彼の人の
夕餉の支度はととのった、
今宵は冷たく横たわるやもしれぬ彼の人の。
昨夜はわたしが寝間に招じいれたが、
今宵は剣の床が待っている。
||イーガー卿、グレーム卿、グレイスティール卿
マイン河とライン河の合流しているところからそう遠くない、上ドイツの荒れはてた幻想的な地方、オーデンヴァルトの高地のいただきに、ずっとむかしのこと、フォン・ランドショート
男爵の城が立っていた。それは今ではすっかり朽ちはてて、ほとんど
山毛欅やうっそうとした
樅の木のなかに埋もれてしまっている。しかし、その木々のうえには、古い
物見櫓がいまもなお見え、前述のかつての城主と同様、なんとか頭を高くもたげようとし、近隣の地方を見おろしているのである。
その男爵はカッツェンエレンボーゲン
(原註2)という大家の分家で、今は衰えているが、祖先の財産の残りと往年の誇りとを受けついでいた。祖先たちは戦争好きだったために、ひどく家産を
蕩尽してしまったが、男爵はなおも昔の威容をいくらかでも保とうと懸命になっていた。その当時は平和だったので、ドイツの貴族たちは、たいてい、
鷲の巣のように山のなかにつくられた不便な古い城をすてて、もっと便利な住居を谷間に建てていた。それでも男爵はあいかわらず誇らしげにその小さな
砦にひきこもって、親ゆずりの頑固さから、家代々の宿敵に対する恨みを胸に抱いていた。だから彼は、先祖のあいだにおこった争いのために、いく人かのごく近くに住んでいる人たちとも折りあいが悪かった。
男爵には一人の娘があるだけだった。しかし、自然は一人の子供しかさずけない場合には、きっとその償いにその子を非凡なものにするのだが、この男爵の娘もその通りだった。乳母たちも、
噂好きな人たちも、田舎の
親戚たちも、みんなが彼女の父親に断言して、美しさにかけてはドイツじゅうで彼女にならぶものはない、と言ったのである。いったいこの人たちより、ものをよく知っている人がほかにいるだろうか。そのうえ、彼女は二人の独身の叔母の監督のもとに、たいへん気をつけて育てられた。その叔母たちは若いころ数年間ドイツのある小さな宮廷にすごし、立派な貴婦人を教育するためになくてはならないあらゆる方面の知識に通じていた。この叔母たちの
薫陶をうけて、彼女の才芸はおどろくばかりのものになった。十八歳になるころには見事に
刺繍することができた。彼女は壁掛けに聖徒たちの一代記を刺繍したことがあるが、その顔の表情があまり力づよかったので、まるで
煉獄で苦しんでいる人間さながらに見えた。彼女はたいして苦労もせずに本を読むことができ、教会の伝説をいくつか判読し、中世の英雄詩に出てくるふしぎな騎士物語はほとんど全部読み解くことができた。彼女は書くことにもかなりの上達ぶりを見せ、自分の名前を一字もぬかさずに、たいへんわかりやすく署名することができたので、叔母たちは眼鏡をかけないでも読むことができた。彼女は手すさびに見事な腕前で婦人好みの装飾品をなんでもつくったし、当時のもっとも玄妙な舞踊にも
長け、さまざまな歌曲をハープやギターでひくこともでき、恋愛詩人がうたうあまい民謡をすべて
暗誦していた。
叔母たちはまた、若いころ、たいした浮気もので、
蓮葉女だったから、
姪の操行を油断なく見張り、厳しく取りしまるには全く見事に適当だと思われていた。年とった蓮葉女ほど、がっちりして用心ぶかく、無情なほど礼儀正しい付きそい役はまたとないのである。彼女は叔母たちの眼をはなれることはめったに許されなかった。城の領地のそとに出るときにはかならず、しっかりとした付きそいがついた。というよりはむしろ、十分な見張りがつけられたのである。また絶えず厳格な行儀作法や文句をいわずに服従することについて講釈を聞かされていた。そして、男については、いやはや、絶対に近づかないように教えこまれ、また断じて信用しないように言われていたから、彼女は正当な許しがなければ、世界じゅうでもっとも
眉目秀麗な
伊達男にさえ、いちべつもくれはしなかっただろう。いや、たとえその男が彼女の足もとで死にかけていたにせよ、見むきもしなかっただろう。
このしつけかたのすばらしい効果は、見事にあらわれてきた。この若い婦人は従順と品行方正のかがみであった。ほかの娘たちは世間ではなやかに評判になって、愛らしさをなくし、だれの手にも手折られ、やがては投げすてられがちであった。ところが、彼女はあの
汚れのない老嬢たちの保護のもとに、はずかしげにほころびて、みずみずしく美しい婦人になろうとして、あたかも
