利根の
水源を
確定し、
越後及ひ
岩代と
上野の国境を
定むるを主たる
目的となせども、
傍ら
地質の
如何を
調査し、
将来開拓すべき
原野なきや
否、
良山林ありや
否、従来
藤原村三十六万町歩即凡そ十三里四方ありと
号する者
果して
真なりや
否、
動植物及び鉱物の
新奇なるものありや否等を
究るに
在り、又藤原村民の言に曰く、従来此深山に
分け
入りて人命を
失ひしもの
既に十余名、
到底深入することを
得ず
古より山中に
恐ろしき
鬼婆ありて人を
殺して之を
食ふ、
然らざるも人一たひ
歩を此深山に
入るれは、
山霊の
祟にやあらん
忽ち暴風雨を
起して
進むを得ざらしむ、
唯口碑の伝ふる所に
拠れは、百二十年以前に於て
利根水源たる
文珠菩薩の
乳頭より
混々として出で
来り、其傍に
光輝燦爛たるものあるを
見しものありと、此等の
迷霧を
霽さしめんとの
志は一行の胸中に
勃然たり、
此挙や数年前より
県庁内に於て
行はんとの
議ありしも
常に
其機を得ず、
然るに今や之を
决行する事とはなりぬ。一行の姓名は左の如し
技師 小西文之進
県属第二課地理掛 森下鑛吉
同 深井仙八
△利根郡長 櫻井小太郎
利根郡書記 遠藤正太郎
沼田尋常高等小学校長
石田勝太郎
△沼田警察署長 吉田忠棟
△沼田巡査部長 坂本武雄
同 巡査 鹽原甚藏
沼田収税署長 榎本嘉助
沼田小林区署長 土屋榮太郎
同森林監守 長松榮之進
△同 高野峯之進
利根郡水上村長 木村政治郎
同 前村長 大塚直吉
△同大字藤原村区長
中島甚五左衞門
及余を
合せて総計十七名、
中途帰りし者を
除けば十二名とす、右の三角印は
中途帰りしものとす、此他人夫十九名
同道者三人、
合計三十九名とす、
但し人夫中四人及道者三人は中途に
帰りたるを以て、
探検の
目的を
達せし人員は合計二十七名となす。
因に云ふ、右一行中小西技師は
躰量二十三貫の
大躯なれ共
常に県下
巡回の
為め山野の
跋渉に
慣れ、余の
如きは
本と山間の
産にして
加ふるに
博物採集の
為め深山幽谷を
跋渉[#ルビの「はつせう」はママ]するの
経験に
積み、森下深井両君の
如きは地理掛として
最も其道に専門の人と云ふべきなり、林区署の諸君
亦然り、大塚君は前年名佐技師に
従ふて利根山間を
探りし
経験あり、長髯口辺を
被ひ背に
熊皮を
横たへ、
意気の
凛然たる一行中尤
著るし、木村君は
初め一行に
向つて
大言放語、利根の
険難人力の
及ぶ所に
非ざるを談じ、一行の元気を
沮喪せしめんとしたる人なれ共、
本と水上村の産にして
体脚強健、
棒押しに於ては村内の人民
敢て之に
勝つものなしと云ふ、一夕小西君と
棒押しを試みしも
到底其
対手に非ざるなり、此他の諸君も皆
健脚の人のみ、人夫中にては中島善作なるものは
猟の為め
常に
雪を
踏んで
深山に
分け入るもの、主として一行の
教導をなす、一行方向に
迷ふことあれば
直ちに
巧みに高樹の
頂に
上りて
遠望し、前途を
見究めて
後ち
進行せしむ、善作一たび方向を
定めて
進む時は、
其誤らざる事磁石に
拠るよりも
勝れりと云ふべし、
真に一行中
屈竟の
好漢たり、中島鹿吉なるものは躯幹
偉大、
背に三斗の
米を
負ふて難路を
歩むも、
常に平然たること
恰も
空手坦途を歩むが如し、
真に一行中の大力者なり、林喜作なるもの
少しく病身なりしも
魚を
釣るに
巧みなり、皆各其人を
得たりと云つべし、
殊に人夫は皆藤原村及小日向村中
血気旺盛の者にして、予等一行と
辛苦を共にし、
古来未曾有の
発見をなさんと欲するの
念慮ある者のみを
選びたるなり、
実に一行が
首尾克く
探検の
目的を達するを得たるは、
忠実勇壮なる人夫の力大に
与つて
力ありとす。
此日一行は
沼田より湯檜會に
[#「湯檜會に」はママ]着し、夜大に会議を
開きて
進路を
議す、議二派に
分る、一は
国境論にして一は
水源論なり、国境論とは上越の国界なる
清水越より山脈の頂上を
常に
進行せんとするものにして、
遂に頂上より水源を
認めなば水流を
逐ふて漸次
下らんとするなり、水源論とは
初めより水流を
溯りて水源に
至り、山の頂上に出で
其後国境とする所を
踏みて
帰らんとするを云ふなり、二派各其
困難の度を比較して
利害得失を
述べ、甲論乙駁
容易に
决せず、数時間を
経て
遂に水源論
多数を
占め之れに一决す、其議論の
激しき
遂に小西技師をして、
国境論者は別隊を
率ゐて
別に
探検すべしとの語を
発せしむるに
至たる程なりき、
若糧食の
備へ充分にして廿日以上の日子を
費すの覚悟なりせば、右両説の
孰れを
取るも同じと雖も、
奈何せん十日間の食糧を以て
探検の
目的を果さんとの心算なれば、途中如何なる
故障の
起るありて一行
餓死の
憂あるやも計られず、為に
早く人家ある所に
出るの
方針を
執らざるべからざるを以て、
斯く議論の
沸騰したるなり。
食糧は米一石餅三斗、之れ十七人の分にして皆人夫をして
負はしむ、人夫は此他に各自の
食糧を各
準備したり、其他
草鞋二百足、
馬桐油三枚、
鰹節数十本及
釜、
鍋、
味噌、
醤油、
食塩等を用意したり、又護身の用として余は三尺の
