元暦二年の正月が来た。九郎大夫判官義経は、法皇の御所に行き、大蔵卿
「平家一門は、神、仏からも見放され、君にも捨てられて、都を落ち、西海の波の上に漂う
法皇はこの義経の言葉を大変喜ばれ、
「夜を日についでも、逸早く勝敗を決して参るように」
というお言葉を賜わった。
義経は喜び勇んで、宿所に帰ると侍達を呼び集めた。
「此のたび、義経は、院の仰せを承わり、鎌倉殿の代官として、平家追討を仰せつけられたのじゃ。陸は
といい放ったのであった。
屋島では、正月も過ぎ、二月になった。
新中納言知盛は、
「東国、北国の
といわれるのも尤もなことであった。
義経は、いよいよ決意の色を固めて都を出発、摂津国渡辺から船を用意して屋島へ渡る計画をたてた。
朝廷では二月の十日、伊勢、石清水八幡に
渡辺に勢揃いした義経の軍勢は、十六日、いっせいに船の
「このたびの合戦には、
「何? 逆櫓だと? それは一体何じゃ」
義経が尋ねた。
「馬でござりませば、前へ行くのも後へ引くのも手綱一つ、駆引き自在勝手でございますが、船はそうはいきません。そんな場合に備えて、船首、船尾に櫓を立て違え、
すると義経は、景時をじろりと横目でにらみながら、
「門出に当って、何たる臆病風よ。そもそも戦と申すは、一歩も引かじと覚悟してさえ、戦況不利なれば退却せねばならぬものじゃ。まして始めから逃げ仕度などしていて、戦に勝つことができるものか、貴殿方はその逆櫓とやらを、百丁でも千丁でも、好きなだけおつけになるがよかろうが、この義経は、元のまま、一つの櫓で結構じゃ」
と、ぷいと横を向いた。すると景時も、負けてはいなかった。
「そもそも、名将といわれるほどのお方は、引くべき処も心得、進むべき時は進み、進退処を極めて身を全うするものでござりまして、さように、片手落ちな融通のきかぬ者を、進むを知って退くを知らぬ
「さようか、猪だか、鹿だかは知らぬが、戦とはひた押しに押し勝ってこそ、快勝というものじゃよ」
義経の言葉に、東国の大、小名は、目引き袖引きして、景時をあざ笑うのであった。その日、義経と景時との間に、あわや、一いくさありそうであったが、どうにか同志討ちだけはおさまった。
義経は、船の並んでいるところまで来ると、
「どうやら、修理もできたようじゃな、先ず
と、酒宴の用意を装って、船に米やら、武具、馬などまで積みこんだ。
「さあ、仕度ができた。急ぎ船を出せ」
驚いたのは、水夫や梶取たちである。
「順風とは申せ、このあたりでこの分では、沖は、さぞかし吹き荒れておるに違いありませぬ。一寸ご無理かと存じます」
義経は、みるみる顔を真赤にして、怒りだした。
「もしこれが、沖で、強風に逢ったとき、風がこわいといって留まっていられるか、野山に野垂れ死するも、海、川に溺れ死するも、すべて前世の宿業じゃ、これが向い風だというのなら、このわしもあえて無謀はいたさぬが、順風とあっては、
と側近の者達を顧みると、佐藤三郎、四郎兄弟、武蔵坊弁慶などの名だたる面々が、今にも弓を引きしぼるかのように、
「ご命令じゃ、早くいたせ、背く者は、これで、いちいち射殺すぞ」
とにらみつけた。
「こうなっちゃ仕方がないよ。どうせ死ぬ身なら同じことだ、風がこわければ、こいでこいで、こぎまくって死んでやれ」
半ばやけっぱちになった梶取たちの中で、船を出そうという者も出てきた。二百余艘のうちこぎ出したのは五艘で、義経の船を始めとして、
「人が行かぬからといって、取りやめることもなかろう。普段は、用心している敵も、まさかこの大風、大浪ではと油断しているに違いない。そこをつけこむのじゃ。各々方の船に灯をつけると平家方の目にもとまり、すわ、大勢押し寄せた、と警戒されるであろうから、この義経の船を本船として灯をつけるから、それを目標に航行せよ」
と義経は命令を下した。一晩中こぎ続け、普通三日かかる所を三時間で過ぎてしまったのは、まさに奇跡というよりほかはない。二月十六日夜中に渡辺を出た船は、十七日の夜明け近くには、阿波に着いていたのであった。
間もなく夜が明けて来た。
「すわ、敵は、はや待ち受けていたと見える。渚近くなって馬を下せば、敵の的になるに決まっておるから、渚へ着く前に船を踏み傾けて馬どもを海へうっちゃり、船近くを泳がせ、馬の足が立ち、水が鞍のあたりまでになったら、一斉に乗り移ることにいたそう」
義経の下知通り、渚近くへ来てから、船を傾け馬を海の中へ追い出した。五艘には五十余匹ばかりが積まれていたのを、全部海へ下すと、今度は、余り遠くに行かぬよう、船の近くを泳がせた。岸も近くなり、馬が泳がなくても立てるようになったところで、五十余人が一斉に飛び乗った。義経は、五十余騎の先頭になって、どっと渚にうちのぼった。渚では、百人ばかりの兵が、弓を構えて待ち受けていたが、五十余騎のすさまじい勢いに、これはたまらぬと、二町ほど引き退いた。
義経は、浜辺で一息入れていたが、伊勢三郎義盛を呼びつけて、
「あの軍勢のうちに、適当と思う男がいたら、一人連れて参れ、一寸聞きたいことがあるのじゃ」
義盛は、唯一騎で、百騎の中に駆入ったかと思うと、何と言い含めたものか、四十近い
「あやつは何と申す者じゃ?」
義経が尋ねると、義盛は、
「当国の住人、
「
と、家来たちに命令しておいてから、親家を呼んで、
「この浜は何というところじゃ?」
「勝浦と申します」
「何? 勝浦だと、世辞もほどほどにいたせ」
「いえ、お世辞など、めっそうな、確かに勝浦と申します。この辺の者は、言いやすいようにかつらといっておりますが、字では勝浦と書くのでございます」
義経は、笑みを浮べて聞いていたが、全軍に向って叫んだ。
「聞いたか、皆の者、戦の門出に勝浦に着いたとは、何たる縁起のよさ、この戦には早くも勝利の
そういってから、
「それから、もう一つ聞きたいことがある」
再び義経は、親家に向っていった。
「このあたりで、平家の後楯する者は誰じゃ」
「左様でござりますな。阿波民部
「よし、それならば、先ず先陣の血祭りじゃ」
義経は、親家の手勢の中から二十騎ばかりを供に加えると、能遠の城に攻め寄せた。城は三方を沼に囲まれ、一方は堀であった。義経は、堀の方から押し寄せた。城内からは、雨のように矢を射かけてくるが、血気にはやり立つ源氏の者たちは、この矢をものともせず、堀を乗り越えて城内に攻め込んでいった。能遠たちは、もはや敵わぬと思ったのか、家の子郎党たちが必死の防戦をしている中を、屈強の馬に乗って逃げ落ちてしまった。源氏方は、防戦に務めた者たちの首を切って、軍神に祭り、
