沖縄の歴史をしらべた事のある人は、
浦添の事をしらべるに参考となるべき史料は至って少い。しかし、たとい文献となって遺っていないでも、神の名とか
うらおそいよりしよりにてりあがりめしよわちやことうらおそいのようどれは······
という文句がある。明の天啓年間に編纂した『オモロ双紙』にもうらおそいと書いてある。うらおそいは後に縮まってうらそいとなり、きこゑきみがなしうらのかすおそう······
尊い王がどの浦も支配するの意である。オモロにはこれに似た例が多い。きこゑきみがなし
しまおそてちよわれ
ゑぞこかよわぎやめ
あぢおそいしよ世しりよわれ
尊き王よこの国を治めよ船の通わんかぎりわが王これを支配せよという意である。また「だしまおそうあぢおそい」(この島を治むる君)、「だきよりおそうあぢおそい」(この国を領する君)というようなこともある。うらおそう、しまおそう、くにおそう、天ぎや下おそう、国しる、島しる、世しる、いずれも国を治めるという意である、オモロには形容詞になって、「くにおそいぎみ」というように用いられた例もある。国を治むる人という意で、くにおそい、くにもり、くにしり、のように名詞法になった例も多い。按司添の添はおそいで、治むる人という意味をもっている。ヤラザモリ城の碑文に、しまおそい大さと、しもしましり、という地名のあるのも注意すべきである。これらの例によって浦添の語原は明らかになったが、今一つ他の例を挙げて、一層これを確めよう。百九十三年前旧琉球王国政府で編纂した『混効験集』(しまおそてちよわれ
ゑぞこかよわぎやめ
あぢおそいしよ世しりよわれ
もんだすい 百浦添御本殿
ということがある。「もんだすい」は俗にいわゆるしより(首里に)おわる(在す)てだこが(王が)
もゝうらおそい(百浦添御本殿を)げらいて(修築して)
たまばしり(玉の戸)たまやりど(玉の戸)みもん(美しいかな)
ぐすく(城に)おわる(在す)てだこが(王が) 〔十三|一〇〕
ももうらおそいは三十一年毎に建てなおすもゝうらおそい(百浦添御本殿を)げらいて(修築して)
たまばしり(玉の戸)たまやりど(玉の戸)みもん(美しいかな)
ぐすく(城に)おわる(在す)てだこが(王が) 〔十三|一〇〕
しよりおわるてだこ
みかなしのてだこ
もゝうらおそいちよわちへ
世そうもり〔正しくは世そわりに〕ちよわちへ 〔五|三九〕
というオモロもある。吾らが敬慕する首里の王が百浦襲(正殿)に在してというほどの意である。「世そうもり」は国を襲う所で、「もゝうらおそい」の対語である。「もゝうらおそい」は百浦即ち数知れぬ浦々を支配する局の意で、政令の出づる所という事になる。おもろには、くにつぼ(国局)ともいってある。これで浦添の意味はみかなしのてだこ
もゝうらおそいちよわちへ
世そうもり〔正しくは世そわりに〕ちよわちへ 〔五|三九〕
浦添の名は文治三年、為朝の子といわれる、
ゑぞのいくさもい
月のかずあすびたち
ともゝとわかてだはやせ
いぢへきいくさもい
夏はしげちもる
冬は御酒もる 〔十五|一八〕
と歌われた(このオモロの新解釈については『沖縄考』五三頁|五四頁を見よ)英祖のイクサモイであった。月のかずあすびたち
ともゝとわかてだはやせ
いぢへきいくさもい
夏はしげちもる
冬は御酒もる 〔十五|一八〕
ゑぞゑぞのいしぐすく
あまみきよがたくだるぐすく
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五|一五〕
伊祖の石城はアマミキヨが築いた城ぞ、伊祖の金城は、という意である。六百五十年前に於てさえ古い城と思われていたのである。また、あまみきよがたくだるぐすく
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五|一五〕
ゑぞのいしぐすく
のぼてみちやるまさり
ゑぞのかなぐすく 〔十五|一七〕
伊祖の石城は登って見たら、勝れている、伊祖の金城は、という意である。とにかく要害であったということがわかる。のぼてみちやるまさり
ゑぞのかなぐすく 〔十五|一七〕
ゑぞゑぞのいしぐすく
いよやにおそてちよわれ
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五|一六〕