刺に守られて色づく
薔薇の
蕾のようだった。叔母たちは誇らしく満足げに彼女をながめ、たとえ世のなかのすべての若い女たちが道をふみあやまろうとも、カッツェンエレンボーゲンの跡取り娘には、ありがたいことに、そのようなことは決しておこるはずがない、と
吹聴した。
しかし、フォン・ランドショート男爵が、どれほど子供にめぐまれることが少かったにせよ、彼の家族は決して小人数ではなかった。神の
御心は彼にたくさんの貧しい縁者をめぐみたもうていたのである。彼らはだれもかれも、およそ貧乏な親類にはつきものの親愛の情をもっていて、おどろくほど男爵を慕い、あらゆる機会を見つけては大ぜいでやってきて、城をにぎわした。一門の祝祭にはこういう善良なひとびとがあつまって祝ったが、費用は男爵がもった。そして彼らは山海の珍味に満腹すると、このような家族の会合、このような心からの歓楽ほどたのしいものは決してあるものではない、とよく言ったものである。
男爵は小男だったけれども、大きな心をもち、自分をとりまく小さな世界のなかでは自分がいちばん偉い人物なのだという思いに満足して得意であった。周囲の壁から、気味の悪いむかしの武士たちの肖像画が恐ろしい顔をして見おろしていたが、彼は好んでその武士たちのことを長々と話したものだ。そして、彼は自分の費用でごちそうしてやった人たちほどよい聞き手はまたとないことに気がついた。彼はふしぎなことが大好きで、ドイツじゅうの山や谷にみちみちている超自然的な物語はどれも固く信じているのだった。ところが、この客たちの信仰ぶりは、男爵自身をしのぐほどだった。彼らはふしぎな話にはどれにも目をまるくし、口をあけて聞きいり、たとえその話が百ぺん繰りかえされても、かならずびっくり仰天するのだった。こうしてフォン・ランドショート男爵は、自分の食卓での予言者となり、小さな領土の絶対君主として、わけても自分が当代随一の賢者であると信じて、幸福に日をおくった。
ちょうどこの話のころ、きわめて重大な事柄についてこの城に一族の大集会があった。それはかねて決められていた男爵の娘の
花婿をむかえることについてだった。父親とあるバヴァリアの老貴族とのあいだにすでに話しあいがすすめられており、権威ある両家を、子供たちの結婚によって取りむすぶことになっていた。その下準備はもはや作法通りすまされていた。当の若者たちはたがいに見も知らぬままで婚約させられ、婚礼の日どりがさだめられた。フォン・アルテンブルク若伯爵はそのためにすでに軍隊から呼びもどされ、現に男爵の城へ花嫁をむかえにゆく途上にあった。伯爵からの手紙が、たまたまその滞在先のヴルツブルクからとどき、到着予定の日時をしらせてきてあった。
城は大わらわで彼をむかえるにふさわしい歓迎の準備をしていた。美しい花嫁はなみなみならず念入りに飾りたてられた。例の二人の叔母が彼女の化粧を受けもち、朝のうちいっぱい、彼女の装身具のひとつひとつについて言いあらそいをしていた。当の花嫁は、二人のいさかいを巧みに利用して、自分の好みどおりにしたが、幸いにしてそれは申し分のないものだった。彼女の美しさといったら、世の若い花婿がこれ以上を望むことはとうていできないほどだったし、期待にときめく心で彼女の魅力はいっそう輝きを増していた。
顔や襟もとにさす赤み、静かな胸の高まり、ときおり幻想にふける
眼ざし、すべてが彼女の小さな胸におこっているかすかな動揺をあらわしていた。叔母たちは絶えず彼女のまわりをうろうろしていた。未婚の叔母というものは、とかくこういうことにたいへん興味をもつものなのだ。叔母たちは彼女に、どう振舞ったらよいか、どんなことを言えばよいか、また、どういうふうに心まちの愛人を迎えればよいか、ということについて、何くれとなく
真面目な助言をあたえていた。
男爵もそれに劣らぬほど準備にいそがしかった。彼には、実のところ、これといってしなければならないことは全くなかった。しかし、彼は生れつきせっかちな気ぜわしい男だったから、まわりの人たちがみなせかせかしているのに、平気で落ちついていられるはずはなかった。彼は心配でたまらないといった様子で、城の上から下までやきもきしながら歩きまわった。仕事をしている召使たちを絶えず呼びたてて、怠けずに働くようにいましめたり、また、広間という広間、部屋という部屋を、何もしないでせかせかとうるさくどなりまわり、まるで暑い夏の日に大きな
青蠅がぶんぶんとびまわるようだった。
そのあいだにも、
犢の
