最後の一
家へ帰ってみると、
年
しかし家の中の体裁は、前と少しも変ったところがなく、飼猫は例のごとく
父親は炉のそばに腰をおろし、首をふって溜息をつきながら、
「
そういったかと思うと、涙が一杯に湧いてきて、歎きと、街の冷たさと、室内の急な暖かさで赤くなったその好人物らしい丸顔を伝わって、はらはらと流れた。
彼は暫く黙りこんで、猫の喉鳴きや、時計のチクタクや、火皿の上に薪のはねる音を聞いていたが、何だか物足りない。それ以上にもっと何かを聞きたいような心持だ。けれどまた一方には、死んだ者は永久に死んでしまったが、自分は幸いにまだ生きているという、一種の満足に似た感じを意識しながら、
「お前はジュポン家の人達に会ったかい。野辺送りに来ていたがな。あの御老体も来てくれたので、ほんとうに
父親は再び吐息をついて、
「ああ、お前も
二十五にもなったこの大きな倅のことを考えると、彼は一層やさしく、いたわるような気持になった。そして憂鬱な眼つきで、薪の燃えるのをじっと見つめていた。
倅は父親のそばに黙然と坐っていた。
そのとき、老女中が音もなく戸をあけて、静かに入って来た。
「御
なるほど
今女中から注意されて、
父親はまたも涙ぐんで、
「そうそう、
倅はうなずいて
「僕は着替えをして来ます」
足は機械的に母親の
「ジャン様、貴方にお渡しするものがございます。お母様のお手紙ですがね、恰度八日前に、御病気がもういけないということが御自分でおわかりになると直ぐお書きになったので、お亡くなりになってからお渡しするようにという、お
ジャンは怪訝そうに立ちどまって、女中の顔を見た。女中は手紙をもった手先がふるえて、妙にためらいながらジャンの様子を窺うようにしていた。ジャンは何だか只ならぬ秘密、もしくは非常に悲しいことを、今自分が知るのだと覚った。
「手紙をこっちへお出し」
その手紙をひっ
寝台の蒲団がひっそりと平らで、寝台幕がひろく開けしぼったままになっていて、暖炉には火の気がなく、すべての調度も几帳面に取片づけられて、いかにも不用になった
彼は暫くそこに突立って、今女中から受取った手紙をいじくりながら、少し皺になった封筒の文字を見つめていた。その文字は常より幾らか乱れてはいたけれど、なつかしい母親の筆跡にちがいなかった。
窓にはすっかり窓掛をおろしてあったが、その隙間から、女中が隣りの
彼は封を切って、読みはじめた。
可愛いジャンへ||
永のお別れをせねばならぬ時が、いよいよ間近になったようです。わたしは恐れも、未練もなく、安心してこの世に暇 をつげます。お前が一人前の男になって、もう久しくわたしの補助 なしに生活しているのを見とどけたからです。わたしは、母親として最上の勤めをして来たと信じているけれど、わたし達の間には、わたしがこれまで打ちあけかねた、一つの大きな秘密があります。そしてそれは、是非お前に知っておいて貰わねばならぬことなのです。
お前が誰よりも尊敬してあんなに慕っていた母親、お前の幼少の時からあらゆる面倒を見てあげて、大人になってからは親身の相談相手であったお前の母親は、実は大変に重い罪を犯しているのです。何を隠そう、お前は自分で『お父さん』と呼んでいる人の子ではありません。
わたしは一生にたった一度、深い深い恋に陥 ちたことがあります。そして、そのことをこれまで告白しなかったのが、わたしの一等わるい落度でした。お前の父親 ||ほんとうの父親 はまだ生きています。お前の成人するのを見まもっていて、そしてお前を愛しているのです。お前ももう一人前の男になったのだから、今、人生の一大事を自分できめなければなりません。お前にその気があれば、これからまったく別の生活 をすることも出来ます。わたしに欠けていた勇気をお前が出してくれるなら、お前は明日からでも金持ちになれるのです。
わたしは今、卑劣なことをお前に勧めている||それは自分にもよくわかっているけれど、一生涯方針を誤ったわたしとしては、死ぬる間際にこうすることも已むを得ないのです。わたしはこれまでに、寧 そお前をつれて此家 を出ようと考えたことが幾度だったか知れませんが、思いきってそれを実行することが出来ませんでした。お前のお父さんがわたしを疑るとか、叱り飛ばすとか、そうした一寸したはずみがあったら、わたしも家出をする勇気が出たでしょうけれど、お前のお父さんは只の一度もそんなことをなさらぬばかりでなく、お父さんのお心には一点の暗影 もなかったのです······
