林泉のほとりに
今日も
若者はひとりうっそりしゃがんでいた。
冠はほころびくつには
穴があき、あごにははらはらとぶしょうひげがみられ、
頬骨の下にはのみでえぐったようなくぼみがあった。そして
凝視している
涼しい
眼には深い
哀しみの色がやどっていた。その眼で若者はさっきから
一対のおしどりをあかずながめていた。
五色もていろどられた美しいつがいのおしどりは
彼らに見入っている
傍観者などすこしも気にかけず、つつましやかに、しかしむつまじげに遊んでいた。彼らはかたときも
他からはなれることなく、
水蓮のそばをすぎたり、ふきあげのしぶきの下をくぐったりした。そのしぶきの中には美しい
虹が
夢のようにうかんでいた。ただ
形象のみからはいずれがおすともいずれがめすとも弁じがたかったけれども、若者は、いつも先に立っていくのがおすで、すぐそのあとからいそいそとついていくのがめすであるにちがいないと思っていた。日は真昼、そよとの風もなく、ふきあげは動かぬ
絹の糸のすだれのようにもみえた。若者はそのとき、
頬づえを左手にかえて深いため息をついた。すると
背後にかすかにものの気配がした。みるとそこには見知らぬひとりの老人が若者をみつめてたたずんでいた。さぎのようにやせ、さぎのように気品のある老人であった。手には
一管の
笛をたずさえていた。
若者はその全体の
風貌からいままでに知らなかった
威圧をうけたので、思わず
一揖した。すると老人は音も立てずに一歩歩をすすめて、「何か思いごとがあって毎日ここにこられるのか」とたずねた。若者はこの老人をみるのは
今日がはじめであったので、老人が自分の毎日ここにやってくることを知っているのに
不審をいだいた。「失礼でございますがあなたはどなたでしょうか」と
彼はききかえした。「わたしはこの水の底に住んでいる水の
精じゃ」と老人は答えた。若者はおどろいていずまいをつくろった。老人は語をついでいった。「わたしはこの水の底深くひそんでいて毎日笛をふいておる。だが、わたしのふきならす笛の
音色はあなた方、土の上の者には聞こえはせぬ。それを聞くことのできるものは水の中に住まうものばかりじゃ。
一分のめだかから
一尺の
鯉にいたる魚のすべて、さぎ、白鳥、おしどり、
鴨、
鶴など水に親しむ鳥どものすべて、また水にさく浮草の花の一つ一つが、それを聞くのじゃ。なぜ彼らに笛の音をきかしてやるのかとおっしゃられるか。それは、彼らの心からにごりをのぞいてやるためじゃ。わたしがこれをふきはじめると、まず
泉の水は上方から深山の大気のようにすんでくる。そして魚たちの心、鳥たちの心、花たちの心も水と同じようにすんでくる。彼らの心からいっさいのにごりは消え去って、ただ一つの色に、悲しみならばただ悲しみ、よろこびならばひたすらなるよろこびにすんでしまうのじゃ。」「お待ちください」と若者はひとみをかがやかせながらさえぎった。「それでは、あの
一対のおしどりは、すみきった愛のみをもって相愛しているのでございますか。その愛の中にさびしさがあったり、その愛の中ににくしみがあったり、その愛の中にうたがいがあったりはしないのでしょうか。」「そのようなものはいっさい
介在しない。ただ一つの愛のみじゃ。さればいずれか一方がうせたときにはとりのこされた者は、ひたすらなる悲しみにとざされ、ついにはそのため
己もまた身をほろぼさねばならぬやもしれない。」「やっぱりそうだったのですか」と
若者は、老人からちょうどそのときこちらへやってくるつがいのおしどりの方へ
眼をうつしていった。そしてこんどはひとりごとのようにいいはじめた。「やっぱりそうだったのですか。わたしもそう思っておりました。それで彼らをうらやましくて、毎日ここにきてじっとみつめておりました。お察しの通りです。わたしは
恋をしているのです。でもそれは
奇妙な恋でございます。お聞きください。わたしと女とは小さい頭を
総角にゆっているころから知りあっていました。わたしたちの恋は六七歳のころふたりでよく遊んだお
嫁さんごっこの他愛ない遊びに
胚胎しているのでございます。けれども真正の恋心を感じはじめましたのはふたりが十五六歳になったころからでございました。それだとて早い恋ではございます。そのころは
純真な愛情をもってひたむきに女を愛しておりました。相いだいて
樹かげにふたりいるとき、わたしはこのまま死んでもくいはしないと、女にも申し、また自分の心でも思っておりました。女でございますか。もちろん女も真実心からそう申しておりました。けれどわたしはそのうちに都に