肥ったのが殺され、森には猟師たちの喚声がひびき、
厨は山海の珍味でいっぱいになり、酒蔵からはライン酒やフェルネ酒がしこたま運びだされた。そしてハイデルベルクの
大酒樽さえ徴発されてきた。用意万端ととのって、ドイツ風の真心こめた歓待の精神で、にぎやかにその賓客を迎えるばかりになった。ところが、その客はなかなか現われなかった。時間は刻々とすぎていった。太陽は先刻までオーデンヴァルトのこんもりした森にさんさんたる光を頭上からそそいでいたが、今は山の
嶺にそってかすかに光っていた。男爵はいちばん高い櫓にのぼり、遠くに伯爵とその従者たちが見えないものかと思って
瞳をこらした。一度は彼らを見たと思った。角笛の音が谷間から流れてきて、山のこだまとなって長く尾をひいた。馬に乗った一群のひとびとがはるか下のほうに見え、ゆっくりと道を進んできた。ところが、彼らはもう少しで山のふもとにつくというとき、急に違う方向にそれてしまった。太陽の最後の光が消えうせ、
蝙蝠が
夕闇のなかをひらひら舞いはじめた。
路は次第にぼんやりしてきて、もうそこには何ひとつ動くものは見当らなくなった。ただ、ときおり農夫が
野良仕事からとぼとぼ家路にむかってゆくだけだった。
ランドショートの古城がこうした混乱状態におかれていたとき、オーデンヴァルトのほかの方面では、ひじょうに興味ある光景が展開していた。
フォン・アルテンブルク若伯爵は、落ちついたゆっくりした足どりで、のどかに結婚式への旅をつづけていた。どんな男でも、友人たちが求婚のわずらわしさや不安をいっさい自分の手から取り除いてくれて、しかも花嫁が目的地で待っているのは、
晩餐が自分を待ちうけているのと同様たしかなことだとなれば、だれしもそんな足どりで旅をするものだ。彼はヴルツブルクで若い戦友に出あった。相手は国境で勤務を共にしたことのある男で、ヘルマン・フォン・シュタルケンファウストといい、ドイツ騎士団のなかでもっとも勇猛で立派な勇士の一人で、ちょうど軍隊から
還るところだった。彼の父の城は、ランドショートの古城砦から遠くはなかったが、代々の反目から、両家は敵意をいだき、たがいによそよそしくしていた。
なつかしい再会の機会にめぐまれて、若い友人たちは、自分たちの過去の冒険や武運のことを残らず語りあった。そして伯爵は、ある若い婦人とこれから婚礼をあげることになったいきさつを、いちぶしじゅう物語った。自分はまだその婦人に一度も会ったことはないのだが、その人の美しさといったら、実にうっとりするほどだと聞いている、と伯爵は言った。
この友人たちの行く道はおなじ方向だったから、これから先の旅をいっしょにしようということになった。そして、のんきに旅をすることができるように、彼らは朝早くヴルツブルクを
発った。伯爵は自分の従者たちに命じて、あとからきて追いつくように言った。
彼らは軍隊生活や冒険を思い出しては道中のつれづれをまぎらした。しかし、伯爵は、ときとしていくらかくどくなるほど、その花嫁の音にきこえた美しさや、彼を待っている幸福について話した。
このようにして彼らはオーデンヴァルトの山中にはいり、そのなかでも一番ものさびしい、うっそうと樹木の生いしげった山路を越えかかっていた。周知のように、ドイツの森林にはいつも盗賊がはびこっていたが、それはドイツの城に幽霊がよく出没するのとおなじことである。それに当時は解散した兵士の群が国じゅうを流れあるいていたので、こんな盗賊がことに多かった。それだから、この騎士たちが、こうした無頼漢の一味に森の真中で襲われたといっても、別におどろくべきことではあるまい。彼らは勇ましく防いだものの、危くうち負かされそうになった。だが、ちょうどそのとき伯爵の従者が到着し、助太刀しようとした。盗賊たちは彼らを見て逃げだしたが、そのときすでに伯爵は致命傷を負っていた。彼はそろそろと傷を悪くしないように用心しながらヴルツブルクの町へ運びかえされ、それから一人の修道僧が近くの修道院から招かれた。この僧は魂を救うのもうまかったが、
身体の治療にかけても有名だった。だが彼の手練も、医術のほうはもはや役に立たなかった。不幸な伯爵の余命は数刻のうちに迫っていたのだ。
いまわの息も絶えだえに、彼は切にその友にねがって、ただちにランドショートの城へ行き、彼が花嫁との約束をはたすことができなくなったやむをえない理由を説明してくれるように言った。彼は恋人としてもっとも熱烈なものというのではなかったが、きわめて
