蝸牛匍ひまはる
泥土に、
われ手づからに底知れぬ穴を掘らん。
安らかにやがてわれ老いさらぼひし骨を
埋め、
水底に
鱶の沈む
如忘却の
淵に眠るべし。
われ遺書を
厭み墳墓をにくむ。
死して
徒に人の涙を
請はんより、
生きながらにして
吾寧ろ
鴉をまねぎ、
汚れたる
脊髄の
端々をついばましめん。
あゝ
蛆虫よ。眼なく耳なき暗黒の友、
汝が為めに腐敗の子、
放蕩の哲学者、
よろこべる無頼の死人は
来れり。
わが
亡骸にためらふ事なく
食入りて、
死の
中に死し、魂失せし古びし肉に、
蛆虫よ、われに問へ。
猶も悩みのありやなしやと。
[#改ページ]大空重く
垂下りて
物蔽ふ蓋の如く、
久しくもいはれなき
憂悶に歎くわが胸を押へ、
夜より悲しく暗き日の光、
四方閉す空より落つれば、
この世はさながらに土の
牢屋か。
虫喰みの床板に
頭打ち叩き、
鈍き翼に壁を
撫で、
蝙蝠の如く「
希望」は飛去る。
限りなく
引つゞく雨の糸は、
ひろき
獄屋の格子に
異らず、
沈黙のいまはしき
蜘蛛の
一群来りてわが脳髄に網をかく。
かゝる時なり。寺々の鐘突如としておびえ立ち、
住家なく
彷徨ひ歩く
亡魂の、
片意地に嘆き叫ぶごと、
大空に向ひて
傷しき声を上ぐれば、
送る太鼓も楽もなき
柩の車
吾が心の
中をねり行きて、
欺かれし「
希望」は泣き暴悪の「
苦悩」
黒き旗を立つ、
垂頭れしわが
首の上に。
[#改ページ]森よ、
汝、
古寺の
如くに
吾を恐れしむ。
汝、寺の楽の如く
吠ゆれば、呪はれし人の心、
臨終の
喘咽聞ゆる
永久の喪の
室に、
DE PROFUNDIS[#ルビの「デ プロフンデス」は底本では「デ ブロフンデス」] 歌ふ声、
山彦となりて響くかな。
大海よ、われ汝を憎む。狂ひと叫び、
吾が魂は、そを汝、大海の声に聞く。
辱めと涙に満ちし敗れし人の苦笑ひ、
これ、おどろ/\しき海の笑ひに似たらずや。
されば
夜ぞうれしき。空虚と暗黒と
赤裸々求むる我なれば、星の光
覚えある言葉となりて
われに語らふ、
其の光だになき夜ぞうれしき。
暗黒の其の
面こそは
絵絹なりけれ。
亡びたるものども皆覚えある形して
わが
眼より数知れず躍りて出づれば。
[#改ページ]若きわが世は日の光ところまばらに漏れ落ちし
暴風雨の闇に過ぎざりき。
鳴る
雷のすさまじさ降る雨のはげしさに、
わが庭に
落残る
紅の
果実とても稀なりき。
されば今
思想の秋にちかづきて、
われ
鋤と
鍬とにあたらしく、
洪水の土地を耕せば、洪水は土地に
墓と見る深き穴のみ
穿ちたり。
われ夢む新なる花今さらに、
洗はれて河原となりしかゝる地に
生茂るべき
養ひをいかで求め得べきよ。
あゝ悲し、あゝ悲し。「時」
生命をくらひ、
黯澹たる「
仇敵」独り心にはびこりて、
わが失へる血を吸ひ誇り
栄ゆ。
[#改ページ]吾等忽ちに寒さの闇に
陥らん。
夢の
間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
薪を投込むかなしき
響。
冬の
凡ては
||憤怒と
憎悪、
戦慄と
恐怖や、
又
強ひられし
苦役はわが身の
中に返り来る。
北極の地獄の日にもたとふべし。
わが心は凍りて赤き鉄の
破片よ。
われ
戦慄きて薪を投ぐる響をきけば、
断頭台を
人築く音なき音にも
増りたり。
重くして疲れざる戦士の
槌の一撃に、
わが胸は崩れ倒るゝ城の
観楼歟。
かゝる
懶き響に揺られ、揺られて、
何処にか、
いとも
忙[#ルビの「せは」はママ]しく
柩の釘を打つ
如き
······そは、
昨日と逝きし夏を葬る声にして、秋来ぬと云ふ怪しき
此声は、
さながらに死者を葬る鐘にも似たり。
きれ長き君が
眼の緑の光ぞなつかしき。
いと甘かりし君が姿もなど今日の我には
苦きや。
君が
情も暖かき火の
辺や化粧の
室も、
今のわれには海に輝く日に
如かず。
さりながら我を
憐れめ、やさしき人よ。
母の
如かれ、忘恩の
輩、ねぢけしものに。
恋人か
将た
妹か。うるはしき秋の
栄や、
又沈む日の如く束の間の優しさ忘れたまふな。
定業は早し。
貪る墳墓はかしこに待つ。
あゝ君が膝にわが額を押当てゝ、
暑くして白き夏の昔を惜しみ、
軟くして
黄き晩秋の光を味はしめよ。
[#改ページ]わが魂などか忘れん、凉しき夏の
晴れし
朝に見たりしものを。
小径の角、砂利を
褥に
みにくき
屍。
毒に
蒸されて血は燃ゆる
淫婦の
如く脚
空ざまに
投出し
此れ見よがしと心憎くも
汗かく腹をひろげたり。
照付くる日の光自然を
肥す
百倍のやしなひに
凡てを自然に返すべく
この屍を焼かんとす。
青空は麗しき
脊髄を
咲く花かとも眺むれば、
烈しき悪臭
野草の上に
人の
呼吸をも
止むべし。
青蠅の
群翼を鳴らす腐りし腹より
蛆虫の黒きかたまり
湧出でゝ、
濃き
膿の如くどろ/\と
生ける
襤褸をつたひて流る。
此等のもの
凡て寄せては返す波にして、
鳴るや、響くや、
揺めくや。
吹く風に五体はふくらみ
生き
肥るかと
疑まる。
流るゝ水また風に似て
天地怪しき
楽をかなで、
