私はかつて記紀万葉などにある七世紀前の大和言葉が今なお琉球諸島に遺っているという事を例に引いて、九州の東南岸にいた
海人部の一氏族が、紀元前に
奄美大島を経て沖縄島に来たという事を言語学上から証明したことがある。また七世紀の頃、南島人が始めて大和の朝廷に来貢した時分
訳語を設けて相互の意を通じたということが国史に見えているから、分離後六、七百年も
経ったために、大和言葉と沖縄言葉との間にはよほどの差異が生じたのであろうと言ったこともある。その後、沖縄の古語や諸方言を研究するに及んで、その中に『
東鑑』にあるような鎌倉以前の言葉の多く
這入っているのに気が付き、もしや日本本土と沖縄との交通が鎌倉時代に至って
一入頻繁になっていたのではなかろうかと思って首をひねって見たが、これぞという証拠が見つからなかった。ある日『おもろさうし』の十の巻「ありきゑとのおもろさうし」
(旅行の歌の双紙の義)を
繙いていると、ふと「ねいしまいしがふし」というオモロが目についた。
いしけした、よう、がほう
よせつける、とまり
かねし、かね、どのよ
いしへつは、こので
かなへつは、こので
いしけ、より、なおちへ
なだら、より、なおちへ
くすぬきは、こので
やまと、ふね、こので
やまと、たび、のぼて
やしろ、たび、のぼて
かはら、かいに、のぼて
てもち、かいに、のぼて
おもいぐわのためす
わりがねが、ためす
〔十|二八〕 その意味は「伊敷下は豊年を招く港ぞ、兼次の貴き君よ、君がいさほにて、石槌を造り、金槌を造りて、伊敷を修理し、ナタラを築港しぬ、かくて
楠船を造り、大和船を造りて、大和の旅に上り、山城の旅に上りぬ、瓦を買はんとて、品物を買はんとて、愛児のためにこそ、わりがねがためにこそ」ということである。これで研究の端緒は開けたような気がした。島尻の真壁村の伊敷の城主が大和へ瓦その他の品物を買いにやったとあるから、古くは沖縄では瓦を買うために
遥々日本本土まで出かけたということがわかった。もし
何処かでこの瓦の遺物が見つかったら、恐らくあの疑問は解けることと早合点をして、それから時々古城址などを
跋渉して内地風の瓦を探して見たが、無益であった。昨年の夏、
東恩納〔
寛惇〕君が帰省したので、二人で琉球語の金石文を読みに
浦添の古城址を訪ずれたが、思いがけずも灰色の瓦の破片が
其処此処にころがっているのを見た。取り上げて見ると、ちょっとした模様がついて、外に「癸酉年高麗瓦匠造」と書いてある。この時、私はあのオモロを思い出さずにはおれなかった。そこでその事を東恩納君に打明けて、品のよい瓦片を一つ二つ持って帰った。しかしその道の人でなければもとより鑑定が出来るはずはない。ただ東恩納君が上京したら、専門家に鑑定してもらうより外に道がないと思った。今年の夏、東恩納君が大学を卒業して帰った日、早速あの瓦の事を尋ねると、専門家の鑑定によれば、
疑もなく鎌倉時代のものであるとのこと。私は飛立つように喜んだ。アア浦添城址の瓦は口なくして
能く七百年前の歴史を語った。私の想像はいよいよ事実となった。あのオモロの文句は生き出した。
(その後の『考古学雑誌』に出ている高橋健自先生の古瓦の研究〔『考古学雑誌』五巻十二号「古瓦に現れたる文字」〕を見ると、この瓦は銘文式型押の瓦で、鎌倉時代より一時代古く王朝時代の瓦になってしまう。その後、同じ瓦が首里城でも発見され、つい近頃、勝連城址でも発見された。)これで見ると、王朝時代から鎌倉時代にかけて、日琉貿易がかなり盛んであったことがわかったと同時に、琉球語に鎌倉時代の言葉の混じている理由もわかった。オモロに
鄙も都もということを
京鎌倉といったり、勝連城を
日本の
鎌倉に
譬えたりした所などを見ると、当時京都と鎌倉との関係が琉球の
都鄙に知れ渡っていたことが知れる。その他、琉球語で
病気のことを
咳気といい、変な物を
異風な物といい、保存するということを格護するというのは、正しく鎌倉時代の言葉の遺物である。島津氏に征服された後、琉球人が日本本土へいくことをノボル
(上国)といったのを当然な事とばかり思っていたが、鎌倉時代以前にもやはりそういっていたという事がわかって驚かずにはおれなかった。鎌倉時代が終りを告げると日本本土では吉野時代の戦乱が始まり、琉球でも三山の分争が起ったので、日本本土と琉球との交通は一、二百年も断絶して、この辺の消息は全く暗くなっていたが、この
土塊のお蔭でこれが
漸く明るくなったような気がする。これはた琉球経済史の好資料ではあるまいか。
(昭和十七年三月発行『書斎』掲載拙稿「母の言葉と父の言葉」参照。)「かはら」が「がはら」で、
曲玉のことであることには、間もなく気が付いたが、久しく訂正する機会がなかった。これに
就いては、今度「あまみや考」中にくわしく述べておいたから参照して頂きたい。それは「がはら」即ち曲玉を求めて、大和旅に上ったいきさつを歌ったのが、
山原の