几帳面な男で、この使命がいちはやく丁重にはたされることをしきりに望んでいるように見えた。「もしこれが果されないならば」と彼は言った。「ぼくは墓のなかで安らかに眠れないだろう」彼はこの最後の言葉をことさらおごそかに繰りかえした。このような感動的な一瞬にものを頼まれたらためらっているわけにはいかなかった。シュタルケンファウストは伯爵をなだめて気を落ちつかせようとつとめ、誠意をこめてその望みをはたすことを約束し、おごそかな誓いのしるしの手を彼に差しのべた。
瀕死の男は感謝してその手をにぎりしめたが、間もなく夢うつつの状態におちいり、花嫁のこと、婚約のこと、誓いの言葉を口走り、馬を命じて、自分でランドショートの城へ乗ってゆくとうわごとを言った。そして、ついに息をひきとったが、
鞍へとびのるような
恰好をしていた。
シュタルケンファウストは嘆息して、武士の涙を注いで友人の時ならぬ非運を
悼んだ。それから自分が引きうけた厄介な使命のことをしみじみと考えた。彼の心は重く、頭は混乱した。招かれぬ客として敵意のあるひとびとのなかにあらわれ、そしてその人たちの希望をふみにじるようなことを知らせて、祝宴をしめっぽくしなければならないのだ。それにもかかわらず、彼の心には、ある好奇心がささやいて、カッツェンエレンボーゲンの名高い美人で、それほどまでに用心ぶかく世間からへだてられていた人をひとめ見たいと思っていた。彼は女性の熱烈な崇拝者であり、また、その性格には、奇癖と山気とがいくらかあり、そのために変った冒険ならどんなことでも好きだった。
出発に先立って、彼は友の葬儀について修道院の僧たちとしかるべき
手筈をととのえた。友はヴルツブルクの寺院に埋葬されることになったが、その近くには彼の名高い親戚がいた。服喪中の
伯爵の従者たちがその
遺骸をあずかった。
ところで今こそカッツェンエレンボーゲンの旧家に話をもどすべきときだ。この人たちは来客を待ちわび、そしてまたそれ以上に
御馳走を待ちこがれているのだ。また、尊敬すべき小男の男爵に話をもどさなければならない。彼は
物見櫓の上で吹きさらしになっている。
夜は迫っていたが、やはり客は来なかった。男爵はがっかりして櫓からおりた。宴会は今まで一時間一時間とおくらされてきたが、もうこれ以上のばすわけにはいかなかった。肉はとっくに焼けすぎて、料理人は困りはてていた。家のもの全部の顔つきがまるで飢餓のために参ってしまった守備兵のようだった。男爵はしぶしぶながら命令をくだして、賓客がいないままで祝宴をはじめようとした。皆が食卓につき、ちょうど食べはじめるばかりになった折りも折り、角笛の音が城のそとからひびいてきて、見知らぬ人が近づいてくるのを知らせた。ふたたび吹きならす長い音のこだまが、古びた城の中庭にひびきわたると、城壁から見張りがそれに答えた。男爵はいそいで未来の花婿を迎えに出ていった。
跳ね橋がもはや下ろされていて、その見知らぬ人は城門の前に進んでいた。彼は背の高い立派な騎士で、黒い馬にまたがっていた。顔色は青ざめていたが、輝かしい神秘的な眼をしていて、堂々としたうちにもうち沈んだところがあった。男爵は彼がこのように簡単なひとりぼっちの旅姿でやってきたことに、いささか気分を悪くした。男爵の威厳をしめそうとする気もちが一瞬きずつけられた。この客の有様はこの重大な場合に正式の礼を欠くものではないか、縁をむすぼうとしている相手の大切な家柄に対しても、敬意が足りないではないか、と彼は考えたくなった。とはいえ、男爵は、相手が若さのためにはやる心をおさえきれず、供のものたちよりも先に着いたに違いないときめて自分をなぐさめた。
「かように時刻もわきまえずにお邪魔してまことに申しわけございません」とその見知らぬ人は言った。
ここで男爵は彼をさえぎって、おびただしい世辞や
挨拶を述べたてた。実をいうと、彼は自分が礼儀正しく雄弁であることを鼻にかけていたのである。その見知らぬ人は一、二度その言葉の奔流をせきとめようとしてみたが無駄だった。そこで彼は頭を下げて、その奔流の流れるままにしておいた。男爵がひと句切りするまでには、彼らは城の中庭にきていた。そしてその見知らぬ人はふたたび話しだそうとしたが、またもやさえぎられてしまった。このとき、この家の婦人たちがあらわれて、