秋水を
横たへ、小西、森下、深井、石田の四君は各「ピストル」を
携帯し、人夫は
猟銃二挺を
準備したり。
昨夜来頻りに
降り来る雨は朝に至りて未だ
霽れず、
遥かに利根山奥を
望むに
雲烟濛々前途
漠焉たり、藤原村民の言の如く
山霊果して一行の
探検を拒むかと
想はしむ、或るものは
雨霽れて
後ち出立すべしと言ひしも、予等の
予定は最初より風雨に
暴露せらるる十日間に
渉るも
敢て
厭はざるの决心なるを以て、
断然雨を
冒して
進行することとはなれり、
然るに
図らざりき、藤原村に
進むに
従つて雨漸次に霽れ
来り、全く
晴朗となる、
蓋し天我一行を
歓迎するの意乎、探検一行無事の
吉兆既に此の発程に
臨みて
現はれたり、衆皆
踊躍して藤原村を
過ぎ、須原峠を
越え
湯の
小屋に
至り泊す、
温泉塲一ヶ所あり、其宿の主人は夫婦共に
偶他業して
在らず、唯浴客数人あるのみ、浴客一行の為めに
米を
炊ぎ
汁を
煮且つ寝衣をも
貸与す、其
質朴愛するに堪へたり、余炉辺に
坐し一客に
問ふて曰く、是より山奥に
至らば
栗樹ありや否、余等一行
若し
探検の
中途にして
飢餓に
陥ることあらん乎、栗等の
果実に
拠りて
餓死を
免れんとすと、客答へて曰く、栗樹は人家
近き所に
在るのみ、是より深山に
入らば一樹をも
見る
能はざるべしと、余又
栗を食する能はざるを
嘆じ、
炉辺に
栗を
炙り石田君も
共に大に之を
食ふ宿は、
利根の
支流たる
湯の小屋河に
臨み、河を
下る事二町にし玄道、大龍、小龍の三大
瀑布ありて
実に壮観を
極む、衆相
顧みて曰く、這回の
探検たる此等の如き
険所数多を
経過せざるべからざるかと、一行皆な
勇を
皷して
壮快と
叫ぶ。
夜に入れば当宿の主人
帰り
来る、主人は当地の
深山跋渉に
経験ありとの故を以て、
呼んで一行と共にせんことを
談ず、主人答へて曰く、水源を
溯源して利根岳に
登り、之より国境を
通過して
清水越に
至らんには、少くとも十数日の日子を
要し、又利根岳より尾瀬沼即ち岩代と上野の国境に
出でんにも亦十余日を
要すべし、一行が
準備せらるる十日間の
食糧到底其目的を達せず、
殊に五升
許の米を
負ふを
命ぜられて此
深山険崖を
攀躋する如きは、拙者の
堪へ
能はざる所なりと、
断じて随行を
拒む、衆相
顧みて
愕然たり、余の如きは胸中大に其
無礼を
憤懣す、然れ共之れ
例の
放言大語、
容易に
信ずべからざるを
知る、何となれば元と藤原地方の人民は
皆常に這般の
言語を
吐き、深山に
分け入るを
禁物となす者なればなり、小西君一
喝衆を
励まして曰く、彼は一杯を
傾け
来りて
酔狂せるものなりと。
朝須原峠の
嶮を
登る、
偶々行者三人の
来るに
逢ふ、身には幾日か
風雨に
晒されて
汚れたる白衣を
着し、
肩には
長き
珠数を
懸垂し、三個の
鈴声歩に従ふて
響き
来る、之れ予等一行に
従ふて利根
水源たる世人未知の
文珠菩薩を
拝せんとする為めなり、各蕎麦粉三升を
負ふ、之を
問へば曰く即ち
食糧にして、毎日三合
宛之を
湯に入れて
呑み以て
飢を
凌ぐを得、
敢て一行を
煩はすことなけん、
謹んで随行の
許可を得んことを
乞ふと、衆其
熱心に
感じ
喜んで之を
許す、内二人は上牧村の
[#「上牧村の」は底本では「上枚村の」]者にして他一人は藤原村字
窪の者とす、信州
御岳参り七回の
経験あるを
聞き衆皆之を
壮とす、此峠を
過ぐれば字上ヶ原の大平野あり、
広袤凡一万町歩、
水あり
良草あり以て
牧塲となすに
適す、今之を不毛に
附し
去るは
遺憾と云ふべし、
若し此地に
移住し来るものあらんか、湯の小屋の
温泉も
亦世に
顕れて
繁栄に
趣くや必せり。
進んで大蘆村に
至れば櫻井郡長之より
帰途に
就かる、村を
過ぐれば
愈いよ無人の
境となり、利根河岸の
絶壁に横はれる
細逕に入る、
進むこと凡二里にして
道全く
尽き、猟夫の
通路又見るを
得ず、
途中大なる
蝮蛇の路傍に
蜿蜒たるあり、之を
逐へば忽ち
叢中に
隠る、警察署の小使某
独り叢中に
分け
入り、
生擒して右手に
提げ
来る、衆其
巧に
服す、此に於て河岸に出でて火を
焚き蝮の
皮を
剥ぎ、
味噌を
塗りて
蒲焼を
作る。衆
争ふて之を
食す、
探検の
勇気此に於て
層一
層を
増し
来る、相謂て曰く
前途千百の
蝮蛇応に皆此の如くなるべしと。
愈利根の
水源に
沿ふて
遡る、
顧れば両岸は
懸崖絶壁、加ふるに
樹木鬱蒼たり、たとひ
辛ふじて之を
過ぐるを得るも
漫りに時日を
費すの
恐あり、故にたとひ
寒冷足を
凍らすとも、水流を
渉るの
勝れるに如かず、され共渉水亦
困難にして水中
石礫累々之を
踏めば滑落せざること
殆稀なり、衆皆
石間に
足を
突き入れて
歩む、河は山角を
沿ふて
甚しく
蜿蜒屈曲し、所々に
少許の
磧礫を存するを以て、
成るべく磧上を
進むの方針を
取る、忽ちにして水中忽ちにして磧上、其
変化幾回なるを
知らず、足水に入る
毎に冷気
肌を
衝て悚然たり、
進むこと一里半にして
急に
暖気を
感ず、
俯視すれば磧礫間
温泉ありて数ヶ所に
出づ、衆皆
快と
呼ぶ、此処は
字を
湯の
花或は
清水沢と称し、先年