永のお別れをせねばならぬ時が、いよいよ間近になったようです。わたしは恐れも、未練もなく、安心してこの世に
お前が誰よりも尊敬してあんなに慕っていた母親、お前の幼少の時からあらゆる面倒を見てあげて、大人になってからは親身の相談相手であったお前の母親は、実は大変に重い罪を犯しているのです。何を隠そう、お前は自分で『お父さん』と呼んでいる人の子ではありません。
わたしは一生にたった一度、深い深い恋に
わたしは今、卑劣なことをお前に勧めている||それは自分にもよくわかっているけれど、一生涯方針を誤ったわたしとしては、死ぬる間際にこうすることも已むを得ないのです。わたしはこれまでに、
ジャンはふと読み方を
母は絶えずその
して見ると、世間の女のそうした罪を
彼は、幼少の記憶をはっきりと思いうかべた。小さな子供だった頃、父の手にぶら下って街を歩いた自分の姿が眼に見えるようだ。可成り大きくなってから一度大病にかかって、何ヶ月かの間生死の境を
「おれはどうしても盛りかえして見せるぞ。煙草も
こうした好人物を、母は欺いていたのであった。
ジャンは椅子へ倒れて、両手に顔をうずめた。彼はたった今読んだ手紙の文句を思いだした。『お前ももう一人前の男になったのだから、今、人生の一大事を自分できめなければなりません』と。
その通りだ。ぐずぐずしている場合でない。金銭上の考えはまるっきり念頭にないが、母親に欠けた勇気を奮いおこすということが問題なのだ。
彼はいっそ何も云わずに
ジャンは
「ああ、お母さん、お母さん、あなたは何ということをしたんです!······」
平和な家庭生活もこれを限りだ。神聖な記憶のかかっている家へ毎日帰って来るという楽しみも、これっきりだ。虚偽をつづけてゆくことは厭だし、それは許されることでもなかった。
身じろきもしずに悲しい思いにひたっていると、食堂の方で父の話し声がする。
「
ジャンはふと顔をあげたが、堅く唇を噛んでいた。彼は父の話し声を聞いているうちに、考えが別の方向へ走っていった。彼の決めた方針は可成り困難であるばかりでなく、それでは自分の義務が明瞭にならないような気がして来た。
「おれを見棄てはしない······」
そういって彼を信頼している人||寂しく年老いてゆくこの
しかし彼はこの父の子でない。してみると、
ジャンは母親の手紙をしかと握っていた。彼はもう一度それに眼をやった。
······お前のお父さんがわたしを疑るとか、叱り飛ばすとか、そうした一寸したはずみがあったら、わたしも家出をする勇気が出たでしょうけれど、お前のお父さんは只の一度もそんなことをなさらぬばかりでなく、お父さんのお心には一点の暗影 もなかったのです······
そのとき、食堂の方で
「うむ、おれは家内と二十七年も連れ添うたがな、
恰度同じ
ジャンは手紙のつづきを読んだ。
それで、わたしは今こそお前のほんとうの父親 の名前を打ちあけます。それは······
恰度その頁の切れ目だったが、ジャンはここまで読むと、書簡紙が手先でぶるぶるとふるえた。一寸裏をかえせば、その男の名がジャンの眼に、いや心の奥底へ永久に
と、食堂の方から父の声で、
「ジャンや、早く来ないと、御馳走が待ちくたびれているぞ」
ジャンは天を仰いで、一瞬間瞑目した。それからマッチをすって手紙に火をつけた。彼はそれのするすると燃えてゆくのを見つめていたが、爪に火がつきそうになったので、ぱっと指を離した。手紙は黒い、四角な灰になって床へ落ちた。僅かに残っていた白い隅も
やがて食堂の戸口から覗いてみると、人の好い父親は、そこに突立ったなりで倅の来るのを待ちかねていた。
相変らず温情に充ちたやさしい顔をして、瞼に涙を一杯ためて両手がかすかにふるえている父親の
それは、この世で二度と逢えない骨肉に向ってするような熱烈な抱擁だった。そして泣きじゃくりでもしているような涙声で彼はいった。
「お父さんだ、僕の