病めるが上にも年々更に新しき病を増すわたしの健康は、譬えて見れば雨の漏る古家か虫の喰った老樹の如きものであろう。雨の漏るたび壁は落ち柱は腐って行きながら古家は案外風にも吹き倒されずに立っているものである。虫にくわれた老樹の幹は年々うつろになって行きながら枯れたかと思う頃、哀れにも芽を吹く事がある。
先頃掛りつけの医者からわたしは砂糖分を含む飲食物を節減するようにとの注意を受けた。
誰が言い初めたか青春の歓楽を甘き酒に酔うといい、悲痛
わが身既に久しく世の辛酸を嘗めるに飽きている折から、今やわが口俄にまた甘きものを断たねばならぬ。身は心と共に辛き思いに押しひしがれて遂には塩鮭の如くにならねば幸である。
珈琲の中でわたしの最も好むものは
いつ時分からわたしは珈琲を嗜み初めたか明かに記憶していない。然し二十五歳の秋亜米利加へ行く汽船の食堂に於てわたしは既に英国風の紅茶よりも仏蘭西風の珈琲を喜んでいた事を覚えている。
各人日常の習慣と嗜好とは凡そ三十代から四十前後にかけて定まるものである。中年の習慣は永く捨てがたいものである。捨て難い中年の習慣と嗜好とを一生涯改めずに済む人は幸福である。老境に入って俄に半生慣れ親んで来たものを棄て排けるは真に忍び難い。年老いては古きをしりぞけて新しきものに慣れ親しもうとしても既にその気力なく又時間もない。
珈琲と共にわたしはまた数年飲み慣れたショコラをも廃さなければならぬ。数年来わたしは独居の生活の気儘なるを喜んだ代り、炊事の不便に苦しみいつとはなく米飯を廃して
巴里の街の散歩を喜んだ人は皆知っているのであろう。あのショコラムニエーと書いた卑俗な広告は、セーヌ河を往復する河船の舷や町の辻々の広告塔に芝居や寄席の番組と共に張付けられてあった。わたしは毎朝顔を洗う前に寝床の中で暖いショコラを啜ろうと半身を起す時、枕元には昨夜読みながら眠った巴里の新聞や雑誌の投げ出されてあるのを見返りながら、折々われにもあらず十幾年昔の事を思出すのである。
巴里の宿屋に朝目をさましショコラを啜ろうとて起き直る時窓外の裏町を角笛吹いて山羊の乳を売行く女の声。ソルボンの大時計の沈んだ音。またリヨンの下宿に朝な朝な耳にしたロオン河の水の音。これ等はすべて泡立つショコラの暖い煙につれて、今も尚ありありと思出されるものを。医師の警告は今や飲食に関する凡ての快楽と追想とを奪い去った。口に甘きものは和洋の別なくわたしの身には全く無用のものとなった。
たしかリュキザンブルの画廊だと覚えている。クロードモネーが名画の中に食事の佳人は既に去って花壇に近き木蔭の食卓には空しき盞と菓子果物を盛った鉢との置きすてられたさまを描いたものがあった。突然わたしが此の油画を思い起したのは木の葉を縫う夏の日光の真白き卓布の面に落ちかかる色彩の妙味の為めではない。この製作に現われた如き幸福平和にして然も詩趣に富んだ生活に対する羨望と実感との為である。
父の世に在った頃大久保の家には大きな紫檀の卓子の上に折々支那の饅頭や果物が青磁の鉢や籐編みの籃に盛られてあった。わたしはこれをば室内の光景扁額書幅の題詩などと見くらべて屡文人画の様式と精神とを賞美した。
浮世絵を好む人は

詩文の興あれば食うもの口舌の外更に別種の味を生ず。
われ等今の世に趣味を説くは木に
大正十年九月稿