尻ごみしながら顔をあからめている花嫁を連れてきたのだ。彼は一瞬心をうばわれた人のようにじっと彼女を見つめた。あたかも彼の魂がそっくりその凝視にそそぎこまれ、その美しい姿の上にとどまったかのように思われた。未婚の叔母の一人がなにごとか彼女の耳にささやいた。彼女はなんとか口をひらこうとして、そのうるおいのある青い眼をおそるおそる上げ、この見知らぬ人に問いかけるように、ちらっと恥ずかしそうな視線を向け、やがてまたうつむいてしまった。言葉は消えてしまったが、彼女の唇には愛らしい微笑がただよい、やわらかなえくぼが頬にうかんで、今の
一瞥が意に満たないものではなかったことを語っていた。情にもろい十八という年頃の娘は、ただでさえ恋愛や結婚にかたむきやすいのだから、こんなに立派な騎士が気に入らないわけがなかった。
客の到着がおそかったので、詳しい話をする暇はなかった。男爵は自分の一存で、こみいった話を全部朝までもちこすことにし、まだ手のつけられていない宴席へ案内した。
宴席は城の大広間に用意されていた。まわりの壁には、カッツェンエレンボーゲン家の英雄たちのきびしい顔をした肖像画や、彼らが戦場や狩猟で得た記念品がかかっていた。切傷のついた
胴鎧、そげた馬上試合用の
槍、ぼろぼろになった旗が、狩の獲物にまじっていた。
狼の
顎や
猪の
牙が、石弓や
戦斧のあいだにおそろしく歯をむきだし、巨大な一対の
鹿の角が、その若い花婿の頭のすぐ上におおいかぶさっていた。
騎士はその席上のひとびとやもてなしにはほとんど見むきもしなかった。彼は御馳走もほとんど口にせず、何もかも忘れて花嫁を
讃嘆しているようだった。彼は他人に聞かれないような低い声で話した。愛の言葉というものは、決して大きな声で話すものではない。恋人のごくかすかなささやきを聞きのがしてしまうほど鈍い女性の耳がどこにあろうか。彼の態度には優しさと真面目さとがかねそなわり、それが令嬢に力づよい印象をあたえたようだった。彼女がじっと注意ぶかく耳をかたむけるとき、その顔には赤みがさしたり消えたりした。ときおり彼女ははにかみながら返事をした。そして、彼の視線がわきへそれると、幻想的な彼の顔をちらっと横目でぬすみ見て、こころよい幸福感のためにほのかなため息をもらすのだった。この若い二人がすっかり愛し合っているのは明らかだった。叔母たちは、心の機微によく通じていたので、二人がひと目で恋におちたとはっきり言った。
祝宴は陽気に、少くとも騒々しく進んでいった。客たちはみな、軽い財布と山の空気につきものの
旺盛な食欲にめぐまれていたからである。男爵はいちばん面白くて長い話をしたが、その話をこれほど巧みに、これほど感銘ふかく話したことは今までになかった。その話のなかに、何かふしぎなことがあれば、聞き手たちはわれを忘れておどろきいり、何か
滑稽なことがあれば、笑うべきところですかさず笑うのだった。実をいえば、男爵は、たいていの偉い人たちと同じように、あまりに
勿体ぶっていたので、退屈な冗談だけしか言えなかった。とはいえ、その冗談は、
大盃になみなみと注いだすばらしいホックハイム
葡萄酒でいつも威勢をつけられた。それに、退屈な冗談でも、その当人の食卓できかされ、しかも年のたったうまい葡萄酒をふるまわれれば、笑わないわけにはいかないものだ。いろいろとうがったことを男爵よりもっと貧乏だが、もっと気の
利いた才子たちが語ったが、それはこのような場合でもなければ二度とくりかえすに堪えないものだった。あれこれとなく滑稽な話が婦人たちの耳もとでささやかれたが、彼女たちはそれを聞くと身もだえして笑いをこらえた。貧乏ながらも陽気な、顔の大きい男爵のいとこが、一つ二つ歌をうなりだしたが、そのおかしさに未婚の叔母たちはすっかり扇で顔をかくしたほどだった。
この飲めや歌えの大騒ぎの真最中に、見知らぬ客は、その場にそぐわないはなはだ妙な重々しい態度をとりつづけていた。彼の顔色は夜がふけるにつれて、ますます深い
憂鬱な色をおびていった。そして、ふしぎに思われるかも知れないが、男爵の冗談さえますます彼をふさぎこませてしまうばかりだった。ときおり思案にふけっていたかと思うと、また時には、不安そうな落ちつかない
眼ざしであたりを見まわしたりして、心がそわそわしていることを物語っていた。彼は花嫁と話しあっていたが、その話はますます真剣に、ますます奇怪になっていった。あやしい雲が彼女の晴れやかなおだやかな額をそっとおおいはじめ、彼女のかよわい五体にふるえが走りはじめた。
こういうことが一座のひとびとの注意をひかないはずはなかった。彼らの歓楽は、花婿の不可解な陰気さのために興をそがれた。彼らの気もちも花婿のおかげで
