患者としてはこの病院内で一番の古顏となつたかはりに、私は思の
もう春も近づいた。青い澄んだ空は、それをまじまじと眺めてゐる私に
けれども月日は私の元氣に
かうした日のつづきに、私がふと四月一日が來るのに氣がついて喜んだのは、その十日ばかりも前の事であつた。四月一日、それは藥を飮む事と、喰べることと、眠ることと、それから遊ぶ事より外には能のない人間にとつては、まことにお
私はうつかりしてその日を忘れないやうに、またどんな方法で皆をかついでやらうかなどと考へながら四月を待つた。もうかれこれ二百日近くも病院で暮してゐるので、院長をはじめ内科の醫員や看護婦達とは隨分したしみが出來てゐた。
「先生! 四月一日がもうぢき參りますから油斷してらつしやらないやうに······」
ある日私は最後の診察室の寢臺を下りながら、笑ひ笑ひ院長に向つて言つた。
「さう、四月ももうぢきですね、全くぐづぐづしてをられないなあ!」と、若い院長は立ち上りながら、
「瀬川さんも、たうとう病院で花見をするやうになりましたね、もう二週間もしたら立派に咲きますぜ、この模樣ぢや。······えゝえゝ
扉を排して院長は出て行つた。二人の醫員もまた晝の休息に醫局へと去つたあと、そこらの掃除を始める看護婦の津野さんと大越さんをつかまへて、私はなほも四月一日の話をする。大越さんは少しもそんな事を知らなかつたけれど、東京くるしみの津野さんは、
「さうさう、その日はどんなに嘘をついてもいいのですつてね、無禮講なんですつてね。」と言つてゐた。
遙に那須山の煙をなびかせて、風は少しづつ經めぐつてゐたけれど、よく晴れた日が二三日續いた。さうして四月は遂に來た。地には青い草が萠えてゐる。
私はその朝、この日頃の期待にも似ず、ぼんやりと寢床の中に一日の午前を
それから私は間もなく羽織をひつかけて病室を出かけて行つた。いよいよ今日はみんなをかついでやる······さう思つて私は微笑を隱した。廊下の中途で、ふと庭の方に突き出されてある研究室の方に眼をやると、白い服の人がちらちらしてるのが硝子越に見えた。よく見るとそれは大越さんだつたので、私は先づその方へと足を向けた。
私が研究室に入つて行つた時に、大越さんは小聲に唱歌をうたひながら、かちかちと試驗管を觸れ合せて、しきりに尿の檢査をやつてゐた。
「大越さん!」
「は? おゝびつくりした、あら嫌だ瀬川さん! いらつしやい。」
「あなたお一人?」
「えゝ、もう
私はあり合せた椅子の背にもたれて、ぢつと大越さんのやうすを
「大越さん!」
「えゝ?」
「······あなた今日の××新聞見て?」と、私はよくくだらぬ投書などの載つてる、地方新聞の名を言つた。
「いゝえ。」と、不思議さうに大越さんは私の顏を見る。
「なぜ?」
そこで私は思ひ切つてでたらめを始める。
「出てるのね。」
「何が?」
「あなたの事がよ······」
「えゝ?」
片つ方の手には黄色い液體を
「嘘でせう瀬川さん。」と、何かを哀願するやうな調子であつた。
「いゝえ、まつたくですとも!」
「まあ厭だ! まあ怖い! どんな事が出てるんでせう?」
「いゝえね、一寸投書欄のところに······大體はほめてあるんだけど、一寸ひやかしたやうなところもあるの。」
驚いたことには、今の今あんなにさつと赤くなつた顏が、私が一寸眼を伏せてゐる間に、まつ青に變つてゐるのであつた。