出で、
進士の
試験をとるため勉学にはげんだのでございます。その間とてかたときも女のことをわすれたことはありませんでした。ですがそうしているあいだにわたしは自分の心が二つにわかれはじめたことに気がつきました。一つはもともとからあった女を
恋うる心、も一つは女をはなれてひややかに女をみまもる心でございます。このあとの方の心が年とともに大きくなってきましてわたしにこう申すのでございます。『あのような女はすてた方がよい。お前がこれから出世をして、高い地位についた場合あの女は
妻としてふさわしくない。心は美しくとも
知能の
程度が低い。そして
容貌もけっして最上の美人ということはできない。その他
素性の点からいっても
財産の点からいっても、あの女はお前の未来の妻にはふさわしくない。』わたしは、それを心のまよいだ、そんなことに耳をかたむけてはいけないと思いました。けれどもこのいわば
不純な心はますことはあってもけっして減じないのでした。今年わたしは
進士の
試験をとりまして、まちあぐんでいた女のもとに帰ってきました。女はぶじに帰ったわたしをみると
狂喜いたしました。けれどわたしの心はあまりはずまないのでした。ふたり相いだいて
樹かげをさまよいましたときに、むかしこうしてるときこのまま死のうとかまわぬと考えたことを
想い起こし、それではいまはどうかとひそかに自問してみますと、わたしの
胸にはそれをつよく
反発する声が起こってきました。女はむかしのままの
一筋の真心をもってわたしを愛してくれるのに、このような
分裂した気持ちを胸に
蔵し、表面だけとりつくろっているのは
罪であると思いました。それで一思いに女をすてようとある日女の家からの
帰途、わたしは決心したのでございます。よく日
永劫女のもとを去るべく、早朝荷物をまとめて、女にはつげずに、都をさして出発いたしました。しかしいざこうときめてしまってみると、たちきれぬ
未練がむくむくと頭をもたげてまいりまして、わたしの
後髪を力づよくひくのでありました。何くそとわたしは
眼をつむって、何も考えないようにして歩きました。けれどもむだな
努力でございました。その夜も
約束を信じてわたしを待っている女のことを
想いうかべると、わたしはもはやこらえることができなくなって、岸をはなれたわたし
舟を船頭にたのんでもとの岸にかえしてもらい、また女のもとに帰ってきてしまったのでした。
爾来今日まで、ずるずると女とともに日を送ってまいりました。ひたむきに愛する気にはなれず、そうかといって、一思いにすてさる気にもなれません。この二つの心がわたしの
胸の中でいつもかみあっておりますので、わたしはこんなに
憔悴いたしてしまったのでございます。ええそうです。せめてあの
純真なおしどりの相愛するすがたをみていたならば不純な心がいくぶんでもなくなるかと思って、毎日ここにやってきてみつめていたのでございます。」「それではあなたはその不純な心をのぞきたいと思われるのじゃな。」ときき終わって老人はたずねた。そして
若者のうなずいたのをみて語をついでいった。「
真実にそう思いなさるならば、わたしの力でそうしてあげられないこともない。」若者の
面には
歓喜の色がかがやきはじめた。老人はしゃべりつづけた。「けれどもそれにはあなたは
恋人といっしょにおしどりにならなければならない。」「え、おしどりに。」と若者はおどろいてさけんだ。「そうじゃ」と老人は低い力のこもった声でいった。「おしどりとならなくてはわしの力はおよばないからじゃ。」「おしどりになればあなたの
笛の
音をきくことができるのでございますね。」「もちろんきくことができる。」
若者はそれからしばらく深くうなだれて考えこんだがやがて
面をあげて、きっぱりといった。「なりましょう。おしどりになりましょう。」「それでは
今晩月が出てから、
恋人をともなってここへ出ていらっしゃい。」と老人はいった。若者は
約束をした。老人のすがたは若者の
眼の前で、だんだんうすれはじめ、
一抹のもやのようなものとなり、やがて
肉眼にはみえないものになってしまった。若者はそのみごとな
仙術にみとれてしばらく
呆然とたたずんでいたが、やがて
冠のひもをむすびなおすと、いそいそと帰っていった。夜になり月がのぼって、池の面が白くかぎろいはじめるころ、若者は恋人をともなって、
芝草の上の
露をふみながらふたたび
泉のほとりにやってきた。昼間のおしどりはもはやどこかの岩かげに