義経は、また親家を呼んで尋ねた。
「ここから、屋島へはどれほどの道のりがあるか」
「約二日でございましょうな」
「今のところ、屋島の平家は、どのくらいの数であろうかな?」
「千騎より多いとは思いませぬが」
「何とまた、左様に少ないのじゃ」
「四国の浦々、島々の要所要所に、百騎、五十騎と分散させてございます上に、丁度、ただ今、阿波民部重能の息子
「すると今は、まさに絶好の好機、その
義経は、阿波と讃岐の境の大坂越という山を強行軍で越えて、屋島へ向った。その途中、義経たちの一行は、手紙を持って山道を急ぐ男に出逢った。夜の事で、顔や姿もはっきりしないせいもあって男は、まさか、義経勢とは思わず、唯、味方の者が、山越えして屋島へ行くところとばかり思いこんで、いろいろ話をするのであった。
「我々も屋島へ参るところ、道中不案内じゃ、先導してくれぬか?」
義経がいうと、男は、少しの警戒心も見せず気軽く引き受けるのであった。
「しょっ中行ってますからね、道はよく知ってますよ。どうぞ、どうぞ、私の後についておいでなされ」
「それで、そなたは、
「それがね、都の女房方から、屋島においでの宗盛卿へお手紙をことづかっておりましてね」
「一体何の文じゃ?」
「何でも源氏の軍勢は、淀の
「何?」
途端に義経の顔色が変った。
「確かにそのことに違いない、誰か、その男を押えつけて文をうばえ」
と命令した。驚いたのは、その男である。今の今まで味方とばかり思っていたのが、実は源氏の同勢と聞いては、唯、足がすくむばかりで声も出なかった。そのうちに持っていた手紙をうばい取られた上、そのあたりの木に、ぐるぐる巻きにしばりつけられた。
義経が、その手紙を開いてみると、確かに女文字で、
「義経と申すは、まことに素早い男でございまして、どんな大風大浪も平気で海を渡る男でございますから、何卒くれぐれもご油断なく、軍勢は一まとめにしてご用心なされますように」
と書かれていた。
「うん、これはまさしく、天が義経に与え下されたものに違いない。帰ったら、鎌倉殿にお見せしよう」
義経は、手紙をふところの奥深くしまい入れた。
翌くる日、大坂越の麓、讃岐の引田に着き、少し休息してから、再び屋島目指して行軍を開始した。義経は再び親家を呼びつけて尋ねた。
「
「干潮の時は、陸と島の間は、馬の太腹までもござりませぬ」
「うん、それは有難い、では、敵の気付かぬ先に攻め寄せよう」
と、高松の民家に火を放ち、屋島の城を目がけて押し寄せた。
丁度屋島では、阿波民部重能の息、教能が、伊予の河野四郎が平家に背むいたのを攻めて、河野だけはうちもらしたが、家の子郎党、百五十人の首を取ってきたので、宗盛の宿所で首実験の[#「首実験の」はママ]真最中であった。すると、高松の民家が火事だという知らせが入った。
「昼間のことで、過失とは思いませぬ、恐らく、源氏が押し寄せたものと思われます。それも定めし大勢でございましょう。とり囲まれては敵いませぬ、さあ、早く逃げた方がようございます」
という家来の言葉をうのみにした平家一門は我先にと
御所の船には、女院、
丁度
義経は、その日、赤地錦の
「われこそは、院宣を蒙り、朝敵追討の為遣わされたる、検非違使五位尉源義経なるぞ」
続いて、伊豆国住人田代冠者信綱、武蔵国住人金子十郎家忠、同与一
「あいつを射とれ、あいつを射てしまえ」
とばかり、一斉に矢を射かけてきたが、源氏の兵は、そのくらいには物ともせず、左に右に体をかわし、渚に引きあげてある船を手頃な防壁にして、戦いを続けるのであった。源氏方の後藤兵衛実基は、長年の
船の上からこの様子を見ていた宗盛は、さすがに口惜しそうに尋ねた。
「敵は内裏に火をつけたな、源氏の勢は、ほぼ何人ぐらいじゃ?」
「どうもさき程から見ておりますと、入れ替り立ち替り出て参りますが、実のところは、せいぜい七、八十騎に満たぬ数のようでござりますな」
「何と、七、八十騎? たったそれだけであったか、彼らの髪の筋を一筋ずつ分けて取って数えても、我らの方が多い程なのに、すっかりだまされて慌てて逃げ出し、内裏まで焼かれてしまったのは、何たる不覚、それ能登殿はおらぬか、陸に戻って一戦して参られい」
平家のうちでは聞えた勇将の能登守は、越中次郎兵衛盛次を先頭に、五百余人が小舟にうち乗り、渚まで取って返した。
義経勢は、丁度矢ごろにうってつけのところに陣取って待ち構えた。
先頭に立った盛次は、舟の屋形に立ち上って叫んだ。
「先程、お名乗りなされたようであったが、何分、海の上のことで聞き取れぬことも多く、今一度お尋ね申す。今日の源氏の大将軍は、一体誰方でござる?」
源氏方からは、伊勢三郎が立ちあがって答えた。
「聞くまでもないこと、清和天皇、十代の
すると、盛次が再び立ちあがって、
「成る程、それでよくわかり申した。その判官殿と申さるるは、平治の合戦に負け、父を討たれた後みなし子となり、やがて
すると義盛が再び立ちあがった。彼の顔は、興奮で真赤になっていた。
「まったく、よくしゃべる奴じゃ、そういうお前らこそ、
盛次も負けてはいなかった。
「そういう御辺こそ、伊勢国、
きりのないいい合いに、源氏方の金子十郎が進み出た。
「いつまで、つまらないざれ言を言っておるのじゃ、そんな空言の雑言なら、誰だっていえる。それ、今度は去年の一の谷の戦で、よくよくご承知済みの武蔵、相模の若武者の手並をおみせしよう」
家忠がいい終らないうちに、弟の与一親範が、弓に矢をつがえてひょうと射ると、矢はたちまち盛次の鎧の胸板の裏にまで突き刺さった。両軍はこの一矢でしんと鎮まり返った。
教経は、平家第一といわれる程の弓の名人であり、豪勇を以て知られた男であったが、
「そこどけ、矢面の雑兵ども」
教経は、そう叫ぶと、矢次早やに、鎧武者十騎ばかりを攻め落した。中でも、先頭を切って進んでいた三郎嗣信は左の肩から右の脇腹へ射抜かれ、たちまち馬から転がり落ちた。教経の近習で菊王丸という大力の若者が、嗣信の首を取ろうとかけ寄ってきたところ、弟の忠信は、兄の首は渡さじと、菊王丸目がけて矢をひょうと放った。菊王丸は、
義経は、嗣信を陣の
嗣信はもはや、虫の息であったが、義経の声で、かすかに目を開いた。
