「船長、至急無電報が入りました」
太平洋沿海の救護船、太平丸の船長室へ、元気に無電係の
伊藤次郎青年が入って来た。
「この
凪に難波船でも有るまい、何だ」
「流血船の報告です」
「え?
||又か

」
太平洋の
鮫と異名を取った
樫原太市船長の顔が、急にぴんと
引緊まった。
||伊藤青年は報告紙を見ながら、
「発信はアメリカの豪華船P・F号です、簡単に読みます。
······本船は三月二日午前七時十分、東経百五十度、北緯二十度三分の海上に
於て、三本
帆檣の一漂流船あるを発見せり、
依って
直ちに船員を派して検分せしに、船内には全く人影無く、船室、甲板、歩廊等、
悉く鮮血にまみれ居れり、恐らく大殺人惨劇の行われたるものと思わる。救助すべきもの無きに依り、本船は
是を放置せしまま母港に向け進航せり」
「又か、
||又か、くそっ!」
樫原船長は
卓子を叩いて
立上った。
この奇怪な「流血船」の話は、もう半年も前から伝わっていた。
||太平洋のまん中に亡霊の如く漂っている三本
帆檣の船、その中には全く人の姿無く、
然も船内は到るところ生々しい鮮血にまみれていると
······無気味な、
血腥い話なのである。
職務上の必要ばかりでなく、冒険好きな樫原船長はずっとこの奇妙な報知に注意していたが、季節風と海流とに関係なく、「流血船」は或る一定の線を西へ西へと流れている事が分った。太平丸が最初に報告を受けた時には、その船は
加奈陀の北西二百
浬の海上にあったが、それから半年のあいだに二千
浬以上も西へ来ているのだ。
「こんな馬鹿な話があるか」
船長が
屹と眉をあげて
云った。
「誰も乗っていない船が、半年間少しも針路を変えずに二千
浬以上も同じ方向へ漂流するなんて、そんな馬鹿げた事があるか、
||そのうえ鮮血だ、兇悪な殺人だ、惨劇だ、まるで百年も昔の海洋小説のような事を云う、近頃の
船乗はみんな頭がどうかしたに違いない」
「でなければ船長が臆病になられたのでしょう」
「な、なんだと

」
「失礼
||」
若い伊藤青年は、にこにこ笑いながら一歩退いて云った。
「僕は
斯う云いたかったんです、流血船の話は半年も前から聞いています。そして船長は太平洋の鮫と異名のある人です。
||どうして噂の実否を確めに行かないのですかと」
「馬鹿な事を、我々には沿海救護という大事な任務がある」
「P・F号の無電に依ると、流血船の位置は領海へ迫ること三百
浬ですよ船長、そこに何か惨劇があったとすれば、救護に行くのは我々の任務ではないでしょうか」
「ふうむ、
||領海から三百
浬か、
······」
船長は
眤と伊藤の眼を
覓めた。伊藤青年は力に溢れた微笑を見せている。
||如何にもさあ行きましょうと云いたそうだ。
「貴様に計られたな」
船長はやがて
呶鳴るように云った。
「
宜し、臆病者と云われては俺の名が
廃る。出掛けよう」
「しめたッ」
「
直ぐ無電で横浜の本部へ報告しろ、領海附近に漂流船あり、救護のため進路を変更す、と云うんだ、流血船の事には触れるな」
「
畏りました、船長」
伊藤次郎は
活溌に答えて
踵を返した。
彼は得意であった。なにしろこの半年以来ずっと好奇心の的だった「流血船」を、
愈々探険する運びになったのだ。
||実を云うと、同じ救護船浦島丸の無電技師で川本順吉という友達と、
何方が先に流血船の真相探険をするか、もう五週間も前から賭けをしていた。そのうえ当の浦島丸はいま、北部沿海に出動しているので、P・F号の無電は
此方と同様に聴いた
筈である。だから賭けをした手前にも、浦島丸に先立って流血船探険を決行する必要があったのだ。
「しめしめ、是で川本の奴をあっと云わせてやれるぞ」