節づく
動揺に
篩[#ルビの「ふるひ」はママ]の中なる
穀物の粒の如くに
舞狂へば、
忘られし
絵絹の
面に
ためらひ
描く輪郭の、
絵師は
唯だ記憶をたどり筆をとる、
形は消えし夢なれや。
巌の
彼方に恐るゝ
牝犬。
いらだつ
眼に人をうかゞひ、
残せし肉を屍より
再び
噛まんと
待構ふ。
この不浄この腐敗にも似たらずや、
されど時として君も
亦、
わが眼の星よ、わが性の日の光。
君等、わが天使、わが情熱よ。
さなり形体の美よ、そもまた
此の如けん。
終焉の
斎戒果てゝ、
肥えし
野草のかげに君は逝き
白骨の
中に苔むさば、
其の時に、
あゝ美しき形体よ。
接吻に、
君をば
噛まん地虫に語れ。
分解されしわが愛の清き
本質と形とを
われは長くも
保ちたりしと。
[#改ページ]月
今宵いよゝ
懶く夢みたり。
おびたゞしき
小布団に
翳す片手も力なく、
まどろみつゝもそが胸の
ふくらみ
撫づる美女の
如。
軟かき雪のなだれの
繻子の背や、
仰向きて
横はる月は吐息も長々と、
青空に真白く昇る
幻影の
花の如きを眺めやりて、
懶き疲れの折々は
下界の
面に、
消え易き涙の玉を落す時、
眠りの
仇敵、沈思の詩人は、
そが
掌に猫眼石の
破片ときらめく
蒼白き月の涙を
摘取りて、
「太陽」の
眼を忍びて胸にかくしつ。
[#改ページ]蒼き夏の夜や
麦の
香に
酔ひ
野草をふみて
小みちを行かば
心はゆめみ、
我足さはやかに
わがあらはなる
額、
吹く風に
浴みすべし。
[#「浴みすべし。」は底本では「浴みすべし。[#改行]」]われ語らず、われ思はず、
われたゞ限りなき愛
魂の底に
湧出るを覚ゆべし。
宿なき人の如く
いや遠くわれは歩まん。
恋人と行く如く心うれしく
「自然」と共にわれは歩まん。
[#改ページ]しなやかなる手にふるゝピアノ
おぼろに染まる
薄薔薇色の
夕に輝く。
かすかなる翼のひゞき力なくして
快き
すたれし歌の
一節は
たゆたひつゝも恐る恐る
美しき人の
移香こめし化粧の
間にさまよふ。
あゝゆるやかに我身をゆする眠りの歌、
このやさしき唄の
節、何をか我に思へとや。
一節
毎に繰返す聞えぬ程の
REFRAIN は
何をかわれに求むるよ。聴かんとすれば聴く間もなく
その歌声は
小庭のかたに消えて行く、
細目にあけし窓のすきより。
[#改ページ]ましろの月は
森にかゞやく。
枝々のさゝやく声は
繁のかげに
あゝ愛するものよといふ。
底なき鏡の
池水に
影いと暗き
水柳。
その柳には風が泣く。
いざや夢見ん、二人して。
やさしくも、
果し知られぬ
しづけさは、
月の光の色に
浸む
夜の空より落ちかゝる。
あゝ、うつくしの
夜や。
[#改ページ]寒くさびしき古庭に
二人の恋人通りけり。
眼おとろへ唇ゆるみ、
さゝやく話もとぎれとぎれ。
恋人去りし古庭に怪しや
昔をかたるものゝかげ。
||お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。
||なぜ覚えてゐろと
仰有るのです。
||お前の胸は私の名をよぶ時いつも
顫へて、
お前の心はいつも私を夢に見るか。
||いゝえ。
||あゝ
私等二人
唇と唇とを
合した昔
危い幸福の美しい其の日。
||さうでしたねえ。
||昔の空は青かつた。昔の望みは大きかつた。
||けれども其の望みは
敗れて暗い空にと消えました。
烏麦繁つた
間の立ちばなし、
夜より
外に聞くものはなし。
[#改ページ]鶯は高き枝より流れに映る己れが姿を眺め水に落ちしと思ひて槲の木の頂にありながら常に溺れん事のみ恐れき。(シラノ・ド・ベルジユラツク)
霧たち
籠むる
河水に樹木の影は
烟の
如くに消ゆ。
その時影ならぬ枝の
間より
何処とも知らず
夜の小鳥は泣く。
あゝ旅人よ。いかに
此の青ざめし景色は、
青ざめし君が
面を眺むらん。
いかに悲しく、溺れたる君が望みは、
高き
梢に嘆くらん。
[#改ページ]暖き火のほとり、
灯火のせまきかげ、
片肱つきて
頭支ふる夢心地、
愛する人と
瞳子を
合すその眼とその眼、
語らふ茶の時、
閉せる書物、
日の暮れ感ずるやさしき思ひ。
くらきかげ、静けき
夜をまつ時の
いふにいはれぬ心のつかれ、
あゝわが夢心地、幾月のまちこがれ。
幾週日の
遣瀬無さ、
猶[#ルビの「なほ」はママ]ひたすらに
其等を追ふ。
[#改ページ]あゝ
遣瀬なき追憶の是非もなや。
衰へ疲れし空に
鵯の飛ぶ秋、
風
戦ぎて黄ばみし林に、
ものうき
日光漏れ
落る時なりき。
胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、
唯二人君と我とは夢み夢みて
歩みけり。
閃く
目容は
突とわが
方にそゝがれて、
輝く
黄金の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。
打顫ふ鈴の
音のごと
爽に
響は深く優しき声よ。
この声に答へしは
心怯れし
微笑にて、
われ真心の限り白き君が手に
吻づけぬ。
あゝ、咲く
初花の薫りはいかに。