「気分はどうじゃ、嗣信」
「今は、もはや、これまでと覚悟いたしております」
「何か、言い残すことはないのか」
「何もございませんが、唯、君のご出世のお姿も見ずに死ぬのが心残りでございます。と申して、弓矢取る身が、同じ敵の手にかかって死ぬのは、何よりも本望、更に、源平の合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、君の御身代りとなり、屋島の磯にて討死と末代までも名を残すとは、一生の面目、冥途の土産でございます」
といううちにも、次第に言葉が聞き取れなくなって、ついに息が絶えた。
義経始め、並みいる面々も涙を拭うのであった。
「このあたりに坊主がいたら連れて参れ」
義経の命令で、坊主が探し出されて来ると、
「今、なくなった手負いの者のために、弔いを頼む、その代りにこれを遣わそう」
と、
「この君のためならば、命もいらぬ」
と侍たちは、義経の志に深く感激するのであった。
そのうち、四国の中でも、平家に味方せず、源氏の到着を待っていた者が、あちこちから集って来て義経の兵力も三百騎近い数になった。
「今日はもはや、日も暮れて参った。勝負は明日じゃ」と源氏の勢も、戦闘をやめ、引き退こうとしている時だった。暮れかかる夕もやの中から一艘の
義経は、後藤兵衛実基を呼んで尋ねた。
「あれは、一体、何のつもりじゃ」
「多分、あの扇を射よということでござりましょうが、或は、殿が、あの美女に見とれているところを、誰か手練の者に射させようという
「さようか、平家も面白いことを思い付くものだのう、さて、誰にやらせよう、そなた、知らぬか」
「そうでござりますな。弓の名手は多勢おりますからな。そうそう、下野国住人那須太郎
「証拠があるのか?」
「よく、空飛ぶ鳥を射落す腕を競って、勝負いたしますが、三羽に二羽は必ず射落す男でございます」
「それならばよかろう、探して参れ」
義経に呼びつけられた与一は、まだ二十そこそこの若者で、赤地錦をあしらった直垂に、萌黄縅の鎧を着用、二十四さした
「よう、宗高、そなたの名はよく存じておるぞ、どうじゃ、あすこに見ゆる扇の真中を射て、敵に見物させてやろうと思うのじゃ、やってみる気はないか?」
与一は暫く考えていたが、きっと若々しい顔をあげた。
「中々、難しい事故、万一にも仕損じることがあるかも知れませぬ。その時には、源氏方の名にもかかわりましょう、誰方か、確かに射る者にご命令下さい」
義経はこの言葉をきくと、さっと怒りの色を面に現した。
「鎌倉を
そうまでいわれては、もはや辞退するすべもない。与一は、
「ご命令とあらば、いたし方ござりませぬ、外れた時は、仕方ござりませぬ、とにかく、やってみることにいたしましょう」
そう覚悟を決めると、家紋をほりつけてある金覆輪の鞍を置いた、たくましい黒馬にまたがると、汀に向って静かに乗りだしていった。この悠々たる姿に、源氏の者達もほっとした様子で、
「あの男なら、きっとやるだろう」
といって囁き合っていた。
矢ごろが少し遠いので、与一は馬を六間程海の中にうち入れた。しかし扇までは、まだかなりの距離がある。
二月十八日午後六時頃のことである。折柄、北風が激しく吹いて、舟は上へ下へとゆれるので、それにつれて、扇も上下に動揺していた。陸の源氏、海の平家は音一つせず、しーんと静まり返って、この様子を眺めている。与一は、じっと目をつぶった。
「南無八幡大菩薩、我が生国の日光権現、宇都宮那須
目を開けてみると、心なしか、風が少しおさまって、扇の位置も、さっきよりは安定しているようであった。与一は、漸く気を取り直すと、心を落ちつけ、鏑矢をつがい、ねらい定めて、ひょうと放った。小男とは言いながら、名うての強弓、鏑矢は、あたり一面に響く程の音をたてながら、扇の
見事な弓振りに興が湧いたのか、平家の小舟の中から、五十近い黒皮縅の鎧を着た男が、白柄の長刀を持ち、扇の立っていたところで舞い始めた。与一が、同じ場所で、その様子を眺めていると、後へやって来たのは伊勢三郎義盛であった。
「殿の仰せじゃ、奴も射てしまえ」
与一は一瞬ためらったが、命令とあれば仕方なく、
「よくぞ、射たものよ」
「いや、余りにも、情をわきまえぬ」
と味方のうちにはいろいろいう者があったが、今度箙をたたいて喜んだのは源氏だけであった。
平家も、さすがに、口惜しいと思ったようであった。今度は一人ずつ、弓、楯、長刀を持った者三人が渚に上ってきて、
「ここへ寄せろ、寄せろ」
と源氏方をからかった。義経は、かっとなって怒鳴った。
「小しゃくな奴らじゃ、それ、若党ども、馬で蹴散らせ」
真先に進んだ美尾屋十郎の馬が、矢を射込まれてどうと倒れた。十郎が太刀を抜くと、今度は、楯のかげから大長刀を持った男が現れて、ぐるぐると振り廻した。小太刀と大長刀では勝負にならぬと、十郎が逃げ出すと、今度は、右手を伸ばして十郎の兜の
「遠からん者は音にも聞け、近くばよって目にも見よ、我こそは、
この大音声に平家の者たちも、わっとどよめき立った。
「それ、悪七兵衛討たすな。景清に続け」
と二百余人が渚にのぼり、楯を重ねてつき並べ、源氏勢をさし招いた。
義経も、見過しにはできず、田代冠者を先頭に、後藤兵衛、金子兄弟に脇を守らせながら、総軍八十余騎が、わあっと
「殿、弓をお捨てなされ、お捨てなされ」
と怒鳴ったが、義経は知らぬ振りをしたまま、とうとう弓を取り上げると、嬉しそうに、にっこり笑って渚へ引き揚げた。
「たとえ、いかに大切なお弓でも、お命には換えられませぬ、大将軍としては、いささか軽率ではございませぬか?」
と、老武者が
「いやいや、弓が惜しい位ならば、わざわざ取りはせぬ。叔父為朝の如き弓ならば、わざとでも落すであろうが、この張りの弱い弓を敵が拾って、源氏の大将軍、源九郎義経にしては、何たる弱い弓じゃとあざけられるのが口惜くて、命にかけても拾い上げたのじゃよ」
というのであった。
漸く長かった戦いの一日が暮れて、平家の船は沖に、源氏は、
翌日になると、平家は、志度の浦へ引き退いた。義経ら八十余騎は、渚伝いに志度へ追い討ちをかけた。海上からこの様子を見ていた平家勢は、
「源氏は小勢なるぞ、中にとりこめて討て」
と、千余人ばかりが、渚にあがって、源氏方を取り囲んで討ち取る気配に見えた。そのうち、屋島に残っていた二百余騎の源氏が一斉にかけつけて来た。平家はこれに驚いて、人数も見極めぬうちから、
