||だから、私は屍体なんかこわくはないっていったんだ。私には、人間の生命ってやつが不気味なんだ。なにをしでかすかわからないし、それはおそろしく、むごたらしく、奇怪で、醜悪なものだ。私のこわいのは、それだ。······まえまえから、私は、ただそのことだけをいいつづけてきたんだ。
喉ぼとけの突き出た
ところが、奴はその私を、私の恐怖を、ぜんぜん理解できなかった。······奴は、バカか狂人か、その両方かに違いないんだ。まったく、悪い奴にとっつかまったもんです。
え? 彼と知り合った動機ですか? それはね、奴の細君を通じてです。彼の妻は、私の小学校の同級生で、金がないので家にあった時代ものの指環や首飾り||ええ、誰のものかは知らないが、親父の代からあったんです||の買い手をさがしている私に、古道具屋なら夫がよく知っているから、と親切にいってくれたんです。
ええ、道でひょっこり逢いましてね。一月ほど前のことです。
細君は、さっそくその日の夕食に招いてくれ、奴に引き合わせました。寒い夜で、食事にはスキ焼きが出されたのをはっきりと憶えています。だが、その夜いらい、私は彼に見込まれてしまったんだ。
私は、臆病者じゃない。だから、はじめから説明つきで差し出されたんだったら、私も笑ってそれを冗談のタネにもできたでしょう。だが、それはあんまり突然だったんです。······細君が、なにかの用で台所に立ったあいだでした。私は、彼にそっと裸の女の写真を手渡されて、てっきりこれは細君にはないしょのエロ写真だと思いこんだんです。
真裸の女がこちらを向き、五、六人ならんで突っ立っている写真で、人なみに私もニヤニヤして見入りました。女たちは、さすがに恥ずかしいのか、目を閉じわざと無表情な顔をつくり、まるで後ろの汚れた板壁にへばりついているみたいでした。
「あんた、そりゃタテだよ。こう、横にして見るんだ」
低声で彼にいわれ、私は写真を横にしてみて、どうやら、一人ずつの写真をくっつけてあるらしいのに気づきました。と、さらに彼はいったのです。「そう、そう、面倒だからいっしょに繋げてあるんですよ。ね? よく見てごらんなさい。一人ずつ、細長い台に寝てるでしょう? これがケンシダイなんです」
一瞬、私はよく意味がつかめなかった。すると、眼鏡を直しながらのぞきこんで、彼はひどく嬉しげにクックッと笑いました。
「さて、と。じゃ、この端っこのから行きましょうか。これはね、これは
私は、写真をほうり出した。べつにこわかったのじゃないのだ。びっくりしただけの話で、ただ、はじめて私は、彼がその土地の警察の鑑識課員だったのを思い出したのです。
「こんなの、ただの棒切れと同じですよ」呆れ顔で、彼はさも軽蔑したように笑いました。
「じゃ、これ、なにかわかりますか?」
私は用心して、横目で眺めてから手に取りました。屍体でも、血痕や傷口でもなく、私は安心しました。ちょっと気味わるげな、まん中のくびれたヒョータン型のものです。なんだか、ぐにゃぐにゃした肉のようで、端のほうに一面に白い細かなブツブツが見えます。
「わかった。アミーバの拡大写真ですね?」
「へえ? そう見えますかね」
彼は、また声をひそめ、一語一語区切りながら、はっきりと私の耳にいったのです。
「これはね、締めころされた女の、舌です」
舌? ······咄嗟に、その肉片は彩色され、私にすべてのイメージがうかびました。
気づいたとき、私は、仰向けに畳に寝ていました。私は奇声をあげ、気絶していたのでした。突然、爆発するように彼が大声で笑いはじめ、トンネルの中にいるみたいに、その哄笑は、私の全身にひびきました。······
その日は、細君が奴を叱りつけて、そのままで終りました。もちろん、私はもう、牛肉を口に入れる気にはなれなかった。
その経験が、彼にはどうやらこよなく愉しいものだったらしいのです。それからというもの、彼は、まるで舌なめずりをするみたいにして、機会あるごとに(いや、機会をつくってまで)私に屍体の写真を見せ、そのたびに示す私の恐怖の表情を、愉しもうとしはじめたのです。
たとえば、家族のアルバムを見せるという。事実そうなので安心して頁を繰っていると、その中に、切り刻まれた男の惨殺された屍体写真があったり、首をちょん切られた女の胴体の写真が挟まれてあったり、という具合なのだ。いっしょに古道具屋をまわっていても、喫茶店で一休みをすれば、かならずそんな写真を出します。警察に私を呼び、なんとかして解剖室に連れこもうともしました。私がそれを避け、彼とは町角でしか約束せず、どこでも一休みしないことに決めると、こんどは歩きながら、ふいにポケットから写真を出し、私の目の前に突きつけます。······
