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音楽時計

室生犀星




 階下では晩にさえなると、音楽時計が鳴りはじめた。ばらばらな音いろではあるが、静かにきいていると不思議にすべてがつながれ合った一つの唱歌をつづり合してきこえた。昨日も今夜も、毎日それがつづくのである。ネジがなくなるにしたがって、音色が次第に物憂くだるい調子になって、しまいには、まるで消えてしまうように何時いつの間にかむのである。あとはしんとした小路の奥の、暗いしいの垣根をめぐらした古い家が、何一つ音もなく降りつづく雨にとざされているのであった。

「お母さん······

 又その弱々しい腹のそこから出たような声音が、二階のわたしの机のそばまで聞えた。わたしはその声を耳に入れると、梯子段はしごだんを下りて茶の間をあけた。

 そこにはせて小さくなった白瓜しろうりのような顔が、ひくい電燈の光をうけて、すぐ私のほうを眺めた。病めば病むほど大きくなった瞳孔が澄んでものうげに私のかおにそそがれた。

「いまね、お母さんが通りへ買いものにいらしったんです。だから用事があるなら言ってごらん。」

 私はそう言ってのぞき込むと、小さい病人は黙って目をつむってしまった。物言うこともいやなような疲れた顔をしていた。

「言ってごらん。また遠慮をしているんでしょう。」

 そのとき小さい病人はまたぽっかりと目をあけて私のかおを見た。そしてにっとやさしく微笑ほほえんで見せて、ちいさな声で、

「時計にネジをかけて下さいな。」と言って弱い竹紙ちくしのような微笑んだしわを頬にあらわした。

「あ、そうか、少しも気がつかなかった。」

 私はすぐネジを巻きはじめた。その手つきを病人はたのしそうに見つめていたが間もなく音楽時計がいつもと同じい調子で鳴りはじめた。それは明るい華やかな曲がちょうどピアノのような美しい音と色とをもって、絶えず暗い一室にくりかえされた。

 と、子供の喜びそうな単純さと質朴さとを絶えず繰り返すのである。小さい病人は目をあけて、それを一心に楽しそうにきいていた。そして、しまいには熱そうな小さい腕を床のなかからすべり出して、

「お母さんは遅いわね。」と突然に病人が言い出して病的に涙ぐんだ。妙に音楽にでも誘われたような柔しくうっとりとしたような声であった。

 階下からだるい声でよくこう呼ばれたが、おかみさんは通りへ買物にでかけたあとなので、誰も返事がなかった。雨の音だけが屋根をたたいていて、その小さい病人のだるい声をひびかした。雨の日は妙に人声が重く響くものである。

「お母さん······

「もう十分もつとね。」

 私はどう言っていいか分らなかったので、気やすめにそう言ったとき、病人はまた突然に、

「雨がふっていて?」

 そう私のかおを見つめた。低い、聞えるか聞えないかの程度で、そとは永い雨も終ろうとするかすかな雨の音をつづけていた。

「すこし降っていますよ。あすになると晴れるでしょう。」

 病人はまた目を閉じてしまった。時計はだんだんネジのゆるむにしたがって、ゆるい絶え絶えな音いろをつづけていた。

 又ぽっかりと、病人は目をあけて、低い声でささやいた。

「おじさん。二階へ行って勉強していてください。もういいの······

 大人のように言って微笑んだ。子供も病気をすると大人のような気もちをつようになるものだと思いながら、

「ご用があったら呼びなさい。かまわないから。」

 そう言うと「ええ。」と首肯うなずいて、目をとじた。二階へあがりかけると、この古い家の梯子段が暗くて、へんな闇のにおいのような湿けたくさみがした。ひとりでも病人がいると、どうしてこんなに陰気になるものだろうと、そこらの壁や板べりなどに、なにか陰気なものがべっとりと食付いているような気がして寂しかった。