優しき
囁きに愛する人の口より漏るゝ
「
然り」と
頷付く初めての声。あゝ
其の響はいかに。
[#改ページ]空は屋根のかなたに
かくも
静にかくも青し。
樹は屋根のかなたに
青き葉をゆする。
打仰ぐ空高く
御寺の鐘は
やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上に鳥は
かなしく歌ふ。
あゝ神よ。質朴なる人生は
かしこなりけり。
かの平和なる物のひゞきは
街より
来る。
君、過ぎし日に何をかなせし。
君今こゝに
唯だ嘆く。
語れや、君、そもわかき折
なにをかなせし。
[#改ページ]茂りし林の奥深く
黒く声なく沼は眠れり。
一度も
微風は水の
面を
拭はず、
いさゝかの波の動きも
其の底より
起りし事なし。
枯れたる枝の繁きがもとに
空には隠れ日に遠く、
重き月日の平和の底、
山毛欅の暗き
木蔭に沼は眠れり。
秋のあらしに、影の
中衣剥がれし梢は、
濁りて曇りし鏡の上に、
冷かなる其の
冠をぬぐまもあらず、
落る
木の葉の
一ひらごとに
皺の刻みは眠れる水にひろがりて、
凋落を迎ふる水の
面に、
落る木の葉はゆるやかに流る。
一羽の小鳥も水飲まんとて
来りし事なく
いかなる
眼も其の
水底を
覗ひし事なし。
||茂りし林の奥深く
黒く声なき沼は眠れり。
[#改ページ]わが胸は湿りし土地に水は死したる古池か。
凍りし風
其処に絶え間なき叫びを放つ。
恐ろしき襲撃の跡を
留る落雷の木立に、
岸のながめの哀れなるかな。
忘られし恋と消失せし友の
誼みと、
酷き
運命のいたましき
宝物は、
徐ろに
黒き
泥土と色さめし花と共に、
眠りたる
此の
花瓶の底に朽ちて行く。
陰鬱なる
一隅かな。されど
寂たる
此深淵の
中よりは、
もしそれ、
吾が弱き心、測量の綱を
抛ちて、
沈滞の
濁水を突如として打つ時は、
震動起りて一道の光
閃き渡り、
底知れぬ愁情を照す
睡蓮の花の星、
数ある記憶の明るき色、水の
面に浮びて
来る。
[#改ページ]音楽と色彩と
匂ひの記憶われに宿る。
逝きし日を呼び返さんとせば、
花をつみとれ。われに匂ひの記憶あり。
音楽の記憶われに宿れば、
怪しき律のうごきは
ノスタルヂヤのわが胸に昔を
覚す。
花をつみとれ。
楽を
奏でよ。
何人か、何事か。忘れしものを
思起すに、
われには色の記憶あり。
われ
思出づ、
紅の
黄昏に、
わが恋人は打笑みわれは泣きけり
······われには色の記憶ぞ宿る。
[#改ページ]秋のいたましき笛は泣く、
おだやかならぬ夕まぐれ。
空は涙を
啜る時
ぬれし
樹木はをのゝきぬ。
花はおもむろに枯れしぼみ、
小鳥は飛び去る
彼方の野辺。
そこには四月の色もある
うれしき歌の聞ゆべし。
寒さ恐るゝ君は悲しく、
わが
生命の君は
小径を行く。
色
蒼ざめて旅する君は
声も曇りし歌を求むる。
あゝ二人して喜び聴きし
其の歌は
秋と云ひなば返り来じ。
何時の日かわれは又
笑ひて眺めん、
今ははや涙となりし君が
眼を。
[#改ページ]起き出でゝわれ
朝に街を出づれば
道の敷石に足音高くひゞきて
太陽の若き光は古びたる
瓦を暖め
Lilas の花は家々の狭き庭に咲く。
人の歩みに
先ちて足音の反響は
梢そびゆる
苔の
土塀の長きに伝はり、
磨り減りし敷石は白き
砂道に
連りて
場末の町より野辺に走れり。
やがて険しく登る山道より
日に照らされて岡のふもとに、
悄然として狭く貧しく
静なる我が
生れし街の
見馴れたる懐しき屋根の見ゆるかな。
長々と
彼処に我が街は
横はる。流るゝ河ありて、
その水は二度居眠りて二つの橋の下を過ぎ、
散歩の道に茂りし木立は街にそびゆる
鐘撞堂の石と共に古びたり。
うらゝかに
澄渡りて
狭霧なき空気に
わが街は太き響をわれに送り
来る。
洗濯屋の
杵と
鍛冶屋の
槌の音、
打騒ぐ
幼児の
甲高くやさしき叫び。
変りなきわが街の浮世には
思出もあらず、
繁華光栄の美麗もなくて、
わが街はいつの世までも
今見る
如く
小き
都に過ぎざらん。
わが街は耕せし野辺、高原、荒れし野に、
又は
牧場の
間に立つ数ある街の一つなれば、
何れとわかぬ
小きフランスの街の名に、
旅する人はわが街の名さへ知らで過ぎぬべし。
然れども
朝より
夕に移る
散歩の
長き思ひの
一日は過ぎて、
麦の
畠のかなたに日はかくれ、
林に通ふ細道くれそめて、
物のあいろもわかぬ夜、
歩む足音険しき道にとゞろきて
堰越す
水音遥に聞え
吹く風運河の木立に騒ぐ時、
つかれて我は帰りくる街近く
ふと仰ぐあたりの家の窓。
帷幕さへなきガラス
越し、ランプの
壺に
石油の
黄金色なす
灯火の燃ゆるを見れば、
杖にて
捜る夜の道、
自づと足も急がれて、
われ思ひ知る。わが墳墓の
国土、
懐しき
眼に闇の
中よりいとも優しく
わが手をとりて引くが
如しと。
[#改ページ]死なんとばかり我は悩みし
其の夢知れる恋人よ。
さま/″\のかなはぬ望みに飢ゑつかれ
葡萄の棚に
熟りたる葡萄つまんと我は久しく、
種まく人の
如く
唯だ
徒に腕を振りけり。