「源氏方は後より大勢続いているぞ、こちらが取囲まれては面倒なり」
と慌てふためいて、船に乗ってしまった。
船に乗った平家一門には、今や、落ち行く先の目当もなかった。折角、本拠と決めていた四国は攻め落され、九州の大勢は、ほとんど源氏に呼応している。今は唯、海の上を、潮にひかれ、風にまかせて、流れてゆくだけであった。
義経は、そのとき志度の浦で首実験を[#「首実験を」はママ]していたが、伊勢三郎義盛を呼んで言った。
「阿波民部
義盛は、十六騎の供に白装束を着せ、白旗を持って出発した。やがて、途中、両軍はぱったりとぶつかった。義盛は、使いを送っていった。
「かねてお聞き及びのことと存じまするが、鎌倉殿の御舎弟、九郎大夫判官殿は、平家追討のため、西国へお下りになっておりますが、私はその家来で、伊勢三郎義盛と申します。実は、直きじき、大将にお目通りの上、申し上げたいことがございます。戦をするつもりではありませんから、この通り、鎧、兜も身に着けず、弓矢も持っておりません、何卒、お通し下され」
というと、三千余騎が、さっと中を開いて、通行を許した。義盛は、教能に目通りすると、
「お聞き及びのことと思いまするが、鎌倉殿の御舎弟、九郎大夫判官、院宣を承まわって、西国へ下っております。私は、その家来伊勢三郎義盛と申します。一昨日、阿波、勝浦に着き、貴殿の伯父御、
教能は、道々、平家敗戦の知らせに、不安を感じていた矢先だっただけに、義盛の情理を尽した言葉には、一も二もなく、ころりと参ったのであった。大将が兜を脱ぎ弓を捨ててしまったのだから、三千余騎も、今更戦っても仕方がないと、皆降服したので、義盛は、十六騎の小人数で三千余人をまんまとあざむいて引揚げて来た。
教能は義盛に預けられたが、ついてきた三千余人は、
「世の乱れを鎮め、国を治めて下さる方だけが主君でございます」
というので、そのまま義経の手勢に加えたのである。
さて、義経たちと渡辺の浜で、別れわかれになったままの二百余艘の源氏は、ようやく二月二十二日になって、梶原を先頭に屋島に着いた。
「今頃来ても用はない。五月五日を過ぎた
義経が都を発った後、住吉の神主で長盛という男が、院の御所へいって、
「十六日の夜半、当社第三の神殿から、鏑矢の声が、西を指して行きました」
と奏上した。
法皇はこの吉兆をきいてお喜びになり、
義経のひきいる源氏勢は、参河守範頼のひきいる一軍と、
紀伊国の住人で、熊野別当
源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、船の数では源氏の方が群を抜いていた。平家の船には
源平最後の決戦の火ぶたは、いよいよ切って落されんとしている。その日、元暦二年三月二十四日、早朝を期して、豊前国
その決戦に先立つ前、義経の陣営で、一寸したいさかいがあって、危く、義経と景時が、同志討ちするような事件が起った。
事の起りは、景時が義経の前で、当日の先陣を望んだことからであった。
「此の度の戦の先陣、是非、それがしにお任せ下され」
景時がそういって一歩進み出ると、義経は、ついとそっぽを向いていった。
「さよう、この義経がいなければのう、だが残念なことに、先陣はこのわしじゃ」
すると、景時がさっと顔色を変えてつめ寄った。
「何と仰せらるる、殿は大将軍でござる、大将軍は先陣などつとめる者ではござらぬ」
「何? 大将軍とな、こりゃ始めて聞いた。大将軍は鎌倉殿、わしは
とても先陣を与えてはくれそうもない義経の言葉に、愛想をつかした景時は、聞えよがしにつぶやいた。
「まったくこの殿は、生れつき人の主にはなれぬものとみえるな」
景時の言葉を耳にした義経は、太刀の柄に手をかけた。
「そなたこそ、日本一のおろか者よ」
こうなれば、売り言葉に買い言葉である。景時も、さっと顔色を変えて、同じように太刀に手をかけた。
「何をなされる? この私、鎌倉殿よりほかには、主という者を持たぬ身じゃ」
この様子に、景時の息子、
「何ということをなされます、気でも狂われたのか、明日の決戦を前に控え、同志討ちなどとは、以ての外の言語道断、平家の思う壺にはまるようなものでございます。又鎌倉殿がお聞きになられましたら、どんなにご立腹の事かわかりませぬ、何分、ご両所よくお気を鎮めて下されませ」
と心をこめて諫めたので、義経も尤もな事だと怒りを解き、太刀から手を放したので、どうにか事なきを得たのである。しかし以後、ますます景時は、義経を忌み嫌うようになった。義経失脚の原因はこんな所にもあったのである。
やがて、朝が来た。源平両軍の間は、僅かに三十余町しかはなれていない。
源氏は潮流に向って対陣していたので、心ならずも押し流され、平家は追い潮にのって前へ出てきた。汀近くで待っていた梶原景時は、ゆうべのうっぷんをこの時に晴らそうというつもりか、行き違う平家の船を熊手で引っ掛け、引っ掛け、敵の舟に乗り移って散々に暴れ廻り、首級をいくつか分捕ってこの日第一番の手柄をあげた。
やがて、勢揃いした源平の両陣は、声を合わせて
新中納言知盛は、舟の屋形に立ち現れると、大音声をあげて叫んだ。
「いかに、名将、勇士といえど、運命が尽きれば力及ばぬが、誰しも名は惜しいものじゃ、東男に弱味を見するな、この期に及んで命を惜しむな、これ以上、一歩も退くな、進めや者ども」
これに応じるかのように、悪七兵衛景清が、一足前へ進み出た。
「何の坂東武者の千や二千、そもそも、彼らは陸の上でこそ広言を吐き申すが、
「どうせ、海に投げ込むなら、大将義経をねらうに限りますわ。義経は、背の低い色白の、前歯が少しそっ歯の男でござるから、一目見ればわかりまする。ただ、よく鎧、直垂を着替えると申しますから、一寸見分けにくいかも知れぬが」
越中次郎兵衛がそういうと、景清は、はったと源氏方の舟をにらみつけながら、
「何をあの
というのであった。
知盛は、全軍に指揮を下したあと、宗盛の前に出ていった。
「今日は、味方の兵、士気すこぶる旺盛に見受けられます。唯、気になるのは、阿波民部重能がこと、どうやら内通の気づかいがございます。早いところ、首をはねたらいかがでござろうか?」
「何、重能が? あれほど、勤めておる者がまさか左様なことはあるまい。たいした証拠もなしに、簡単に首をはねるわけにもゆくまい。ともかく、呼んで参れ」