伊藤青年は本部へ無電を打ちながら、会心の笑をもらすのであった。
太平丸は進路を西北西に変えた。海はすばらしい凪である。千二百
噸の小さな船だが救護船の特徴として荒天航行の設備は充分だし、速力も普通船より五割がた早い
||大きなゆるい波のうねりを引裂きつつ、まるで
辷るように
航って行く。
その日の暮れがた、恐ろしい濃霧に襲われた。そして冒険の第一歩が始まった。
無電室で附近の海上に船のいない事を確めた伊藤青年は、後の係を助手に命じて置いて甲板へ出た。時は
黄昏である。船の周囲は壁のように濃密な霧に包まれている。雨帽子や外套は
忽ち濃霧に濡れ、雨の中にでもいるように、ぽとぽとと
滴になって垂れて来る、
||と、不意に、
「船がいるぞ、停れ」
と云う叫びが見張所から聞えて来た。
「船だ船だ、ゴースタン」
「ゴースタン」
喚きは喚きを呼んで、忽ち太平丸は速力を緩め、推進機の逆廻転をしながら
舳をやや右へ転じた。その刹那に、霧の中からぽっかりと一艘の船影が現われた。
「船長三本
帆檣ですぜ」
伊藤青年は船長の側へ近寄って云った。
「うん、だがまだ予定の位置じゃない」
「それに舷灯も点けていません」
「まあ待て」
太平丸は
号笛を鳴らしながら、相手の方へ近寄って行った。そして両方の舷が
殆んど
触合うほど接近した時、相手の船上に風雨灯の光が見え、四五人の船員が舷門の方へ走って来た。太平丸の探照灯を
真向から浴びたこれらの船員たちはみんな赤髭の外人だった。
「
何故、霧笛を鳴らさんのか」
船長が英語で叫んだ。
「我々は
[#「我々は」はママ]あらすかノ漁夫デス」
相手が答えた。「五時間ホド前ニ、
巨キナ海坊主ニ出会ッタノデス。皆ソレデ船内ニ隠レテイマシタノデ、何ニモ知リマセンデシタ」
「他に怪しい船は見なかったか?」
相手はひそひそと何か
暫く
囁合っていたが、今度は別の声が答えた。
「昨日ノ朝、妙ナ船ニ会イマシタ、三本
帆檣ノ二千
噸バカリノ奴デス。船内ニハ誰モ居ナイ様子デ
······何処も
[#「何処も」はママ]彼処モ血ダラケデシタ」
「その船は停っていたか?」
「西ノ方ヘ漂流シテイマシタ。
||ソレヨリ、
此附近ニ
巨キナ海坊主ガ出マスカラ注意シテ下サイ。奴ハ船ヘ襲イ掛ッテ来マス」
船長は嘲るように肩を
竦め、
振返って出発を命じた。
||伊藤次郎は霧の
彼方へ消えて行く漁船を見送りながら、変にぞくぞくと背筋の寒くなるのを覚えた。多少でも海上生活をしたもので、海坊主の話を聞かない者はないだろう。
殊に霧や
靄の多い海では
屡々見られる現象である。それは物の影が霧に映るからで、決して超自然のものではない。
||然し今、伊藤青年はアラスカ漁夫の話を聞いていて、妙に生々しい印象を受けたのだ。
||奴は船へ襲い掛って来ます。
という言葉は特に強く響いた。
「無気味だ、なんだか妙な気持がする、普通の海坊主とは違うのではないか
······」
そんな事を思いながら無電室へ戻ってみると、
丁度助手が
何処からかの無電を受けているところだった。助手は伊藤青年の顔を見るなり、
「浦島丸の川本さんです」
と云ってレシイバアを渡した。
「よう伊藤か」
相手は正に川本順吉だった。
「五週間まえの賭けは忘れないだろうな」
「それがどうした」
「驚くなよ、浦島丸は一昨日から流血船を捜していたんだが、一時間ばかり前に
到頭捉えたぞ」
伊藤青年は思わず
しまったと
呻いた。
「おい、それは本当か」
「現に僕の
船窓から見えている、いま船員たちが乗込んで行ったところさ、気の毒だが賭けは僕の勝利らしいな、はははは」
既に海上は暮れている。この無気味な夜を冒して、彼等はいま流血船の探険を始めたのであろうか、
||先手を打たれた
