彼女はフェリシテという名前だった。貧しい女で、美人でもなく、若さももう失われていた。
夕方、方々の
工場の
退け時になると、彼女は街へ出て、
堅気女らしい風でそぞろ歩きをした。ときどき微かに歩調をゆるめたかと思うと、また元のように歩いて行った。
他の子供等が裾にからまって来ると、彼女は優しい身振りでそれを
避けたり、抱きとめたりした。そしてその母親たちには
莞爾やかな笑顔をむけた。
彼女は元来
饒舌や騒々しいことの嫌いな性分なのに、こうして
雑鬧の中へ入ってゆくのは、そこでは
他から勘づかれないで男達の合図に答えることが出来るからであった。一体にそうした慎ましい風なので、刑事達も特に彼女を大目に見てくれたし、近所の人々も出会えば簡単な挨拶を交わすぐらいの好意はもっていた。
彼女は全くの独り暮しで、格別
楽みもない代りに大した
苦みもなく、そうした
果敢ない
職業にも拘らず、ごく自然な従順さと
淑かさをもっていた。だから誰一人彼女を蔑む者もなかった。彼女だって
以前は人並に贅沢もしたかっただろうし、歓楽に
憬れもしただろうが、今はそんなことはすっかり
断念めて、只もう生きてゆくだけで満足しているのであった。
ところが或る晩
||街には
終日雨が降りつづいて、濡れた歩道の上に夜の幕が落ちかかった時であったが、そろそろ家へ帰ろうとしていると、一人の男
||『
旦那』と呼ばれそうな男がふと彼女に声をかけた。
「今日は、フェリシテ」
「今日は、ムッシュウ」
「あなたは僕を覚えているでしょう」
「ええええ」
彼女は単にお愛嬌のつもりでいうと、男はすぐにつけ加えた。
「厭な雨ですね。傘にお入りなさい、さア腕を組みましょう」
彼女はいわれるままに男と腕を組み合せた。そうして
両人は、人通りの絶えた街を相合傘で歩いていった。フェリシテはこんなところを
他に見て貰えないことを、少し残念にさえ思った。
男はやさしく話しかけていた。街燈の下へ来たときにフェリシテはふと相手を見ると、齢は四十五、六、好男子ではないが、少し陰気くさい、人の好さそうな顔で、何だか見かけたことのある人だと思った。
やがて宿の前へ来ると、彼女は立ちどまって、
「ここですわ」
「もう遅いから駄目。それに、僕は友人から晩餐に招ばれているんですがね、お
忙しくなければ、
談しながらそこまで送って行って下さいませんか」
フェリシテはびっくりした。しかし非常に嬉しかった。男の口の利き方が、堅気の立派な婦人に話しかけるような調子で、いかにも優しく叮嚀だったからである。
「いいえ、ちっとも
忙しいことはありません。
閑でございますわ」
二人はまた歩きだした。
途々、男は自分の生活について少しばかり
||それも重大な方面ではなく
||職務のことだとか、役所の時間だとか、毎晩食事をする小さなレストオランのことなどを話してくれた。彼女は黙って聞いていた。人からそんな風に親しく話しかけられたことは、ほんとうに久しぶりだった。が、彼女は何だか極りがわるいような気がして、自分自身のことは何も話さなかった。
やがて或る街かどへ来ると、男は歩調をゆるめて、
「これが友人の家です。一しょに歩いて貰ってほんとうに愉快でした。ええと、今日は火曜日なんだが、あなたは土曜はお
忙しいですか」
「いいえ」
「お邪魔でなければ、五時頃ちょっとお礼に行きますよ。
左様なら、フェリシテ」
「
左様なら、ムッシュウ」
フェリシテは自分の部屋へ帰ったが、それから毎日ちょいちょい思いだしては、『あの紳士は程のいい人だ』とおもった。
約束の土曜日には、
例日とちがって一歩も外出しずに、暖かい
室で静かにその人を待ちもうけていると、五時頃に、彼は菓子を手土産にもってやって来た。そうして二人の向き合った食卓には、ちょっと律儀なブルジョワらしい気分がただよった。