重能は、木蘭地の直垂に、
「どうじゃ、重能、その方、心変りしたわけではあるまいな、余り元気がないぞ、四国の者どもに、今日の戦、命ある限り戦えと下知いたせ、どうした? 恐ろしくなったのか。おじ気づいたのではないだろうな」
宗盛の言葉に重能は、
「おじけるなど以ての外」
と一言きっぱりいうと、宗盛の前を悠然と下っていった。この様子の一部始終を見ていた知盛は、太刀の柄をしっかりと握りしめて命令一下、今にもとびかかるつもりでいたのだが、宗盛の方をいくら伺っても知らぬ顔であった。知盛は、くちびるをわなわな震わせながら、口惜し涙を流すだけであった。
この日、平家は、全軍を三手に分けた。先ず
山賀兵藤次秀遠は、九州一の強弓といわれる勇士だったが、先陣を承まわると、五百余人の精鋭をつのり、舟の
源氏方の和田小太郎義盛は、船には乗らずに汀のあたりで、馬上から戦の情況を眺めていたが、やおら、馬を海へ乗り入れると、次から次へと息つく暇もなく、矢を射かけた。三町のうちにあった平家の兵は、ことごとく義盛の矢に倒れた。
とりわけ、一きわ遠くまで飛んだ矢に向って、義盛は大声で叫んだ。
「平家の方々、その矢をお返し下されい」
新中納言知盛が、この矢を手に取ってみると、白の矢竹に、
「何とまあ、体裁の悪い。自分一人が精兵だと思って、とんだ赤恥じゃ」
と囁き交した。
腹が立って仕方のない義盛は、小舟に乗って平家方の中に乗り入れ、散々に射まくったのであった。
沖の方から、義経の乗船に、平家方から白矢がとんできて、義盛と同じように、
「源氏の方々よ、矢をお返し下されい」
と叫ぶ者があった。その矢は山鳥の尾ではいだもので、十四束三伏あった。漆で書きつけられた名を読むと、伊予国住人仁井紀四郎親清と書かれている。
義経は、味方の者に尋ねた。
「誰か、この矢を射返せる者はおらぬか?」
「甲斐源氏の
「よし、彼を呼べ」
義経の命に応じて、直ぐさま与一が呼び出された。
「沖から、この矢を射て参った。射返せと申しおるが、そなた、やれる自信はあるか」
「ともかく、その矢を見せて頂きましょう」
与一は、暫くその矢を調べていたが、
「どうも、この矢では、私の方が強うござります。私の矢で射返してやりましょう」
と、塗矢の黒ほろはいだ矢の、十五束はあるのを、九尺程の大弓に取って、満月の如く引しぼり、ひょうと射ると、矢は四町ばかりをはるかに越えて、大船の舳に立っていた仁井紀四郎の胸板に突きささったから、紀四郎は、どうと舟底に倒れ落ちた。その後は敵も味方もおめき合いながら、命のかぎり戦いつづけた。戦の形勢は、どうやら、五分五分というところで、どちらにしても、すこしの隙も許されなかった。
だが、何といっても平家方の強味は、主上が三種神器と共に加わっていられるということであった。こればかりは、
「これぞ、まさに八幡大菩薩がお下りなされたのじゃ、皆の者、喜べ、源氏に運が向いてくるぞ」
といいながら、兜を脱ぎ、
又、いるかの大群が、平家の船に向って泳いで来るのを見て、
「このいるかが後戻りすれば、源氏の敗け、又、直ぐに通り過ぎれば、平家の負けにてござりましょう」
といっている間に、いるかの群は平家の舟の下を通り過ぎた。
「いよいよ、御運も尽きましたなあ」
晴信も
これらの現象を一転機として、次第に平家の旗色が悪くなってきた。今まで、源平双方の様子を眺めて、迷い抜いていた阿波民部重能は、いよいよ決意を固めて、源氏に寝返りをうった。彼は、平家が西国へ下って以来、三年間、陰になり
「何たる不覚、先程、斬り捨てておけばよかった」
といくら後悔しても後の祭であった。重能の内通は、平家の作戦計画が源氏に筒抜けの結果となった。すなわち、名ある侍武者、諸将を兵船に乗せ、雑兵を唐船に乗せていたので、源氏方は、雑兵の乗る唐船目がけて、一斉に矢を射かけていたのが、重能の内通ですっかり、からくりがわかり、今度は唐船には目もくれず、兵船目がけて打ちかかるのであった。源氏の勢強しと見た四国九州からの平家の援軍も、先刻までの主を捨て、我もわれもと源氏につく者が出てきた。今まで命令に服していた主人に向って弓を引く者、太刀を振う者と、まさに戦は乱戦の様子を見せ、源平の戦も、今日が最後と思われた。
源氏の兵たちは、平家の船に乗り移り、水主梶取を射殺し、斬殺して、散々に暴れ廻った。味方の敗色濃しとみた新中納言知盛は、急いで御所の御座船にとんだ。
「最後の時が来たようでございます。見苦しい物を船中に残さぬように、みんな海にお捨てなされ」
知盛はそういうと、自ら、船の中を走り廻って掃いたり、拭いたりして、船中を浄めて廻った。
女房どもが、知盛の姿に、
「中納言殿、戦の様子は、いかがでございますか?」
と尋ねると、知盛は、からから笑いながら、
「もうじき、珍しい
といったので、女房たちは、
「この時にそんなご冗談などをおっしゃるとは」
と、てんでに顔色を変えて、騒ぎ立てた。
二位殿は、日頃から覚悟の事とて、少しも乱れる色もなく、
「女の身だからとて、敵の手にかかりとうない、主上の御供いたすつもり、同じ志の者は、私の後よりお続きなさい」
というと、二位の手に抱かれていられた主上は、つぶらな目を見開いて不思議そうにあたりを見廻すのであった。
「のう、
主上は今年八歳、年よりはずっと大人びていられたが、やはり血筋は争われず、あふれる気品は、あたりが輝くばかりで、黒い髪は背中のあたりにゆらゆらとゆれていた。
二位は、主上のあどけない言葉に涙をこらえながら、
「貴方様は、まだお小さくて、よくおわかりにならないかも知れませぬが、万乗の主としてお生れなされたご運も、悪縁にひかれて、ついにお尽きになったのでございます、先ず、東に向き、伊勢大神宮にお暇遊ばしませ、その後、西に向いて西方極楽浄土のご来仰を[#「ご来仰を」はママ]お祈り遊ばしませ、このあたりは、
二位の言葉にうなずかれた主上は、小さく可愛らしい手をそっと合わされて、二位のいう通り、東、伊勢大神宮に向い、つぎに西に手を合わせてお祈りなされるところを、二位殿が、
「波の下にも都がございますよ、さあ参りましょう」
と、お慰めしながら、身をひるがえして海に沈んだ。
心ない春の風は、一瞬の間に花のお姿を散らし、西海の荒波は、小さい玉体を沈め奉ったのであった。
まだ十歳にもならないうちに、かように海のもくずとなられたことは、かえすがえすもお気の毒なことであった。