名佐技師が
地質調査の為め
探検して之より
帰られし処とす、衆
露宿を此に
取る、人夫十数人
拮据勉励、大石を
除きて磧中を
堀り温泉塲二ヶ
所を
作る、泉石幾年の
苔を
帯び
汚穢甚しきを以て、先づ饅頭笠にて汚水を
酌み
出し、
更に
新鮮なる温泉を
湛ゆ、温
高き為め冷水を
調合するに又
笠を
用ゆ、笠為に
傷むもの
多し、抑此日や
探検の初日にして、
長く水流中に在りし
冷気と
露営の
寒気と
合せ来るに
逢ひ、此好温泉塲を
得て
初めて
蘇生するの
想あり、一行の内終夜温泉に浴して
眠りし者多し、
真に山中の
楽園と謂ふべし、
露営の塲所亦少しく
平坦にして充分
足を
伸ばして
睡眠するを得、且つ水に
近く
炊煎に便なり、六回の
露営中
実に此夜を以て
上乗となす、前水上村長大塚直吉君
口吟して曰く
里遠き利根の河原に宿しめて湯あみしてけり石かきわけて
夜半眼覚め、
防寒の為炉中に
薪を
投ぜんとすれば、月光清輝幽谷中に
冴へ
渡り、両岸の
森中には高調凄音群猿の
叫ぶを
聞く、
俯して水源未知の利根を
見れば、
水流混々、河幅猶ほ
広く水量甚
多し、或は
岩に
触れて
澎湃白沫を
飛ばし、或は瀾となり
沈静深緑を
現はす、沼田を
発して今日に
至り河幅水量
共に
甚しく
※縮[#「冫+咸」、U+51CF、139-1]せるを
覚えず、果して尚幾多の長程と
幾多の険所とを
有する、
况んや明日よりは
全く人跡
到らざるの地を
探るに於てをや、
嗚呼予等一行
果して何れの時かよく此目的を
達するを得べき、想ふて前途の
事に
到れば
感慨胸に
迫り、
殆んど
睡る能はざらしむ、され共東天
漸く白く夜光全く
去り、清冷の水は俗界の
塵を去り
黛緑の山は
笑を
含んて迎ふるを見れば、
勇気勃然為めに過去の
辛苦を一
掃せしむ。
早朝出立、又昨日の如く水中を
溯る、進むこと一里余にして一小
板屋荊棘中に
立つあり、古くして半ば破壊に
傾けり、衆皆不思議に
堪へす、余
忽ち刀を
抜きて席にて
作れる
扉を
切り
落し、入り見れば
蝉の
脱け
殻同様人を見ず、され共古びたる箱類
許多あり、
蓋を
開き見れば皆
空虚なり、人夫等曰く多分
猟師小屋ならんと、
図らず天井を
仰ぎ見れば
蜿蜒として数尺の大蛇
横はり、将に我頭を
睨む、一小蛇ありて之に
負はる、
依て
直ちに杖を取りて
打落し、一
撃其
脳を
砕けば忽ち死す、其
妙機恰も
死せる蛇を
落したるが如くなりし、小なる者は
憐れにも之を生かし
置けり、其の
恩に
感ぜしにや以後又蛇を
見ざりき、蛇は「山かがし」となす
猶進むこと凡そ一里にして三長沢と利根本流との
落ち
合ひに出づ、時猶十時なりしも
餅を
炙りて
[#「炙りて」は底本では「灸りて」]昼食し、議論大に衆中に
湧く、一は曰く
飽迄従前の如く水中を
溯らん、一は曰く山に
上り山脈を
通過して水源の上に
出でん、
特に人夫中冬猟の
経験ありて
雪中此辺に
来りしもの、皆曰く是より前途は
嶮更に嶮にして
幽更に幽、数日の食糧を
携へて
入るも中途に
餓死せんのみ、
請ふ今夜此地に
露宿し、明朝出立二日間位の食糧を
携へて水源
探究に
赴き、而して
再び当地に帰らんのみと、人夫等異口同音
堅く此説を
取る、遠藤君大塚君等大に人夫等を
説き
諭せども
議遂に長く决せず、吉田警察署長
大喝怒りて曰く、余等県知事の
命を奉じて水源
探究に来れるなり、水流を
溯り水源を
究めざれば
死すとも帰らず、
唯冒進の一事あるのみと、
独り身を
挺んで水流を
溯り衆を
棄てて又顧みず、余等
次で是に
従ふ、人夫等之を見て皆曰く、
豈坐視して以て
徒らに吉田署長以下の
死を
待たんやと、一行
始めて
団結し
猛然奮進に
决す又足を水中に
投ずれば水勢
益急となり、両岸の岩壁
愈嶮となり、之に従つて河幅は
頗る
縮り、困難の
度は
実に水量と反比例をなし
来る
進むこと一里にして両岸の岩壁
屏風の
如く、河は
激して
瀑布となり、
其下凹みて
深淵をなす、衆佇立
相盻みて
愕然一歩も
進むを得ず、是より水上に
到らば猶斯の如き所
多きや
必せり、此に於て往路を
取りて
帰り、三長沢口に
泊し徐計をなすべしと云ひ、
或は
直ちに此
嶮崖を
攀ぢて山に
上り、山脈を
伝ふて水源に
至らんと云ひ、相議するや
久し、余奮つて曰く、水を
逐ふて此
嶮所を溯る何かあらん、未だ生命を抛つの
危険あるを
見ずと、
衆敢て余を
賛するものなし、余此に於て
巳を得ず
固く後説を
執る、人夫等岩崖を
仰[#ルビの「おほい」はママ]で唯
眉を
顰むるあるのみ、心は即ち帰途に
就くにあればなり、此に於て余等数人
奮発一番、先づ
嶮崖を
攀登して其
登るを得べき事を
示す、人夫等
猶肯んぜず、鹽原巡査人夫の
荷物を
分ち取り自ら之を
負ふて
登る、他の者亦之に同じくす、人夫等
遂に巳を得ず之に
従ふ、此に於て相互
救護の
策を取り、一行三十余名
列を
正して千仭の
崖上匍匐して相登る、
山勢殆んど直立、
加ふるに
突兀たる
危岩路に
横はるに非れば、
佶倔たる石南樹の
躰を
遮るあり、
若し一たび
足を
誤らんか、一
転忽ち
深谷に
落つるを以て、一行の両眼は
常に
注ぎて頭上の
