深海の宝の貴さも、
女の愛につつまれた
男のひそかな慰めには及ばない。
ただ家に近づくだけで、わたしは幸福の気配を感ずる。
結婚はなんと甘美な香りをはなつものか。
菫 の花壇もそれほど芳 しくはない。
女の愛につつまれた
男のひそかな慰めには及ばない。
ただ家に近づくだけで、わたしは幸福の気配を感ずる。
結婚はなんと甘美な香りをはなつものか。
||ミドルトン
わたしはしばしば機会があって、女性が忍耐強く、抗しがたいような逆境にたえてゆくのを見たことがある。男性の心をひしぎ、一敗地にまみれさせる災難が、女性の場合には、かえって全精力を呼びおこし、気高く大胆に、ときには崇高にさえするのだ。か弱くやさしい女が、順調な人生の
つる草は、そのしとやかな葉をかしわの木にまきつけ、その木のおかげで高くのぼり、日の光を受けることができるのだが、いざその頑丈な木が雷にうたれて引きさかれると、そのまわりにすがりつき、
わたしはあるとき一人の友人に祝いのことばを言ってやった。その友人というのは、咲き
こういうふうに考えてくると、わたしは、以前に見たある家庭のことを思い出す。わたしの親友のレスリーは、上流家庭で育った
二人の性格は違っていたが、そのためにこそ、調和のとれた組合せができあがった。男は空想的で、いくぶん深刻なたちだったが、女はいつも生き生きして、歓喜にあふれていた。わたしはよく気がついたが、人の集りのなかで彼はうっとりと彼女に見とれていたものである。彼女はほがらかだったので、そういう集りではいつでも人気ものになっていたのだ。彼女のほうでも、ひとびとの
ところが、不幸なことにこの友人は大規模な投機に財産を注ぎこんだ。そして結婚後いく月もたたないうちに、思いがけない災害がつづいておこり、財産は流れ去り、ほとんど一文なしになってしまった。しばらくのあいだは、彼は事情をだれにもうちあけず、心は乱れて顔はやつれ、ただうろうろと歩き廻っていた。彼の生活は苦痛の連続になってしまったが、なお一層つらかったのは、妻のいるところでは、笑顔をよそおわねばならなかったことである。彼は、事の次第を妻にしらせて、彼女を苦しめる気にはなれなかった。しかし、彼女の愛の眼はたちまち、何かがうまくいっていないということを見ぬいてしまった。彼女は、彼の顔つきが変ったことにも、ときどき、そっと
とうとうある日彼はわたしのところにやってきて、絶望のどん底につきおとされたような声で、すべてのいきさつを話した。いちぶ始終を聞きおわってから、わたしはたずねた。「奥さんはこのことをみんな知ってるのかい」こうきかれると、彼は身もだえして涙を流した。「おねがいだ」と彼は叫んだ。「もし君が少しでもぼくをあわれだと思ったら、あれのことは口に出さんでくれ。あれのことを思うと、ぼくは気がくるいそうになるんだ」
「どうして言っちゃいけないんだい」とわたしは言った。「いずれそのうちには奥さんにだってきっと知れてしまうんだぜ。いつまでもかくしておくことはできやしないよ。それに君が自分でしらせるより、もっと大げさになって奥さんの耳にはいり、ひどく驚かすことになるかもしれないしね。愛する人の口から聞けば、どんなに身をきられるようなしらせでもやわらげられるものだよ。そのうえ、君はせっかく奥さんの同情でなぐさめてもらえるのに、それを拒んでいるんだ。それだけじゃない。君は、人の心をむすびあわせておくことができる
「ああ、だけどね、君。ぼくがあれの将来の希望にどんな打撃をあたえることになるか。お前の夫は
彼が悲しみのあまり、くどくどとしゃべりたてるのをみて、わたしは気のすむまで言わせておいた。胸にあることを出してしまうと、悲しみは自然にやわらぐものだ。激しい興奮がしずまり、彼がまた陰鬱そうに黙りこんでしまってから、わたしはやさしく話をもとにもどして、すぐに細君に事情をうちあけるようにすすめた。悲しげだったが、しかしはっきりと彼は頭を横にふった。