口惜しさよりも、伊藤次郎にはそれが心配になった。
「賭けに負けたのは認めるよ。それより川本、こんな夜の冒険は危い、朝になってからするように云って、早く皆を引揚げさせろ」
「なんだ、君は遠くにいて
怯気づいているのか、大丈夫だよ。相手は
······」
そこ
迄云って、不意に川本の声が聞えなくなった。
「おい川本、どうしたんだ」
「川本、川本、
······」
突然向うでガシャン! と
硝子器でも壊れるような音がした。同時に川本の声で、
「う、海坊主が来た、あッ あ
||ッ、血みどろの手が
······助けて
呉れ」
「どうしたんだ、川本ッ」
「殺されるッ、海坊主だ、助けて呉れッ」
ばりばりッと板の裂ける音と共に、
ぎゃっという川本順吉の断末魔の悲鳴が聞えた。そして
凡べてが
森閑と鎮まりかえった。
伊藤次郎は水を浴びたように、
慄然と
居竦んだ。アラスカ漁夫の話
||奴は船へ襲い掛って来ます。
······という無気味な言葉が、まざまざと耳の底へ蘇えって来た。
「大変だ!」
伊藤青年は脱兎の如く無電室からとび出して行った。
樫原船長も顔色を変えた。
川本の言葉から推すと、海坊主が浦島丸へ侵入して、川本を惨殺したとしか思えない。川本は
判きり海坊主だと云った。
||血みどろの手だ。
とさえ云った。
「全速力だ、霧などに構わずやれ」
船長は
断乎として叫んだ。
伊藤次郎は直ぐ戻り、無電で浦島丸を呼び続けた。然し
遂に答えは無かった。
||船の位置だけでも先に聞いて置けば宜かったと思うが、もう
今更どうにも仕様がない。ただ、出来るだけ早く
現場へ行って、危急の友を救うことである。
天の与えと云おうか、海の荒れる季節にも
関わらず風も無く、海上には緩いうねりがあるだけ、然も夜半前には全く霧も
霽れたので、太平丸は湖上を行くように快走を続けることが出来た。
||重苦しい夜が明けて朝が来た。四方は水平線の
涯まで眼を遮る物もない。
「もうそろそろ予定の位置だが」
船長は夜明け前から船橋に立って、望遠鏡を眼から離さず監視している。
「無電はどうだ
||?」
「幾ら呼んでも応答がありません」
「間に合わないかな」
船長の声は呻くようだった。
午前十時、太平丸は進路を南方に変えて逆航を始めた。P・F号の示した位置を過ぎても流血船に会わないのだ。
||それに浦島丸の姿が見えないのも
訝しい。
「この通り晴れているんだし、
何方か一艘はみつかりそうなもんだな」
そう云っている内にも時間はずんずん経って午後三時になった。
||もう少しすると霧の来る時間になる、そうなったら益々仕事が困難になる
基だ。どうかして霧の来ない内にと、全速力で逆航を続ける
······と、それから間もなく、西方海上にぽつりと一艘の船影を発見した。
||伊藤青年は双眼鏡を覗いたまま、
「船長、三本
帆檣ですね」
「
||うん」
「今度こそ流血船ですぜ」
遂に発見した。近寄るに従って、灰色に塗った船体、三本
帆檣、半ばから折れた煙突などが段々はっきりして来る。正に噂の流血船だ、怪奇の船だ。
||約一時間にして、太平丸は百メートルまで接近して停まる。
「総員甲板へ集れ」
船長の命令一下、定位置員を除いて二十名の屈強な船員たちは上甲板へ集った。
||その時既に、北方から猛烈な濃霧の
押寄せて来るのが見られた。
「本船は昨夜、浦島丸から無電を接受した。それに依ると我が友船は、この附近に於て奇怪な事件のため遭難したかに思われる、
||その原因は向うに見える船だ。諸君も噂は聞いているだろう、あれこそ流血船だ」
「え、
||流血船」
「流血船!」
船員たちのあいだに
ざわざわと囁きが交わされた。
「俺は、是から
