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ペルゴレーズ街の殺人事件

モーリス・ルヴェル Maurice Level

田中早苗訳




 列車は夜闇やみの中をひた走りに走っていた。

 私の車室はこにいた三人の乗客||老紳士と、若い男と、ごく若い女||は、誰も眠らなかった。若い女がときどき若い男に何か話しかけると、男は身振りで答えるばかりで、またひっそりと沈黙におちた。

 二時頃に、速力を緩めないで或る小さな駅を素通りした。駅燈がちらと車窓まどをかすめると、やがて車体が転車台のところでがたがたおどったものだから、うとうとしかけたばかりの若い女は、その震動と音響で目をさました。

 若い男は、手套てぶくろをはめた指先で窓硝子を拭いて外を覗きこんだが、駅の時計も、ランプも、駅名札ももう闇にかくれていた。

「ジャック、ここは何処なの」

 女がものうい声で訊くと、若い男は懐中時計を出してちょっと考えて、

判然はっきりわからんがね、時間からいうと、もうきにポンターリエだろう」

いや、まだなかなかですよ」と老紳士が口をはさんだ。「まだトンネルも越しませんからな」

 若い男はお礼をいった。女は溜息をついて、

「ほんとうに、この汽車は何て長いんでしょうね。わたしちっとも眠れないのよ。せめて新聞でも買っておいて下さればよかったのに」

「失礼ですが」

 老紳士はそういって、幾枚かの新聞を彼女の方へのべた。

 彼女はしとやかにそれを受けて、莞爾にっこりした。若い良人おっとはお礼ごころに巻煙草の函を老紳士の方へさしのべて、

「一本いかがですか」

難有ありがとう」

 その若い男は三十ぐらいの苦味ばしった細面の好男子で、きりりと引緊ひきしまった体格からだに、粋な服装みなりをしていて、眼付はごく柔和で、殊に細君を見るときの眼ざしが優しかった。

 細君は夢中になって新聞に読みふけっているらしかった。若い男はすべりおちた膝掛を直してやって、細君の眼が疲れぬように、ランプの蔽いをおろしてから、ちょいと彼女の手を撫でて、

「これでいいだろう」

 細君は莞爾にっこりした。そこで若い男は老紳士の方へ向きなおって、

「どうも難有ありがとうございました。この汽車は長くて、辛いですね。殊に家内は夜汽車に慣れないものですから」

 すると老紳士は愛想よく答えた。

「この季節は夜明けが遅いもんだから、ヴァロルブへ着いてもまだ暗いのに、彼駅あすこでは税関の手続きがあるので、三十分間の停車です。貴方がたは多分伊太利イタリーへいらっしゃるんでしょう」

「いや、瑞西スイスへ出かけるところです。家内が少し健康からだがわるいので、医者から山へ転地しろと云われたものですから。しかし山が寒くて此女これが困るようでしたら、湖水の方へ降りるつもりです。此女これはよほど大切だいじに保養せねばならんのです。それに私もこの頃過労くたびれているので、ゆっくり静養したいと思います」