七時になると彼は帰って行ったが、何だか時が大変早く過ぎたような気がした。
次の土曜日にも、彼は訪ねて来た。それからというものは、土曜日ごとに必ずやって来た。そして今ではそれが二人の間の約束のようになってしまったのである。一週に一回、土曜日の、その時刻になると、ムッシュウ・カシュウ
||女は蔭で彼を思いだす時でさえも必ずムッシュウという敬称をかぶせるのであった
||は、極まって菓子の包みを提げてやって来た。
二人は語り合った。彼女は単に話のきっかけのために、自分の
許に起ったことをごく簡単に聞かせたりした。男の方では主に役所のことを話してくれた。女が自分の
職務にも興味をもっていてくれるらしいので、同僚の
姓名を教えたり、やがて給料の
昇る話などもした。ときどき新聞を読んでくれることもあった。フェリシテはその新聞記事でさまざまな事象の説明を聴きながら、その人が何でも心得ているのにひどく感心した。
土曜の晩ごとに静かに語り合うということが、今では一つの習慣になってしまった。彼女は毎週土曜日の来るのを待ちに待って、その二時間をば
慰楽として過すのであった。彼女はまったく親身に男を待遇した。或る晩、男が足がびしょ濡れになってやって来ると、彼女はすぐに美くしい
刺繍をおいたスリッパをこしらえた。そして次の土曜に彼が来たとき、その綺麗なスリッパがちゃんと暖炉のそばに揃えてあった。一体がそんな風だった。
やがて春が来て、また夏が来た。二、三度、穏かな晩に、二人は人目に立たぬように少し遠方の小料理店へ出かけて行って一緒に食事をしたこともあった。
「わたしはあの人に惚れているだろうか」
彼女は時折自分に問うてみたが、男の少し陰気な、好人物らしい顔を見ると、やはり恋しているのではないと自ら答える外はなかった。只もう彼を待ちもうけることが大きな喜びで、
傍に彼のいてくれることが非常な幸福であり、そして自分がそうした紳士の話相手であると思えば、ひそかに誇りを感ずるのであった。
長年の間目的も前途もなく、その日その日を単調に暮らして来た彼女にとって、この土曜日ごとの二時間というものは真に懐かしい安息だった。一週間のくさくさする思いをば、土曜日にしんみりこの人と
談が出来るという希望で僅かに慰めているのであった。
こうして二年は過ぎた。それは彼女の一生涯のうちで最も平和な二年間であった。男はいつも『今日は、フェリシテ』と挨拶しながら入って来て、帰るときは極って、『また来週の土曜日に』といい残した。
只の一度も
争論などしたことはなかった。そうした交情は、彼女にとっては
恰かも終身年金の支払をうけているようなもので、それが突然に終りをつげるというようなことは夢にも思えなかった。
ところが或る晩、男は常よりも早くやって来た。それはまったく珍らしいことなので、フェリシテはびっくりした。
「今日は、フェリシテ」
戸口を入ると男はすぐにそういったが、例の簡単な挨拶ながらその日は妙な調子で、声もすっかり変っているようであった。
彼はもって来た菓子の包みを
卓子においたまま突立っていると、
「さアお掛けなさい」
フェリシテは椅子をすすめた。男はその椅子に腰をおろして暖炉の方へ脚を投げ出したので、彼女もいつものようにスリッパを出しかけると、彼はやさしくそれを押しのけて、
「今日はそうしちゃいられない。それよりも、お前に話さねばならぬことがある。フェリシテ、僕はもうここへ来られんようになったよ。実は結婚をするのでね。いい齢をして極りのわるい話だが、しかしこの齢になると、やはり自分の家庭というものをもって、身の廻りの世話をしてくれる者がいてくれないと困るんだ」
フェリシテはうつむいて黙っていた。