彼の船へ乗込んで、怪奇の真相を探査しようと思う。我らの海上から迷蒙の噂を除こうと思う、併せて友船浦島丸の安否をも探るのだ。
||然し是には多少の危険が伴うかも知れない。指命はしないから
俺と一緒に行きたい者は前へ出て呉れ」
「船長!」「船長!」「船長

」
言下に全員が
進出た。
||船長は頷いて、
「
有難う、然し五名だけは船へ残って貰わなければならん、それは
此船にも危険が無い訳ではない。
寧ろ
此方の方にこそ恐るべき怪異があると思われるからだ」
海坊主の事を云っているのだな、
||伊藤青年はそう思いながら、自分は船長の蔭の方へ回っていた。
人選が
定って、短艇が下された時、濃霧が海上を密閉した。伊藤青年はそう云っては船長に許されぬ事が分っていたので、この霧を幸い、無電室を助手に頼んで置いて、素早く短艇の中へもぐり込んだ。
濃霧は渦を巻いて流れる。牛乳の中へでも浸っているようで、すっかり
見透しが利かない。流血船の形も、ぼんやりとして、幻のように薄く、影のように揺れている
······ 絶海の洋上に浮く怪奇の船、半年のあいだ海上の謎だった惨劇の船、それが今、眼前に
在るのだ。
「あ! ひどい油だ」
舷側にいた一人が叫んだ。
「船長、一面に重油が浮かんでいます」
「重油だって?」
船長が身を乗出した、
||なる程、
四辺の海面は見渡す限り重油で
蔽われている。伊藤次郎も隅の方でそれを見た。
「浦島丸だ、浦島丸は
此処で沈没したのだ」
彼は見る見る
蒼白めてそう
呟やき、
眤と瞑目した。
お互いに位置を失わぬため、太平丸は絶えず霧笛を鳴らしていた。
||ぼう、ぼう
······という低い笛の音は、濃い霧の
彼方から訴えるように
咽ぶように淋しく響いて来る。場合が場合だけにその音色は、まるで地獄の
呼声のようにさえ思われるのだった。
短艇は流血船の周囲をひと廻りした。そして右舷舷側に、半ば壊れた
梯子があるのをみつけて艇を繋いだ。
「先任、君は艇に残れ、何か怪しい事があったら
拳銃で合図するんだ」
「は、
||」
「油断するなよ」
そう云って一人を短艇へ残し、船長は
真先に
梯子を登って行った。
||甲板へ一歩
踏出した
とたんに、人々は思わず息詰るような光景を見た。甲板は眼の届く限り、ぬらぬらと生々しい鮮血にまみれている。死骸を引摺ったかと思われるところや、池のような血溜りさえ見られる。そして
······胸の悪くなるような血の匂いが
むっと鼻を
衝くのだ。
「是はひどい
||」
誰かが思わず叫んだ。然し他の者は唇の色を蒼くしたまま、石のように固く立竦んでいた。
||船長は声を励まして、
「みんな
拳銃を出せ、安全錠を外して、
俺が射てと云ったら遠慮なくぶっ放せ、
||是から船内を探査する」
云われるままに、皆は
夫々拳銃を
取出し、いつでも射てるように
確りと右手に握った。船長は血溜りを避けつつ片手に懐中電灯、片手に
拳銃を持って船内へ下りて行く、
||矢張り血だ。歩廊も、壁も、天井までも生々しい血痕で埋まっている。どんな奇想天外の空想も、それだけの血を流す惨劇は考える事が出来まい。ネブカドネットの大虐殺でさえ、恐らくこの惨状には及ばぬだろう
······遉に海の
猛者たちも、この凄絶な光景には眼を
外向けた。
流血船、流血船、
||正に是こそ流血の船と呼ぶ以外に呼名はない。
船長は先に立って、中甲板から下甲板、船底に至るまで
隈なく調べ廻った。
何処にも人の姿はない、死体の影も無い。到る処に壊れた船具や、木材の破片が散らばっているだけである。
||荷物と思われる物さえ無いのだ。全くの無人船、ただ生々しい血潮だけが、恐るべき事件の跡を物語っている。
船底から中甲板まで戻って来た時だ。