然るに君は優しき夢に
微笑みて眠り給へる、
其の
情なくも
静なる眠りぞ憎くき。
爽なる朝風は爽なる
朝のひゞきを伝へ
夜は
紅の
東雲かけて明け行けり。
いざ行かん。
望の光
我等を導く美しき小山の
方に。
苗植ゑしわが手づからに
待焦れたる
果物と
うつくしき葡萄の
総をわれは摘むべく。
されどもし、
些かの草の芽だにもなかりせば、
待つと云ふかの
禍の夢の
中、いつも変らぬ
空しき
夜明を眺むべく夕暮に山を下らん。
[#改ページ]久しくもわれは歩みき。落ちかゝる
夜に
朝見し夢のかず/\も
早や既に消えんとす。
そは君ならずや。
一筋道の
其の
端に美しき眺め
横ふ
遥なる館の
方にわれを導きたまひしは。
かしこには不可思議なる月の光に照されて
眠れる
昔の花園の咲きて
簇る花の中
屋根に鐘鳴る
高楼に
聳えし塔の数多く
美しき
異禽を養ふ家も見えたり。
錦の
小禽その
棲木に居眠れば
池の底には
黄金の
魚のひらめきて
噴水のほとばしり切々として
囁きたり。
苔を踏む君が歩みに君が
裳は鳴り響きて
見えざる
鍵の秘密を知れる柔かき
君が
双手はわが手を取りて
扶けしものを。
[#改ページ]夕暮の底遠くして海のほとりに
われ
嘗て都をのぞみき。
鮮かなる
銀色と
褪めたる
紅の
夕暮の底遠くして海のおもてに
その影を流す大理石と
黒鉄の
都をわれは嘗てのぞみき。
扉と家をもわれは見たりき。
(血の夕暮はその時海にあり)
風は
明き
煖炉の火も見ゆる
戸口の
篝火をいらだゝしめ
はたとばかりに
扉をとざしぬ。
「死」と「望み」とは過ぎ去りぬ。
暗き空の下、褪めたる銀色の海の
面に
その影と影とは
漂ひぬ。
わが身には
此の時よりして
海に昇る夕暮の悲しかりけり。
[#改ページ]枝より枝を渡る風は
明き夏とまた暗き日に、
黒き
梟と白き鳩鳴く
老木の
梢をゆする。
木の
葉に
滴る雨の声、
やさしくも又ものうきは
さすらふ身には
一歩々々
「悲しみ」の忍び泣く
音と聞かれずや。
緑より黄に、黄よりして
紅に
又
黄金色より黄金のいろに
木々の
梢の老い行けば、われは
秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。
林は
聳えたる
頂よりして頂に
紅の
槲と緑の松を
動せども
吹く風は
厳かに声を
呑みたり、
かの「
苦み」と「海」の
如くに。
[#改ページ]正午なり
······真白き道は海に走れり。
明き日の光窓より
入りて、
まだ暑からぬ部屋の
床板に、
出入の人の歩みにつきて
落散りし
乾きてかゞやく砂を照す。
日曜と夏との
匂ひに空気は
爽なり。
日にやけし布と
松脂の
薫りよ。
如何となれば、
布荒き
日蔽には枝に
下りし
松の実の
影描かれたり。
静さは
其さへもいと遠く思はるゝ
迄の
静さに、
想は去りて心空しき折からに
しづ/\と
身を
動して
PARESSE と呼ぶ
女姿は
更によく倦みし休みを
味はんと、
伏目遣ひの優しき
眼を閉ぢ合せ、
長々と
横はる
柳細工の椅子の上、
真裸の
快さ、人目に触れぬ嬉しさに
窃とほゝゑむ。
[#改ページ]まことの賢人は
永遠の時の
間には
一切の事
凡て空しく愛と
雖も
猶空の色風の
戦ぎの
如く消ゆべきを知りて
砂上に家を建つる人なり。
されば賢人は
焔の燃え輝き
消るが
如くに、
開きては又散る
薔薇の花を眺め
殊更に冷静沈着の
美貌を
粧ひて
浮世の人と物とに対す。
疎懶の手は
暁の焔と
夕炎の火をあふらざれば
夕暮は賢者に取りて
傷しき灰ならず
明け行く
其の日は待つ日なり。
移行くもの
消行くものゝ
中にありて
我
若し過ぎ行く季節に咲く花の
枯死すは、
これそが
定命とのみ
観じ
得なば
亦我も賢者の厳粛にや
倣ひけん。
然るに
纏綿たる哀傷の心
切にして
われは悔いと望みと悲しみに
又慰め知らぬ悩みの闇の涙にくれて
わが身を
挫ぐ苦しみの消ゆる事のみ恐れけり。
いかにとや。砂上の
薔薇の
香気も
吹く風の
爽さ、美しき空の眺めさへ
永遠の時の
間にも一切の事
凡て空しからずと、
我が哀れなる飽かざる慾の休み知らねば。
[#改ページ]庭に来よ。
黄昏は庭に
木の
葉と
土と花、
潤ふ影との薫る時なり。
揃ひし
黄楊の並木の
蔭、狭き
小径は
行く程に
いよ狭くいよ安らかに君が
歩みを導かん。
庭の外なる野や道や
危き
辻や、
鏡なす池の水とて何かあらん。
やがて
萎れん
其の茎にあか/\と咲く
薔薇のみ
唯わづかあぢきなき君が浮世の形見なり。
ありとあらゆる「過ぎし日」は
活ける
夜につれ
庭の
中にぞ
蘇る。敵意ある群集は
肥えし
野草や
濡れし道暗き林にはびこるを、
こゝのみは静けく優しき庭の隅。
土塀に添へる果樹の列、黒き腕長く差伸べて
君をば守る
此処ばかり心安けく
歩めかし。
[#改ページ]
アンリイ・ド・レニエエ沈黙の碑、美の墳墓よ。
「悲しみ」は
其の

に灰となりにし
夏の果実と秋の
葡萄を収めたる
この懐しき重荷のために声を
呑みたり。
消えし時間と死したる季節と、
一度は