建礼門院は、主上の御
「その方は、女院ですぞ、無礼な
と叫んだので、侍たちは義経にこのことを注進し、急いで御所の舟へお移しした。大納言の局は、内侍所の神鏡を入れた唐びつを脇に抱え、海へ飛びこもうとするところを、袴の裾を舟ばたに射つけられて、けつまずいて倒れ、侍たちに取り留められた。源氏の兵が、唐びつの錠をねじ切って蓋を開けようとすると、目がくらくらとして倒れた。
その時、既に生捕りになっていた平大納言時忠は、
「もったいなくも内侍所じゃ、凡夫の見るものではないぞよ」
と怒鳴ったので、侍たちも改めて恐れおののいた。
平中納言教盛、修理大夫経盛の兄弟と、小松新三位中将資盛と、少将有盛、
「わが君を取り奉ったのはそも何者じゃ」
というが早いか、太刀を抜き放って、義盛をかばおうとした若者の兜を真向から打ち割り、続く二の太刀で首を切り、義盛に迫ってきた。この時、隣の舟の
平家一門の中でも豪勇を以て知られた能登守教経は、今日を最後と、赤地錦の直垂、
「あまり、罪作りなことはなさらぬように。どうせそんな雑兵ども、いくら討ち取っても、物の数ではござらぬ」
能登守はこれを聞くと、きっと目をつり上げた。
「さては、義経を討ち取れとおっしゃることかな、その儀ならば、引受けた」
と、刀身近く刀の

「我と思わん者は、この教経を生捕りにせよ。わしも、今一度、頼朝に対面して言いたいこともあるからのう、どうじゃ、誰かおらぬか、かかって参れ」
髪は乱れ、顔面を真赤にしてにらみつける教経の凄まじさに、誰一人として手も出ず、しいんとしていると、やおら現れたのは、土佐国住人で、
「たとえ、いかに大力を誇る能登殿でも、三人寄れば、どうにかなるであろう」
と、教経のいる舟にとび乗ると、太刀先を揃えて打ってかかった。教経は、にっこり笑みを浮べ、先ず、真先に進んだ郎党を軽々と海へ投げとばし、兄の太郎を左手に、弟の次郎を右手にかいこむなり、一息に締め殺し、
「よくぞ参った、お前たち、わしの旅路の供をいたせ」
と、そのまま海に沈んだのであった。教経、この時二十六歳であった。
一門の最後のことごとくを見届け終った知盛は、乳母子の伊賀平内左衛門家長を側に呼ぶと、
「日頃の約束を果す時が参ったようじゃ。忘れてはおらぬであろうな」
と念を押した。家長は、にっこり笑ってうなずくと、二領の鎧を持ってきて、知盛に着せ、自分も同じように、鎧二領を身に着けた。
「さて、参るといたそうか?」
知盛と家長は、手を取り合いながら、海に沈んだのであった。知盛の入水に続いて、侍二十数人も後に随った。しかし中には、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、飛騨四郎兵衛などといった面々は、どこをどうやって落ちのびたものか、行方をくらましてしまった。かくて、天下の興亡を賭けた源平の合戦も此処に終りを告げたのである。春の夕闇が漂い始めた。海上には、平家の赤旗のちぎれたのが、いくつも漂っていて、丁度、
この日生捕りになった人々は、平宗盛、平大納言時忠、その子
又、生捕られた女房たちは、女院、

四月三日、義経の使者、
「去る三月二十四日、平家一族を攻め滅し、三種の神器のうち、神鏡、神玉は無事に平家の手から、こちらに渡り、大切に保管いたしてございますので、間もなく都に着くはずでございます」
法皇の喜びは大きかった。広綱をお庭先まで呼び寄せ、合戦の事などを詳しくお尋ねになった。その上、その場で彼に左兵衛尉の位を賜わった。
五日になると、法皇は待ち切れなくなったらしい。北面の武士、藤判官信盛に命じて、
「三種の神器が、都へ帰って来るそうじゃが、無事に着くかどうかが気がかりじゃ、そなた、一つ行って見てきてくれ」
と院のお馬を下さったので、信盛はそのまま馬に乗って、西国へ下っていった。
義経始め、平家の捕虜たち一行は、都への道を急いでいたが、四月十四日、播磨国、
「この前、此処を通った時は、これほど、みじめなことになるとは思いませんでしたのに」
「あの時は、まだ
「今は、皆さま、波の下、或は捕われの身となり果て、今後の行末も計り知れないというのですから、余りにも悲しいご運でございます」
女房たちは、思い出話にまたひとしきり涙を拭い、忍び音に泣くのであった。
ながむればぬるる袂 にやどりけり
月よ雲井の物語せよ
雲の上に見しに変らぬ月影の
すむにつけても物ぞ悲しき
月よ雲井の物語せよ
雲の上に見しに変らぬ月影の
すむにつけても物ぞ悲しき
と詠み、大納言佐局は、
我が身こそ明石の浦に旅寝せめ
おなじ浪にもやどる月かな
おなじ浪にもやどる月かな
と嘆じられた。歌心にうとい東国の武士たちも、さぞ昔がなつかしかろうと、女房たちの思いに同情を寄せるものが多かった。
二十五日、内侍所と
その夜、三種の神器のうちの宝剣をのぞいたあとの二つは、無事に
高倉院の第二皇子守貞親王は、無理矢理に平家の手で連れ去られたまま、西国まで落ちていかれたが、やっと無事に都へ
平家の生捕りたちが鳥羽を経て都へ入ったのは、四月二十六日のことである。その日直ぐに大路をさし廻されることになった。それぞれ
宗盛の車の牛飼は、かつて義仲の車の牛飼をやり、散々おかしなことをして後に斬られた次郎丸の弟の三郎丸という男だったが、この日鳥羽にやってきて義経のところへ行き、
「
と涙ながらに願い出た。義経もその志に感じて許したので、三郎丸は立派に装束をつけると、涙ながらに牛を御して行くのであった。法皇も、公卿殿上人を随えて、六条
「まったく、以前は、あの人に目を掛けられたらとか、この人に一言でも言葉をかけて貰えたらと、そんなことまでまるで夢のように思っていたのが、人の運命ほどわからぬものはない」
都じゅうの人々が一様にそう思うのであった。
寿永元年、宗盛が内大臣になったときの、その華やかな行列が、まざまざと眼の前によみがえって来るのだ。そのとき前駆は、蔵人頭親宗以下殿上人十六人、
六条河原まで行ってから、宗盛親子は、義経の宿所、六条堀川に引返えし、そこで一先ず落着くことになった。囲りを兵たちが厳重に警固した。食事を差し上げたが、胸が一杯なのであろう、
「身分の上下を問わず、親子の情愛ほど、深いものはない。あんな小袖をかけたってどうということもないのに、かけずにはおられぬのが親心なのであろう」
と、囲りの者は皆、涙を拭うのであった。