「船長、銃声です!」と伊藤青年がとび出した。
「や、伊藤、君は一緒に来たのか」
「そんな事より、そら、
||」
タン! タン

左舷の外に鋭い
拳銃の音が聞えた。
「短艇で射っているんです」
「
||来いッ」
何か起ったと思うより早く、船長は脱兎の如く上甲板へ
駈上っていた。
||更に
梯子を下りると、短艇の中に残された一人が、
「船長、早く来て下さい」
「どうしたんだ、何かあったのか

」
「いま本船で銃声と悲鳴が聞えました」
云われて
恟としながら見やった、
||霧笛がいつか絶えている。
「船長、直ぐ帰りましょう」
伊藤次郎が叫んだ。船長はじめ一同は、追われるように短艇へとび込んだ。
||浦島丸の運命が、ありありと伊藤の頭に浮んで来た。何かあったのだ、川本が無電をかけて
寄来した時と同じように、自分たちが流血船へ行っている後で、何か怪事が
持上ったのだ。怪事
······そうだ、海坊主の
||。
「ぎゃあ
||ッ」霧の
彼方から、再び
凄じい悲鳴が聞えて来た。船長は身を乗出しながら、
「早く、早くしろ、もっと早く」と喚き続けた。
短艇が太平丸の舷側へ着くなり、伊藤次郎は船長より先に
飛移っていた。見よ、
||其処には残留した船員たちの死体が転げている、あたり一面の鮮血だ。
「あッ
殺られた」
人々は恐怖の叫びをあげながら、思わず後へたじたじとなった。
「みんな
四辺に注意しろ、怪しい者が見えたら構わずぶっ放すんだ」
船長は喚きながら死体の側へ
跼んだ。
なんという
無慙な殺し方であろう、みんな頭蓋骨を一撃で粉砕されている。震える手で次々と調べて行くうち一人だけ
微かに息のある者がいた。そして船長が急いで抱き起すと、
||彼は恐怖で
剥出された眼を海の方へ向けながら、
「海
······海から
||来た、
彼奴が
······」
もつれる舌で、ようやくそこ
迄云ったが、そのまま
がくりと息絶えて
了った。
伊藤次郎はこのあいだに無電室へ駈けつけたが、哀れや
其処でも助手が、
······恐らく川本順吉もそうであったろうと思われるように、無電機にのめりかかったまま、頭を砕かれて絶命していた。
「海坊主だ、海坊主だ」
伊藤次郎は憑かれたように、慄然としながら外へ
跳出した。
奇怪、奇怪、怪しい流血船と、船を襲う殺人怪魔、
眼路の限り波また波の洋上に行われた、この亡霊の如き事件の謎は、果してどう解くべきであろうか?
||伊藤次郎は茫然として戻って来た。と
其時、
「見ろ、海坊主がいる」という叫びが聞えた。
はっとして振向いたとたんに、
||本船の左舷殆ど十メートルほどの波間に、
巨きな、
凡そ十
呎もあるかと思われる灰色の怪物が
浮上っていた。
「海坊主!」と見るなり、伊藤青年は拳銃を取直して、
たんたんたん
続けさまに三発狙撃した。同時に、
弾丸が当ったか否か、
件の怪物は
ずぶりと波間へ沈んだのである。
「やったぞ」
「海坊主を仕止めたぞ」
船員たちは歓声をあげながら、舷側に殺到して海面を眺めた、
||その時、不意に濃霧が切れて、斜陽を決びた
[#「決びた」はママ]流血船の姿が
判きりと見えた。
||今の
弾丸は当らなかった。だが今度浮いて来たら、と伊藤次郎は
眤と海面を
見戍っていたが、ふとその眼を流血船へ移したとたんに、
「
||おや?」と不審そうな声をあげた。
急に伊藤次郎の眼色が変って来た。何かを発見したのだ。何かを! 見よ、彼の眉がきりきりと
痙攣った。そして固く引結んだ唇に
活々とした
微笑が
彫まれて来た。
「そうか、そうか、分ったぞ畜生!」
そう叫ぶと、伊藤青年は船長の側へ
走せつけて、
「船長、もう一度流血船へ戻って下さい」
「なに? どうするって

」
