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心得教育

中谷宇吉郎




 教育にはいろいろあって、上は精神教育から下は何かあるだろうが、その下に今一つ心得教育というのを入れたらどうだろうと一寸考えてみた。それは教育方法をすべて出来るだけ卑近な心得だけに限定するのである。例えば、煙草喫みに節煙をすすめる時ならば、煙草の害と精神力の価値とを説く代りに、「二本続けて喫うことを止めろ」というふうな心得教育をするのである。胃の弱い男によく噛んで食べるように云う時にも、フレッチャーがどう云ったということを説く代りに、「飯とお菜とを一緒に口に入れぬように」というたぐいの教育を施すのである。

 こんなふうに書くと、この心得教育は、飲食の場合だけくらいにしか適用出来ないのじゃないかと思われるかもしれないが、そうばかりでもないようである。例えば着手の億劫を克服せよと云う場合ならば、「仕事を始める場合には着手の億劫という言葉のあることを忘れないで、全計画を一度机上で実行してみたまえ」というふうに云うのである。ゼームスの心理学、悲しきが故に泣くに非ず、泣くが故に悲しきなりというのなどは、早速この心得教育に応用されそうである。

(昭和十一年十二月)






底本:「中谷宇吉郎随筆選集第一巻」朝日新聞社

   1966(昭和41)年6月20日発行

底本の親本:「冬の華」岩波書店

   1938(昭和13)年9月10日第1刷発行

入力:砂場清隆

校正:きゅうり

2020年9月28日作成

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