それを見ると私はあまりにその
「何もそんなに心配する程のものぢやないわ、どうせいたづらですもの······まあ今日の××新聞を見て御覽なさいよ、見りやわかるわ!」
さう言つて私は、今は仕事も手につかなくなつて、宿直室に新聞を見に行かうとする大越さんと廊下を左右に別れた。
「瀬川さん、××新聞ですね?」と、二三間行つてから、念を押すやうに、大越さんは振り返つて言つた。
「えゝさう、三面の下の方。」と、私はなほもでたらめに答へる。
大越さんの恐怖と心配に滿ちた顏を思ひ浮べると、少し罪なやうな氣もしたけれど、またそれを笑にかへす時のことを思ふと、私は更に元氣づいて、自然と
ちやうど正午を少し過ぎた時分で、午前中の外來の患者は大抵歸つてしまつてゐた。藥局の前にはちらほらと藥を待つてる人が見えたけれど、廣い廊下は人影が稀になつて、そちこちの扉から出て來る白い上着の醫員や看護婦のみが、何か忙しげにどこへか消えて行く。
いつも今時分は内科も
私は大越さんをかつぐのにうまく成功したので、すつかり調子に乘つてしまつてゐた。さうして興味に燃えながら、微笑を顏中に漂はせて、勢よく扉の
その瞬間||私の體が入口に現はれ、私の眼が室の内部を見た時に、私は思はずそこにつつ立つたままになつてしまつた。今まで何かしらいつぱいに張りつめてゐた氣が、いきなりそこでわけもなく拔かれてしまつたのだつた。
診察室の中には、私が待ち設けたやうに院長の姿は見えなかつた。また獨逸語の發音もなかつた。ただ不思議に緊張した無言の空氣があつた。······その氣分が不意に私の面を打つたので、自分の眼で見た事を私が了解するまでには餘程の手間が取れた。
かなり廣く取つてある部屋の向の窓の下に、一つの寢臺がいつも横へられてあつた。今その寢臺のまはりに一人の醫員と二人の看護婦と、それから
看護婦の腕の下から寢臺の上に見えるものは、何だか小さな肉塊やうのもので、それを醫員が
私は一寸、このままひつ返さうかひつ返すまいかと戸口で迷つた。けれどもともかく後を音もなく閉めて、足音を
「とてもだめですな!」と、醫員は投げ出すやうに言つて、片膝乘りかけてゐた寢臺から離れた。
私はぴくりとして立ち止つた。その時二人の看護婦も無意識に手を放したので、その腕の陰に隱れてゐた赤兒の首がぐたりと傾いた。
「えつ! だめですかつ?」
醫員の言葉と殆ど同時位にかう叫んだ聲は、再び私の足をぴくりとさせた。
それは、今の今まで信じてゐたものを

「どうも、どうしても脈が出ないもんですものね。」
それでも猶もう一度醫員は手を出して、青ざめた赤兒の心臟部のあたりを揉みはじめた。その運動につれて、赤兒の首はぐなりぐなりと搖れて動くのを、看護婦がそつと手で押へた。
それはしかし一二分間、僅な期待をつないだに過ぎなかつた。
「だめだ! お氣の毒だがどうも仕樣がありませんね。」と、きつぱり今度は醫員もほんたうに寢臺の傍を離れた。
「なんとも仕樣がないでせうか?」
「えゝ、何とも仕樣がありませんね、脈があるもんなら注射つてこともありますけれど、連れて來た時には既にもう脈がなかつたんですからね······ただまだ温いだけです。」
さう言つて醫員はさつさと手を洗ひに立つて行つた。
一人の看護婦はその後について行つた。さうして醫員がタオルで手を拭つてゐるところへ、
「先生一寸。」と言ひながら、その上着の袖口を
「何だい?