「直ぐ流血船へ踏込むんです、謎は解けました。憎むべき殺人鬼、海坊主の仮面をひん剥いてみせます、流血船のトリックを
発いてやるんです。急いで下さい!」
「本当か、大丈夫か

」
「
瓦斯弾を用意して、早く、直ぐです」
船長は伊藤の手腕を信じていた。
||時を移さず
瓦斯弾を
積込み、決死の同志十名と共に、短艇は波を蹴って流血船へ向った。
同じ
梯子から
猿のように、甲板へ上るとそのまま、伊藤次郎は先へ立って、ずんずん船底まで下りて行った。
其処は塗料の腐る匂いで息が詰りそうである
||然し伊藤次郎は、懐中電灯を差しつけながら、散らばっている船具や
板片を
掻退け
蹴飛ばし、塵も見逃すまじと船底の鉄板を
検べ廻った。
「どうするんだ」
船長は不服そうに、「
此処は船底だぞ、その鉄板のもう
一重下は海だぞ」「そうでしょうか
······」と
落着いた声で答えた時、伊藤青年は思わず
占めた! と叫び、
「
瓦斯弾の用意」と振返った、「僕が今
此処を
明けるから構わず中へ
瓦斯弾を叩き込んで呉れ」
「鼠でも
追出そうと云うのか」
「そう、
巨きな鼠が出て来ますぜ、
||そらッ」
叫びながら伊藤次郎が、うん
||と鉄板の一部を持上げる。刹那!
待構えていた連中が手に手に
瓦斯弾を持って、その穴の中へ
叩込んだ。
||ばあん、ばあん、ばあん
瓦斯弾の破裂する音が、大きく聞えた。
「みんな射撃の用意!」
伊藤青年が身を退けて叫ぶ。
「いま出て来るぞ」と、言い終らぬ間に、船底から大きく、
「助ケテ下サイ、手向イシマセン」
「命ダケハ、助ケテ下サイ」という英語の悲鳴が聞えて来た。呆気に取られて暫くは口も利けなかった船長は、急に穴の入口へ近づくと、
「出て来い、武器を捨てて出て来い、少しでも反抗すると射殺するぞ、早くしろ」
と喚きたてた。
||その声に応ずる如く、苦しそうに咳をしながら、次々と十六名の外国人が現われて来た。
謎は解かれた。
彼等は×××国の密令を帯び、日本在住の間諜と密接な連絡をとるため、アラスカの某地から、日本の某海岸まで海底電線を敷設していたのである。
||流血船という怪奇を装ったのは、他の船を近寄せぬためで、船底の下に、もう一つの敷設船が取付けてあった。また海坊主というのは敷設用の特殊な潜水服(軽金属で出来ている)であって、この潜水服は酸素管を持った自働式の物であり、両手は鋭い鋼鉄の
鉤になっている。多くの殺人を犯したのはこの鋼鉄の鉤であったのだ。そして浦島丸は、流血船の秘密を探知したために、全員虐殺のうえ沈められたという事である。
「すばらしい手柄だ」
帰航の途につきながら、船長は伊藤青年の手を固く固く
握緊めて云った。
「だが
夫にしても、
||どうして
彼の船底に隠れていた事が分ったのかね」
「偶然ですね、全くのところ偶然です」
伊藤青年は会心の笑をうかべながら、
「あの海坊主を射った時、ちょっと霧が切れて、流血船が
判きり見えたでしょう? 船長、あの時僕は、流血船の
吃水がいやに深いのに気がついたんです。荷物も無し人もいないのに、吃水はまるで貨物満載の船ほど深くなっているんです、
||それが発見の
緒口でした。船内に何もなく、然も船があんなに深く入っているとすれば、船底の下に重量が懸っているに違いないと
······」
「偉い、
遉に無電技師だけあって観察が細いぞ、
遉の俺もそこ迄は気がつかなかった。
||今度は全く君に手柄を
樹てられたよ」
船長は頼もしそうに伊藤青年を見守った。
「ただ残念なのは
······浦島丸の危急に間に合わなかった事です。
||親友の川本を死なした事です
······」
伊藤次郎の眼にふっと涙が浮んだ。
||帰航の海も、すばらしい凪であった。