「だがね、君は奥さんに知らせないでおけるっていうのかい。君が今の境遇を変えるに適当な方法をとるには、どうしても奥さんがそれを知ってなくちゃならんのだよ。君は生活様式を変えなけりゃならない。いや」苦悩が彼の顔をさっとかすめて通るのをわたしは見てとった。「そんなことで苦しむ必要はないよ。君は、幸福というものを、みせかけで評価しはしないだろう。君にはまだ友だちがいる。親しい友だちがいる。君が前ほどすばらしい家に住まなくなったからといって、君をうとんじたりしやしないぜ。それに、宮殿なんぞに住まなくたって、メアリさんとなら幸福にくらせるよ」
彼はからだをふるわせて叫んだ。「あれといっしょにいればぼくは幸福なんだ。たとえあばらやに住んでも。あれといっしょなら貧乏にも飛びこめる。はずかしい目にあっても平気だ。大丈夫だ。やれるよ。ほんとに、かわいそうに。かわいそうに」彼は叫んで、我を忘れ、悲嘆にくれ、妻をいとおしく思うのだった。
「いいかい、ねえ君」わたしは彼のほうに歩みより、しっかりとその手をにぎって言った。「ほんとうに、奥さんは君とおなじようにできるよ。いや、それ以上だ。そうなれば、奥さんには誇りと、不幸にうちかつ喜びとが
わたしの熱心な態度と、
実をいえば、わたしはこうは言ったものの、どういう結末になるか、いささか不安だった。我慢強いといっても、一生のあいだ楽しいことばかりつづいていた人は、およそ当てにはできない。屈辱にみちた、暗い、下り坂の路が突然あの奥さんの前にあらわれたら、彼女のうきうきした気もちは、そこですっかり不快になってしまうかもしれない。そして、今まで彼らが打ち興じていた日の光の輝いているところにしがみついてはなれないかもしれない。のみならず、上流社会で落ちぶれると、ほかの階級では見うけられないようなつらいうき目がいくつもおこってくる。ひとことでいえば、わたしは
「それで、奥さんはどうだったね」
「まるで天使のようさ。心がかるくなったと言わんばかりの様子だった。両腕をぼくの首にまきつけてね、近ごろぼくが悩んでいたのは、みんなこのことのためなのかってきくんだ。だがねえ、かわいそうに」と彼はつづけた。「ぼくらがどんな境遇の変化を受けなければならないのか、あれにはわからないのだよ。貧乏なんて、頭のなかで考えるだけで、ちっとも知ってやしないんだ。詩で読んだだけなんだ。恋愛につきものの貧乏さ。まだ今のところ、なんにも不自由は感じていないんだ。使いなれた便利なものも、上品な道具類もまだなくなっていないからね。そのうちに、ほんとうに貧乏のみじめな苦労にぶつかり、つまらぬものがなくて不自由したり、ちょっとのことではずかしいおもいをしたりしなければならなくなると、そのときこそ、ほんとうの試煉がやってくるんだ」
「しかしね」とわたしは言った。「もう君は一番つらい仕事はやりおおせたんだ。奥さんにうちあけたんだからね。こんどは、早く世間の人みんなに秘密をさらけだしたほうがいいね。そんなことを
この点でレスリーは完全に心がまえができていた。彼自身は誤った名誉心は少しもなかったし、細君はといえば、ただひたすらに、打って変った自分たちの運命にしたがおうとしていたのだ。
数日後、彼は夕方になってわたしを訪ねてきた。彼は邸を処分して、町から二、三マイルはなれた郊外に小さな田舎家を手に入れたのだった。彼は家具を運び出すので一日じゅう忙しく働いてきたところだった。新しい家には、ほんの少ししか品物が要らなかったし、それもごく簡単なものだけだった。今までの邸のすばらしい家具は全部売りはらい、細君のハープを残しただけである。彼の言うところでは、そのハープは彼女のことを思う時切っても切れないつながりがあるのだった。彼らの恋のやさしい物語に織りこまれているのだ。求婚時代のもっとも楽しいいくときかは、彼がそのハープにもたれて、彼女のうっとりするような歌声にききほれた時だったのだ。こんな愛妻家の情ぶかいやり方を聞いて、わたしは微笑を禁じえなかった。