滅入ってしまい、肩をすくめたり半信半疑に頭をふって、ささやきあい、目くばせしあった。歌声も笑い声も次第に少くなった。話はものさびしくとぎれ、ついには怪談や、ふしぎな伝説がもちだされるようになった。不気味な物語は次から次へとさらにもっと不気味な物語を生んでゆき、ついに男爵は、美しいレオノーラ姫をさらっていった
妖怪騎士の話をして、婦人たちの
胆をつぶし、いく人かはヒステリーをおこさんばかりだった。それは恐ろしいがほんとうの話で、その後すばらしい詩にうたわれ、世界じゅうの人に読まれ、そして信じられているのである。
花婿はふかく心にとめながら、この話に聞きいった。彼は男爵にじっと眼をすえていたが、話が終りに近づくと、おもむろに席から立ちあがり、だんだん背がのびていって、ついに男爵の
茫然とした眼には、彼が巨人になったように思われた。話が終るやいなや、彼は深いため息をつき、その一座のひとびとにうやうやしく別れを告げた。彼らはおどろきあきれた。男爵はすっかりたまげてしまった。
「なんと。真夜中に城を発つおつもりか。はて、婿殿を迎える用意は何もかもととのうておるのに。もし休みたいのなら、もう部屋の支度もできておる」
見知らぬ人は悲しげに、意味ありげに首をふった。
「今夜は別の部屋でやすまなければなりません」
この返事の内容と、その声音には、なにか男爵の心をぎくりとさせるものがあった。しかし、彼は気をはげまして、いんぎんに懇願をくりかえした。見知らぬ人は、言われるたびに、黙ったまま、しかしきっぱりと首をふった。そしてその一座のひとびとに別れの手をふりながら、広間からゆっくりと出ていった。未婚の叔母たちは仰天して棒立ちになってしまった。花嫁はうなだれ、目には涙がうかんできた。
男爵はその見知らぬ人について、城の大きな中庭に出ていったが、そこには黒い軍馬が地をかきたてながら、待ちくたびれて鼻を鳴らしていた。城門の深いアーチ型の通路が
篝火でおぼろげに照らされているところまできたとき、その見知らぬ人は足をとめて、うつろな声で男爵に話しかけた。その声は円屋根にひびいて、いっそう陰気に聞えた。「わたくしたちだけになりましたから」と彼は言った。「わたくしが去ってゆくわけを申しあげましょう。わたくしにはどうしても果さなければならない約束があるのです」
「それならば」と男爵は言った。「だれかあなたのかわりにやるわけにはゆきませんか」
「代理はまったく許されないのです。自分で行かなければなりません。わたくしはヴルツブルク寺院へ行かなければならないのです」
「そうか」と言って、男爵は勇気をふるいおこした。「明日まで待ちなさい。明日花嫁をつれてそこへ行きなさい」
「いや、いや」とその見知らぬ人は十倍のいかめしさをこめて答えた。「わたくしの約束は花嫁との約束ではなく、
蛆虫となんです。蛆がわたくしを待っているのです。わたくしは死人です。盗賊どもに殺されて、死体はヴルツブルクに横たわっているのです。真夜中にわたくしは埋められることになっています。墓がわたくしを待っているのです。わたくしは自分の約束を果さなければなりません」
彼は黒馬に飛び乗ると、跳ね橋をまっしぐらに渡っていった。その
馬蹄のひびきは、
夜嵐のひゅうひゅう鳴る音にかきけされてしまった。
男爵はすっかり胆をつぶして広間にもどり、このなりゆきを物語った。婦人が二人たちどころに気をうしない、ほかの人たちは幽霊と祝宴を共にしたことを思って気味が悪くなった。あるものの意見では、これがドイツの伝説で有名な幽霊猟師なのかもしれないということだった。またあるものは山の妖鬼や、森の悪魔や、そのほかの超自然的な魔ものの話をして、ドイツの善良なひとびとは、遠い昔から、そういうものにひどく悩まされてきたと言った。貧しい親類の一人が、あれはあの若い騎士のふざけた逃げ口上だったのかもしれない、それにあの気まぐれなもの
憂さこそ、ああいう陰気な人柄にはぴったりするように思える、と思いきって言いだした。しかし、この言葉は、その一座のひとびと全部の
憤りを買うことになったが、ことに男爵はひどく怒った。男爵はその人をほとんど異端者としか思わなかった。それだから彼はやむなく大急ぎで彼の異端の説を引っこめて、真実の信者たちの信仰に加わった。
だが、ひとびとがどんな疑いをいだいたとしても、その疑いは、翌日になって正式の文書がとどいたので、すっかりかたがついた。その文書によって、若伯爵が殺害され、ヴルツブルク寺院で埋葬されたというしらせは確認されたのである。
城の
