も私も「あッ!」と云ったまま道の真ん中に突立った。今にして残念に思うのは、そんな事はあり得べきことではないが、十数年後に面識を得た、小島烏水か深田久彌が、突然私たちの傍に現れて、例えば、あれが乗鞍、あれが穂高、あれが槍、あれが何、等であります、と説明してくれたら、直木か私か、
その翌朝、私たちは木曽福島を立って大町に向かった。生憎、その日は朝から曇り日で、松本から大町行の汽車に乗った頃は、折角楽しみにしていた穂高、槍、大天井、燕などの名山は雲に隠れて見えなかった。唯、有明山が殆ど全く見えたのが一つの慰めだった。有明山は別名信濃富士と呼ばれる通り美しい優しい姿をしている。
信濃なる有明山を西に見て心ほそのの道をいくめり
これは西行の歌であるが、この山が見えた時、直木にこういう歌があるよ、と云うと、「西行らしい歌だな、」と彼が云ったことを思い出す。私たちが大町に着いた時は小雨が降っていた。その晩、土地の妓を呼ぶと、(宿屋の番頭が二人か三人かと云うと、直木は見本のつもりだから一人でいいと云ったことを思出す、)妓の大きな島田
「粉雪か」と云って直木は微笑した。これは直木を知っている人だけにしか分らないが、直木の微笑は実に可愛い嫌味のない善良な純な無類の微笑であった。俳優(例えば中村鴈治郎の目)が際立って彼の芸を生かす場合、『目千両』という言葉がある。その言葉を捩って云うと、直木は『微笑千両』であった。直木を思出すと、私はいつもこの『微笑千両』の直木の顔を思出す。||
この時、私たちは一週間近く晴れる日を待ったが、(大町が曇っているのに松本の方の空が晴れていることがしばしばあったので、)とうとう、晴れて、鹿島槍岳、爺ヶ岳、蓮華岳等の所謂北アルプスの諸山を見ることが出来ずに、大町を引上げた。
その後、眺望でなく、私たち(直木と私)は本当に登山しようと思立ち、三年程の間、今年の夏は、来年の夏は、などと云いながら、結局、計画倒れになってしまった。
これから、書斎山嶽家(?)振りを述べるつもりだったのであるが、締切日の最後の時間になったので擱筆する。
(六月十一日)