神詛に数首出ているのと照し合わせて、いわゆる「やまと旅」の目的の、ただに物質的要求のみならず、宗教的要求あるいは余り物質的でない要求の顕著であったことを述べ、しかも最初の一動機の呪法的あるいは宗教的威力をもつと考えられた「がはら」を得ることによって、「がはらいのち」を得るにあったことを推測したものである。
序に、例の
神歌と発掘された古瓦との間には、何の関係もないことになったが、でもこれによって古く日本の瓦を輸入した事実は否定出来ないということを、一言断っておく。
笹森儀助氏の『南島探験』によると、八重山島や与那国島にある
大和墓や
八島墓は、七百年前の平家の落武者の墓であるということになっているが、幣原〔坦〕博士の『南島沿革史論』にも同様のことが見えている。そして今では琉球を探険する人で、大和墓、八島墓のことを筆にしないものはいない位である。大和墓、八島墓の名は、なるほど平家の末路を聯想せしめる。昨年の三月私も世の探険家のまねをして、八重山探険と出かけた。ある日、二人の八重山青年に案内されて、平川の有病地に行き、いわゆる大和墓に
詣でて、平民の霊を
弔うたが、歴史的懐古の念はようやく考古学的好奇心に変じて、私はいつしか白骨や遺物をいじり始めた。その間に一人の青年は、この十四人の骨は、以前には
其処此処にちらばっていたのを、
西常央島司が
一纏めにして、この通り碑を建てたという事や、昔
甲冑を着けた騎馬武者がこの辺に上陸したことや、その中の一人が土人が頭に物を載せて山から下って来るのを食人人種と思って、驚いて自殺したことなどを熱心に物語った。私は一種の感に打たれながら、いわゆる平氏の遺物を少しばかり取り出して見たが、長さ一尺二、三寸縦横四寸位の杉の箱数箇と、枕数箇の外には何物も見出せなかった。いささか失望して、この骨を一纏めにしなかった以前の有様が見たかったと言うと、例の青年はこれから二、三町ほど行くと洞穴がある。その中には西さんが気が付かなかったのが二つそのまま遺っていると言った。大急ぎで行って見ると、なるほど此処のは半ば棺の中に這入っていて、おまけに前の所で見たような枕と箱までが一緒になっている。これが七百年前のものとはどうしても受取れない。二人の青年にひょっとすると、これは二百年位前のものかも知れないよというと、二人は
腑に落ちぬという
面持をしていた。この
刹那に箱の
蓋をあけると、案の通り土で造った円筒状の
煙管の雁首が一箇出た。箱の蓋を
能く見ると、
煙草を刻んだ跡もある。私は鬼の首でも取ったように大発見! と叫んで、二人の青年にこれで平家の落武者の墓でないことが能く分ったというと、二人の青年は不平らしく、
何故ですと問い返えした。私はこの連中は煙草を吸っていたからと答えた。例の青年はまだ
解せぬらしかった。そこで私は煙草が始めて欧洲人に知られたのは、今から四百年前
(西暦一四九二年)で、メキシコのユカタン州のタバコ地方で発見された。そしてその日本に輸入されたのは、永禄年間であるから、これが七百年前の平氏の遺骨でないことは、火を観るよりも
明かであるといった。二人はなるほどと、うなずいたが、いくらか失望の体であった。私は言葉をつづけた。今の証拠物件では、大和墓だけが平家の落武者の墓でないということになるので、平家の落武者が八重山に来たということはまだ否定されない。平家落のことはただに八重山や与那国の
口碑にあるのみならず、二百年前に出来た『遺老説伝』にもあるから、よほど古くからあった口碑と思われる。まだ信ずる余地がある。特に八重山の人が古来自殺する時に腹を切って死ぬところなどは、ヨリ大なる証拠である。これは八重山の人が能く父祖の習慣を遺伝している事を語っていると思う。八重山の人が平家の子孫だとすれば、彼らは系図の上から沖縄本島の人よりも、
一入日本民族に近い親類
否純粋なる大和民族という事になる。こう語りおわった時、二人の青年は始めて安心したという有様であった。それはとにかく私はせっかく、平家の落武者を弔いに行って、煙管の雁首を得て帰った。
(明治四十一年九月『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)
せりかくの のろの
あけしの のろの
あまぐれ おろちへ
[#「ちへ」の右に「)」]よるいぬらちへ
[#「ちへ」の右に「)」]うむて〔ん〕 つけて
こみなと つけて
かつお〔う〕 だけ さがる
あまぐれ おろちへ
[#「ちへ」の右に「)」]よろい ぬらちへ
[#「ちへ」の右に「)」]やまとの いくさ
やしろの いくさ
〔十四|四六〕 これは、
勢理客の
祝女が、あけしの祝女が、
祷りをささげて、雨雲を呼び下し、
武士の鎧を濡らした、武士は
運天の
小港に着いたばかりであるのに、祝女は
嘉津宇嶽にかかった雨雲を呼び下して、その鎧を濡らした、この人々は
大和勢である、山城勢である、というほどの意である。
(これについては、「あまみや考」にくわしく説明しておいた。なお『沖縄考』中の「運天の古形を辿る」も参照して頂きたい。)