平大納言時忠は、子息の
「実は、困ったことがあるのじゃよ、人にみられては、われわれ一同の身にかかわる文を、義経に取られてしまったのじゃ。是を、鎌倉の頼朝殿に見られてしまったら、わし達はおろか、他の者にまで迷惑がかかる、どうしたものであろう、何かよい思案はないものかのう」
「聞くところによりますと、義経は中々の女好き、女房の申すことは大抵は聞き入れると申します。幸い、まだ縁づかぬ姫たちがおりますから、あのうちの誰かを義経にめあわせ、親しくなってからでもそのことを持出させてみたらどうかと思いますが」
「何も、娘たちを、あんな官の低い男のところに嫁入らせるために育てたつもりはない、ゆくゆくは、
時忠が未練がましくいった。
「そんなことをいっている場合ではありませぬ、とにかく、誰か一人適当な姫を見つけねばなりませぬ」
そういって、しばらく考えていた時実は、今の奥方との間にできた当年十七歳になる娘をすすめてみたが、時忠は首をうんと振らなかった。そこで前の奥方との間にできた二十一になった姫君に白羽の矢を立てることにした。
年はすこし過ぎていたが、容姿端麗で心の優しい娘であったから、義経の喜び方も一しおで、先妻の
このところ、京都における義経の声価は日に日に高まっていた。とにかく、あっという間に平家一門を海底の
「義経ほどの人はめったにないぞ、鎌倉殿などは義経の前では何の力もない、九郎判官こそ、日本国を治めるお人じゃ」
こういった無邪気な民衆の声が、いつしか鎌倉の頼朝の耳にも入ってきた。頼朝は次第に、義経に疑惑の目を深めてゆくのである。
「頼朝が命令してやらせたからこそ、平家は滅びたのじゃ、義経一人で天下が治まるものではない。それを人の言葉をまにうけて、あの男、近頃、すこし増長している、人もあろうに敵の平大納言の娘を貰いうけて遊びくらしているのは、どういう了簡であろうか。この分じゃ鎌倉へ参っても、定めし自慢ばかりしておるのではないかのう」
頼朝は、苦々し気につぶやくのであった。
宗盛親子の関東下向の日程が決まった。その出発の前日、宗盛は義経の許に使いをやって、
「明日関東下向と伺いましたが、実は、生捕られた者の中に八歳になる子が、もしまだこの世におりましたら一目逢いとうございますが、何卒、良きようお取り計らい下さいませぬか」
といって頼んだ。
「ご尤もなお頼み、親子の
といって河越小太郎重房に預けた若君を車にのせて、宗盛のところへ連れていった。若君は、久し振りに逢った父の姿を見て、ひどく嬉しそうに近寄ってきた。
「どうじゃ、副将、元気でおるか」
と宗盛が尋ねると、こっくりとうなずいて、宗盛の膝の上にちょこんと坐るのであった。宗盛は、副将の頭を撫でながら、守護の武士たちにいうのであった。
「各々方、この宗盛の心境、女々しいこととお思いかも知れぬが、この子は、幼くして母を失った
宗盛の話に聞き入る人々は皆、衣の袖をぬらすのであった。
しばらくして宗盛は、
「副将、今日はお前に逢えて嬉しかった、さあ、早くお帰り」
といったが副将は、ちっとも帰る素振りもみせず、父の膝の上から離れようともしなかった。その哀れさに右衛門督はたまりかねて、
「のう、副将、今夜はひと先ずお帰り、今父上のところに大事なお客様があるのでな。又明日でも参るがよい」
といったが、副将は頑としてきかない。力一杯宗盛の袖にしがみついて、帰るのはいやじゃ、帰りとうない、といって泣くのであった。
しかし、そうこうするうちに、時間はどんどん過ぎ、夕暮も近づいてきたので、乳母たちは、泣くなく副将をもぎ離すようにして帰っていった。宗盛は、いつまでも、その幼いうしろ姿を見送りながら、
「ああ、日頃逢いたいと思っていた時の方が、まだましであった。一度逢うたら、とても堪えられぬ」
といって嘆くのであった。
宗盛は、亡妻の遺言を忠実に守り、男手一つで副将を育て、三歳の時に元服させて義宗と名乗らせていた。成長するにつれて、妻の面影を宿した美しい子になっていくのがいよいよ楽しみで、今度の都落ちにも一緒につれてゆき、片時も傍を離さなかったのであるが、捕われの身になってからは別れわかれに生捕られて、逢う事のできない親子であったが、今日の別れが、とうとう最後の別れとなったのである。
副将を預っていた重房は、義経のところへ若君の処分方法に就ての指示を仰いだ。
「さよう、わざわざ鎌倉へ連れてゆくにも及ぶまい。そなたのよきように、どこぞで首を
幼い副将の身にも、平家の暗い運命はのしかかっていたのだ。重房は宿に帰ると、気重な心を振り起して女房たちにいった。
「大臣殿は、明日、鎌倉へ参られる。就ては、この重房もお供に加わって下向せねばならぬ。副将殿は、一先ず
副将は、車の用意と聞いて、ひどく嬉しそうに、
「また父上の御許へ行かれるのか、早く参ろう、さあ早く」
と乳母たちをせき立てるのが、見るも哀れであった。二人の女房も続いて乗ったが、車は予定の道とは反対に、六条河原に向っていった。
「これはおかしい、何かある」
と気づいた時は既に手遅れで、河原から現われたのは、たった今、門を送り出したばかりの重房で、手勢五十騎を引き連れ、車の行く手をさえぎった。重房は車の中から若君を下すと敷皮の上に坐らせた。あたりの異常な状態に何事かを気づいたのか、副将は不意に心細い顔つきになった。
「ここは父上のお館ではない、どこへ連れてゆくのじゃ」
女房たちは、今は返事もできずに、唯わめき叫ぶばかりであった。
重房の郎党のひとりが、抜き身をひっさげて若君の後にしのび寄ったのを副将は目ざとく見つけると、わっ、と叫んで乳母の懐へかけ入った。
さすがに重房も、余りのいたいけなさに、無理に引っ張り出して斬ることもならず、腕をこまねいているばかりである。女房たちはいうまでもない。副将をしっかりと抱きかかえ、おろおろ声で哀願するのであった。
「何卒、これだけはお助け下さいませ。私どもの命は失われても構いませぬ、どうか、どうか」
とかき口説く女房の言葉に重房は、役目の辛さを身にしみて味わっていた。といって、いつまでこうしていられるわけもない。重房は心を決め、涙を押えていった。
「悲しみは、重畳お気の毒に存ずるが、主命とあっては止むを得ませぬ、何卒お諦めなされい」
と、いやがる副将を乳母の手から引ずりだすと、押えつけながら首を取った。余りにも、むざんな若君の最後を見た女房たちは、半狂乱の様子で首を持った重房の後を追っかけ、義経の宿所までくると、