酔ひつ栄えつ、
烈しく強く
豊なる
薫をかぎしさま/″\の思ひ
出、
猶其の底に残りてあれば、そがために
君は夏の形見の灰を収めし
黄金の

を
携へて
いと暗き青春に
彷徨ふ。あゝ「悲しみ」と呼ぶ君、
道行く
女姿よ。われ君を迎ふるも
亦此れが
為め。
沈黙の碑よ、美の墳墓よ。
[#改ページ]丈の高いランプが
私のうつむいた机の上
開いた書物の
間に突立つて
音もなく燃えてゐる。
何かぢつと見詰めてゐるやうな
物哀れな
老耄した「月日」が
書斎の中をあちこち
彷徨ひ歩く
其の足音ももう聞えない。
低くかざす
其手を暖めやうと
明い
煖炉の
傍に坐りかける
老耄した「月日」は、
着てゐる冬と云ふ灰色の着物の
為めに、
何となく
謙遜らしく我慢づよく
而も又
真面目らしく見えた。
丁度私が
想の底を過ぎて
其の灰の上を歩くやうに思はれる軽い足音に、
老耄した「月日」の姿は
何となく優しく又何となく
厳格にも見える。
夏と秋との
手籠は
向うの壁の上に掛けられてあるが、
時々に其の籠を編む柳の枝の
弾けて破れ、
茎も葉も枯れてしまつた
花瓶の
蘆をば風がゆすぶる。
其の度々に私ははつと思つて
耳を澄まして
[#「耳を澄まして」は底本では「耳を澄まして[#改行]」]老耄した「月日」の顔を眺めると、
彼の老女は灰色の着物を着たまゝ身動きもせず、
真直に伸びて
鞭のやうに
閃く
柔かな柳の若枝の
一条々々折りまげて、
笑つた夏の日
花籠を編みながら歌つた
その忘れた昔の歌をうたひもせぬ。
然しその糸車ばかりは
何処かで蜂の鳴くやうに、
高く低く遠く近く
呟き
唸つて
恰も
黄昏の糸をつむぐがやう。
高い処にかゝつてゐる時計は
鱗形の
彫をした
黄楊の箱から、
消え行く時間に又一時間を加へ、
夜半の十二時になるまで
時は次第々々に進んで行く。
すると桃色と灰色の着物きて
煖炉の傍に黙つて坐つてゐた「月日」は
立上つて消えた火を
掻き起す。
希望の
焔はパツと燃え上つて、
黒ずんだ
敷瓦を赤く色付け、
凍えた「月日」の手先をあたゝめた。
私は早くも
這入つて来る「時」の入口から、
「月日」の新しい顔が私の思想に向つて、
微笑んでゐるやうな心持がした。
[#改ページ] 歌ひながらに恋人は、飛ぶ蜂の
翅きらめく光のかげ、暮方の食事にと、庭の垣根の
果実と、白きパン、牛の乳とを
準へ置きて、いざや、
寄添ひて坐らんと、わが身のほとりに進み来ぬ。
雨は晴れたり。空気はうるほひ、木立の
匂ひはみなぎりて、明け放ちたる窓の外、
木葉に滴る
雫の音は、
室のすみ、いづこと知らず
啼きいづる、虫の
調にまじりたり。
食卓に
肱つきて、さゝやかなる料理の皿もその
儘に、二人ともども思ひに沈めば、言葉もなく
唯だ折々に、恋人は、吹く風の冷き吐息に
打顫ふ、あらはなる
其の腕を、わが唇の上によこたへき。
くもりなき水晶の
花瓶や、
可笑しげにふくらみて、二人の顔のうつりたる、
円き
其横腹の
面には、窓なる額縁に限られて、森の茂りと、
古里の空の
画こそ
描かれたれ。
かしこにぞ、秋の空は
紅に悲しめる。あゝ、
長閑なるなつかしき
此の恋の
一刻よ。いつしかに
黄昏は、花瓶の
面にうつる空の色、二人が
瞳子をくもらして、さゝやかの二人が世界の、物の
彩色を消して
行く。
わが顔押あてし、恋人の胸はとゞろけり。吹く風ぬれたる木立を動かせば、
想に沈める二人は共に
突とさめて、
木の
実の庭に、
落る
響に耳を澄ます。
かくて、
吾等二人は、
過来し
方をふりかへる旅人か。また暮れ
行く今日の
一日を思ひ返して、燃え
出る同じ心の
祈祷と共に、その手、その声、その魂を結びあはしつ。
[#改ページ]道のはづれに
日はしづむ。
手を取らん、
接吻せしめよ。
疑へる心の
如く
この泉は濁りたり。
渇けるわれに
君が涙をのましめよ。
日は暮れたり。
鐘が鳴る。
われにあたへよ、
君が胸打ふるふ
其恋を。
道はくだる。
幾里と長き真白の帯。
青き
小山の
坂道つきぬ。
たゝずまん。
行手なる
森をながめよ。
屋根はかすみて
村は夢む。
わが眠らんとするは
彼処なり。
扉のかげ、
落る
木の
葉に
埋るゝ
君が黒髪に
抱かれて。
[#改ページ]よしや反響のきかれずとも、物には
凡て
随ふ影あり。
夜来れば泉は星の鏡となり、
貧しきものも人の
恵に逢ひぬべし。
澄みて悲しき笛の
音に
土墻は立ちて反響を伝へ、
歌ふ小鳥は小鳥をさそひて歌はしめ、
蘆の葉は蘆の葉にゆすられて
打顫ふ。
憂ひは深きわが胸の叫びに答へん
人心、
あゝ、そはありやなしや。
[#改ページ]あゝ花開くうつくしき四月よ。
されど
若し我が恋人われより遠く、
北の国なる霧の中にあらば、
何かせん、四月の新しき歌、
四月の白きリラの花、野ばらの花も、
梢を縫ひて
黄金と開く四月の
日光も。
あゝ花開くうつくしき四月よ、
わが恋人にまた逢ふ事の嬉しきかな。
あゝ花開くうつくしき四月よ。
恋人来れり。
四月のリラの花、黄金なす四月の日光。
始めてわれを慰めん。われ四月に謝す。
あゝ花開くうつくしき四月よ。