彼は今その田舎家に行くところだった。そこでは細君が朝から家の中の整理の監督をしていたのである。わたしはこの一家の物語の進展にたいへん興味をおぼえてきていたところだったし、ちょうど気持ちのよい夕暮れどきだったので、彼のお供をしようと言った。
彼は一日の疲れでぐったりしていたので、歩きだすと、陰気そうにもの思いに沈んでしまった。
「かわいそうなメアリ」という声が、深い溜め息とともに、ついに唇から
「奥さんがどうかしたのかい」とわたしはたずねた。「なにかあったのかい」
「まったく」と彼は言い、いらいらしてわたしを見た。「こんな見苦しい境遇になってしまっても、なんでもないっていうのかい。見るかげもない小屋におしこめられて、みじめな女中仕事に骨を折らなけりゃならないのに、それがなんでもないって」
「じゃ、奥さんは引っ越しについて文句を言ったのかい」
「文句なんて、とんでもない。あれは始めからしまいまで、やさしく、にこにこしていたよ。ほんとうに、こんなに元気がいいときは今までにないほどだよ。あれは、心底からぼくを愛してくれたし、やさしくして、慰めてくれたんだ」
「大したひとだ」とわたしは大声でいった。「ねえ君、君は自分のことを貧乏だというけれど、君は今までにこんなに裕福になったことはないんだぜ。君は、あの人が限りない無上の宝だったということに気がつかなかったんだよ」
「ああ、だけどね、その田舎家であれの顔を見るまではぼくは安心できないんだよ。今日はあれがはじめてほんとうに貧乏を体験した日なんだ。みすぼらしい家に入れられ、
この想像はどうも的中しそうだったので、わたしには反対することができなかった。だから、わたしたちは黙って歩いた。
大通りから曲って狭い小みちに入ると、森の木々がこんもりとおいしげり、あたりにはまったく人里はなれた気配がただよっていた。そこまで来るとわたしたちには例の田舎家が見えた。見かけたところ、あまりみすぼらしくて、よほど徹底した田園詩人でなければ住めそうにも見えなかった。だが、その田舎ふうには気もちのよいところがあった。野生のぶどうづるが家の一隅をゆたかな緑の葉でおおい、二、三本の樹木が大枝を家のうえにのばしているのもゆかしかった。見れば、玄関のあたりと、正面の芝生には、鉢植えの花がいくつか上品に配されている。小さな開き戸をあけると、小みちが
わたしには、わたしの腕をにぎったレスリーの手がふるえるのが感じられた。彼はもっとはっきり聞こうとして、足を踏みだした。砂利を敷いたみちに彼の足が音を立てた。ほがらかな、美しい顔が窓からのぞき、また引っこんだ。かるい足どりが聞えた。そしてメアリが小走りにかけだしてきて、わたしたちを出迎えた。彼女は田園ふうな白いきれいな服を着ていた。野の花を二つ三つ美しいかみの毛にさしていた。頬は生き生きと輝き、ほほえみに顔をほころばせていた。彼女が、こんなに愛らしく見えたことは今までになかった。
「まあ、ジョージ」と彼女は声をはずませた。「お帰りあそばせ。ほんとにずいぶんお待ちしましたのよ。
レスリーは感きわまってしまった。彼は彼女を胸にしめつけ、両手で彼女のからだをだき、なんどもなんども口づけした。彼はものも言えず、涙が湧き出て仕方がなかった。その後、彼はまた順調になり、彼の生活はほんとうにめぐまれたものだったが、このときほど強く幸福感にひたった瞬間はない、と彼はよくわたしに言ったものだ。