「今はただ、お首だけでも下さいませ、後世を弔いとうございます」
といって嘆願した。義経も、今更ながら、幼い副将の首には気がとがめていたから、快くこれを許した。女房たちは、首となきがらを大事に抱えて、京の街へ帰っていった。
それから五、六日経って、
義経が宗盛親子をつれ鎌倉へ旅立ったのは、
都をば今日をかぎりのせき水に
又逢坂のかげやうつさん
又逢坂のかげやうつさん
宗盛が、涙ながらに詠んだ歌である。
道中のつれづれに義経は、細かいところに気を配って宗盛を慰めた。宗盛は、
「どうか、命だけは助けて頂きたい」
と、何度も何度も念を押すのであった。
「もちろんでございます、遠国、流島は仕方ございませぬとしても、よもや、お命まで取り上げることもありますまい、たとえそのようなことがあっても、この義経、今度の勲功に代えても命乞いいたしましょう」
頼もし気な義経の言葉に、
「
といってつぶやくのであった。
その頃、鎌倉では、梶原平三景時が頼朝に向って、散々、義経の悪口をいっているところだった。
「日本国は、今日、鎌倉殿のご威勢に向う敵なく、平定いたしておりますが、私の意見を以てすれば、
景時の意地の悪い告げ口に、頼朝はうなずきながら答えた。
「わしも、かねがね、そのことは案じていたのじゃ、九郎が参るそうじゃから、各々、用意怠りなく備えておれ」
頼朝の命令で、近辺近在の大小名がまたたく間に数千騎も集まって、頼朝の囲りを、十重、二十重に取り囲んで護っていた。
「あいつは、すばしこい奴じゃから、畳の下からでも、はい出ようとするかも知れぬが、この頼朝はそうはさせまいぞ」
頼朝の疑心暗鬼が深まるにつれ、一人ほくそ笑んでいたのは景時であった。
こういう状態のうちに、鎌倉に着いた義経は、案に相違した冷たい頼朝の仕打ちに先ず驚かねばならなかった。
「これは一体どうしたこと、何が何だかわしには合点がゆかぬ。去年の春、木曽殿を滅して以来、平家追討の命をおびて西国に向い、ついに西海の波の下に滅して、更に、内侍所を始め、しるしの御箱を無事に内裏にお還しして、おまけに大将軍宗盛親子を生捕る手柄をたて、久びさに兄上にお目にかかろうと、ここまで参ったものを、一度の対面も許されずにお帰しになるとはどういうことであろう。むしろ、どんなにお
義経は、事の意外さに
「源義経、恐れながら申上げ候。この度、鎌倉殿の代官として、院宣を蒙り西国に赴いて朝敵を討ち滅し候。いかなる勲賞も、思いのままと思いしに心なき者の讒言に遭い、恩賞はおろか、無実の罪を着せられて空しく紅涙をしぼるのみにて候。長年、温顔を拝する事叶わずば、骨肉血縁の情も次第に薄れ行くものに候か、或は又、先世の因縁と申すべきか、亡き父上の霊再誕し給わらぬ限り、何者か、この悲しみを申し開き候べき。幼少よりこのかた、一日たりと安堵の思いを致したる事なく、辺土遠国を仮の
元暦二年六月五日
源義経」
鎌倉へ連れてゆかれた宗盛は、庭一つ隔てて頼朝と対面した。頼朝は
「私自身は決して、私の感情で平家を憎いと思ったことはござらぬ。唯、勅命なれば
比企能員がこの事を伝えに宗盛のいる座敷へ来ると、驚いたことに宗盛は、座からすべり降りて平伏しているのであった。その場には東国の大小名始め、京の者、或は元平家の家人だった者も大勢いたが、余りのみっともない宗盛の
「何と浅ましいことをなさる、平伏さえすれば、命が助かるとでも思っておられるのであろうか、こういう女々しい人だからこそ、西国で捕われて、このような憂目にも逢うのであろう。これも身の不肖のなすわざじゃ」
というものもいたが、またある者は、
「虎というものは、野に在る時は、百獣の王、いかなる獣も
といって弁護した。
ところで、義経の心をこめた書状も、何度かの使いも、頼朝の心を動かすことはできなかった。彼の心に注ぎこんだ景時の毒のある言葉は、余りにも影響が大きかったのである。義経は、対面を終えた宗盛親子を受取ると、
宗盛は、再び旅の人となったが、一日でも命の伸びたことをせめてもの喜びに、毎日毎日を薄氷を踏む思いで過しているのであった。尾張国
「暑い盛りだから、首が腐らぬように都近くで斬るつもりだろう」
とは思ったが、子供のように手離しで、命の助かることを喜んでいる宗盛には、とてもそれほど残酷なことを口に出せなかったのである。唯、心を鎮めるようにと、いつも念仏をすすめるのであった。
近江国
宗盛は聖の顔をみると、すがりつくようにしていうのであった。
「右衛門督はどこにおるのであろう。たとえ首ははねられても、一つところで死のうと約束していたのに、この世にあるうちに別れなければならぬとは、あまりに辛いことじゃ。京、鎌倉と恥をさらし歩いたのも、みな、この右衛門督
と、さめざめと泣き崩れられてみると、さすがに聖僧も哀れに思ったが、といって、ここで弱味をみせてはかえって良くないと考え直し、涙を押えながら心強くも言い切った。
「この世に生を受けられて以来、天子のご外戚の上、更に内大臣という人臣の高位を極められることはめったにあることではございませぬが、又、かようの憂目にお
言葉を尽して説き聞かせたので、宗盛も、ようやく心を決めると、西に向って手を合わせ、声高らかに念仏を称え始めた。そのうちに仕度を整えた
「もう右衛門督も、既にか」
いかにも未練に満ちたその声は哀れであった。公長の体がつと前へ寄ったとみる間に、ころりと宗盛の首は前へ落ちていた。
今日宗盛の首斬役をしたこの公長という男は、平家相伝の家人で、新中納言知盛に身近く仕えた侍であったから、余りの浅ましい仕業に、人々は陰で囁き合うのであった。右衛門督も、宗盛と同じように鐘を打ち鳴らし、念仏を唱えたが、父と違って取り乱した様子は見せなかった。
「父の最後は
と心配そうに尋ねた。
「ご立派でございました。お心安くゆかれるがよろしい」
聖僧がそういうと、きらりと目を光らせながら静かに首をさし伸べた。
「これで安心いたしました。心置きなくあの世へ参れます。どうぞ斬って下されい」
右衛門督の首を斬ったのは、
宗盛親子の首は、二十三日、京に着いて、三条通りを西へ、東洞院へ引き廻してから、
西国より帰った時は、生きたまま六条を東へ引き廻され、東国から戻ってきた時は、死体になって、三条を西へ渡されるとはよくよくの恥さらしであった。