[#改ページ] 夏よ久しかりけり。われ夏の恵み受けじといどみしが、
今宵は
遂に打ち負けて、
身中つかるゝまでの
快さ。
われ
小暗きリラの花近く、やさしき
橡の
木蔭に
行けば、見ずや、いかで拒み得べきと、わが魂はさゝやく
如し。
よろづの物われを
惑しわれを疲らす。
行く雲軽く
打顫ひ、慾情の乱れ、ゆるやかなる小舟の如く、しめやかなる夜に流れ
来る。
列車は過ぎたり。
燃るよろこびよ。その
響空気をつんざく。神経は破れて死ぬべくも覚えつゝ、いかにせん、又生きんとする願ひになやむ。
あゝわれ
此宵、わが肩によりかゝる、若き男の胸こそ欲しけれ。ロマンチツクなる事
柳のかげにも優りたる
吾心の
懶き疲れを、かの人は吸ふべきに。
われ
彼の人に、「
誘ひしは君ならず。そはあらゆる夜のさま、わが胸をして鳩の
如くにふくれしむ。
されど君はあまりに若ければ、
黄金の血潮と溶け行く心、骨に徹する肉のかなしみ、われそを訴へん
夜にのみ。
あらゆる樹木は官能鋭く、あらゆる夜は打ち解けて、絶えざる
啜り泣きの声、
烟りし空に
上り行けり。
うるはしき夜のみ眺めて語りたまふな。
傷しくも悩める君をのみわれは求むる。狂ひて叫ばん唇に、消えも失せなん心して、わが愛する人よ。泣きたまへ。
唯泣きたまへ。」と語るべし。
[#改ページ] 炎暑は地平線をくもらしたり。夏のあつさ。やはらかき毛織物。空気は重く
閉して
隙間もなし。いさましく
機織る響の
如く、
蜜蜂の群は
果実の
匂ひに
喧しくも喜び叫ぶ。われその蒸暑き庭の
小径を去れば、緑なす若き
葡萄の
畠中の、こゝは曲りし道の
果。家の戸口は開かれて、
鍬、
鋤、
如露なぞは、
黄き
日光に照されし貧しき
住居の門の前、色づく夕暮の
中に
横はりたり。
われ、凉しき
隠家の
中に進み入れば、果実の
匂のいかに清凉なる。思はずためらひて、耳を澄す。ひやゝかなる
円天井の陰には、そよとの風もなく、あたり
蕭条に、心
自ら
長閑なれば、屋根低く凉しき尼寺か。夏の匂の
漲り流るゝ、幽暗なる地下室にも
譬ふべけん。庭と水との吐く熱気は、こゝに閉されて休み
息へり。あゝ。寺院の静寂、清浄の安眠よ。
新しき
梨と
林檎の実とは、果樹園の群を去りて家の棚の上、空しき影の
中に熟してあり。その
酸くして甘き
味ひは
滴り、香気は池の水の
如くに沈みて動かず。鳴きつかれし
細腰蜂の
唯一つ、物音遠く静かなる、狭き
硝子窓の四角なる
面に、黒き点を
描きたり。
おびたゞしき果実の匂ひかな。この匂は
藍色の
大空と、
薔薇色の土とを
以て、暑き夏の造り
醸せしものなれば、うつくしき果実の肉の
中には、明け行く大空の色こそ含まれたれ。心も清く気も新なる
歓びのその匂、その光、その流れ、大気と土壌の
戯れより生れたる濃厚の液汁、溶けたる砂糖。手桶の底に生れたる君こそは、冷たき
藁の上なる小さき神なれ。木の
樽と鉄の
鋤、緑色なる如露の友よ。いざ、深密なる君が匂ひの
舞踊る、甘き
輪舞の列にわれを取巻け。
あゝ、
日毎暮るればこゝに来て、庭造る愛らしき
器物、
手籠、如露の
傍近く、空想に
耽れば、あゝわが
若かりし折の
思出。幸福を歌ふ
啜り
泣は、心の底より
迸り出づ。われは静寂の来りて宿る果樹園の、うつくしく穏かなる生活を、今ぞ見たり、今ぞ知りたり、悟りたり。わが
生命、そが
為めに
焼れたるおそろしき思ひを、いざ
抛たん。
慾望よ、われを去れ。われは十二の月々に、
鶯と
駒鳥と、大麦の冠つけし神々と、
額緑の
夕蝉と、いと高くいと優しく、また美しく静かなる、女神
Pomone の
御手によりて、匂はされたる大空の見渡す
晴光と、共に踊らん。
[#改ページ] 乾きし庭の
面に日は照りて、夕立にうたれたるダリヤの
初花は、緑なす長き茎をば白き家の壁に
倚せかけたり。海はとゞろきわたりて、若き
牧神の
如く吹く風は、
其手に
押ゆる
衣を
剥ぎて、路上に若き女を
辱めんとす。あたゝかく、うつら/\と暮れて行く
Basque の里の夕まぐれ。われは
彼方に、
忽如として入日に
染りかがやける、怪異なる
西班牙をこそ望み見たれ。
地平線の上に
腕を長くさしのべなば、われは
燃るかの土と
紅色の
石榴とに触れもやせん。
金光燦爛たる国土かな。鳥飛ばず、曇りもえせず、色もあせざる空の下。乾きて
黄き
Toboso の谷の、身も焼けぬべきそゞろ歩きよ。
唐辛の紅色と、
黄橙の
焔の色に、絹の
衣裳を染めなして、
音騒がしき
西班牙の、いらだつ舞ひのとゞろきや。又われは聞かずや。血まぶれの
Tourbadour 華美ないさみの若者が、
屠る
牡牛に
Ar
nne の
桟敷も崩れん叫び声。
Tol
de Andalousie の国々よ。燃上る
其の声もなき狂熱を、君いづこよりか
齎せし。おそろしき
痴情の狂ひかな。いとし
男の血に渇きたる
Pasipha
は、命あらばさぞと覚ゆる
壮漢が、刺されて流す血に
酔ひて、情慾と恐怖の身ぶるひに、快楽と敬神の
念ひを合せ
味ひしが、
わが身はこゝに
仏蘭西の、やさしき大気の
中につゝまれて、心おどろき胸重し。ほゝゑめる静けき