「僕は最近二年間痛切にそれを感ずるようになったが、そのことが
沁々わかったのも実はお前のお蔭なんだよ。僕は毎土曜日にここへ来てお前と
談をするのが
楽みだった。いつも暖炉のそばにスリッパを揃えておいてくれるお前の親切が身にしみたのさ。ねえ、フェリシテ、お互いの齢になっちゃ、もう色恋の沙汰じゃないんだね。ただ甘やかされて、少し我儘がしてみたいというだけさ。ね、そうだろう」
フェリシテは黙ってうなずいた。自分のためにも男のためにも、その考えを承認した。今日男が入って来たときの様子から彼女が漠然と予感したことを、彼はついに云いだしたのだ。この二年間、土曜日ごとに語り合ったことは、男にとっては要するに家庭というものの
影像であったし、彼女にとってはそれの
幻覚に過ぎなかったのである。
男は
間断なしにしゃべったが、フェリシテは上の空で聞いていた。やがて男は黙りこむと紙入から百フラン
紙幣を一枚とりだして、
「これでいい着物でも買いなさい」
そういって、その
紙幣を彼女にくれた。
しかし、これは特別のお情といってよかろう。よしんば無断で来なくなろうと、何も
与れなかろうと、彼女の方から不足はいえないわけだ。まして男は最後まで彼女に好意をもって、
大切にしてくれたのである。彼はフェリシテの両頬に接吻して、
「では
左様なら、フェリシテ、これでお別れだ。お前も達者で暮らしなさい」
そういって彼は帰って行った。フェリシテはまた独りぽっちになった。
やがて時計が五時半を打った。彼女は、
「街へ出ようか」
と思ったけれど、何だか疲れを感じておっくうだった。それに外は急に雨が降りだして、人々はその夕立の中を駆けているらしかった。
暖炉の火もいつの間にか消えていた。彼女は椅子に坐ったなりで、男がおいて行った青色の
紙幣を幾度もひっくりかえしてみた。
そして機械的にあたりを見廻わしたが、その視線はかの
刺繍したスリッパから、
卓子の隅に寂しくおかれたままになっている菓子の包みへおちて行った。
やがて六時が鳴ると、
「こうしちゃいられない。出かけよう」
しかし彼女は、
起ちあがる力もなくて、やはりじっと坐りこんでいた。間もなく夜だが、暮れなやむ
黄昏の光線が微かに
仄めいて、開けっぱなした窓からは冷いしぶきが床へ吹きこんでいた。
彼女は急に捨てられた孤独を感じだした。
「やっぱり街へ出なければならない」
窓に肱をついて、六階の上から、何を見るともなく何を考えるともなく、ぼんやり街を見おろしながら独りごとをいった。
「ああ厭だ
······厭だ
······」
そのとき、すぐ下の五階から晴れやかな笑い声が聞えて来た。
階下の家族は幸福だった。そこの
主人は昨日、ムッシュウ・カシュウの勤めている役所に大変いい口を見つけて採用されたということだ。彼女はそんなことも話題にするつもりだったのに、ムッシュウ・カシュウは自分の云い分が通るとさっさと帰って行ったものだから、その噂をする暇もなかった。そして突然独りぽっちになった今は、そうした世間話がしたくも、もう相手がないのであった。
「ああ厭だ。この先どんなに厭な思いがつづくことか」
日はとっぷりと暮れてしまった。
背後から湿っぽい
暗と小さな
室の
寂寞が肩の上へ
蔽被さるような気がして、思わずそっと窓から顔を出した。ふるえる
瓦斯の
灯にちらちらしている街は、何だか自分から逃げてゆくように見えた。
「ああ厭だ」
彼女はほっと溜息をついた。そして無雑作に、何の未練もなく、殆んど何の気なしに半身を突きだして首を垂れると、
呀! といったなりその六階の窓から跳び降りた。
彼女は『至福』を意味するフェリシテという名前であった。それだのに、若くも美くしくもない、貧しい女だった。