狼狽ぶりは十分に想像されよう。男爵は自分の部屋にとじこもってしまった。客たちは、彼とよろこびを共にしようとしてやってきたのだが、悩んでいる男爵をすてて去る気にはなれなかった。彼らは庭をうろうろ歩きまわったり、広間に群をなしてかたまりあったりして、この立派な人物の苦しみに、頭をふったり肩をすくめたりしていた。そして、いつもより長く食卓に
坐り、いつもより盛んに食ったり飲んだりして、元気を出そうとした。しかし、
寡婦になった花嫁の立場がいちばん
憐れだった。抱擁さえしないうちに夫をなくしてしまうとは。しかも、あれほどの夫を。幽霊でさえあのように優雅で気高いのだから、生きている人だったら、さぞすばらしかったことだろう。彼女は家じゅうを悲しみの声で満たした。
寡婦になった二日目の夜、彼女は、どうしても彼女といっしょに寝ようという叔母の一人に付きそわれて寝室にひきとった。その叔母はドイツ中でもっとも上手に怪談を話す人で、いちばん長い物語を話していたが、その真最中のところで眠りこんでしまった。その部屋はほかから遠く離れ、小さな庭に臨んでいた。
姪は横になったまま、もの思いにふけり、月がのぼり、その光が
格子の前の
白楊の葉のうえにふるえているのを見つめていた。城の時計がちょうど真夜中を告げた。するとやわらかな音楽の調べが庭からしのびこんできた。彼女はいそいでベッドから起きあがり、軽やかに窓のほうへ歩みよった。背の高い人影が
木蔭に立っていた。その人影が頭をあげたとき、一すじの月光がその顔に差しこんだ。なんということだろう。彼女が見たのは幽霊
花婿だった。その瞬間、高い鋭い叫び声が、彼女の耳をつんざいたかと思うと、叔母が彼女の腕のなかへ倒れかかってきた。叔母は音楽に目をさまし、そっと彼女について窓のところに来ていたのだった。彼女がふたたび眺めたときには、幽霊は姿を消していた。
二人の婦人のうち、今では叔母のほうの気をしずめる必要があった。彼女は恐ろしさのために気が動転してしまったのだ。若い婦人はというと、恋人の幽霊にさえ何か心をひかれるものがあった。その幽霊には相変らず男らしい美しさといったものがあったし、また男の影では、恋になやむ乙女心は満足しないではあろうが、しかしその実物が得られない場合には、その影ですら慰めになるものだ。叔母はもう二度とあの部屋には寝ないと言った。姪も今度ばかりは強情で、城内のほかの部屋では絶対に寝ないと、負けずに強く言い張った。その結果、彼女はひとりで寝なければならないことになった。しかし彼女は叔母に約束させて、幽霊のことを話さないと言わせた。そして、彼女は世界でたった一つ残された楽しみを奪われまいとしたのだ。その楽しみは、自分を愛する幽霊が夜ごと寝ずの番をしてくれる部屋に住むということだった。
その善良な老婦人がどれほど長くこの約束を守ったかは、あやしいものである。彼女はふしぎなことがらを話すのがはなはだ好きだったし、それに、恐ろしい話をだれよりも先に話すことには一種の優越感があるものだ。とはいえ、彼女がそれをまる一週間秘めていたことは、女性にも秘密を厳守することができるという記念すべき実例として、今もなおこの辺りでは話題にされている。ところがある朝、令嬢が見あたらないという知らせが朝食の席にもたらされたので、この叔母は突然もうこれ以上どんな束縛も受けないでよいことになったのだ。令嬢の部屋はもぬけのからで、寝台には寝た様子もなく、窓はあけはなされ、小鳥は飛び去っていた。
その知らせをうけたときのひとびとの驚きと心配とがどんなものであったか想像できるのは、偉人の不幸によってその友人たちがどんなに動揺するかを
目のあたりに見たことのある人だけであろう。貧しい親類たちでさえ一瞬がつがつ食べつづける手を休めたほどだ。そのとき叔母が、はじめは驚いて口もきけずにいたが、手を握りしめながら、金切声で叫んだ。「お化けです。お化けです。あの子はお化けにさらわれたのです」
彼女は庭での恐ろしい光景をかいつまんで物語り、幽霊が自分の花嫁をつれさったに違いないと結んだ。二人の召使がその意見を証拠だてた。彼らは真夜中ごろに馬蹄の音が山をくだってゆくのを耳にしていて、それが黒馬に乗った幽霊であって、彼女を墓場へさらってゆくところだったということを少しも疑わなかったのである。その場の人たちはみな、これは恐ろしいことだが、ほんとうかもしれない、と思ってぎくりとした。こうした
類のできごとはドイツではきわめて普通のことで、多くのよく確かめられた物語が立証している通りなのだ。
あわれな
男爵の境遇は、なんと痛ましいものであったろう。