Basque の山と水。雲は集りて、
Gu
thary のいたゞきに
息へり。われ
Rodrigue を思ひ、聖女
Th
r
se を思ふ。さはやかなる匂を帯びて夕暮は、影と光に色ある砂を混ずる時、甘きタマリの一株
毎に並びたる、けはしき山のうしろより、
Irun をさして行く汽車の笛の響の聞えたり。
神聖なる
西班牙。あゝ
今宵われ、君
得まく思ふ心の乱れに堪へぬかな。
[#改ページ]だりやの花
萎れ
葡萄畠の取入れ終りて、
餌にあかぬ
鴫の鳴く音も絶えにけり。
さま/″\なる
果実こと/″\く熟し
木苺の実
摘尽されて花園今はあれにけり。
空かきくもりて霧立ちまよへば、
かの暮方の懐しさと寂しさとは夜明の空にも漂ひ
黄ばみし芝生に
薔薇は落ちて
その花びらの跡だにもなし。
さりながらこの
揺落とこの風と、
またこの悲しき日かげに灰色したる空こそよけれ。
菊の花にはいとはしき
蠅と、
蛾の
接吻もなければ。
霜枯れし
叢にそもこの花のひらめき
出る
清くも澄みし
黄色と
橙紅色の目ざましや。
その中に
東雲の
霞とばかり
垂れて
緋総に似るもあり。
さればや君が
襟元黒髪にたばさむ花も
野路の菊花のあざやかに色もさま/″\めづらしければ、
よしや手づから恋しき人の捧げて来つる花束とても、
かの有りふれし巷の花にてあらば何かせん。
誇顔なる
百合の花、
冷に造りしやうなる
椿の花束、
何となく恐しき罪の戯れいざなふを、
野にさく菊の花束は露
持つ冷き風にゆらめきて、
蒸暑き
夜宴の都には
因縁なし。
都の人の寒さに弱き歩みは早くも火を追ひ、
去りて跡なき荘園のしづけき
小径、
風の嘆きのさびしさに、薄らぐもりの空を見て、
この花ひとり安らかに咲きぞみだるゝ。
そは
唯詩人のみ。十一月葡萄の
畑も牛飼ふ野辺も黄ばむ時、
静に来りて菊の花
打眺るは唯詩人のみ。
心なき
世の
交を忌みおそれ
胸打明けし友の
庵をたづぬる
如く。
[#改ページ]わけなき事にも若き日は
唯ひた泣きに泣きしかど、
その「哀傷」何事ぞ今はよそ/\しくぞなりにける。
哀傷の姫は妙なる言葉にわれをよび、
小暗きかげにわれを招ぐもあだなれや。
わがまなこ、涙は枯れて乾きたり。
なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。
[#「なりにけり。」は底本では「なりにけり。[#改行]」]折もしあらば語らひやしけん
辻君の
寄りそひ来ても迎へねば
わかれし
後は見も知らず。
何事もわかき日ぞかし。心と心今は
通はず。
[#改ページ]われは過ぎ去りし太古の世の
君王にやあらむ。
其国の都は海の底に沈みて音もなし。
黒がねの声なき鐘も過ぎにし世には幾たびか
響も高く
幾代の春を告げわたりしに。
われは幾代のむかし消え失せし
あまたの妃の名をも知りたりけむ。
そは静けき
夜半に散り失せし
萎れたる花にも似たりけり。
わが尊き宝を積み載せし重き船
沈みて
行きし
果はいづこぞ。
その時よりして我は波の底深く宝を探る
狂へる人とこそはなりにけれ。
そのむかし我に従ひし
夥多の蛮民
空高くわが勝利を叫びてわが為に黒き喪の旗を、
都に立てし
其の過ぎし世の光栄を、
何故にわれは今また見むことを願へるや。
今われは
冷なる
眼に、
月の光を望みて、
剣を片手に、
大空に
我名をしるし
留めむものと、
次の世の
来るを待ちつゝあるか。
さはさりながら勝利の望み、
今わが胸は幽憤の
思にふさがれたり。
移り行く
代々の勝利。我は既にいくたびか、
あらしに消ゆる
喇叭の声を聞かざりしか。
過ぎにし幾代の春を告げたりし黒がねの鐘の声。
今その鐘は沈みていづこに在りや。
我こそは
実に、その国の都は海の底に沈みて声もなき
過ぎにし太古の
代の君王なりけれ。
[#改ページ]寐入りし
少女の夢さへ覚ます月の光に
吠ゆる飼犬はたゞ
真青な影かとばかり。
焔の
雫の小さな星一ツ
旅籠屋の井戸の底に落ちたのを、
恋知りそめた子供のやうに
私等二人は眺めてゐた時。
お前の髪を解きほごす素早い私の指先から、
長いお前の
髪毛は
旅籠屋の井戸の中へと流れ込んだ。
忘れはせまい。
蟋蟀は庭の小高い
処から、
綱に引き
掛けた洗濯物の
風にも動かず干されてある
河辺の
方まで
啼きしきつてゐた。
「恐れ」がさまよひ歩くと云はれた
向うの小山の森はいとも静けく
夜の暗さにつゝまれて
酒場で酒呑む人の
高声も
しんとした冬の
夜のやうに
錫の器や瀬戸物や
硝子の
盃照す
灯火と共に消えてゐた。
お前は何やら小声にさゝやいたが、
私は
其の
囁きをお前の唇の、
この六月に咲く赤い
花弁の上に
押潰して、
顫へるお前の両手をばお前の胸から引取つて、
私も同じやう何やらお前に云つたのだけれど、
今は
早何と云つたのか覚えてはゐない。
あらはなるお前の
腕に
私は抱かれてゐる間もなく
森に通ふ街道に、それは
宛ら
沈黙と血の中に
揉み消したいと思ふやうな
物狂はしい
思出の夢かとばかり、
突然聞える酔払つた人達の騒ぐ声。