山頂にあり、
敢て往路を
俯瞰するものなし、
荊棘の中黄蜂の
巣窟あり、先鋒
誤て之を
乱す、後に
継ぐもの其
襲撃を被ふるも
敢て之を
避くるの
道なし、顔面
為に
腫れし者
多し、
相憐んで曰く
泣面に
蜂とは其れ之を
云ふ乎と、午後五時井戸沢山脈中の一峯に
上り
露宿を
取る、高四千五百尺、
顧みれば前方の山脈其
中腹の
凹所に白雪を堆くし、皚々眼を射る、恐らくは
万古不融の雪にして
混々として利根水量を
多からしむるの大原因たるべし、当夜の
寒気想ふに堪へたり、宿所を
取らんとするも長一丈余の
熊笹繁密せるを以て、皆之を
押臥し其上に木葉或は
席を
布きて臥床となす、炉を
焚かんとするに
枯木殆どなし、立木を
伐倒して之を
燻ふ、火
容易に
移らず、
寒気と
空腹を
忍ぶの困難亦甚しと云ふべし、
山巓一
滴の
水を
得る能はざるを以て、
餅を
炙りて
[#「炙りて」は底本では「灸りて」]之を
食ふ、餅は今回の
旅行に就ては
実に重宝なりき、此日や喜作なるもの
遅れて
到り、「いわな」魚
[#「「いわな」魚」は底本では「「いわな魚」]二十三尾を
釣り来る、皆尺余なり、され共喜作は
食糧の不足を
憂ふるにも
拘らず、己が
負ふ所の一斗五升の米を
棄て
来れり、心に其
不埒を
憤ると雖も、
溌剌たる良魚の
眼前に在るあるを以て衆唯其
風流を
笑ふのみ、既に此好下物あり、五罎の「ぶらんでー」は忽ち
呼び出さる、二
罎忽ち
仆る人数多き為め毎人唯一小杯を
傾けしのみ、一夜一罎を
仆すとすれば
残る所は三日分のみなるを以て、巳を得ず
愛を
割く、慰労の小宴
爰に
終れば、鹽原君大得意の
能弁を以て落語二席を
話す、
其巧なる人の
頤を
解き、
善く当日の
疲労と
寒気とを
忘れしむ、其中にも
常に山間に
生活する人夫輩に至りては、都会に出でたるの
感を
起し、大に
愉快の色を
現はし、
且つ未だ
耳にだもせざる「ぶらんでー」の
醇良を味ふを得、
勇気頓に百倍したり、
実に其
愉快なる人をして
雪点近き山上にありて
露宿するなるかを
忘れしむ。
興に乗じて
横臥すれば、時々
笹蝨の
躰を
刺して眼を
覚ますあり、
痛痒頗る
甚し、之れ
笹を臥床となすを以て、之に寄生せる
蝨の
這ひ来れるなり、夜中吉田署長
急に病み、
脉搏迅速にして
発熱甚し、為めに頭を
冷やさんとするも
悲いかな水なきを如何せん、鹽原君
帯ぶる所の劔を
抜きて其顔面に
当て、以て多少之を
冷すを
得たり、朝に
至りて
少しく快方に
向ひ来る。
朝又
餅を
炙りて
[#「炙りて」は底本では「灸りて」]食し、
荊棘を
開きて山背を
登る、昨日来
餅のみを
喫し未だ一滴の水だも
得ざるを以て、一行
渇する事実に
甚し、梅干を
含むと雖も
唾液遂に出で
来らず、此に於て竹葉上に
点々滴れる所の
露を
甞め、以て漸く
渇を
慰す、吉田署長病
再発し
歩むに
堪へず、
遂に他の三名と共に
帰途に
就かる、行者
参り三人も亦
心淋しくやなりけん、名を
食糧の不足に
託して又衆と
分る、明日は天我一行をして
文珠岩を発見せしむるあるを
知らざるなり、其
矇眛なる心中や
憐[#ルビの「あは」はママ]むに
堪へたり、
残る所の二十七名は之より
進むのみにして
帰るを得ざるもの、
実に
血を
啜りて
决死の
誓をなししと云ふて
可なり、
既にして日
漸く
高く露亦
漸く
消へ、
渇益渇を
加へ、加ふるに
石南の
蟠屈と
黄楊の
繁茂とを以てし、難
愈難を増す、
俯視して水を
索めんとすれば、両側
断崖絶壁、水流は
遥に数百尺の
麓に
在るのみ、
勇を
鼓して
早く山頂に
到らんか、危岩
突兀勢
将に頭上に
落ちんとす、進退
維れ
谷[#ルビの「たに」はママ]まり
敢て良策を
案するものなく、一行叢中に
踞坐して又一語なし、余等口を
開きて曰く、
進むも
難く
退くも亦
難し、難は一なり
寧ろ
進んで
苦まんのみと、
綱を
卸して岩角を
攀登し、千辛万苦
遂に井戸沢山脈の
頂上に
到る、頂上に一小窪あり、
涓滴の水
集りて
流をなす、衆
初めて
蘇生の想をなし、
飯を
[#「飯を」は底本では「飲を」]炊ぐを得たり、
且つ
図らざりき雲霧漸次に
霽れ
来り、四面の
峻岳皆頭を
露はし、昨来
渉り
来れる利根の水流は
蜿蜒として幽谷間に白練を
布けり、白練の尽くる所は乃ち大利根岳となり
突兀[#ルビの「とつとつ」はママ]天に
朝す、其壮絶
殆ど言語に
尽すべからず、水源
探検の
目的亦殆ど
爰に
終れり。
抑此日や秋季皇霊祭にして
満天晴朗、世人は
定めて大白を
挙げて征
清軍の
大勝利を
祝するならん、余等一行も亦此日
水源を
確定するを得、帝国万歳の
声は深山に
響き
渡れり、水源の出処
既に
明なれば、
従つて越後と上野の国界とすべき所も
定まり、
利根山奥の
広袤も
略ぼ
概算するを得たり、此上は上越二国の間に
横はれる
利根の山脈に
攀登し、国界を
定めて之を
通過し、
尾瀬が原を
経て
戸倉に
帰るべしと、
議忽ち一决す、之に
依て戸倉に
至るを得べき日数も
予め
想像することを得、衆心
初めて安んじ、
犠牲に供したる
生命は
辛うじて
保つを得べからしめたり、
然りと雖も