伊祖の石城よ、いよいよますます支配してよ、伊祖の金城よ、と。いかに近隣を威圧しつつあったかを想像させる。以上のオモロによって判断してみると、英祖はおとなしく義本の譲を受けたのではなくして、武力を以て舜天の統を威圧したのではなかろうかと疑われる。英祖の時(弘長元年)に、何処からか禅鑑という僧が漂流して来て、浦添に極楽寺を建てたのは注意すべき事と思う。仏教はこの時始めて沖縄に入ったのである。いよやにおそてちよわれ
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五|一六〕
案ずるに沖縄の港は
当時牧那渡に倭人商船数多参りけるが、過半は皆鉄をぞ積みてける。彼男子(察度)此 鉄を皆買取てけり。其比 は牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は金宮 の麓よりぞ有りける。
とあるのでもわかる。また同書によって察度のあさとおきておやみかま
かまゑつむしよりおやぐに
あめくぐちおやどまり
なはどまりおやどまり 〔十五|一〕
という事がある。「あさと」はかまゑつむしよりおやぐに
あめくぐちおやどまり
なはどまりおやどまり 〔十五|一〕
きこゑうらおそいに
にしひがのかまへもちよせて
とよむうらおそいに 〔十五|二六〕
というオモロはこの辺の事を歌ったのである。名高き浦添に西東の貢物を寄せ集めて云々というほどの意である。にしひがのかまへもちよせて
とよむうらおそいに 〔十五|二六〕
きこゑうらおそいや
しまのおややれば
もゝぢやらのかまへつでみおやせ
とよむうらおそいや 〔十五|二一〕
前のと似て、名高き浦添は島々の頭なれば諸按司より献じ来る貢物を取立てて奉れよとの意である。さて始めのほどは泊港に関する一切の事務は安里しまのおややれば
もゝぢやらのかまへつでみおやせ
とよむうらおそいや 〔十五|二一〕
尚徳王成化二年王命呉弘肇(泊里主宗重)始任泊地頭職而掌管泊邑及大島徳島鬼界与論永良部島至于近世改称泊町奉行後亦仍称泊地頭兼任取次職(始建泊地頭)
と見えている如く、いつしか泊地頭を置く必要を感じたのである。今をさること四百四十一年前のことである。沖縄と南洋諸島との交通が、察度以前に既に開けていたという証拠はあるが、南洋諸島の船舶が何港に碇泊したかということは判然しない。南洋諸島との貿易は十五、六世紀に至って
本国自唐宋以来、与朝鮮日本暹羅瓜哇等諸国、互相通好、往来貿易、但世遠籍湮、往来年月、難以委記、即今那覇親見世者、因与諸国交通貿易、故建公館于那覇、令置官吏以掌其事、名其館曰親見世、又建公倉于那覇江中、以蔵貿物、名其倉、曰御物城、然何世建之、今難以詳考、
と書いてある。那覇が貿易港になったということは『那覇由来記』を見てもわかる。また「江戸立之時仰渡並応答之条々之写」という書にも「昔は沖縄島那覇港者唐融通の港にて候由」という記事がある。しかし『中山世譜』より前に出た、『中山世鑑』には少しもこういう記事がないというので、この事実を疑う人があったら、『中山世鑑』よりも二十三年も前に出来た『オモロ双紙』を一瞥するがよい。そうすると、しよりおわるてだこが うきしまはげらへて たう なばんよりやうなはとまり ぐすくおわるてだこが 〔十三|八〕
というオモロを見出すであろう。これは右に出した漢文と殆ど同意義で首里に尚金福王命国公懐機築建長堤以便往来懐機以海底已深無力可施恭備祭品祈天告神一七日間海水乾涸即国内人民婦女運来石塊云々
とある記事や『那覇由来記』に、こういうようにして、那覇は出来上ったのである。(最近神歌及び『由来記』の研究から、沖縄及び那覇の語源を発見したが、それは近著『沖縄考』で発表した。)
尚清王嘉靖七戊子年命毛見彩授那覇里主此職自此始已無疑矣
この時に至って那覇は全く出来上って、泊港の繁昌を奪ったのである。政治上に於ける浦添人は尚巴志の勃興によってその勢力を失ったが、牧湊、泊、那覇の三港を有する浦添は依然として「うらおそい」であった。記録の語る所によれば、
(明治三十八年稿『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)