お前と私は、それなり、別れてしまつたのだ。
星の雫の降りそゝぐ井戸のほとりに。
[#改ページ]奢侈は
生命の樹になる死の果実。
羨望の歯の根を
動す禁制の果実。
倦怠の
沙漠に坐せる
黄金の
怪獣。
老いにし「慾情」と「
夜」より
生るゝ
汚れし女。
七重なる
綾羅の下にちりばめし「悪徳」の金剛石。
火の火。血の血。骨の中なる
髄の髄。
地の底の魔薬を持てる浮浪の魔女。
脳漿を吸ひ取り精気を
挫ぐ魔女。
斯くぞ
譬へん。幽遠神秘の「
奢侈」。
あゝ
偉なる
哉、
暗黒の
宮殿のこの「奢侈」。
奢侈は荘麗の位に
即く肉感の祭典。
耻辱の冠。汚濁の
肩衣。
裸形。
紅色の気高き女体美の庭。
霊魂をむせび泣かしむる肉の天国。
駘蕩たる夜気を
動す千丈の髪。
暗澹たる香気の妖術。黒き薫り。
滔々たる血の流れの歌。酔倒の
欷歔。
快感の
身顫。
柔き接触の
弥増る緩き波動。
神経を
痺らす柔き接触
······終知られぬ柔き接触。
眼光に
溢るゝ柔き接触
······魂も消え
入る柔き接触。
堪へぬ
甘味の花蔭より
奏る楽の音
······消え行く心。
響なき
絃を弾ずる
歓喜の
撥の
疲労。
あゝ唇よ唇よ。消え行く
接吻。歯に噛む接吻。
痴情の
寝屋の死の
如くに深き唇。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「
奢侈」。
あゝ偉なる哉。哀傷の空の赤き星なるこの「奢侈」。
奢侈は人骨の裏に
潜める細き毒蛇。
鋏の
尖のごとくにとがりし慾望。
不吉の時を歌ふ酔へる
警鐘。
清浄を
嫉視する
夜陰の尼なる魔界の天使。
覚醒に
憤る不眠症の
荊棘。
睡眠の高き壁に
蠢く悪魔が夜宴の大壁画。
乱れ打つ
四竹の拍子につれて少しく開く
綾羅の
帷。
羨望の神タンタルを
驚す空虚の
盃。
燃る氷塊。凍る
焔。
歓楽の野獣眠るむさくろしき
厩。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。
あゝ偉なる哉。

きて浮世を
目戍る
貪婪の眼の「奢侈」。
奢侈は熱帯の激烈なる幻想。
羽毛の飾と槍とを連ねし蛮土の王侯。
驚くべき
GANGES 河の
畔なる
翡翠の宮殿。
広大なる庭園。香気の湖水。
埋れし
黄金。
酷熱の赤道の恐るべき
芽生月。
群飛ぶ
甲虫の
金色なす
寂寞。
羊毛と鋭き香気の
眩暈と。
緑なす毒の沼池を照す
血色の月。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「
奢侈」。あゝ偉なる哉。
恐怖すべき暗黒の偶像なるこの「奢侈」。
奢侈は
面蒼白き狂乱の帝王が
頭の飾。
髪赤く丈高き娼婦の
頸かざり。
節奏と
舞踊と
擬容劇の女王。
黄金にて築く
D
CADANCE の
凱旋門。
雄々しき
虎と大理石とに取巻れし、
淫楽の皇帝のおそろしき夢。
潤へる血の花。快楽と哀傷と。
花のうてなに甘さの限りを吸ひたる「死」。
炎々たる焔の中なる楽器のさま/″\。
墳墓の緑色なす
灯火に親しむ「死」。
日輪の国の滅亡。無上の尊称。
偉大なる
昂奮刺戟の宗教。
燐光の
技術によりて
閃き
出し
瞬間の、
最終の遊宴
······最終の呼吸
······糸の
如き
臨終の
喘咽。
かくぞ譬へん。幽遠神秘の「
奢侈」。あゝ偉なる哉。
癩病の崩れの金光
燦爛たるこの「奢侈」。
奢侈は肉慾の胸より
吐出さるゝ熱き呼吸。
欲求と呼ばれし
轟く
身顫の赤き海。
快感の
葡萄園。熟して重き葡萄の
総。
稀有の珍味。
相俟つて
互の性慾を狂奔せしむる性慾の酒。
恋愛の
痛を
鎮る妙薬。
怨恨を激する昂奮剤。
心の旅路に
彷徨ふ巡礼者の泊り宿。
瞬間によりて生じたる永遠の衝動。
幻想の怪獣走りつゝ水を飲む
溢るゝ
噴井戸。
世捨し人々の心を澄す処。
懼るゝものゝ懼れぬ心。
奴隷の
鴉片。癩病者の
牝犬。
渇ける唇に触れて離れぬ曇りなき
水瓶。
強者の弱点。弱者の強所。
悔恨を殺す夜半の毒草。
死者の口をも
開しむべき
胡蘆の
水入。
暴飲の海に帆を揚げて
漕ぎ
出る
漠々たる
郷愁の
楼船。
鼻孔を開き毛を逆立て、
虚無に向ひて突進する騎士の
牝馬。
彼方遥けく燃残る
GOMORRHE の塔と、
SODOME の庭の
焔を望む
硫黄の
湖水。
この身の
終を覚悟して
見上る苦悩の
大空。
殉教者。
苛まれし心に満る歓喜の涙。
火焔の
中に坐して
汚れし
祭典する悪魔の王が、
永劫無窮の祈願を凝らす闇の塔。
死を致す
涜罪の食慾。渇きと
饑。
底なき
淵。影なき日輪。
端なき渦巻。
神経の神経、酸素の酸素なる「
奢侈」。
呪はれし自滅の恋なる終の「奢侈」。
渾然を望む
痙攣。絶対の
中なる饗宴。
世界の最後。天体回転の終局なる「
奢侈」。
哀願慈悲の聖女。
黄金の血の聖女。
貪慾無情の聖女。
永久に聖なる聖女。
火焔の都。忘却の魔薬。
黒鉄の
錐。
堕落の聖女。地獄の
NOTRE-DAME.
かくぞ
譬へん。幽遠神秘の「奢侈」。あゝ偉なる哉。
現世の不朽不死なる
妃にも譬ふべき
此の「奢侈」。