鶴見橋といふ名前があるからには、比治山に鶴が舞っていたのだらう。私の亡父はその舞っている鶴を見たことがあるといふ。
比治山の鶴が飛んだ ビンロイ
と、箸ですくった茶碗の御飯を幼児の口にあてがってやる、おどけた習慣は今も広島の女に残っていることだらうか。比治山には要塞があった〔。〕大砲が松の間に隠されて、海の方を覘ってゐた。県師の附小生だった私は、学校の帰りによくこの山に登ったものだ〔。〕戦争末期に戸籍抄本のことで、この山腹の頼山陽文徳殿に疎開した市の戸籍課を訪ねたことがある。露天に机が並べてあるところで、
昔、管弦祭の夜には京橋の明神の浜に、おとぼん船がやって来た。橋の上にはぞろぞろと人が犇めきあって、船の上で行はれる十二神伎を見てゐる。かがり火が水に映り、衣裳の金絲銀絲が火に照らされて|それを見てゐると子供の私には、これはまるで幻夢の世界だった。幻夢といへば子供のとき、浅野三百年祭の催しに、四十七士が討入の装束で自転車に乗って往来を走って行ったのも憶い出す。まだ乗合馬車が街を走っていた頃のことで、流川のあたりには藁葺の家があったり溝が流れていた。
本通のつきあたりに、思ひきり大きな看板があった。女の顔が描いてあった。それと角の菓子屋に、大きな張子の虎がゐた。この二つは子供心に大きなものとして刻印されていた。あるとき、明治堂といふ菓子屋の店さきで、小僧がはたきをかけながら「人生ぢゃ、人生ぢゃ、人生ぢゃのう」とわめいてゐるのを見て私の友人はけらけら笑ったものだ。人生という言葉が侵入して来たのは大正七、八年の頃からであらう。積善館や友田書店の棚には、新刊の詩集があって、それがともかく売れてゐた時代もあった。
富士見橋から地方裁判所の方へ溝に添った一米幅の径は中学時代の私が愛好した径だった。溝の面には家々の影がくっきりと、さかさまに映りどの家の裏庭にも、花壇があって雛げしの花など咲いてをり、ひっそりとした二階からは琴の音も洩れて来る。国木田独歩のものを愛読してゐた私には、その頃これは小説のなかの風景のやうにおもへたものだ。その溝を隔てて西側の道路には、お寺ばかり並んでゐるところがあった。そのあたりも妙にひっそりとしてゐた。砂の上の枯松葉や、寺の白い壁は、ものみな滅びはてた後の静寂をおもはすことがあった。
今ではガスタンクも原爆名所の一つになってしまったがあのタンクがはじめて空に聳〔え〕立った頃は、子供の絵心を大きく煽った。その頃はガスマントルを売る車も街を通ってゐた。電車がはじめて、この街に開通した時も、電車は小学生の好き絵題だった[#「好き絵題だった」はママ]。車の横腹についていたマーク、車の前後にあった救助網、ピカピカの塗りたての電車はまだお伽噺のやうだった。
何か理解を絶したものが、この人生では突発する|さういふ恐怖を子供の私に叩きつけたのは、西練兵場の兵営の入口で、いきなり通行人をなぐりつけている兵士を見た時からだった。この痙攣的な行動は子供心に衝撃を与えた。だが、幼年の私の目に残ってゐる広島は必ずしも残酷なものではなかった。兵隊の行列も招魂祭の賑はいも、すべては古風な絵巻か何かのやうにおもへる。悪鬼のごときミリタリズムがこの街にのしかかって来たのは、ずっと後のことのやうだ。
嘗て私は学生時代に「広島」といふ小説を書かうと念願したこともあった。それから、昭和十三年頃には、広島を舞台にして奇怪な短篇を書いたことがある。それは、ここの街に突然訳のわからぬ変異が起るのである。ある瞬間から市民はすべて魔睡にかかり、鼾だけが人間の存在から分離されて勝手に夜なかの街を走りまはる。西練兵場では妖しい夜の入道雲の下に兵舎が馬の胴腹のやうに脹れてのた打ちまはるといふ、まるでコウトウムケイな物語だったが、|しかし、その後、原爆にあってみて、私は自分の空想力の貧弱さにおどろかされたのである。
今も私は消滅した郷里の牧歌|そこにはともかく子供らしい安定感があった|を書きのこしておきたいと頻りに夢みる。と同時に既に原爆によって変形された魂は、つねに無からの出発を強いられてゐることを意識するである[#「意識するである」はママ]。
(注=カナ使い原文のまま)