そのたびに私が悲鳴をあげ、失神しかけるのが、彼には何んともいえぬ甘美な快楽らしいのです。彼は、私が、貧血をおこすたびに、まるで悪魔の凱歌のように高らかな、たのしげな笑い声をあげてうれしがるのでした。
······だが、私はだんじて屍体がこわかったのではないのだ。このことは、ぜひわかっていただきたい。名誉にかけていうが、私は、屍体なんかひとつもこわくはない。こわいどころか、私は、生きている人間より、屍体のほうがずっと好きだ。ずっと安全で清潔で、安心して気らくにつきあえます。嘘じゃない。強がりでもない。私は正直な人間だ。私はただ、自分をごまかすことができない男なんです。
くりかえすが、私のこわいのは、生きている人間、いつ爆発するかわからない活火山みたいな、危険で醜怪なその内部であり、そういう理不尽な人間の生命なのだ。······私はそれがこわい。その唐突さ、なまなましさが趣味に合わない。私は、生きているが故の、人間の苦悶とか苦痛、つまり生命というやつのもつ不幸やそのなまぐささを、感じとることがきらいなのだ。私は、気のやさしい男なのだ。······だが彼は、私がいくら口を
どうしてそれをわかってはくれないのか。まったく、始末におえぬ男でした。
私は、早く彼と逢わずにすむようになればいい、とそう心から願いました。が、彼は、いい店をみつけた、こんどこそ高く売れる、といっては私を呼び出し、いや、もっと高い値をつける店をみつけましょう、といっては
そうして今日、やっと指環と首飾りは現金に変わりました。え? 七千三百円です。想像以上の値段で、それも彼が横についていて、故物売買の前歴のある店主を脅してくれたからです。私は、ほっとして彼に感謝しました。そうして、ついでに彼への御礼も今日のうちにすませよう、と思いついたのです。彼は、私をこわがらせるのにも飽きてしまったのか、今日はめずらしく
私たちは、小さな酒場へ行き、ビールで乾杯をしました。私はあらゆる人びとに感謝したいような気持ちでした。もうすぐ、いっさいは無事に終り、私はもう、二度と彼に恐怖をおぼえさせられることもないのだ。······
私は礼をいい、約束どおり二割の礼金を渡しました。彼は鞄の中にそれを収め、「じゃ、これを」といいました。私は、彼が受取りをくれるのだと思ったのです。
私は叫びました。椅子を蹴倒して逃げようとしていました。うかつにも、私は彼の性癖をすっかり忘れていたのでした。
が、私は身動きもできなかった。柔道三段の彼の腕が、金剛力で私の首をかかえ、うきうきした彼の息が私の頬にかかりました。
「さあ、よく見るんだ。······どうです? ちょっと面白くありませんか?」
いやでも、私は見なければならなかった。箱づめになった少女の
「ほら、これは?」
斧でたち割られた老人の顔。額に斧が埋まり、赤黒いおびただしい血の塊りの中から、一つだけこちらをみつめている目。
「ほら、これは?」
胴体をふかぶかと十文字に切り裂かれた裸の若い女。庖丁が女の腿に突き立ち、ぱっくりと開いた腹。赤く青く光っている内臓。私は
「ほら、これは?」
「ほら、これは?」
「ほら、これは?」
もういい、もう沢山だ、もう御免だ。
······私は叫び、夢中で目の前の写真をふりはらいました。くりかえし、くりかえし、私は全身でもがきました。意識が
「······死んでる」
足もとでバーテンが低くそう呟き、とたんに私の手からなにかが落ち、床にころげました。······ビール壜は、底が欠けていました。
奴は、仰向けに床に倒れ、死んだ金魚のような唇になって、みるみるひろがってゆく濃い血の地図の中に、頭を浸けていました。
「ふん。······棒切れじゃないか、ただの」
自分の声の、慄えていないのがわかりました。私は靴
||だから、私は屍体なんかこわくはないっていったんだ。私には、人間の生命ってやつが不気味なんだ。なにをしでかすかわからないし、それはおそろしく、むごたらしく、奇怪で、醜悪なものだ。私のこわいのは、それだ。私は、屍体じゃなく、そこに感じられる人間の、突拍子もない生命のふしぎさ、残酷さがこわかっただけの話なんだ。あんたも、いまこそ私の恐怖の正体がわかったろう。······
瘠せた小男は、いうだけのことはすべて話したという顔で黙りこんだ。机をはさんで彼の前に坐っている、制帽の男がたずねた。
||よし。これで調書はいい。······ところで、君の職業は?
||都の職員です。火葬場に勤めています。
||火葬場? ほう。すると、君は隠亡かね?
||世間ではそういいます。と、男は喉ぼとけをぎくぎくと動かしながら答えた。
||生れつきの、父の代からの職業ですけど、いまでは屍体焼却夫というのが、正式の呼名なんです。
彼の目は、ふたたび、おどおどとした負けた犬のようなそれにかわっていた。