 通りから小路へ這入ってくるらしい足音がした。傘をうつ雨脚あまあしがだんだんに近づいてきたので、母親がかえってきたことに気がついた。

「唯今、どうもありがとうございました。」

 おかみさんは梯子段のところでそう言って、すぐ茶の間へはいった。しばらくすると、れいの時計が鳴り出した。


 私はだるい毎日を二階に送っていたが、時々階下へ行っては、おかみさんの洗濯や、買ものに出かけたときに、少しずつ用足しをしていた。

 小さい病人は日に日に痩せて、気むずかしくなって、音楽時計のネジばかりかけさしていた。その上、くるしそうにだるい声で、

「あううん、ううん。」

 と熱に浮されてはうなっていた。風の工合とか、雨の晴れまなぞに、その唸りごえが遠くなったり小さくなったりしていた。その声をきくたびに、私はくらい気持になって、わざと梯子段のそばまで行って耳をすました。

 ときには階下へおりると弱々しい声で、なにかぶつぶつ言うのが、いつの間にか分らなくなっていた。もう何も食べないばかりでなく、何時いつ息をひき取るかわからなくなっていた。

「病気がなおったら、僕がいろいろな処へつれて行ってあげますよ。動物園でも上野へでもね。」

 そういうと、女の子は、私のかおをまんじりと眺める。そして、

「あたしなおるかしら。なおらないかも知れないわ。」

 こう言うと、さびしそうに微笑わらって、ぼんやりと白い障子をながめるのであった。

「きっと癒りますよ。病気したって死ぬなんて決っていないんだからね。」

 私は病人の懈い目のひかりが、何か特別なものを感じているように思われた。たとえ、私が気休めに何を言っても、女の子は自分のことをちゃんと知っているらしかった。何も彼も知っていて、私に癒るかどうかというのかも知れなかった。

「あなたにも大へんお世話になりましたわね。あたしお礼を言いますわ。」

 女の子はそう言って、私の目のいろを読んで悲しそうにした。

「そんなことを言わない方がいい。それより癒ることを考えるといい。今は雨がふっているけれど、きっと晴れますよ。そしたら何処どこへでも連れて行ってあげよう。」

 女の子は、楽しそうに、しかも何処か頼りなさそうに聞いていた。

「あたしね。死んだら音楽時計を一しょに入れてくださいな。」

「音楽時計って、あれですか。」

 私は驚いてそういうと、女の子はすっかり嬉しそうに、

「ええ、あの時計よ。」

 そう言って静かに耳を澄した。時計はやはり鳴っていた。同じい譜を繰りかえしては、毎日のように鳴るこの時計を一しょに入れてくれというのが、私にとって余りに突然で悲しい気がしたのである。

「そんなことを言わない方がいい。きっと癒るから。」

 というと、

「入れて下さらないの。」

 神経的にびくっと私のかおを稍々ややきびしい目つきで眺めた。ひいやりとして直ぐに答えた。

「入れてあげますとも、お母さんにも言って必然きっとそうしてあげますよ。僕はうそはきませんよ。」

 そうあわてて答えると、やや安堵あんどしたらしく微笑んで、

「あたし大切にしていたのだから、此の間もお母さんにお願いしたんですわ。」

 女の子は、こういうと烈しく咳をして、からだを藻掻もがくようにした。昂奮こうふんしすぎたせいか、こんどは反対にうとうと睡り出した。私はその病みつかれた小さいからだを淋しく眺めたが、それは再度にどと健康な身体からだになれそうにも思われなかった。