 若い細君は、新聞を続けざまに皆な読んでしまってから、

「何もありませんわ。私の大好きな記事を書いてくれないんですもの。わたしは小説なんかよりも、あの事件の後報つづきを待っているのよ」

 良人おっとは肩をすぼめて、

「あの事件の何処にそんな興味があるのか、不思議だね」

「何処って、全体が面白いのよ。巧妙な殺人||謎の事件||素的じゃありませんか」

 すると、老紳士も我慢がしきれないといった風でその話に口を出した。

「あなたのおっしゃるのは、ペルゴレーズ街の殺人事件のことでしょう、マダム」

「ええ、あれは面白い事件じゃありませんか」

「実に面白いですね」

「そうれ御覧なさい、この方も同じ御意見よ」

 男は眼を伏せたなりで新聞をひろげて、

「一体どうした事件だったかね」

「あら、貴郎あなたも新聞を読んだくせに。先晩劇場しばいの幕間にあんなに詳しく読んだではありませんか。それに今朝だって発つ前にも······

 すると男は新聞を手から落して、呆れたように細君の顔を覗きながら、

「こら、お前は気でも狂ったか。僕は読まないといったら読まないんだよ」

 と如何にも素気そっけなく、殆んど乱暴な口調でいった。彼は見たところ柔和で優しそうだが、決して細君の口答えを許しておくような、お目出度い亭主でなかったに違いない。それに、先刻さっきあんなに優しかった碧眼あおめが急に険しくなって来たので、私ははらはらした。と、彼もすぐ私の驚きに気づいたらしく、気をかえて去りげなく云いなおした。

「ああ、わかったよ。遊びドミモンデーヌが自分の家で、夜中に短刀で殺されたとかいう事件だろう」

「夜中じゃない、真昼間よ」

 と若い妻君が訂正した。

「昼間だったかね。賊は金や宝石をさらって行ったんだろう。ざらにある事件さ」

「どういたしまして。もっともっと不可思議ミステリューな事件ですわ」

「お前の怪事件ミステール好きには降参だよ」

 彼は歎息して、また『タン』紙を読みつづけた。

 若い細君は老紳士の方へ向きなおって、

「その不幸なひとが兇行に遭っている最中に、誰か戸口へおとなっただろうという説もありますが、どうも左様そうらしいですわね」

「あなたは、うしてそれを信ずるのですか」

「ごく簡単なことでございます。というのは、賊が入ったにも拘らず宝石類が一つも紛失していません。箪笥の上には高価な指輪が二つと、ダイヤ入りのブローチが一つ、元のままに載っていて、陳列玻璃ガラス函の中の骨董品にも手を触れた形跡がなく、へやの中は整然きちんとなっていたそうです。きっと犯人は突然戸口に人が来た物音に驚いて、獲物を取込む暇もなかったのでしょう。ですからあの犯人は、大した得にもならなかったのです」

 しかし老紳士は首をふって、

「ところが、大儲けですよ。あんな大儲けをした殺人事件は、この数年来ありませんな。おまけに賊は悠々とってけたのです。それは私が保証します」

「そんなら、何故宝石を盗らなかったでしょうか」

「それは賊が利口な奴で、『貨幣かねや紙幣は無難だが、宝石類は所持していても売っても足がつき易い』と考えたからです。当節は電信や電話というものがあって、犯罪者も迂闊うっかり出来ませんよ。例えば海上で無線電信でんわをかけると、犯人は法律で引渡しを禁じられている安全な国へ上陸する前に捕縛されますからね」

「けれど今度の犯人は、早速足がつかないように要慎ようじんして、抜け目なく立廻ったんでしょうね」

「それは左様そうですとも。結局捕まりっこありませんな」

 老紳士はきっぱりと云いきった。私はもう黙っていられなくなって、

「ところが皆さん、それが怪しくなって来ましたよ」

 とつい口をすべらしてしまった。若い細君はびっくりした風であった。老紳士は新聞の蔭からじろりと私の顔を見て、

「私はこの事件の関係記事を全部読みましたがね」と彼はいいだした。「非常に注意して、新聞を十種も読んでいるが、そんなような報道は一つもていないじゃありませんか······

「その筈です。今私がいったことはごく最近に発見わかったので、明日にならないと、世間へは知れないんです」

 すると若い細君は熱心に乗り出して来た。

「貴方は新聞社の方でいらっしゃいますか」

「いや、奥様マダム。しかし情報は詳しく知っていますよ。私は警察の嘱託医として最初の検証にも立会いました。そのときは||あの兇行のあったへやが暗かったものですから||短刀で胸を一突きにられたのが致命傷ということだけ判ったのですが、屍体を屍体置場モルグへ運んでから、私が改めてしらべると、左の乳房の下に、可成り大きな一種の汚点しみを発見しました。茶褐色を帯びていて、恰度人間の手型をしたかと思われる汚点しみです。そこで私はその汚点しみを写真に撮って、種板たねいたを補力して焼付けてみると、果して手型に相異なく、しかも長い華奢な手で、あらゆる細部が、ひだや線や指紋の一つも欠けないではっきりとたではありませんか」