前途嶮益嶮にして、人跡
猶未到の
地、
果して予定に
違はざるなきや、之を
思へば一喜一憂
交々到る、万艱を
排して
前進し野猪の
勇を之れ
貴ぶのみと、一行又
熊笹の
叢中に頭を
没して、
嶮崖を
降り渓流を
素めて
泊せんとす、
日暮れて
遂に渓流に
至るを得ず、水声
近く足下にあれども
峻嶮一歩も
進[#ルビの「せせ」はママ]むを得ず、
嵯乎日の
暮るるを二十分
計早かりし為め、
遂に飯を
炊ぐの水を得ず、又餅を
炙りて
[#「炙りて」は底本では「灸りて」]食ふ、
餅殆ど尽きて毎人唯二小片あるのみ、
到底飢を
医するに
足らざるを以て、衆談話の
勇気もなく、天を
仰で
直ちに
眼を
閉づ、其状恰も
愁然天に
訴ふるに
似たり、
剰さへ細雨を
注ぎ来りしが、
甚しきに至らずして
己み
[#「己み」はママ]、為めに
少しく
休暇することを得たり。
山の
斜面に露宿を
取りしことなれば
少しも
平坦の地を得す、為めに
横臥する能はず、或は蹲踞するあり或は
樹に
凭るあり、或は樹株に
足を
支へて
臥するあり、
若し一歩を
誤らんか深谷中に
滑落せんのみ、其
危険言ふべからず、
恰も四足獣の住所に
異らずと云ふべし。
夜の
明くるを
待て人夫は
鍋と
米とを
携へ、
渓流に
下り飯を炊

して
上り
来る、一行
初めて
腹を
充たし、勢に
乗じて山を
降り、三長沢支流を
溯る、此河は利根の本源と
殆ど長を
等くし、同じく大刀根岳より
発するものたり、数間
毎に
必ず
瀑布あり、而して両岸を
顧みれば一面の岩壁
屏風の如くなるを以て如何なる
危き瀑布と
雖も之を
過ぐるの
外道なきなり、其
危険云ふべからず、瀑布を
上り
俯視すれば
毛髪悚然、
脚為めに
戦慄す、之を以て衆
敢て来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の
辛酸と
幾多の労苦とを
甞めたる為め、此
険流を溯るも
皆甚労とせず、進程亦従て速なり、
恰も
四肢を以て
匍匐[#ルビの「ほうふく」はママ]する所の四足獣に
化し
去りたるの
想ひなし、
悠然坦途を
歩むが如く、行々山水の
絶佳を
賞し、或は
耶馬渓も
及ばざるの
佳境を
過ぎ、或は
妙義山も三舎を
避くるの
険所を
踏み、
只管写真機械を
携へ来らざりしを
憾むのみ、
愈溯れば
愈奇にして山石皆凡ならず、右側の
奇峰を
超へて
俯視すれば、
豈図らんや
渓間の一丘上
文珠菩薩の
危坐せるあり、百二十年
以前に
見たる
所の人ありと
伝ふ
所の文珠岩は即ち之れなり、
衆皆拍手
喝釆して
探検者一行の大発見を
喜ぶ
直ちに丘下に
到りて
仰ぎ見れば、丘の
高さ百尺
余、天然の
奇岩兀として其頂上に
立ち、一見人工を
加へたる文珠菩薩に
髣髴せり、
傍に一大古松あり、
欝として此文珠
岩を
被へり、丘を
攀登して岩下に
近づかんとするも
嶮崖頗甚し、小西君
及余の二人
奮発一番衆に先つて
上る、他の者
次で
到る、岩に近づけば
菩薩の
乳頭と
覚しき所に、一穴あり、頭上にも亦穴を
開けり、古人の
所謂利根水源は文珠菩薩の
乳より
出づとは、即ち積雪上を
踏み来りし
際、
雪融けて水となり此の
乳頭より滴下せるを
見たるを
云ふなるべし、され共水源を以て此処に在りとなすは非なり、水上村長木村政治郎大に
喜んで曰く、以後年々此日を以て
発見の
紀念となし、村民を
集めて文珠菩薩の
祭礼を
行ひ、
併せて此一行をも
招待すべし、而して漸次道路を
開通し
爰に
達し、世人をして
参詣するを得せしめんと、人夫中の一人喜作なるもの両三日前より
屡々病の為めに
困み、一行も大に
憂慮せしが、文珠岩を
発見するや
否直ちに再拝して
飯一椀、鰹節一本とを
捧呈し、
祈祷に
時を
移し
了りて
忝く其飯を
喫す、病漸次に
癒へ
来り以後
常に
強健なりき、人夫等皆之を
奇とし恐喜
措く
所を知らざるが如し、昨朝
帰途に
就きし三人の行者
参りをして
若し
在らしめば、其
喜び果して
如何なりしか、
思へば
愚の
至りなり、
且つ
傍に直下数丈の
瀑布ありて
幅も
頗る
広し其地の
幽にして其景の
奇なる、真に
好仙境と謂つべし、
因に云ふ此文珠岩は
皆花崗岩より
成りて、雨水の
為め
斯くは
水蝕したるなり、左に
面白き二首を録す
万世のまどひ開けつ文珠岩
木村君
ももとせも知れぬ仏を見出すは
文珠の智恵に勝る諸人
鹽原君
是より一行又
河を
溯り、
日暮れて
河岸に
露泊す、此日や白樺の樹皮を
剥ぎ来りて之を数本の竹上に
挿み、火を
点ずれば其明
宛ながら
電気灯の如し、鹽原君
其下に在りて、
得意の
弁を
揮ひ落語二席を話す。衆皆労を
忘れて
臥す。
未明食事を
終りて出立し又
水流を
溯る、無数の瀑布を
経過して五千五百呎の
高に至れば水流
全く
尽き、源泉は
岩罅より
混々として出で
来る、衆呼で曰く
涓滴の水だも其四方より相集まるや
遂に利根の大河をなすかと、従前の
辛苦を
追想して
感懐已む能はず、各飲むで腹に
充たす、之より山を
上るを数十間にして又一小流あり、岩穴に入りて
終る、衆初めて其
伏流なるを
知り之を
奇とす、山霊
果して尚一行を
欺くの意乎、将又