子煩悩な父親として、また偉大なるカッツェンエレンボーゲン家の一員として、なんと胸の張りさけるような苦しい立場であったろう。彼の一人娘は墓場へつれさられてしまったのだ。さもなければ、男爵はどこかの森の悪魔を婿にもち、場合によっては、化け物の孫をたくさん持つことになるかもしれないのだ。例のごとく彼はすっかり当惑してしまい、城じゅうが大騒ぎになった。命令によって、ひとびとは馬に乗り、オーデンヴァルトの道路といわず、小みちといわず、谷間といわず、くまなく捜索することになった。男爵自身も
長靴をはき、剣を
吊って、馬にまたがり、見つかる当てもない探索にくりだそうとした。とちょうどそのとき、新たな幽霊があらわれて、男爵ははたと立ちどまった。一人の婦人が婦人用の馬にまたがり、馬に乗った一人の騎士につきそわれて、城に近づいてくるのが見えた。彼女は馬を駆って門までくると、馬からとびおり、男爵の足もとにひれふして、彼の
膝を抱きしめた。それは行方知れずになった娘だった。そしてその連れは
||幽霊花婿だった。男爵は度胆をぬかれた。彼は自分の娘に目をやり、それからその幽霊を見て、自分が正気なのかどうかを疑わんばかりだった。それにまた幽霊は、
幽冥界を訪れてから、おどろくほど様子が立派になった。彼の服装はきらびやかで、男らしい均斉のとれた高貴なすがたをひきたてていた。彼はもはや青ざめてもいず、また、うち沈んでもいなかった。その
凜々しい顔は、若さの光に輝き、
歓びがその大きな黒い眼に生き生きとしていた。
その不可思議なこともやがて明らかになった。その騎士(じつは諸君も先刻来御承知のように、彼は幽霊ではなかったのである)はヘルマン・フォン・シュタルケンファウスト
卿と名乗った。彼は若伯爵と共にした冒険談を物語った。いやな知らせを伝えるためにこの城へ急いだこと、しかしそれを話そうとするたびに、男爵の雄弁が彼をさえぎってしまったということの次第を話した。また、花嫁を見てすっかり心をうばわれてしまい、彼女のそばで二、三時間すごすため、黙って間違えられたままにしていたこと。どうやってうまく帰ろうかと、まったく途方に暮れていたところ、男爵の怪談でやっとあのとっぴな脱出を思いついたこと。そして一族の封建的な敵意をおそれて、ひそかにいくたびか訪れ、姫の窓下の庭にしばしばかよい、求婚し、説きふせてしまい、意気揚々とつれさり、そして要するに、その美しい婦人と結婚してしまったわけを話した。
何かほかの事情だったら、男爵は一歩もゆずりはしなかったろう。彼は親の権威を頑固に守り通していたし、家代々の
宿怨におそろしく意地張りであったのだ。だが彼は娘を愛していた。彼は娘をもうこの世のものではないとあきらめて悲しんでいた。ところが今なお生きているのを見て狂喜した。そして娘の夫が敵方の家のものであったにしても、ありがたいことに化け物ではなかったのだ。その騎士が、自分は死人だといって彼をだました冗談には、彼の
生真面目な考えとぴったりゆかないところがあったことは認めないわけにはいかない。しかしその場にいた数人の旧友たちで戦争に行ったことのあるものが、恋愛にはあらゆる策略が許されるものであるし、この騎士は最近騎兵として軍務に服していたのだから、特別なはからいを受けるべきであると男爵に言った。
そういうわけで、事は円満におさまった。男爵は若い二人をその場で許した。城では酒盛りがふたたび始められた。貧しい親類のものたちは、この新たな家族の一員に真心のこもった親切を浴せかけた。彼はまことに雄々しく、まことに寛大で、そしてまことに金持ちだった。叔母たちは、実のところ、厳格に閉じこめ、おとなしく服従させるしつけかたが、こんなにまずい例になってしまったことにいくらか憤慨したが、それをみな窓に格子をはめておかなかった自分たちの不注意のせいにした。叔母の一人は、自分の奇談が台なしになったのと、自分が見た
唯一の幽霊がにせものであるとわかったことを、ことさらくやしがった。しかし姪はこの幽霊が血と肉とをもつ人間であることを知って、すこぶる幸福そうであった。かくして物語は終るのである。
原註1 博学な読者は伝説によく通じていれば気がつくだろうが、この物語は老スイス人が、あるフランスの奇談から思いついたもので、パリで起ったといわれている一事件がもとになっているのに相違ないのである。
原註2 「猫の肘」の意。かつては権勢を誇った家系の称号で、この一族に属する貴婦人の美しい腕をたたえて名づけられたという。