「それは警官が屍体を持ち上げるときに、触ったのでしょう」と老紳士が反駁した。「警官なんか一般に手套てぶくろをはめていないんだからね。やましい者でなくても、そこに余りきれいでない手の痕がくっつく筈です」

 新聞を読んでいた若い良人おっとはそれ見ろといいたげに笑いだした。しかし私はおこりもしなかった。医者のことなら何でも馬鹿にして、殊に鑑定人をわらいたがるのが彼の癖らしかった。そこで私は単につけ加えた。

「人間の眼に見損いがあっても、化学は間違いっこありません。その汚点しみまさしく血痕だったのです。極めて稀薄だけれど、血で附着した手型に相違なく、殊にそれは、事件の発見以来その家に出入した何人だれの手にも適合あいません。それに、血に汚れた濡れ手拭が一本、化粧台のそばに捨ててあったのを発見したので、それを手がかりとして容易に兇行当時の模様を判断することが出来ます。即ち犯人は兇行を終えると、鮮血に染まった右手をその手拭で拭いてから、去り際に、被害者が完全に縡切こときれたか、とどめを刺す必要がないかを確かめるために、彼女の心臓の部分に手をあててみると、鼓動がまったく停止していたものだから、すっかり安心して、入った時と同様に音もなく出て行ったというわけだが、気の毒にも、彼はこの手型のことに気附かなかったのです。その血が執念ぶかく女の皮膚へねばりついていたわけで、要するに彼は迂闊にも自分の仕事の上に明瞭な、疑う余地のない署名をしてしまったのです」

 三人の乗客は、呆気にとられて聞いていたが、

「珍らしいこともあるものですね」

 若い細君がまっ先に感心すると、良人おっともその後について、

「実に不思議ですね」

「ところが指紋だけじゃ心細いね」老紳士は頑固につぶやいた。「同時に人相や風采を突きとめない限り、それは空理空論の満足に過ぎないでしょう。私が犯人なら枕を高くして眠りますね」

「今晩だけはね。しかし明日は駄目です。今いった手型の写真が明日あらゆる新聞にます。そうするとこの手は、仏蘭西フランス中は無論のこと、二日後には欧羅巴ヨーロッパ全体に知れわたりますからね。犯人は一生涯寝ても起きても手套てぶくろを離さないという決心をしなければ、必ずこの手から発覚します。それが厭なら男らしく自分で手首を截断せつだんするんですね。何故って、この手は種々なる特徴があって、専門家が見ると容易に判別が出来るばかりでなく、もう一つ、誰が見ても判る目印があります。それは無名くすり指のさきから、手相見の謂わゆる生命線の基点へ走っている一すじ創痕きずあとなんですがね、実に鮮やかなもので見まいとしても目につくのです。それで大変不吉なお話だが、もしもその犯人がこの車室はこに乗っているとすれば、奥様マダムなり、諸君メッシュウなり、私なりが直ちに彼を認めて、次の停車場で警官に捕縛させることが出来るわけです」

「おお」

 若い細君が呻いた。二人の男は思わず手套てぶくろをはめた自分達の手を見た。

「その写真はほんとうに明日発表されますか」

 若い男が問いかけた。

「われわれが向うへ着くと、その写真が新聞にているわけですね」

 と老紳士もつづいて訊いた。

「いや、写真は今夜渡したのですから、早くても明朝の巴里パリ新聞でなければません」

 若い細君もひどく気になって来たらしく、少しもじもじしながら、

「早く見とうございますわ」

「わけないことです。鞄の中に一枚もっていますからお目にかけましょう。これですよ」

 彼女が写真を手にとると、良人おっとは肩ごしに覗きこんだ。老紳士も、

「御免なさい」

 と割りこんで来て、三人は額をあつめてその写真に見入った。彼等が緊張した顔をして熱心に見つめている様子は、まるで、実物の手が眼前に現われたような風だった。しかしランプが暗いので、私はその細部を説明で補足しなければならなかった。