戯れに利根水源の深奥
測るべからざるを
装ふの意乎、此日の午後尾瀬が
原に
到るの途中、亦長凡一里の
伏流を
発見したり、
其奇なる一は一行の
疲労を
慰するに
足り、一は大に学術上の
助を
与へたり、
遂に六千呎の高きに
至りて水
全く尽き、点々一
掬の水となれり、此辺の
嶮峻其極度に
達し、百
仭の崖上
僅に一条の
笹を
恃みて
攀ぢし所あり、或は左右両岸の大岩
既に
足を
噛み、前面の危石
将に頭上に
落ち
来らんとする所あり、一行
概ね多少の負傷を
被らざるはなし。
水源
竭きて
進行漸やく
容易となる、六千四百呎の高に
達すれば前日来
経過し来れる所、
歴々眼眸に
入り、利根河の
流域に属する藤原村の深山幽谷、
丸で地図中の物となり、其山の
広袤水の長程、
初めて
瞭乎たり、
眼を
転じて北方を
俯視すれば、越後の大部岩代の一部脚下に
集り、陸地の
尽くる所
青煙一抹、
遠く日本海を
眺む、
唯憾[#ルビの「うらむ」はママ]むらくは佐渡の
孤島雲煙を
被ふて躰を
現はさざりしを、岩代の
燧岳、越後の
駒が
岳、八海山等皆
巍然として天に
朝し、利根水源たる大刀根岳は之と相
拮抗して其高きを
争ふ、越後岩代の地方に於ては
决して
雪を見ざるに、利根源泉の上部に
至りては白雲
皚々たり、之れ地勢上及気象上の
然らしむる所なりと雖ども、利根の
深奥なる亦
想ひ見るべし、
然れ共眼を北方越後に
注ぐに一望山脈
連亘し其深奥なる又利根に
譲らざるなり、之を以て
始めて
知る、上越の国境不明に
属せしは両国の山谷各深くして、人跡
未だ何れよりも
到る能はざりしに
因れり、而るに今や利根水源を
確定して、加ふるに上越の国界を
明にするを得、衆皆
絶叫快と
呼ぶ、其勢上越の深山も
崩るるが如し、深井君
直ちに鋭刀を
揮ふて白檜の大樹皮を
彫り、
探検一行二十七名上越国界を定むと
書す、
少らく
休憩をなして或は
測量し或は
地図を
描き、各
幽微を
闡明にす、且つ風光の
壮絶なるに
眩惑せられ、左右
顧盻去るに
忍びず、
殊に燧山下尾瀬沼なるものありて、岩代上野の県道其沼辺を
通じ、
直ちに戸倉に出るを得るの概算予定するを
得て、帰路に
就く
既に
近きにあればなり、され共人智の
劣先見の
明なき、
遂に将来大障碍を
起[#ルビの「のこ」はママ]さしめたり、
障碍とは何ぞ、一行は
巍然たる燧岳眼前にあるを以て、
其麓の尾瀬沼に
至らんには半日にして
足れり、今夜其処に
達するを
得べしと
考へしに、明晩
辛ふじて目的の地に
至るを得、其間の
辛苦実に甚しかりしものあればなり。
之れより上越の
国界なる山脈の
[#「山脈の」は底本では「山脉の」]頂上を
経過す、
脈尽くる所
太平原あり、
原尽きて一山脈あり、之れを
過れば又大平野あり、之れ即ち
真の
尾瀬が原にして、
笠科山と燧山の間に
連り、東西一里南北二里余、一望些少の
凹凸なく、
低湿にして一面
湿草を生じ、所々に凹所ありて水を
湛ゆ、草ある
所は草根によりて以て
足を
支持すれども、草なき所は
湿泥足を
没す、其
危険云ふべからず、
且つ
茫漠たる
原野のことなれば、如何に歩調を
進むるも
容易に之を
横ぎるを
得ず、日亦暮れしを以て
遂に側の
森林中に
入りて露泊す、此夜
途中探集せし「まひ
茸」汁を
作る、露宿をなして以来此汁を
啜ること二回、
其味甚佳なり、
加ふるに
鰹の

出しを以てす、
偶々汁を
作ることあるも常に
味噌を入るるのみなれば、当夜の如き
良菌を得たるときは、之を
喫する其
何椀なるを
知らざるなり、而して此を食ふを得るは
全く人夫中の
好漢喜作の
力にして、能く害菌と食菌とを
区別し、余等をして安全之を
食ふを得せしむ、
為めに一人も
中毒に
逢ひしものなし、此他
飯の如き如何なる下等米と
雖も如何なる
塵芥を
混ずると雖も、其味の
佳なる山海の
珍味も及ばざるなり、余の小食家も
常に一回凡そ四合を
食したり、大食の
習慣今日に
至りても未だ全く
旧に
復せざるなり、食事
了れば
例により鹽原巡査の
落語あり、衆拍手して之を
聞く、為めに
労を
慰めて
横臥すれば一天
墨の如く、
雨滴点々木葉を
乱打し来る、
加ふるに
寒風を以てし天地
将に大に
暴れんとす、
嗟呼昨日迄は唯一回の
細雨ありしのみにして、
殆ど
晴朗なりし為め終夜
熟睡、以て一日の
辛労を
軽んずるを得たるに、天未だ我一行を
憐まざるにや、
将に大雨を下さんとす、明夜尚一回
露宿をなさざれば人家ある所に
至るを
得ず、
余す所の二日間尚如何なる
艱楚を
嘗めざるべからざるや、
殆ど
予測するを得ず、
若し九仭の
功を一
簣に欠くあらば
大遺憾の至りなり、
希くは此一夜星辰を
戴きて
安眠するを得せしめよと、
誰ありてか天に
祈りしなるべし、天果して之を感ぜしか、
靉靆たる
怪雲漸次に消散し風雨
暫らくにして
已みぬ。
早朝出立、
尾瀬の大原野を
経過し燧山麓に
至る、目的とする所の尾瀬沼は
眼眸に
入り来らず、燧山麓一帯の山脈
横はれるを以て、之を
経過すれば沼に
到るを
得るならんと
察し、又険山を
攀登す、沼猶
見えず、又次の高山に
登る
猶見えず、
斯くして
遂に
最高の山に