醫員は苦笑して一寸寢臺の方に眼をやつた。
それまで男はさも途方に暮れたやうに同じ所につつ立つてゐたが、
「困つた!」と呟くと、漸く諦めたやうに死骸の側に寄つて、無器用な手付ではだけた
「まだこんなに温いんですが······」と、肌に
「あたたかくともだめです。」
醫員は再びきつぱりと言つた。それでもあまりに取りつき場のないのに氣がついたやうに、やがて言葉をやはらげて、
「どうもお氣の毒な事をしましたね······あなたのお子さんですか?」
「いいえ、私の妹の子なんですて······」
「とにかく所と名前とを聞いて置きませう。」
醫員は椅子について、腕を伸してペンを取つた。
「名前は私の名でいいでせうか、また······」
「いいえ、その子供の名前です。」
「
男は困つたやうな顏をして頭を掻いた。
「名前がわからないんですか?」と、醫員は驚いたやうに顏をあげた。
「はあ、何ていふんだか、私もつい忙しいもんですから、その自分の子供でねえもんだから、うつかりして聞きもしなかつたんで······」
「それではあなたの家の人ぢやないんですね。」
「いえ、私の家にゐる事はゐるんです。その、ただみんな
「困つたなあそいつあ、だがまあ分らないもんなら仕方がない······女の子でしたね、幾つです?」
「舊正月うまれだとか言ひやすから、さうしつと新の二月でごすな。」
「するとまだ六十日ばかりにしかならないんですね······どうです、今朝までほんたうになんともなかつたんですか?」
「は、私が今朝仕事に出て行く時分までは、たしかになんでもなかつたやうです。これやまづ、今年八つになる私の女の子がおぶつててこんな事になつちまつたんですが······どうも困つた事が出來つちまつた······これ一人つきり妹には子供がねいんだが······」
彼はいかにも
「實は何です。この子供の
「ほう、その時まで何でもなかつたんですね。」
「はあ、いつも私のお
「その時、脈があつたかどうか分らないんだね。」
「すぐにおろして氣付なんて飮ませた時にや、息ふつかへしたつていふんでごすが······」
「やうな氣がしたんぢやないのかね。とにかくもうかうなつては仕方がない。」
醫員はペンを置いて、立ち上りざま、ズボンのかくしに兩手を差し込んだ。
「とにかく連れて歸つてくれたまへ! さうなつたものを、いつまでも置いたつて仕樣がないんだから······」
「は。」
氣がついたやうに彼はぽくりと頭を一つ下げた。
「さあ、飯にしよう!」
當事者以外四人の人々の胸に、多少づつの引つかかりを作つてゐた情實を、ここに截然とたち切つて、醫員は強い足取で勢よく扉を排し去つた。
「いや、どうもお世話樣になりやした!」と、
「こいつあまづ、おつ
看護婦はそのよれよれの帶を拾ひ取つてやつた。彼はそれを腰に廻し、貧しい子供の上着をもつて、生ける子にするが如くその背を
「いや、お世話になりやした。」
再び看護婦に挨拶を殘して、彼は遂にすごすごと診察室を出て行く······今は私も、もはやここに何の用もなくなつたやうな氣がした。
「かはいさうにねえ!」
「私もう、死んでゆく人を取り扱ふたんびに、つくづくこんな職業はいやになつちまふわ!」
こんな事を言ひ合つてゐる二人の聲を後に殘して、私もまた打ち伏せられたやうな心持になつて廊下に出た。
すべてのものの結末は寂しい! たとへそれが善い事であれ、
私はふと、今の先自分が何の目的をもつて、またどのやうに心を樂しませて、この診察室の扉を開いたかを思ひ起した。それは人をかつぐために、嘘をつくために、さうしてその事によつて遊戲をするためにであつた。
ところが、私が數日前から計畫し、心ひそかにその遂行を樂しんでゐた遊戲の興味は、風の前に置かれたものの匂ほどの
たとへ一歳に足らぬ小さな赤兒であるからといつて、その死もまた些細なものであるとなす事はできない。その何物をも顧慮せず、何物にもわづらひされないで、靜におごそかに行はれて行く人の死の絶對な靜肅さの前に、何といふ生きたるものの遊戲はあはれに無意味なものであつたらう!
四月一日、私は以後この日のあそびを永久に葬らう! それは私にとつてもはや無意義であり、無興味である。もしも今、彼の死兒を抱いて行く兄弟を呼びとめて、
「もしもしあなた! 何もそんなに氣を落しなさるには及ばないぢやありませんか、それは嘘ですよ、
(大正七年二月「文章世界」)