「この白いすじを御覧なさい。鮮やかなもんでしょう。さてこのすじ······

「何だか鬱陶しいじゃありませんか。少し開けましょう」

 若い男がそういって車窓まどをあけると、老紳士は額を拭きながら、

「これは、大助かり」

 私は説明をつづけた。そのとき、汽笛がけたたましく鳴ったと思うと、車輛の響きが急にひどくなった。私は一段と声を高めたけれど、ごうごうたる音響にされて話が通らない。

「このトンネルを出てからお話しましょう。騒々しくて聞えはしない」

 すると老紳士は自席にかえったが、若い細君はじっと例の写真を見つめていた。

「どうも鬱陶しい」

 彼女の良人おっとは再びそういって、昇降口の方へとかがみこんだ。

 と、妙な物音がした。叫び声のようでもあったし、ぜいぜいいう瀕死のあえぎのようでもあった。われわれ三人が同時に顔をあげたところを見ると、皆にそれが聞えたらしかった。

 列車は一分間、トンネルのこの物音につつまれながらはしっていたが、やがてその音が静まると、空気も軽くなったように思われ、車室に侵入していた蒸汽も散って行った。

 列車はトンネルを出きって、再びひろい空の下を走っていたのである。私は説明を続けようとしてふと若い男の方を見ると、彼は自席のところにりかかって窓の外へをぶらげたまま、真蒼な顔をしていた。何だか気狂きちがいじみた眼付で私達を、殊に細君の方をきょろきょろと見ていた。

「御気分が悪いんですか」

 私がそういいながら支えようとした途端に、彼は前方へつんのめった。そのとき私は、彼の右腕の端に血みどろなものを見た。めちゃくちゃに砕けた肉と、骨と、血でどろどろになったものがぶらさがっていたのである。

「あっ、大変」老紳士が叫んだ。「トンネルの柱でやられたな。手首がない!」

 若い細君はぎょっとしてちあがった。

 私はいきなり負傷者の服の袖を引裂いて、出血を防ぐために自分のハンケチでその腕を緊束しばってやった。彼は眼を開いたが、怖々おどおどして、その視線は肩から不気味な傷へ下って、それから、そこに立ちすくんでいる若い細君の方へ狂おしくこびりついた。

 細君はやがて坐席へ腰をおろしたが、歯の根も合わぬほどふるえながら、無言だまって、怪我した良人おっとをひしと抱きしめた。

 突然、今の老紳士の叫びが私の耳にかえって来た。『手首がない!』

 私は床に落ちていた写真を見た。と、負傷者も私のその視線をたどって、それからじっと私の顔色を窺った。

 私はまた、『免訴を確実にするためには、彼は手首を截断せつだんする外はあるまい』と先刻さっき自分でいった言葉を思いだした。

 嫌疑とそして確信が、同時に私の頭にうかんで来た。けれども、その際私はそれを口へ出す勇気もなかったし、そんな気持にもなれなかった。

 われわれはただ黙然として夜の明けるのを待った。

 ヴァロルブではまだ暗かったので、ローザンヌ駅へついてから怪我人を降した。

 その後、私は絶えて彼の消息を聞かない。あのときに彼は生命が助かったかどうかも判明しない。しかしペルゴレーズ街殺人事件の犯人が、ついに捕まらなかったということだけは確かである。






底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社

   2003年2月14日初版

底本の親本:「夜鳥」春陽堂

   1928(昭和3)年6月23日

初出:「夜鳥」春陽堂

   1928(昭和3)年6月23日

入力:ノワール

校正:栗田美恵子

2019年7月30日作成

青空文庫作成ファイル:

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