上る、欝樹猶眼界を
遮る、衆大に
困み
魑魅の
惑す所となりしかを疑ふ、喜作
直ちに高樹の
頂に
攀ぢ
上り驚て曰く、
眼下に
茫々たる大湖ありと、衆忽ち
拍手して帰途の
方針を
定むるを得たるを
喜び、帰郷の
近きを
祝す、
日既に中して
腹中頻りに飢を
訴ふ、されども一
滴の水を得る能はず、
况んや飯を
炊くに
於てをや、此に於て
熬米を
噛み以て一時の
飢を
忍び、一
気走駆して
直ちに沿岸に
至り飯を

んと
决す、此に於て山を
降り方向を
定めて沼辺に
至らんとし、山を
下れば前方の山又山、之を
超ゆること数回に
及ぶも沼
猶見えず、
已むを得ず
渓流を汲んで昼飯を
喫す、時に午後三時なり、
腹充ちて勇を
皷し、又山を
超ゆる数回にして
始めて尾瀬沼岸に
達するを
得たり、
抑燧山は岩代国に
属し
巍峩として天に
秀で、其麓
凹陥して尾瀬沼をなし、沼の三方は低き山脈を以て
囲繞せり、翻々たる
鳧鴨は
捕猟の至るなき為め
悠々として水上に飛
翔し、一面の
琉球藺は
伐採を受けざる為め
茸々として沼岸に
繁茂し、沼辺の
森林は
欝乎として水中に
映じ、
翠緑滴る如く、燧岳の中腹は一帯の
雲烟に
鎖され夕陽之に
反照す、其景の
絶佳なる、
恰も彼七本
槍を以て有名なる
賤が
岳山下余吾湖を
見るに
似たり、
陶然として
身は故山の
旧盧にあるが如く、
恍として他郷の深山麋熊の林中にあるを
忘る、前日来の
艱酸と
辛労とは茫乎として
転た
夢の如し、一行皆沼岸に
坐して
徐ろに風光を
賞嘆して
已まず、
遠く対岸を
見渡せば無人の一小板屋
忽ち双眼鏡裡に
映じ来る、其
距離凡そ二里、
曾て
聞く沼岸には岩代上野の県道即ち
会津街道ありて、
傍らに一小屋あり、会津檜枝岐村と
利根の
戸倉村との交易品を蔵する所にして、檜枝岐村より会津の名酒を此処に
運び
置けば、戸倉村よりは他の物品を此処に
持ち来り以て之を
交易し、其間
敢て人の之を
媒介するものなく、只正直と
約束とを
守りて
貿易するのみと、此に於て前日来より「あるこーる」に
渇したる一行は、
勇を
皷して皆曰く、たとひ
日暮るるとも其小屋に
到達し、酒樽
若しあらば之を傾け尽し、戸倉村に
帰りて其代価を
払はんのみと、議
忽ち一决して沼岸を
渉る
深さ
腿を
没し
泥濘脛を
埋む、
加ふるに寒肌
粟を生じ沼気
沸々鼻を
衝く、
幸ひに前日来
身躰を
鍛錬せしが為め
瘧疫に
罹るものなかりき、沼岸の
屈曲出入は
実に犬牙の如く、之に
沿うて
渉ることなれば
進退容易に
捗取らず、日暮れて
遂に一歩も
進むを得ず、
空しく
遥かに彼
小屋を
望んで沼岸に
露営を
取りたり。
晩餐
了りて
眠に
就く、
少焉ありて
眼覚むれば何ぞ
図らん、全身
雨に
濡うて水中に
溺れしが如し、
衆既に早く
覚む、皆
笑つて曰く君の熟睡
羨むに
堪へたりと、之より雨益
甚しく
炉辺流れて河をなし、
腰をだに
掛くる所もなく、唯両脚を以て
躰を
支へて
蹲踞するのみ、躰上に
毛氈と油紙とを
被れども
何等の
効もなし、人夫に
至りては
饅頭笠既に初日の
温泉塲に於て
破れ、其後
荊棘の為めに
悉く
破壊せられ、躰を
被ふべきもの
更に無く、全身
挙りて
覆盆の雨に
暴露せらる、
其状誠に
憐むに
堪へたり、衆相対して
眼を
開くも

として
声なく、
仰ぎて天の無情を
歎す、而れども
俯して熟考すれば之れ
最終の
露宿にして、前日来の露宿中は
雨殆んどなく、
熟睡以て白日の
労を
慰せし為め、
探検の
目的を
遂ぐるを得せしめしは、
実に天恩無量と云つべし、
豈此最終の一夜に
臨んで
怨みを
述ぶべけんや、
若し此探検中
雨に
逢ふこと
多かりせば尚二倍の日子を
要すべく、病人も生ずべく、
為めに半途帰路に
就くか或は
冒進して餓死に
陥るか、
孰れか此両策の一を
取りしなるべし、而るに後に聞く処に
拠れば、沼田近傍は
雨常に
多かりしに、利根山中日々
晴朗の天気なりしは
不可思議と云ふの外なし、
窃かに人夫等の
相談するを聞けば皆
感歎し曰く、之れ
文珠菩薩の恩恵にして、世人未知の菩薩が探検一行によりて、世に
顕はれ出でんと欲するの
志は、一行をして日々晴天に
逢はしめ、以て無事目的を達して
帰るを得せしむるなり云々と、朝来雨
漸く
霽れ来れば一行
笑顔を開き、一
駆して戸倉に至るを
期す、此夜森下君の発案により、
鍋伏せを行ふて
魚を
取るを
得たり、即ち鍋上に
穴を
穿てる
布片を
覆ひ、内に
餌を
入れて之を沼中に
投じたるなり、「どろくき」と
称する魚十余尾を
得たり、形
鰌に非ず「くき」にも非ず、一種の
奇魚なり、衆争うて之を
炙り
食すれど、不幸にも
前述の如く大雨なりしを以て、唯一回の引上げをなししのみ。
終夜雨に
湿ひし為め、水中を
歩むも
別に意となさず、二十七名の一隊
粛々として
沼を
渉り、
蕭疎たる
藺草の間を
過ぎ、
悠々たる
鳧鴨の群を
驚かす、
時としては柳条に
拠りて深処に
没するを
防ぎしことあれども、
進むに従うて
浅砂の
岸となり、
遂に沼岸一帯の
白砂を
現じ来る、砂土人馬の
足跡は
斑々として破鞋と
馬糞は所々に
散見す、一行
驚喜して曰く之れ即ち会津街道なりと、人影を見ざるも
