創作家のランジェは、黙って、大きな
「あなたは、これが要るんですか。どうしても取りかえそうと云うんですか」
彼はおろおろ声でいった。が、マダム・ヴァンクールは何もいわずに
「こうした要求が男の心にどんな
ランジェはもう一度哀願してみたが、女は返事もしないで、ただ手をのべるばかりであった。
「僕も悪かったけれど、そんなに
「もう沢山、愛なんてことを二度と
彼女の声は少しも潤いのない、冷淡なものであった。
「そんなら、あなたは僕というものを全然信用しないんですね。僕がこの手紙を利用して何か悪事でも企らみはしないかとお思いなんでしょう。だから返してくれなんて云うんでしょう」
彼は、女に
しかし女は彼の言葉を耳にもかけない風で、
「とにかく返して下さい」
とせがんだ。それでランジェもついに断念して、抽斗をぴしゃりと閉め、それから腰をかがめて、
「じゃお返ししましょう」
女は文束を取り戻してしまうと、ほっとしたように相好を和らげて、やっと緊張していた態度をゆるめた。そして一しきり
それは悩ましい瞬間だった。
ランジェはもうがっかりしてじっと額を押えていた。が、女は早くも元の冷静に立ちかえって、優しくしかし妙に冷酷を押包んだ口調で、じゅんじゅんと弁解をはじめた。
彼女は今大きな椅子の肱掛けに手をおいていたが、以前の彼女は入って来るなり
「わたしは、何も貴方に対して悪意をもっているのではありませんよ。貴方だっても
ランジェは慌てて反抗するような身振りをやった。けれども彼女は笑って、
「いえ、いえ、それに違いありません。わたしは
「僕は、あなたのその涙がたった今欲しい」
すると女は、ふと
「そんなことを
悲しそうに声を曇らせたが、
「ときどき
しかしランジェは黙って首をふった。
「いいえ、ちょいちょい来て下さらないと困るわ。ぱったりお顔が見えなくなると、人がまた変な噂を立てますからね」
「そんなら伺います」
それから一週間の間、ランジェは
次の一週間もそんな風に過ぎて行った。今に女から電話ぐらいかかるだろうと心待ちに待ったけれど、それもかからないで早くも一ヶ月経った。何だか気になって来た。幸い、ときどき訪問すると約束をした言葉があるので、彼女の接客日ときまっている木曜日に、勇気をふるって出かけて行った。
「まアお珍らしい。この頃はすっかりお見限りですね」
白ばっくれて小言をいった。
「
とランジェも調子を合せた。
彼が来たために一寸途切れた主客の会話が、またつづけられた。それがランジェには耳新らしいことばかりで、しかも自分が招待を受けなかった
マダム・ヴァンクールは、ランジェが黙りこんでいるのを見て、
「大そう
皮肉に問いかけると、彼は一生懸命になって弁解をはじめた。
「この頃は書きつづけですからね。何時間も
「きっと、お書きになる小説の中の人物と一緒になって、泣いたり笑ったりしていらっしゃるんでしょう」
そういって彼女は笑った。
「まアそんなものですが······」
「結構な
「それがさ、
「でも貴方は健筆家でいらっしゃるから、ほんとうに結構ですわ」
とマダム・ヴァンクールはにやにや笑いながら妙に皮肉ないい方をした。
ランジェは一寸考えこんでいたが、やがて真面目くさった口調で、
「いや、どういたしまして。今やっている仕事なんか筆が渋って仕様がありません。実は大変不幸な出来事が突発して、仕事の上に大打撃をうけたのです。一体今度の作は、手紙小説の形式で行こうと思って書きはじめたのです。もちろん有りふれた型ですがね。しかし僕の場合に限って立派に成功する望みがあったのです。というのは、僕はそのモデルとして傑作ともいうべき恋文を沢山もっていたからです。ところが申し上げるのも変なお話ですが、その婦人が僕を捨ててしまったんです。いったい恋文などは、貰った当人以外の者にとっては一向値打のないもので、その当人だって時が過ぎると何の興味も感じないものですが、僕が貰ったその恋文というのは清新そのものといっていいくらいで、いつ読んでも感動させられます。僕があれだけ感動したんだから、一般読者の胸に響かんということはありません。その手紙の署名と日附を変えて、ちょいちょい加筆しただけでも、熱情的な、すばらしい恋愛小説が出来ます。その手紙を書いた婦人は、何も名文を書こうなんていう野心からでなく、只もう感情を有りのままにさらけ出したものですがね、実にすばらしい傑作です。その
「気が差して書けないと
とマダム・ヴァンクールが訊いてみた。
「いや正直に告白しますが、決してそんなわけではありません。実はその婦人が手紙を返してくれといいだして、僕が
可成り時刻が経ったので、客はぽつぽつ帰って行った。
最後に居残ったランジェも
「明日、お宅へ伺いますわ、あの手紙を持ってね」
ランジェは外套の襟を直しながら、怪訝そうに彼女の顔を見まもった。それから慇懃に腰をかがめて、彼女の手に接吻をして、
「折角ですがね、マダム。あの話は、あなたの手紙のことじゃありません」