湖のうへに、赤い秋の落日があつた。ほんとに、なごやかな一日であつたし、あんな、たつぷりした入日を見たことはないと、お前も云つた。いつまでも、あの日輪のすがたは残つた、紙の上に、心の上に、そして、お前が死んでからは、はつきりと夢の中に。
土蔵の跡の石に囲まれた菜園、ここは一段と高く、とぼしい緑を風に晒してゐる。わたしはさまざまなことをおもひだす。薄暗い土蔵の小さな窓から仄かに見えてゐた杏の花。母と死別れた秋、蔵の白い壁をくつきりと照らしてゐた月。ふるさとの庭は年老いて愁も深かつたが······。ふしぎな朝の夢のなかでは、ずしんと崩壊した刹那の家のありさまが見えてくるのだ。
もしも一人の男がこの世から懸絶したところに、うら若い妻をつれて、そこで夢のやうな暮しをつづけたとしたら、男の魂のなかにたち還つてくるのは、恐らく幼ない日の記憶ばかりだらう。そして、その男の幼児のやうな暮しが、ひつそりとすぎ去つたとき、もう彼の妻はこの世にゐなかつたとしても、男の魂のなかに栖むのは妻の面影ばかりだらう。彼はまだ頑に呆然と待ち望んでゐる、満目蕭条たる己の晩年に、美しい記憶以上の記憶が甦つてくる奇蹟を。
はげしく揺れる樹の下で、少年の瞳は、雲の裂け目にあつた。かき曇る天をながれてゆく龍よ······。
その頃、太陽はギドレニイの絵さながらに、植物園の上を走つてゐた。忍冬、柊、木犀、そんなひつそりとした樹木が白い径に並んでゐて、その径を歩いてゐるとき、野薔薇の花蔭から幻の少女はこちらを覗いてゐた。樹の根には、しづかな埋葬の図があつた。色どり華やかな饗宴や、虔しい野らの祈りも、殆どすべての幻があそこにはあつたやうだ。それは一冊の画集のやうに今も懐しく私のなかに埋れてゐる。
体のすみずみまで、もう過ぎ去つた、お前の病苦がじかに感じられて、睡れない一夜がすぎると、砂埃のたつ生温かい日がやつて来た。かういふ日である、何か考へながら、何も云はず、力ないまつげのかげに、熱い眼がみひらかれてゐたのは。
うつとりとお前の一日がすぎてゆくほとりで、何の不安もなく伸びてゐたものがある。それは小さな筍が竹になる日だつた。そよ風とやはらかい陽ざしのなかに、縺れてほほゑむ貌は病んでゐたが。
キラキラと光りながれるものが涙をさそふなら、闇にうかぶ露が幻でないなら、おもひつめた、パセチツクな眼よ。
小さな部屋から外へ出て行くと坂を下りたところに白い空がひろがつてゐる。あの空のむかふから私の肩をささへてゐるものがある。ぐつたりと私を疲れさせたり、不意に心をときめかすものが。
私の小さな部屋にはマツチ箱ほどの机があり、その机にむかつてペンをもつてゐる。ペンをもつてゐる私をささへてゐるものは向に見える空だ。
わたしが望みを見うしなつて暗がりの部屋に横はつてゐるとき、どうしてお前は感じとつたのか。この窓のすき間に、あたかも小さな霊魂のごとく滑りおりて憩らつてゐた、稀れなる星よ。
ゆきずりにみる人の身ぶりのうちから そのひとの昔がみえてくる。垣間みた あやめの花が をさない日の幻となる。胸をふたぐといふのではない、いつのまにかつみかさなつたものが おのれのうちにくるめいてゐる。藤の花の咲く空、とびかふ燕。
母よ、あなたの胎内に僕がゐたとき、あなたを駭かせたといふ近隣の火災が、あのときのおどろきが僕にはまだ残つてゐる。(そんな古いことを語るあなたの記憶のなかに溶込まうとした僕ももう昔の僕になつてしまつたが)母よ、地上に生き残つていつも脅やかされとほしてゐるこの心臓には、なにかやはりただならぬ気鬱が波打つてゐる。
私は夏の数日を、その家の留守をあづかつてゐた。広い家ではなかつたが、ひとり暮しには閑寂で、宿なしの私には珍しく気分が落着いてきた。ある夜ふけ、窓から月が差し、······すると、お前と暮してゐた昔どほりの家かとおもへた。
もつと軽く もつと静かに、たとへば倦みつかれた心から新しいのぞみのひらかれてくるやうに 何気なく畳のうへに坐り、さしてくる月の光を。
荒れ野を叫びながら逃げまどつてゐたときも、追ひつめられて息がと絶えさうになつたときも、緑色の星と凍てついてしまつたときも、お前は睡つてゐた睡つてゐた おほらかな嘆きのやうに。
お前が凍てついた手で 最後のマツチを擦つたとき、焔はパッと透明な球体をつくり 清らかな優しい死の床が浮かび上つた。
誰かが死にかかつてゐる 誰かが死にかかつてゐると お前の頬の薔薇は呟いた。小さな かなしい アンデルセンの娘よ。
僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、いつも浮んでくるのはその幻だ。
いま朝が立ちかへつた。見捨てられた宇宙へ、叫びとなつて突立つてゆく針よ 真青な裸身の。