 しばらくしてから又ぽっかりと目をあけたが、すぐ閉された。


 お母さんが外へ出るごとに、

「ちょいと薬をとりにゆきますからお願いしますよ。」

 と言って出たあとになると、女の子はきまったようにれいの力のない声で、

「お母さん。お母さん。」

 と呼ぶのが、妙に重いような響をもって二階へきこえてくるのである。私はそのたびごとに、自分でも胸が痛むような気がして、二階から降りてゆくのであった。

「どうしたの。寂しいのかね。一人だから······

 そういうと、女の子はれいのまじまじした目で永い間私の顔を見つめていたが、

「お母さんは?······

 と低い声でたずねた。

「いつものお薬を取りに行ったんですよ。もう直ぐかえってきますからね。」

 というと、頭の毛をうるさそうに握って手でたくしあげると、

「あたしお薬なんかういらないの。そう言って頂戴。」と、きっぱり言った。

「だって薬をまないと、よくなりませんよ。」

「だっていくら服んだって同じことですもの。」

 蒼白あおじろい顔をそっと少女らしく頬笑ませて、もう自分でも回復なおらないことを感じているらしかった。私は黙って室を出た。間もなくお母さんが帰ってきた。

 医者はもう幾日もたないと言ってしまってから或る日の女の子は、母親に、

「あたしね。もうすぐいけなくなるんですから。」

 そう言って小さい鏡台を指さした。そこには女の子の用いるいろいろな白粉や刷毛はけの類が曳出ひきだしにしまわれてあった。母親は、その指さきと鏡台とを見つめていたが、女の子が何を言っているのか分らなかった。

「鏡台が見たいの。」というと、女の子は、

「いいえ。」と頭をふった。

「では、どうしたらいいのかね。」というと、

「あたし······あの······」と言って恥かしそうに顔をあかめた。そのとき[#「そのとき」は底本では「 そのとき」]母親ははじめて女の子が化粧したいと言いよどんでいるのが解ったのであった。

 母親は、それを感じると同時に、女の子が死ぬとき綺麗にお化粧をしてやるものであることを知っていたのである。

 母親は、間もなく女の子に、あたためたおしろいを形ばかりに塗ってやっていた。蒼白い顔は、すこしばかりの水気によってやや湿うるおうたが、その皮膚はもう冷たくなっていたのである。

 小さい病人は、形ばかりの化粧がすむと、少女らしく満足げに、美しいものが美しいものを保護するために、こうした最後の化粧に微笑んでみせた。

 小さい病人は、また突然にこう言って母親を悲しがらせた。

「お母さん、きょうは幾日?」

 そう言っただけで、母親はハッキリと娘の顔になにものかの冷たい影が這いかけたのを知った。

 医者が来た。すると女の子は、じっと医者の顔を見つめていたが、突然に微笑をうかべた。医者はびっくりしたような顔をして女の子をながめた。

「おじさんは明日もまた来て下さるでしょうか。」

 彼女はこういうと、寂しい細々した微笑をもらした。医者はすぐ元気そうな声で、はっきりと病人の耳元でささやいた。

「明日も明後日もきますよ。それからずっと後もやってきます。あなたのすっかり癒るまでは。」

「明日も明後日も······

 弱々しい声で同じことをいうと、医者はまた機械的に、

「明日も明後日もね。」

 と言ったが、医者の額には悲しげな荒い筋があらわれた。もう駄目だと思われた。医者は母親と目と目とでささやいた。

 私はそのとき室へはいると、彼女は薬のせいで、ほそぼそと睡って行った。

「化粧をしましたね。」

 そうお母さんにいうと、母親は湿しめった声をして、

「自分でも既う駄目だとおもっているらしいんですね。先刻化粧をしてくれと言いましてね。」

 呼吸がしずかにあるかないかの境を、たえだえにつづいていた。

 しばらくすると、また女の子はぽっかりと目をあけた。

「お母さん。さっきから其処そこにいらしったの。」

 と言って、まんじりと母おやの顔をながめた。

「さっきから居たの。何かほしくないかね。」

「時計にね。」とだるい声で言った。

「ネジをかけるんですか。」と母親は時計のそばへゆくと、

「ええ。」

 と嬉しそうにほほ笑んだ。時計にネジがかけられた。と、しずかなしかし単調な音楽がしずかにあたりにひびいた。

 女の子はうっとりとした目をして、その音楽にききほれていたが、母おやは俯向うつむいてしずかに泣いていた。そばにいた私もうつむいた。時はだんだんに進んで行った。






底本:「性に眼覚める頃」新潮文庫、新潮社

   1957(昭和32)年3月25日発行

   1967(昭和42)年8月10日15刷改版

   1978(昭和53)年11月30日30刷

底本の親本:「忘春詩集」京文社

   1922(大正11)年12月10日発行

初出:「少女の友 第十四卷第一號」實業之日本社

   1921(大正10)年1月1日

※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。

入力:hitsuji

校正:きりんの手紙

2021年7月27日作成

青空文庫作成ファイル:

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