既に村里に
在るの
想をなせり、
歓呼して一行の
無事を
祝す、昨暮
遠望したる一小板屋は尚之より岩代の方角に
向て一里余の
遠きに在り、屋内
酒樽のあるあらば
極めて
妙なれども、若し之なくんば
草臥れ
損なりと、
遂に帰路を
取りて戸倉に
至るに
决す、一帯の
白砂過ぎ
了れば路は戸倉峠に
連なる、峠の
高さ凡そ六千呎、
路幅僅かに一尺、
漸く両足を
容るるに
堪ふ、之れこそ利根の戸倉と会津の檜枝岐との
間に在る県道なれば、其
嶮岨云ふべからずと雖も、
跋渉に
慣れたる余等の一行は、
恰も
坦たる大道を
歩む如き心地をなし、五里の
嶮坂瞬時に
降り
尽し、戸倉村に
至りて区長松浦方に
泊す、戸倉村と云へば世人は之を深山幽谷の
人民として、
殆んど別天地の如くに
見做せども、凡そ十日間人影だも
見ざる余等一行は、此処に
着して
初めて社会に
出でたるの
心地せられ、其
愉快実に言ふべからず。
戸倉を出立して七里の
山路を
過ぎ、
花咲峠の険を
越えて川塲湯原村に
来り
泊す、此地に於て生死を共にし
寝食を同じくしたる人夫等十五名と
相別るることとなり、衆皆其
忠実冒険、能く一行を
輔助せしことを
謝し、年々新発見にかかる
文珠菩薩の祭日には相会して
旧を
語らんことを
約し、
袂を
分つこととはなりぬ。
川塲を
発して沼田に
帰れば、郡役所、警察署、収税署等の諸員及有志者等、一行の安着を
歓迎し、
直ちに三好屋に於て
盛んなる
慰労会を
催されたり。
翌日一行の諸氏と
相分れ、余は小西君と共に
車を
駆りて前橋に
帰りたり。
此
探検に
就て得たる利益の大要を
記すれば左の如し。
(第一)地図の改正。県属地理掛森下、深井の二君は精密なる地図を製せられたり、利根河上流の模様は将来頗る改正を要するなり、上越国界に至りても同じく改正を要すれども、尚精確を得んには向後尚一国上越及岩代の三ヶ国より、各人を派して国界を定めし後にありとす。
(第二)殖産事業。従来藤原村三十六万町歩即ち凡そ十三里四方の山林ありと称せしも、凡そ其半なるを確めたり、利根山奥は嶮岨人の入る能はざりし為め、漫りに其大を想像せしも、一行の探検に拠れば存外にも其狭きを知りたればなり、楢沢の平野は良樹蓊欝として森林事業に望みあり、須原峠字上ヶ原の原野は牧畜に宜しく尾瀬の大高原は開墾するを得べし、此他漸次道路を開通せば無数の良材木を運び出す事を得べし。
(第三)植物。利根山奥の低き所は山毛欅帯に属し、高きは白檜帯に属す、最高なる所は偃松帯に属すれども甚だ狭しとす、之を以て山奥の入口は山の頂上に深緑色の五葉松繁茂し、其他は凡て淡緑色の山毛欅樹繁茂す、山奥の深き所に至れば黒緑色の白檜山半以上に茂り、其以下は猶山毛欅樹多し、故に山々常に劃然として二分せられ、上は深緑、下は淡緑、其景実に画くが如きなり、此他石南樹、「ななかまど」「さはふたぎ」、白樺、楢類等多しとす、草類に於ては「わうれん」、「ごぜんたちばな」、「いはべんけいさう」、「まひづるさう」、「まんねんすき」、「ひかげのかづら」、毛氈苔、苔桃、「いはかがみ」、「ぎんらんさう」、等多し、菌類に於ては「みの茸」、まひ茸、黒ほざ茸、す茸、「こぼりもだし茸」、等食すべきもの実に多し。
(第四)[#「(第四)」は底本では「第四」]鉱物及動物。別に貴重の金石を発見せず、唯黄鉄鉱の厚層広く連亘せし所あり、岩石は花崗岩尤も多く輝石安山岩之に次げり、共に水蝕の著るしき岩石なるを以て、到る処に奇景を現出せり、文珠岩の如きは実に奇中の奇たるものなり、要するに人跡未到の地なるを以て、動植物及鉱物共に大に得る所あらんとするを期せしなれ共、右の如く別に珍奇なる者を発見せざりき、されども頗る種々の有益なる材料を得来りしは余の大に満足とする所なり、動物にては鹿、熊尤多くして山中に跋扈し、猿、兎亦多し、蜘蛛類、蝨類の珍らしき種類あり、鳥類にて耳目に触れしは「かけす」、四十雀、梟ありしのみ。
終りに
臨み
熊に就て一言すべし、熊の巣穴は山中に無数あるにも
拘はらず、藤原村に於て年々得る所の
熊は数頭のみ、之れ猟師の
勇気と
胆力と甚少きを以てなり、即ち
陥穽を
設けて熊を
猟するあり、或は遠方より熊を
銃殺する位なり、
若し命中
誤りて
熊逃るれば之を追捕するの
勇なきなり、而るに秋田若くは越後の猟人年々此山奥に入り来りて
猟するを見れば、其
冒険なること上州人の
能く及ぶ所に非ずと云ふ、其方法に依れば
熊を
銃撃して命中
誤り、熊
逃走する時之を
追駆すれば熊
遂に
怒りて直立し、
将に一
跳人を
攫まんとす、此に於て
短剱を以て之を
貫き、直ちに
熊を
抱きて相角し
遂に之を
殺すなり、熊人を
見て
逃れんとする
時も亦然すと云ふ、此回の
探検中は
熊に
逢ひし事なし、之れ夏間は人家
近き
山に出でて
食を
取り、冬に
至りて
帰蟄する者なればなり、
且つ一行二十七名の多勢なれば、如何なる
動物と雖も皆
遁逃して
直ちに
影を
失し、
敢て
害を
加ふるものなかりき、
折角携帯せる三尺の
秋水も
空しく伐木刀と
変じ、「ピストル」猟銃も亦
雨に
湿うて
錆を生ぜる
贅物となり、唯帰途の一行
無事の
祝砲に
代はりしのみ。
利根水源探検紀行終