体をすりよせてねむっているらしく、水の面をかきみだすものは何もなく、ただ夜もやまぬふきあげの水が、のぼってちって
露玉となり、静かに落ちてちりめんのようなさざなみを、しかも池の中央のあたりにだけただよわせていた。水ぎわではかじかが二三びきかたいまるい木の
珠数玉をかちあわせるようななごやかなよい声でけろけろとないていた。若者はあたりをみまわしたがまだ老人の
姿はみえなかった。そこで池のかたわらの一本の
木犀のかげによって、夜露をよけながら老人を待つことにした。
娘は手をさしのべて木犀の花をたおり、若者のうしろにまわって冠にさしてやり、自分の
頭髪にもかざした。ふたりが
肩をよせあってそこにしゃがむと、ふたりの頭はくすぶりはじめた。「もし
仙人がわたしをおしどりにしてこの
泉の上にはなったならばお前はどうするつもりか。」と
若者は池の
面から
眼をはなさないでいった。「わたしもそのお方にお願いしておしどりにしていただきます。」と
恋人は、
暖かい手を若者の手の上にかさねていった。「それは
真実の心か。」と若者は念をおした。「どうしていつわりなど申しましょう」と恋人はかさねた手にやさしく力をこめた。「もしわたしのようなものはおしどりにしていただけないなら、
鴨にでも
鳰にでもしていただいてあなたのおそばにまいりましょう。」するとそのとき、ふきあげのかたわらにもう一つのふきあげのように白いしぶきの柱が立ちあがって、それが
軽羅の
幕のように広がって流れゆき、池の水ぎわにいたるとその幕のなかから昼間の老人が現われてきた。何も知らない若者の恋人はそれをみると
恐怖の
叫びを発しようとしたが、若者は手をつよくにぎりしめてそれを制した。「やってまいりました。」と若者は立ちあがって老人の方へ歩みよりながらいった。「それでは
一刻も早く、ふたりをおしどりにしてください。」老人はうなずいてまず若者を、月光が何ものにもさえぎられていない美しい
芝生の上につれていった。若者の
背後には何ものにもまさって黒い
彼の
影法師が、
悪魔のように不気味な
輪廓をくっきり芝生の上に
画いていた。老人は若者の背後にまわってそのかげのはしを両足でしっかりふまえた。「さあ池の方へ歩いてゆきなさい。」若者はいわれた通り歩こうとした。けれども
異様な力が背後からひっぱっていることに気がついた。「歩きなさい。」と老人は命令するようにいった。小鳥が鳥もちからはなれようとするように、
若者は手足をばたばたやって
努力した。そして満身に鉄のような力をこめて、やっと一足歩いたとき、若者はその
影法師からはなれることができた。そして
異様な力から
解放された若者は、黒い影法師を老人の足もとにのこしておいたまま、池の方へ下っていって、
汀までくると立ちどまった。「水の中へはいってゆきなさい。」と老人の声が
隙間をあたえずあとから追っかけてきた。若者は
観念の
眼をとじて岩の上から水の上にとんだ。「あっ」という
恋人の
叫び声を耳にしたと思ったつぎの
瞬間、若者は自分の
体が
羽根ぶとんのようにかるがると水の上に浮かんでいることに気がついた。
彼は眼を開いて自分の体をみるともはや一
羽のおしどりとなっていた。おどろきとおそれにうたれて気を失っていた恋人は、やがておのれに帰ると、老人が自分のみをおき去りにして水中に消えていくことをおそれて、まろぶように老人のところにかけより、
膝にすがった。「お願いです。わたしだけをのこしておいてくださいますな。わたしも水鳥にしてください。おしどりがいけませぬならば
鴨でも
鳰でもかまいません。」「よろしい」と老人は答えた。「あの若者がとびこんだところから、あなたもとびこみなさい。」
娘は
躊躇しなかった。
彼女は小さな
心臓を、
両掌ににぎられた小鳥のように、ときめかせながら岩のところに下りていった。岩の上には、若者の衣とくつとそして
木犀の花のかざされた
冠があった。娘は若者のくつのかたわらに、おのれの小さいぬいとりのあるくつをならべてぬぐと、青いもすそをあとにひいて水面にとんだ。そしてまもなくおすのおしどりのかたわらに、やや小さいめすのおしどりが、くちばしでおのれの
羽毛をととのえながらよりそっていた。二
羽のこの美しい水鳥はお互いに心いっぱいに愛の喜びを感じているとみえて、小さい二つの
尾羽はきそうようにふられていた。それからまたしばらくするとおしどりたちはくちばしを
胸毛の中に収めて、
黝い丸い
眼をおのおのとじた。水の底から老人のふきならす、
妙なる
笛の
音色がひそやかにのぼりはじめたらしい。